米内山事件
特別抗告審決定

県議会議員除名処分執行停止決定に対する特別抗告事件
最高裁判所 昭和27年(ク)第109号
昭和28年1月16日 大法廷 決定

抗告人(被申立人) 青森県議会
      代表者 議長 中島清助
      代理人 長谷川勉 木村美根三

相手方(申立人)  米内山義一郎

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官田中耕太郎の少数意見
■ 裁判官栗山茂の反対意見
■ 裁判官真野毅の意見
■ 裁判官斎藤悠輔の補足意見
■ 裁判官小林俊三の補足意見

■ 抗告代理人長谷川勉、同木村美根三の抗告理由


 本件抗告を棄却する。
 抗告費用は抗告人の負担とする。


[1] 抗告代理人弁護士長谷川勉、同木村美根三の抗告理由は別紙のとおりである。

[2] 行政事件訴訟特例法10条2項但書の内閣総理大臣の異議は、同項本文の裁判所の執行停止決定のなされる以前であることを要するものと解するを相当とする。けだし右10条2項は「……裁判所は申立に因り又は職権で、決定を以て、処分の執行を停止すべきことを命ずることができる。但し……内閣総理大臣が異議を述べたときはこの限りでない。」と規定するところであつて、右は内閣総理大臣の異議が述べられたときは、裁判所は執行停止の決定をすべきでないという趣旨の規定であつて、停止決定後に異議が述べられた場合をも含んだ規定とは解せられないからである。さて記録によれば、原審が執行停止の決定をしたのは昭和27年3月15日であり、内閣総理大臣の異議が述べられたのは右の後である同年5月16日であることが明らかであるから、本件異議は不適法なものであり、したがつてこの異議を前提とする本件抗告も亦不適法なものといわなければならない。そして本件抗告の対象である原審決定のうち、執行停止の決定は何等違法のかどはなく、また執行停止の決定を取り消さない旨の決定は結局原審は本件異議を排斥し(もつて先にした停止決定を維持し)たものであるから、以上当裁判所の判断の結果と同一に帰するものである。
[3] 以上の理由により、抗告理由に対する判断を用いることなく、本件抗告はこれを棄却し抗告費用は抗告人の負担として、主文のとおり決定する。

