室員紹介

スタッフ

黒坂 光 (Akira Kurosaka)
黒坂 光の写真

■職位

教授

■研究テーマ

当ウェブサイト参照(研究概要のページ

■連絡先

kurosaka*cc.kyoto-su.ac.jp (*を@に置き換えてください)

■ウェブサイト

http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~kurosaka/

私は、大阪生まれ、大阪育ちの生粋の浪速っ子である。生まれは市内都島区。家は、すでに取り壊された旧JR片町線の終点片町駅(限JR東西線大阪城北詰駅の近く)から徒歩1分と、非常に交通の便に恵まれたところにあった。子供の時から移動は常に電車を利用しており、大阪でバスに乗った記憶がない。時間も不定期で、かつ渋滞、信号、停留所と頻繁に停まるバスはどうも性分に合わない。おまけに車酔いに弱い体質とあって、バス嫌いは極みに達している。産大から、国際会館までバスに乗るだけでかなり気が重い。

大阪の家のすぐ裏は、寝屋川が流れていた。うす汚れた川面にはいつも正体不明のガスの気泡が吹き出だしており、まるでどぶのようであった、小学校の図画の時間に家のまわりの風景を描いたとき、川を濃い灰色で塗りつぶして、ひどく暗い絵になったのを覚えている。そんな川に、魚が住んでいるわけはなく、魚釣りをしたことがない。おまけに当時は、公害が大きな社会問題となり、学校の先生からは、昆虫を捕ることを禁止され、昆虫採集の機会も失った。小学校の校庭には、光化学スモッグを知らせる赤旗があり、その旗が揚がると、校庭で遊んでいた子供は皆、校舎内で待機させられたものだ。当時、大阪市内はすでに開発が進んでおり、田圃や畑のような田園風景は全くなかった。その様な景色は、電車に乗って遠足に行ったときに見るものだと思っていた。このように、子供時代に自然に触れる機会がなかったのは、未だに心残りだ。

高校は、大阪府立市岡高校を卒業した。産大の卒業生の中にも何人か後輩がいる。高校は当時から私服着用を認めており、自由な校風を売り物にしていた。大学進学の時は、実家がしがない薬局を経営していたためか、京都大学で薬学を専攻した。今にして思えば、このときの選択が本当に正しかったどうかは、疑問である。高校を卒業する時点で、正しい学部を選択するのは非常に難しく、周囲に本当に相談できる先生、両親などがいなくてならないと痛感する。京都大学もまた自由な大学であった。体育、語学以外では、専門科目を含め一度たりとも出席をとられた覚えがなく、一般教育科目の試験もおおらかで、単位の認定も随分甘かった。おかげで大変楽をさせてもらった。大学在籍中、勉強を強要されることはまずなかった。それでも、勉強する学生は、放っておいても勉強した。ダメな学生は、徹底的にダメになった。そういう中で、みんな学生生活を楽しんでいた。こういう環境の方が、伸びる学生は自分の能力を十分に発揮できるような気がする。もちろん、このような環境がすべての大学にとって望ましいものではないと思うが。

特別研究、大学院では生化学を専攻した。生命現象を化学で解明する学問が好きであったからである。大学4年生、修士1、2年の頃に勉強した内容は、いまでも良く頭に残っている。その時得た知識が、いまでもいろんな時に問題を解決するための良き手助けとなっている。学生の時にしっかり勉強しないと、中身のない人間になってしまうと周りの学生に口うるさく言うのは、その自分自身の経験に基づいている。研究についてはここではあまりふれない。興味のある人は研究のページを見てもらいたい。

関西では、商売の町、大阪で生まれ育って経済観念を身につけ、学問の町、京都で勉強し、最も洗練された街、神戸に住むのが理想だそうだ。大阪で生まれた私は、京都で勉強する機会を得たものの、その後少し方向を間違えて今は京都近辺の小さな街に住む。大阪市内(それも環状線の内側)で生まれ育った私にとって、その街はあまりにのどかである。家から少し歩くと、畑や田圃があり、そのまわりには、カエル、カメ、ザリガニ、タニシなどがいる。子供がまだ小さかった頃、少しおっちょこちょいなツバメが、部屋の中に入ってきて、子供と一緒に追い出すのに大騒ぎしたのも良い思い出である。いまは、自分が子供の頃味わえなかった自然に囲まれている。我が子がその様な環境で育ったのは良かったのであろう。昨今は、庭に小さな畑をこしらえて、畑作業を楽しみにしている。植物は人を裏切らない。手間暇かけた野菜がそれにこたえて、成長していく様を楽しみにしている。土をいじり自然と触れることは、仕事で疲れた心と身を癒してくれる。