[4] この決定は裁判官田中耕太郎、同栗山茂、同真野毅、同斎藤悠輔、同小林俊三の次のとおりの個別意見の外は、裁判官一致の意見によるものである。


 裁判官田中耕太郎の少数意見は次のとおりである。

[1] 多数意見は行政事件訴訟特例法10条2項但書の内閣総理大臣の異議が同項本文の裁判所の執行停止決定のなされる以前であることを要するとの理由で、職権調査の結果本件抗告を棄却したが、この除名処分執行停止申立事件にはもつと根本的なところに問題が伏在するのである。それは地方議会議員の除名に対し裁判所が執行停止を命ずる決定をすることができるかどうかということに外ならない。そうしてこれは本件に関する本案訴訟(県議会議員除名処分取消請求事件)についても当然問題となつてくるのである。多数意見は本件について裁判所が停行停止を命ずる決定を当然なし得るものとする前提に立つて、執行停止に関する法律の規定の解釈に及んでいるのである。
[2] 本件の内閣総理大臣の異議には、理由として
「議員に対する懲罰の議決は、一般の行政庁による処分とは異り、全く議会内部の規律を維持するための自律作用として地方自治法上認められているものであるから、懲罰の議決の執行が裁判所の最終判決に基かないで、決定を以て停止されるということになれば、地方議会の自主的運営は著しく且つ不当に阻害される結果となり、延いては地方自治の本旨を害するに至る虞れなしとしない」
との理由が附されている。私も亦本件の除名処分が、議会の内部規律の問題として、議会自体の決定に委ぬべきものであり、司法権の介入の範囲外にあるものと考えるものである。この点において判決による介入を認める立場をとつている総理大臣の異議はむしろ不徹底だといわなければならない。
[3] 勿論議会の内部関係の問題に司法権が全然関係しないのではない。この関係のある方面は地方自治法によつて定められている。又憲法に規定する法の下における平等の原則のごとき議会の内部関係にも関係をもつ。ただ同法132条133条その他同法及び会議規則に違反し懲罰を科すべきものなりや否や又如何なる種類又は程度の懲罰(戒告、陳謝、出席停止又は除名、出席停止の日数)を科すべきやは、議会が終局的に定むるところによるものである。
[4] 以上の結論の理論的基礎としては、これを法秩序の多元性に求めなければならない。凡そ法的現象は人類の社会に普遍的のものであり、必ずしも国家という社会のみに限られないものである。国際社会は自らの法を有し又国家なる社会の中にも種々の社会、例えば公益法人、会社、学校、社交団体、スポーツ団体等が存在し、それぞれの法秩序をもつている。法秩序は社会の多元性に応じて多元的である。それ等の特殊的法秩序は国家法秩序即ち一般的法秩序と或る程度の関連があるものもあればないものもある。その関連をどの程度のものにするかは、国家が公共の福祉の立場から決定すべき立法政策上の問題である。従つて例えば国会、地方議会、国立や公立学校の内部の法律関係について、一般法秩序がどれだけの程度に浸透し、従つて司法権がどれだけの程度に介入するかは個々の場合に同一でない。要するに国会や議会に関しても、司法権の介人が認められない純然たる自治的に決定さるべき領域が存在することを認めるのは決して理論に反するものではない。そうして本件の問題である懲罰の事案のごときは正にかかる領域に属するものと認めなければならない。
[5] 勿論団体の種類によつては、法が多数決による除名を団体に委ねない場合がある。例えば商法86条に規定する合名会社の社員の除名(業務執行権若くは代表権の喪失も同様である。)の場合には、他の社員の過半数の決議を以て足れりとしないで、その宣告を裁判所に請求しなければならぬことになつている。この場合には合名会社の関係の特殊性に鑑み、除名に関する事項に関し会社の内部関係に対する一般的法秩序の側からする干与を認め、単なる社員の決議だけでは足らないとしたのである。ところが地方議会や国会における懲罰事件については、もしその事由たる事実の存否又は制裁の当不当を関係者が一々裁判所に訴えて争うことができるとするならば、結局裁判所が議員の除名問題について最後の決定者たるべきこと合名会社の場合と異ることなきにいたるのである。(なお会社の法律関係は全体として一般法秩序に編入されているために、仮令昭和13年改正法前の除名のごとく他の社員の一致のみによつて除名ができる場合にも、除名の無効の確認の請求を裁判所になし得ることが認められるのである。)
[6] 要するに地方議会の懲罰に関しては、議会自体が最終の決定者であること国会の場合と同様である。仮りに多数者が横暴に振舞い、事実として懲罰の事由の存否が疑わしい場合に懲罰に附し又は情状が軽いのに比較的重い制裁を課したような事情があつたとしても、それは結局事実認定裁量の問題に帰し、従つてその当不当は政治問題たるに止まり、違法の問題ではないのである。
[7] この点に関し、懲罰の種類が戒告、陳謝、一定期間の出席停止の場合と除名とを区別し、前の種類のもののみを内部規律とする説があるが、この説は、全然理論的基礎を欠くものである。そこには議員の地位自体を奪うことが議員にとつて極刑であるとか、議員が選挙によつてその地位にあるとかいう考慮が伏在するであろうが、そのいずれも根拠とすることができない。ただ公選議員を議員の決議で以て除名することができないものとする――これは地方議会たると国会たるとを問はぬ問題である――主張が一つの立法論として成り立つこと勿論である。又もし大学の学生に対する退学処分を譴責、停学等の制裁と同様に学校の内部規律と認める立場をとるにおいては、議員の場合の除名を他の種の制裁と区別する理由は全然存在しないのである。
[8] 次に除名が行政事件訴訟特例法の行政庁の処分の中に包含せられるや否やの点に関しても一層の検討が必要である。議会は執行機関ではなく、議決機関であり、それが行政処分をなすことは、執行機関たる知事の職務権限に属する。かような行政処分の相手方は個々の住民である。地方議会が行政庁として住民との関係に立つ場合は考え得られない。なお地方議会の決議が外部に対して効力を有するものでなく、従つてこれを行政処分といい得ず、又議会を行政庁といい得ないことは従来学説判例の一般に認めているところである。果してしからばこのことは除名を含む懲戒の決議に関しても理論上同様でなければならぬのである。
[9] のみならず行政事件訴訟特例法が予想している処分が議会の内部規律に由来する除名処分のごときものを包含しないことは、同法10条2項が「処分の執行に因り生ずべき償うことのできない損害」「緊急の必要」「公共の福祉に重大な影響を及ぼす虞」というような言句からしても推察せられ得るのである。かような言句は除名処分の執行又はその執行停止とぴつたり結びつかないように思われる。法がこの規定において除名の場合を予想しているものとは考えられない。原決定(昭和27年5月27日青森地方裁判所民事部)が、特例法10条が「明かに議員の懲罰処分に関しても執行停止命令を認めている」といつているのは無理である。それは単に同条が「特に除外例を設けていない」ことを理由にしているのみであり、何等理論的解釈をなしたものではない。なお執行停止の決定(昭和27年4月28日同裁判所同部)が処分により「償うべからざる損害を招来する」理由として、「……重要議案山積の時に当り野党第三控室議員団の財政、予算関係の主査議員たる地位にある申立人の議会活動の完全なる停止」を掲げているが、かような事情は除名の場合に屡々存在するのであり、これを償うべからざる損害といい得るならば、除名処分の執行停止は殆んど例外なく行われることになる。のみならずこの場合の損害は処分の対象たる者(即ち被除名者)個人について生ずべきものであるべきに、この場合にはしからずして議会全体又は県自体について生ずるものなのである。かような点から見て、行政事件訴訟特例法を議会の除名処分にまで及ぼしている、裁判所の従来の取扱は誤つているものといわなければならない。
[10] 要するに裁判所は国家やその他の社会の中に「法の支配」を実現する任務を負担するものであるが、それが関係し得る事項には一定の限界がある。それは社会の性質によつて一様ではない。第一に国家は行政庁の裁量処分の当不当には介入し得ないこと勿論である。第二に単に当不当の問題に委ねられないで法規の制約が存する場合においても、法規の要件を充足するや否やが当該社会の自主的決定に一任されている場合には、それに介入することができない。そうして本件の場合はこの第二の場合に属するのである。裁判所が関係する法秩序は一般的のもののみに限られ、特殊的のものには及ばないのである。もし裁判所が一々特殊的な法秩序に関する問題にまで介入することになれば、社会に存するあらゆる種類の紛争が裁判所に持ち込まれることになり、一方裁判所万能の弊に陥るとともに、他方裁判所の事務処理能力の破綻を招来する危険なきを保し得ないのである。裁判所は自己の権限の正しい限界線を引かなければならない。
[11] 本件は司法と行政との限界に関する問題として現われて来ているが実はそれよりも一層根本的な法秩序相互の関係の問題に関連しているのである。この極めて重要な事案に関する多数意見は、その当否はしばらく論外として、除名問題について裁判権が存在することを当然の前提として、行政事件訴訟特例法の手続的な一局部に関する解釈を下しているにすぎない。ところがこの前提自体に誤りが存し、裁判所はこの種の事項について裁判権を有しないものと認めなければならない。この故に本件抗告は理由があり、従つて昭和27年4月28日及び同年5月27日の青森地方裁判所民事部の両決定は共に違法として取り消さるべきものである。


 裁判官栗山茂の反対意見は次のとおりである。

[1] 地方公共団体の議会は、国会の両議院と同じく、議事機関である以上議事をすることが本来の使命であるから、議事を支障なく運行する義務があると同時にその義務を遂行するのに必要な内部の規則を制定する固有の権能(Inherent power)をもつている。議事機関がその会議規則を定め、会議規則の一部である内部の紀律を定め、その定めた内部規則に違反した議員を懲罰することができるのは議事機関に内在する権能であつて明文をまつまでもないことではあるが、罰則である以上はたとい内部紀律に関しても明文を以て規定することを要するから両議院については憲法58条で、議会については地方自治法134条で夫々定めているのである。懲罰が議事機関に内在する固有の権能であることは両議院の議決であろうと、議会の議決であろうとその本質において異るところがない。地方公共団体について憲法93条が議事機関として議会を設置する旨を規定しているのは、この内部紀律等の内部規則制定の固有の権能の存在を前提としていることは言うまでもない。内部紀律に関する固有の権能ということは、とりもなおさず自分の家は自らの手で整理する趣旨に基いて議事機関が外部の干渉に対し議事運営の自主性を堅持するにある。(而してこのことは国会であろうと議会であろうとその本質において異るものではない。)このためにする懲罰の適用は結局議会の運営それ自体であるから、それが除名であろうと議会の議決は最終のものであつて他の機関の介入を許すべき性質のものではないのである。
[2] 現行制度における地方公共団体においては司法権は国の裁判所が管轄するが(地方自治法14条)議会と執行機関とが設置されて議会の議決について他の機関の介入を認めるにはとくに地方自治法176条のように明文があるのである。又同法118条、127条のように議会の決定に対する不服について司法審査を許す場合も同様であつて、何れも特に「議会を被告として裁判所に出訴することができる」と規定されているのである。ことに懲罰を科する議会の議決は任命権者が行う懲戒処分(国家公務員法3条、55条参照)即ち行政機関のする処分とはその性質を異にしていわゆる行政事件訴訟特例法1条にいう「行政庁の処分」ではないのであつて、立法機関の議事処理のためにする内部紀律に関する固有の権能の行使であるから地方自治法でも前記諸条規のような出訴の特例を認めていないのである。懲罰に関する議会の議決が妥当を欠いていたとしても、それは地方の自治において最高である住民の意思によつて或は除名された議員を再選し若しくは議会自身の解散によつて是正されなければならないのである(地方自治法136条、13条)。されば地方自治法に明文がないにもかかわらず議会のする除名の議決について裁判所が審判するのは地方公共団体の運営に不当に干渉するものであると断ぜざるをえないのである。尤も以上述べたように本件除名は行政事件訴訟特例法1条の「行政庁の処分」でないから同法10条2項但書による内閣総理大臣の異議も不適法たるを免れないものと考える。
[3] 或は両議院の懲罰については憲法58条の規定があるけれども議会の懲罰については憲法に規定するところがないから、後者については司法審査ができるという意見があるとすれば、それは前述懲罰の性質を理解しないものであり、加之、地方公共団体にとつては地方自治法は憲法92条の授権に基いて制定された憲章であつて同憲章のわく内において地方公共団体の権限が定められているのであるから(裁判所も国の裁判所ではあるが地方公共団体の裁判権を分担する意味において三権分立しているのである。)憲法における同法58条の地位は地方自治法における同法135条の地位即ち裁判所に対する関係においては異るところがないのである。次に除名だけを除外して、それについて司法審査を認めしめんとする意見は立法論にすぎない。(民主政治運用の立法論を言えば何も地方公共団体の議会に限つたものではないと思う。)例えば短期の出席停止にするか除名(除名は欠格者とするものではないから再選をさまたげない。)にするかは同部の紀律をどの程度に維持することが妥当であるかの問題であつて、除名を廃止するならば兎に角、懲罰として除名を存置する以上は他の懲罰と区別してそれだけに出訴を認めうべき理由がないのである。任命権者による国家公務員に対する懲戒、免職の処分は2年間欠格者とする効果を生ずる(国家公務員法36条)。これこそ市民法秩序につながる問題であるから終局的には司法審査を認めてよい行政庁の処分である。之に反し国又は地方公共団体の議事機関がその議事の円滑な遂行のためにする内輪の紀律の問題はたとい除名であつてもその自主性の擁護のために内輪だけで処理せしむべき性質のものなのである。
[4] 以上の理由で原審は昭和27年3月24日米内山義一郎の申立に係る青森県会議員米内山義一郎に対する除名処分執行停止の件はその執行を停止すべきでなく、本訴である県議会議員除名処分取消請求事件と共に不適法として却下すべきものであるから結局本件抗告は理由があることに帰しその対象である原審決定は何れも取消されるのが相当である。


 裁判官真野毅の意見は次のとおりである。

[1] わたくしは、本件抗告を棄却し、抗告費用は抗告人の負担とする結論を採る。行政事件訴訟特例法10条1項においては、行政庁の違法な処分の取消又は変更に係る訴訟その他公法上の権利関係に関する提起は処分の執行を停止しない旨を規定し、同2項本文においては、右訴の提起があつた場合において「処分の執行に因り生ずべき償うことのできない損害を避けるため緊急の必要があると認めるときは、裁判所は、申立に因り又は職権で、決定を以て、処分の執行を停止すべきことを命ずることができる」旨を規定し、同項但書においては「但し、執行の停止が公共の福祉に重大な影響を及ぼす虞のあるとき及び内閣総理大臣が異議を述べたときはこの限りではない」と定めている。しかし、わたくしの考によれば、この但書中の「内閣総理大臣が異議を述べたとき」は処分の執行を停止すべきことを命ずることができない旨を定めた規定は、憲法三権分立の原則に違反し無効であると言わなければならぬ。行政庁の違法な処分によつて権利を侵害され法律上の争訟が生じたときは、当事者はその救済を求めるために違法な処分の取消又は変更等の訴訟を裁判所に提起することを得るのは当然であり、これは憲法上裁判所の権限である司法権に属することは疑のないところである。そして、この種の訴の提起があつた場合に、前記10条2項本文により処分の執行停止を命ずると否とは、同様に司法権に属する司法的処置であることもまた明らかである。しかるに、同項但書において内閣総理大臣が異議を述べたときには、処分の執行停止を命ずる司法的処置を採ることを禁止しているのは、内閣総理大臣という行政機関が司法権の領域を侵犯して処分の執行停止を命ずるか否かという司法的処置に干渉するものであるから、三権分立の原則に違反するわけである。
[2] およそ立憲国における憲法は、1人又は1群の少数者が国家権力を掌握する専制政治を排除し、権力の不当な独占ないし集中を阻止し、国民の自由と基本的人権を擁護するために、平面的には国家統治権を分割すると共に立体的にはこれをそれぞれ各独立の国家機関に帰属せしめ、以てこの分立した機関をしてそれぞれ統治権を行使せしめる機構を定めているのである。これが憲法統治の根幹をなす基本原理である。そして、通常統治権を立法・司法・行政の3作用に分ち、立法権は立法府に、司法権は裁判所に、行政権は行政府に属するものとして権力の分配(セパレーシヨン・オブ・パワーズ)を行つている。わが国では、従来一般にこれを三権分立と呼び慣れている。ここに「分」とは平面的な権力の分配を意味し、また「立」とは各独立した機関がこれを行う立体観を表現したものと解せられるのであつて、「分立」の2字はまことに含蓄に富み意味深長なものがある。
[3] しかしながら、三権分立を単に統治作用の本質によつてのみ理論的に分割して行使するというのでは、到底国政の円満な運営は期待できないという実際的考慮の下に、権力の分配を定めるに当り米国憲法の制定者等は各国家機関の間に権力の均衡を保たしめ、各機関をして相互に他を抑制せしめる一種特別の制度すなわち抑制均衡の制度(チエツク・エンド・バランス・システム)を採り入れた。わが新憲法もまたこの抑制均衡と三権分立の2大原則の交錯調整から成立つている。本質的には立法権に属する法律について違憲審査権が裁判所の権限に分配され、また本質的には司法権に属する弾劾裁判が国会の権限に分配されているのは、抑制均衡の顕著な適例である。
[4] かくして三権分立の原則上1つの国家機関に分配された権限は、その機関の活動し得る領域の範囲を画するものであつて、従つてこれはその機関の活動の積極的限界である。そして、この1つの機関の活動の積極的限界は、とりもなおさず同時に他の機関が恣にこれを侵犯することのできない領域であつて、従つてこれは他の機関の活動の消極的限界である。立憲制度の下においては、憲法上分配された各機関の権限は、互に独立であつて、従つて互に相侵すことのできないのが根本的な原理である。もし1つの国家機関に分配された統治権が他の機関によつて随意に侵され得るものとすれば、異る2つ以上の権力が同一機関の下に不当に且つ過度に集中することとなりやすく専制化し、3権の分配はただ画ける餅のごとく全く実利実益のないものと化し、ついには専制政治を排除し国民の自由を擁護せんとする憲法の最大目的は跡方もなく踏みにじられてしまうに至る端緒となるであろう。
[5] この道理は、抑制均衡の原則上或る機関に権力が分配された場合についても同様である。すなわち、その分配された権力は何れも各機関に専属し、従つて他の機関は、たとい三権分立の原則上は本質的な権限をもつている事柄に対しても、もはやこれを侵犯することを得ないものと言わなければならぬ(なお詳細については、昭和25年6月24日言渡、同年(分)1号事件決定、同年7月1日発行裁判所時報61号6頁以下参照)。
[6] そこで、さらに本件の関係において考えてみよう。違法な行政処分(裁量が不当だというのではなく)によつて権利を侵害されたものがその救済のために処分の取消又は変更の訴を裁判所に提起し、裁判所がこれに対し裁判をすることは本質上司法権に属すると共に、この訴訟に関連して仮の処置として違法と認められる行政処分の法律効果を判決まで一時的に停止することは、司法権に固有な司法的処置であつてその以外の何物でもない。行政訴訟だからといつて、裁判所は行政府の代行で行政的処置をするわけではないことは、天日のごとく明らかである。司法権の領域において「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条)。立法者は、法律を制定して裁判官がその職務を行うに必要な規準を定めた場合には、裁判官は法を解釈適用する者としてその法律に従わなければならないことは言うをまたぬところである。そこで、前記10条2項但書には「内閣総理大臣が異議を述べたときは」処分の執行停止を命ずることを禁止しているから、一応裁判所はこの法律規定のために処分の執行を停止することを命ずることができないように見える。しかし、法律だからといつて男を女とし女を男とする以外のことは何でも規定できるという万能効は認められない。裁判官がその職務を行う規準として制定される法律は、一般的・抽象的な内容を有する法規であるべきであり、裁判官はこれを個別的・具体的の事件に適用して司法的処置をしてゆくのである。これに反し、法律の内容が抽象的でなく、具体的事件についてする裁判所の司法的処置に当り個別的に内閣総理大臣が異議を挟んで具体的な司法的処置に介入するを許すことを規定するにおいては、異議のあつた場合にはそれはもはや実質的には司法的処置ではなく行政処分と変質するに至るであろう。別の言葉でいえば、行政府の干渉によつて、裁判所は執行停止の司法的処置を禁止されることになり、行政府が具体的事件において裁判所の司法的処置を指揮する結果となる。平たく言つても裁判所が司法的処置をしようとしているときに、内閣総理大臣から異議が出され、この異議に従わなければならぬものとすれば、そのどこに司法権の独立があるのであろうか。これをしも行政・司法両権の混淆とよぶことが許されないであろうか。わたくしは、寡聞短見にして未だかつてかかる類型の立法例の存在することを見聞した経験と記憶がない。憲法の大原則である三権分立が、混迷し、紛々として乱れゆくところに、専制政治や全体主義政治やシーザリズムが頭をもたげる危険が伏在することは、あえて識者の言を待つまでもない。これ、わたくしが、内閣総理大臣の異議に関する前記規定をもつて、違憲無効であると判断するゆえんである。
[7] 察するに、行政処分の執行の停止を命ずることは、行政権の作用に重大な影響を及ぼす場合があるから、行政権の首班である内閣総理大臣に異議権を認める規定をおいたのであろう。そして、その趣旨は十分わかるが、具体的事件について異議を言わせることは、前述のように三権分立の原則に反し何としてもまずい。前記但書中の「執行の停止が公共の福祉に重大な影響を及ぼす虞のあるとき」とあるだけで不十分であるとするならば、適当な一般的、抽象的な制限を設けたらいいではないか。また本件のように一地方の一議会の一議員の除名に関する訴訟において、一国の内閣総理大臣をして行政的指揮監督の権限職務のない行政処分に関して裁判所の司法的処置に対して、異議を唱えしめる妥当性がどこにあるであろうか。鶏頭を割くに何ぞ牛刀を用いんやの感を強くいだかせるものではなかろうか。
[8] 最後に、あるいは前記内閣総理大臣の異議権を認めることは、行政訴訟事件において司法権と行政権との円満な調節のために必要であり且つ妥当であると考える者があるかも知れない。この考方は上述した抑制均衡の思想であるが、そして一応最もらしく思える節もあるが、抑制均衡は国の最高法規である憲法をもつて定むべき事項であり、憲法自体においてならば如何様にも適宜にきめられ得ることであるが、この思想を法律をもつて実現しようとするには、三権分立の原則その他の憲法規定に違反することは許されないのである。
[9] これを要するに、本件における内閣総理大臣の異議は不適法なものであるから、異議の有効を前提とする抗告理由はすべて理由がなく、本件抗告は棄却さるべきものである。

[10] なお、本件に関し2、3の裁判官から地方公共団体の議会(以下議会という)の議員の除名に対しては、被除名者は裁判所に出訴することを得ないとの意見が提唱されているが、これは新憲法下における行政訴訟に関する相当重要な問題であり、同時に本件に関する一層基本的な問題でもあるから、この点に関し卑見を述べることはわたくしの責務であると信ずる。わたくしは、被除名者は裁判所に出訴することができるという多数説の暗黙の前提理念を正しいものと考える。
[11] 人の作つた法は所詮神の作り給える法には及ばない、という中世紀的な教権万能思想に胚胎しそれと糸を引く彼の自然法やネオ自然法を信奉し、あげくの果てには「自然法に反する憲法の規定は無効である」とまで公然と言明する自信と理性と勇気を持合せない限り、今や独立した日本国に生起するすべての法律問題は、悉く日本国憲法の源泉に遡りそこから出発して検討を加えなければならないことは言うまでもない。人類が法治国家・立憲国家を形成するに至るまでには、過去十数世紀の長きに亘る人類の自覚の進歩と努力の結集との賜物に外ならないことは、歴史の証明するところである。個々具体的に行われる専制を排除するために抽象的な規準を定める法律を獲得し、さらに進んでその法律による専制をも排撃するために統治の基本法である憲法を獲得したのである。かくて、現代国家は実定法(制定法、判例法、慣習法を含めて)に基く法秩序の上に存立し、国民は実定法の支配の下に安定ある生活を享受することを得る仕組になつているのである。そして、この実定法に基く法秩序を破られ又破られんとするとき、すなわち違法に権利が侵害され又は侵害されんとするときに際し、その救済の任に当るのは裁判所である。国民相互間に又は国民と国家機関等との間に生ずる諸々の法律上の争訟は、すべてあますところなく裁判所の裁判によつて救済されるところに、実力行使ないし自力救済による「力」(マハト)の支配が禁圧せられ、法秩序の維持ないし是正による「法」(レヒト)の支配が普ねく厳然として日輪のごとく君臨するのである。これこそはいわゆる法治主義の最後の保障である城壁ともいうことができる。憲法において、司法権は裁判所に属すると規定しているその司法権の意義は、まさに法律上の争訟を裁定する権限をさしているものに外ならない。そして、この法律上の争訟を裁定する権限は、裁判所に属するものであつて、従つて立法府又は行政府に属するものではない。憲法上、「特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行うことができない」のである(憲法76条2項)。また、「何人も裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」のである(憲法32条)。これがいわゆる三権分立によつて、司法権が確立されている立憲制度の姿である。別の言葉を用いれば、法律上の争訟を裁定する権限は憲法上裁判所に属するし、国民は法律上の争訟の裁定を求めるために憲法上裁判所に出訴することができるのであり、法律をもつてもかかる出訴を無暗に禁止することは憲法の許さないところである。田中、栗山、小林の3裁判官は、いずれも地方自治法(118条、127条、176条)において裁判所に対する出訴を許す明文規定がある場合の外は、出訴することを得ないということを前提として立論している。しかし、その前提こそは旧憲法時代における行政裁判所(これは本質上は司法裁判所ではなく、一種の行政機関たるに過ぎない)の行政訴訟において採られていた見解であるが、三権分立の原則を認めた憲法の下においては到底容認することを得ないものである。苟くも法律上の争訟である限り前述のごとく憲法上は当然出訴することを得るのであり、別段法律をもつて出訴を許す明文規定を要しないのみならず、却つて法律をもつて出訴を禁ずることの方が憲法上一般的に禁止されているのである。3裁判官の意見は、憲法に根拠をおかない本末を顛倒した議論である、とわたくしは考える。
[12] 田中裁判官は、「多数者が横暴に振舞い、事実として懲罰の事由の存否が疑わしい場合に懲罰に附し」たとしても、議会の懲罰のごときは「政治問題たるに止まり、違法の問題ではない」と極めて簡単に片付けているが、これは事実の真を少しも検討していない認識不足による暴論であると評するの外はない。憲法は、「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、……法律でこれを定める」(92条)、「地方公共団体は……法律の範囲内で条例を制定することができる」(94条)と規定している。これに基き地方自治法は、「地方公共団体は法人とする」(2条1項)、普通地方公共団体は「司法に関する事務」を処理することができない(2条4項1号)、「普通地方公共団体は、法令に違反しない限りにおいて第2条第2項の事務に関し、条例を制定することができる」(14条1項)、「普通地方公共団体の議会は、この法律及び会議規則に違反した議員に対し、議決により懲罰を科することができる。懲罰に関し必要な事項は、会議規則中にこれを定めなければならない」(134条)、懲罰の種類は、公開の議場における戒告又は陳謝、一定期間の出席停止、除名とする旨を定めている(135条)。それ故、議会が議員を懲罰するには、議員が地方自治法又は会議規則に違反する行為をすることが必要な要件である。言いかえれば,議会は、自由勝手に、専恣我侭に議員を懲罰することができるのではなく、一定の抽象的な既存の規準に照らし、議員のある具体的の行為がそれに該当する場合においてのみ懲罰することを得るに過ぎないのである。すなわち、議会は法に遵つてのみ懲罰ができるのであるから、法に遵わない場合には違法の問題を生ずることは自明の道理である。懲罰が裁量の領域に止まる限りは、地方自治の問題でありもとより違法の問題とはならないが、懲罰が法の規準に遵わない限りにおいては、それが「政治問題」であるとしても、同時に違法の法律問題となるわけである。例えば、(一)人違いで議員が懲罰された場合、(二)懲罰の事由が存在しなかつた場合、(三)憲法上言論の自由が保障されている範囲内の言論をしたのにかかわらず、多数派の賛同する原案に反対したがために懲罰された場合、(四)懲罰の基本法である会議規則そのものが違憲無効であるか又は法令に違反し無効であるのに、それを適用して懲罰をした場合のごときは、明らかに懲罰が違法である顕著な事例ということができよう。されば、懲罰には違法の問題を生じないとする見解は、認識不足から生れる独断であると言わなければならぬ。
[13] さらに田中裁判官は、「本件の除名処分が、議会の内部紀律の問題として、議会自体の決定に委ぬべきものであり、司法権の介入の範囲外にある」と言つているかと思えば、議会の内部関係の問題でも違憲の場合には司法権が介入することを述べている。しかし、司法権はすべての法律上の争訟に対して権限を有するのであるから、違法な除名処分に対しては当然本来の権限をもつのであつて、「司法権が介入」するなどというべき筋合のものではない。だから地方自治法でも地方公共団体は「司法に関する事務」を処理することができない(2条4項1号)と規定しておるほどである。それから、違憲の除名には司法権が及ぶとしながら、違法の除名には司法権が及ばないとする理由は全然示されていないが、かかる差別を認めるのは、憲法その他の実定法上の根拠を欠く全くの空論である。
[14] また、田中裁判官は、自説の「理論的基礎としては、これを法秩序の多元性に求めなければならない」として、「国家なる社会の中にも種々の社会、例えば公益法人、会社、学校、社交団体、スポーツ団体等がそれぞれの法秩序をもつている」と説いている。国内各種の団体は、苟くもそれが独立の団体である限り、その団体を支配するそれぞれの法秩序に従つて、一応自主的・自律的に団体内の規律を保持することを得るのは、言うまでもない当然のことである。そして、その法秩序は、契約、特約、規約、定款、規則、条例等の名をもつて、それぞれの目的、組織、運営方法等を定め、その定められた規準に従つて社会活動を営むのである。しかし、その団体と構成員間又は構成員相互間に法律上の紛争を生じた暁には、その団体相応の自主性に従つて一応の処置を講ずるにしても、なお法律上の争訟が解決しない限り、終局的にはすべて裁判所に出訴して裁判を受けることを得るものと言わなければならぬ(憲法76条1項、32条)。法秩序は多元性であつても、一国内の法秩序である限り憲法に特別の規定がない場合には、法律上の争訟はすべて最後には裁判所の裁定に服すべきものである。もし、その所属団体の処理の仕方が違法(単なる妥当の問題でなく)であつても、団体の構成員は団体の特殊な法秩序の故に、終局的にも裁判所に出訴して救済を求めることが出来ず、ただただ歯を食いしばつて泣寝入りをする外ないとすれば一国内の随処に局部局部の支離滅裂の破綻を生じ、国民の不平と不満を招来することは必定である。かくては、一国の統一した円満な法秩序は、ついに具現するに由なく、法治国家・立憲国家の実は失われてしまうに至ることは火を見るよりも明らかである。この意義において一国内の法秩序は、本来最後には一元化さるべきものであり、また実にこの一元化の保障があることによつてのみ一国の法秩序・法支配は、充実し完備し統合されてゆくのである。されば、いくら空疎な法秩序の多元性を力説してみたところで、違法な除名処分が裁判所に出訴できないという見解の理論的基礎づけとならないことは識者を待たずして明白である。
[15] なお田中裁判官は、「議会は執行機関ではなく議決機関であり、それが行政処分をなすことは、執行機関たる知事の職務権限に属する」といつている。議会は、条例を制定したり又は会議規則を制定したりするが、それは恰かも最高裁判所が規則を制定する場合と同様に、そのために憲法上の純然たる立法機関となるわけではなく、常に地方自治行政を行う行政機関として行動するのである。ただ議会が議決機関として内部意思を決定するに過ぎない場合は、未だ外部に対する行政処分はないと見るべきであるが、地方自治法134条によれば、議会は議決により懲罰を科するのであつて、議会の議決は直ちに議員に対して効力を発生するのであるから、それは行政庁の行政処分である。それ故に、違法に懲罰を科せられた議員は、この違法な行政処分に対して裁判所に出訴することを得るものと言わなければならぬ。


 裁判官斎藤悠輔の補足意見は、次のとおりである。

[1] 昭和27年6月1日附を以て申立てた本件特別抗告の理由の要旨は、疏甲1号証及び同3号証の原決定は、行政事件訴訟特例法10条4項の規定により不服の申立をすることができない決定であり、且つ三権分立の理を紊し憲法65条及び76条に違反し、また、本来裁判すべからざるものを裁判したものであつて、憲法に適合しない決定であるから、その取消を求めるため民訴419条の2により本件特別抗告を申立てるというのである。
[2] しかし、疏甲1号証の青森地方裁判所の決定は、昭和27年4月28日なされたものであるから、この決定に対する本件特別抗告(抗告の趣旨二項並びに抗告理由五参照)は、民訴419条の2所定の特別抗告提起の不変期間(これを不変期間でないという考には反対する。)を徒過した不適法なものであること明白である。
[3] 次に疏甲3号証の同裁判所の決定の内容は、要するに本件総理大臣の異議は、その理由の明示を欠く不適法な異議で、さきになした執行停止決定に対し何等影響を及ぼすものではないが疑義を避けるためさきになした決定を取消さないとの決定をするというに帰しその裁判において、法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するか否かについて全然判断をしていないのである。されば、この決定に対する本件特別抗告(抗告の趣旨一項並びに抗告理由二乃至四参照)は、名を憲法違反に藉り、その実質は、単に行政事件訴訟特例法10条3項所定の前項但書の異議の訴訟条件の存否に関する原決定の判断を非難するだけであつて、民訴419条の2の特別抗告適法の要件を欠く不適法なものであることも明々白々であるといわなければならない。けだし、裁判とは、抽象法規を大前提とし具体事実を小前提とし三段論法によりて生ずる結論たる判断に外ならないものであるから、違憲審査を求める特別抗告は、原決定において憲法適否の判断すなわち裁判ある場合においてのみ許容すべきものであること当然であるからである。されば、原決定においてかゝる判断がないのに、或いは強いて暗黙の判断を擬制又は想定して、当事者一方の勝手な違憲の主張に対しわざわざ説明を与えるがごときは、そもそも裁判とは如何なるものであるかを弁えないものであるばかりでなく、民訴419条の2の明文に違反して最高裁判所本来の使命を逸脱し、かくて、徒らに濫訴を奨励し、いわゆる群軽軸を折り、自ら求めて破産に陥る愚を演ずるだけで到底賛同できない。されば本件特別抗告は、いずれも不適法として却下すべきものである。

■ 裁判官小林俊三の補足意見

 裁判官小林俊三の補足意見は次のとおりである。

 本件抗告の内閣総理大臣の異議に関する主張について、これを違法とする決定理由については同調するものであるが、後段の本件執行停止決定が違法でないという点について意見を異にするからその理由を述べる。

、民主国家の本質は自治国家であつて、国家については、その自治現象を統治というに過ぎない。この統治のよつて生ずる組織はその下層の各自治組織を積み重ねて成立し、これらの下層自治組織は結局において国家の統治組織を構成しその一環をなすものである。また国会が国家統治の力の本源たる政治の中心であると同じく、下層の自治組織である地方公共団体の議会もその地方自治の力の本源たる地方政治の中心たるものである。ただ地方公共団体は、国家統治の一環たる自治組織であるから、その独立は関係的であり、その限度において機能を発揮するものであることはいうまでもない。さらに自治という観念には、自主的であり自律的であるという本質を含んでいる。自主的であり自律的であるとは、自己内部の運営は、他の制約を受けず自からの意思と機能によつて処理してゆくことを意味する。統治の力の本源たる国会が高度の自主性と自律性をもつのに準じて、地方自治の力の本源たる議会もまた、その関係的独立の限度において、自主性と自律性をもつことは当然である。かく考えてはじめて民主政治の構成と発展とを理解し期待することができるのである。これらのことは、地方公共団体が憲法と地方自治法によつて保障されている組織と運営、その独立の権能として有する固有の行政権及び法律の範囲内において保障されている立法権からも認め得るところである。

、地方公共団体の議会は、右のような性格をもつているから、その会議の進行及び議決(決定をも含めていう。以下同じ)は、自主的に且つ自律的に行われるのを本質とし、またその原則が尊重されなければならない。しかしながら、その関係的独立性からいつて法令による限界をもつことはもちろんである。そこでさらに会議の進行及び議決の自主性自律性と議決の対象との関係について考えて見るに、議決の対象は結局地方自治に許された権能の各般にわたるがこれに2つの種類が考えられる。1は法令にそのわくを定められた行政作用立法作用に属する事項であり、2は主として政治作用に属する事項であつて、会議が自主的自律的に議決にまで進行し終結することのできるものである。この後者に属するものは、会議自体が多数決原理によつて行う一種の政治作用であつて、会議自体の機能によつて終結確定するのを本質とする。従つてこの部類に属する事項は、本来裁判の対象たるに親しまないものである。このゆえにこそ性質上この部類に属する事項であるにかかわらず、特に法律の規定によつて裁判所に出訴することを許される場合があるのである。例えば、議会において行う選挙について、その決定に不服のある者の訴(地方自治法118条1項5項)、議員の資格決定について不服のある者の訴(同127条1項4項)、地方公共団体の長が議会の議決又は選挙について、再議又は再選を求めた後なおこれに対し一定の理由により取消又は変更を求める訴(同176条5項)のごとき場合である。すなわち議会の主として政治作用によつて決定する事項は、原則として裁判の対象とならないのであるが、特に例外として訴を許す場合は、法に明文をもつてこれを定めたのである。本件のような懲罰に関する事項は、特に政治作用に属する場合であつて、除名とすべきか、出席停止を相当とするか、或はまた陳謝戒告にて足るか等は、裁判の対象として性質上適切でないのみならず法にこれについて訴を許す明文の規定はない。いいかえれば、懲罰に関する事項のごときは、議会が、多数決原理により自主的自律的に進行決定する政治作用であつて、適法不適法は自己内部の機能によつて自動的に終結確定するものである。これを行政法的に、議会の自由裁量に属する事項であるといつてもいいが、それは右のような性質をもつているから、分類すればそうなるに過ぎない。しかしながら、懲罰に関する事項が以上述べるような性質をもつているとしても、その決定が憲法に違反した場合は、これに対し異議ある者は、訴を許されると解するを相当とする。例えば懲罰が法の下における国民平等の原則(憲法14条)に違反して議決されたような場合である。けだし前に述べたような議会の自主性自律性といえども憲法の下において、国家統治の一環として存立するがゆえにあるのであるから、憲法に違反することまで放任されるということは意味をなさないからである。

、次に裁判所法3条の「一切の法律上の争訟」という面から考えても、懲罰に関する事項のごときはこの中に含まれないと解するを相当とする。ここにいう争訟であるためには、他の要件の外に裁判所が法律の解釈適用によつて解決のできる事項でなければならない。懲罰に関する事項について、議会が一種の政治作用として自からの力によつて決定する除名、出席停止、陳謝、戒告等の区別度合は、第三者としてその地方政治の圏外に立つ裁判所が、法律の解釈適用によつて解決するに全く適しない事項であり、またこれを行つても、現実に根ざし且つその地方人民の納得する判断に到達することができるかどうか困難な事項である。反対の見解の理由に、多数決の行過ぎということを挙げるであろうが、懲罰の決定の当不当は、時に社会の批判の対象となる場合があるにしても、その是非は現在の多数決原理に従う民主政治の在り方としてはやむを得ないところであつて、裁判所がこれらの部分に介入することは、政治に巻き込まれる危険なしとはいえない。ただ、議会の懲罰の決定が憲法に違反したような場合は、争訟の性質の面からいつても、裁判所がこれに関与して解決できる事項であるのみならず、また裁判所の本来の任務として取上げなければならない事項なのである。

、以上述べた理由により、本件のような懲罰に関する事項は、本来裁判の対象とならないのであるから執行停止を命ずべき場合ではないのである。しかしながら執行停止決定に対する不服は許されないのであつて(行政事件訴訟特例法10条5項)、ただ、民訴419条の2の定める理由があるときにかぎり最高裁判所に特別抗告をすることが許されているに過ぎない。しかるに本件においては、青森県議会は本件抗告状に抗告の趣旨二として、執行停止決定の取消を求める表示をしているが、この部分は、抗告の提起期間であるところの停止決定があつてから5日の期間(民訴419条の2の2項)をすでに経過しているから、適法な特別抗告ということはできない。従つて前述の理由にかかわらず、当事者はもはやこれに対し不服を申し立てることができないものといわなければならない。そして本件特別抗告において、内閣総理大臣が異議を述べたのにかかわらず、原審が執行停止決定を取消さなかつたことに関する不服について、決定理由のはじめに示してあるように、内閣総理大臣が異議を述べることのできる時期についてすでに違法であるから、結局本件決定の主文に到達することに変りはない。

(裁判長裁判官 田中耕太郎  裁判官 霜山精一  裁判官 井上登  裁判官 栗山茂  裁判官 真野毅  裁判官 小谷勝重  裁判官 島保  裁判官 斎藤悠輔  裁判官 藤田八郎  裁判官 岩松三郎  裁判官 河村又介  裁判官 谷村唯一郎  裁判官 小林俊三  裁判官 本村善太郎  裁判官 入江俊郎)
■ 抗告代理人長谷川勉、同木村美根三の抗告理由
、抗告の趣旨記載の青森地方裁判所の決定(疏甲第1号証及び疏甲第3号証)は行政事件訴訟特例法(以下特例法と略称する)第10条第4項の規定により不服の申立をするを得ざる決定であり、且つ該決定は三権分立の理を紊し憲法第65条及び憲法第76条の規定に違反するものであり、又本来裁判すべからざるものを裁判したものであつて、憲法に適合しない決定であるから、その取消を求めるため、民事訴訟法第419条ノ2の規定により抗告を申立てるものである。
 以下更にその主張を明らかにする。

、青森地方裁判所昭和27年(行モ)第3号事件に関する昭和27年4月28日の除名処分効力の発生停止の決定(疏甲第1号証)に対し、昭和27年5月14日内閣総理大臣吉田茂から同庁に対し特例法第10条第2項但書の規定により右執行を停止すべきでない旨を理由を明示して異議の陳述(疏甲第2号証)がなされた。従つて、原裁判所は該決定はその効力を失つたものとして除名処分効力発生停止の決定を取消すべきであるに拘わらず、原裁判所は総理大臣の異議が裁判所を拘束するものであることは認めながら、右総理大臣の異議の陳述(以下単に異議と略称する)は
「その理由の明示を欠くものであり、特例法第10条に規定する適法な異議と謂うことができないから当然無効である」
とし、従つて、除名処分効力発生停止の決定はこれを取消さない旨の決定(疏甲第3号証)をなし、昭和27年5月27日抗告人にその送達をした。この裁判所の判断は如何にも不可解なものであつて、前記総理大臣の異議は明らかに
「議員に対する懲罰の議決は一般の行政庁による処分とは異り全く議会内部の規律を維持するための自律作用として地方自治法上認められているものであるから、懲罰の議決の執行が裁判所の最終判決に基かないで、決定を以て停止されるということになれば、地方議会の自主的な運営は著しく且つ不当に阻害される結果となり、延いては地方自治の本旨を害する虞れなしとはしないからである」
と相当詳細なる異議の理由を示しているのであつて、これを以て「理由を明示」したことにならぬという裁判は不可解である。原裁判所はこの理由には具体性がないので異議の理由にはならぬものであると主張するけれども、それが明らかに青森県議会の運営を指示するものであることは勿論であり、又、説明は簡潔に表現せられているけれども、その要領は充分に尽くされており、要するに県議会の適正なる運営を図る上において懲罰処分の執行停止の決定を適当とせざる所以を明らかにし、その趣旨を陳述せることは充分に諒解し得らるるのであつて、これ以上に内閣総理大臣に対し、何を説明せよというのであるか、何を説明することが必要であるというのか、かくの如き明らかなる理由の開示あるに拘わらず、これを以て理由を明示せざる異議、従つて亦法律上無効の異議となすが如きことは、到底常識を以て判断し得ざるところである。

、執行停止に関する異議の効力については、原裁判所の昭和27年5月27日の決定(疏甲第3号証)は、理論上異議の絶対性を認め、その理由において、(イ)
「異議の陳述がなされたときは、裁判所はその異議に覊束せられて、執行停止を命ずることは出来ない。裁判所は異議の当、不当を審理判断することは許されないところであり、異議の理由如何に拘わらず、執行停止を命ずることはできないのである」
とし、異議はその理由の如何に拘わらず、その当、不当を判断することなく、常に裁判所を拘束するとの立前を承認している。
「これ,行政の最高機関である内閣総理大臣が、その執行の停止によつて不当なる行政上の阻害が生ずるものと認め、その理由を明示して異議を述べたときは、行政権の立場を尊重し、裁判所はもはや執行停止を命ずることが許されないものとしたのである」
とし、その意極めて明瞭である。(ロ)しかし、
「異議を陳述するには、必ず当該行政処分の執行停止によつて如何なる行政上の阻害が発生するかを具体的に説示し、執行を停止すべきでないことの理由を明示すべきことは法の要請するところである」
としているが、その「具体的に説示し」というのは何を謂うのか不明であつて、少くとも如上の程度において異議の理由が明らかにせられているに拘わらず、その異議の理由の明示が具体的でないとか、論旨が抽象的で明確を欠くとかの判断は、とりもなおさず、異議の内容について審理判断しているものであつて、これは総理大臣が広い行政上の必要に基いてなした異議の理由を審理してこれを不満又は不備であるとして非難することに帰し、非常なる論理の矛盾であるのみならず、畢竟するに異議が適式であるか否かの判断に名を藉りて異議の理由の内容に立入り、その当、不当の審理をするものである。これは明らかに裁判所の行政権に対する違法、不当なる干犯となるものであり、三権の分立を紊り、即ち憲法第65条及び第76条に背反し(新憲法は三権分立については、旧憲法に比し一層徹底した立場を採つている)、又、その趣意を承け司法作用と行政作用との適正なる調整のために設けられた特例法第10条第2項の精神を蹂躙するものである。

、議会政治はいうまでもなく民主々義憲法の根幹であつて、これが運営には議院内部の自主的且つ自律的作用に俟つところが頗る多いのである。既に国会については、憲法においても議院内部の事項に関し各種の自律的な権限を認めており、又御庁の昭和22年(れ)第1951号判決に於ても
「議院内部のことは議院の自治問題として取扱い、同罪について同条所定の告発を起訴条件としたものと解するを相当とする」(議院に於ける証人の宣誓及び証言に関する法律第8条違反事件〈判例集3巻7号、901頁〉)
とせられて、議院内部の自治作用が尊重せられている。地方議会についても亦、その理は全く同断であつて、地方自治法第129条乃至第133条、第134条乃至第137条、その他地方議会の自律的権能が数多く認められている。かくの如く、議会自治の原則、議会の自律的権能は議会政治の本質に縁由するものであつて、この原則は何人によつても努めて尊重せらるべきであり、外部からこれが容易に左右せられることになれば、議会政治の発展と生命は断たれ、その民主的運営は崩壊する虞れがある。而して如上の意味に於て又その必要に立脚して総理大臣が述べた本件異議の如きは、理義極めて明確なものであり、且つ裁判所がこれを充分に尊重しなければならぬことは当然過ぎるほど当然なことであつて、同時にこれは正に憲法の要求するところであるといわねばならぬのである。

、次に除名処分はその成立と同時に効力を発生するものであつて、従つて、被除名者は即時に県議会議員たる身分を喪失するものであり且つこれにより除名処分の法的効果は完了するのである。処分に対する出訴期間中又は訴訟の繋属中は、処分の効力が確定しないというようなものでは決してないのであるし、又効力の発生と同時に即刻その執行を完了するところの処分である。故に、除名処分後において即ち効力発生後において処分の執行を停止するというが如きことは、凡そ法律上意味をなさないことであり、処分の執行を停止するとか、しないとかいう余地は、その場合全然残されていないのである。被除名者は訴訟を提起することにより既にその喪われた資格の回復を図る途は勿論講じ得るであらうけれども、執行停止の決定により暫定的にその資格を持続するという手段は、最早やあり得ない筈である。この根本関係の認識に於て原裁判所は致命的錯誤を犯しているものであつて、既に効果の完成した処分につき、その完成後に於てその執行を停止するというのである。恰も租税滞納処分の執行後において、その執行を停止するというが如きであつて、法的不能を敢てするものである。換言すれば、除名処分の如きはその処分の性質として、所謂特例法第10条の執行停止の客体とはなり得ない性質のものである。この点については既に判例もある。或はこの点に難点を発見したものか、原裁判所は「除名処分の効力の発生を停止する」という表現を藉りて、所謂執行停止の決定をしているのであるが、既に発生し且つ完了した効力の発生を、その後に於て停止し得べき筈もないし、又かくの如き効力発生の停止決定を認めた何等の法の根拠もない。これは裁判所自らも亦執行停止に該当し得ない処分であることを了解せるものと推断する外はないのであつて、かくの如きは明らかに裁判すべからざる事件につき、ことさらに不法の裁判をなしたるものというべく、裁判の本義を破り、憲法に背反する裁判行為であることは疑を容れないものと信ずる。

、以上の次第で、抗告の趣旨記載の決定(疏甲第1号証並に疏甲第3号証)は、明らかに憲法に違反する不当な裁判であるから、その取消を求め、本抗告に及んだ次第である。

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