若松先生の論文の要旨

Summaries of Some Papers Masashi Wakamatsu Wrote

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 お鈴「ここでは、若松先生の論文の要旨を紹介します。といっても、現
    在要約があるのは、ほんの一部です。要旨を読んで、その論文に
    関心を持たれましたら、論文も読んでみてください。なお、文中
    の太字の部分が、その論文のキーワードになっています」
 若松「ええと、この要旨は私自身が書いたものです。みなさん、要約は
    進んでいますか?」
 お鈴「なかなか、むずかしいですぅ」
 若松「要約のポイントは、全体の内容とともに構成もわかること、そし
    て〜について検討したにとどまらず、〜について検討し〜である
    ことを明らかにしたとすることです。卒業レポートでは、要約も
    出してもらいます。みなさん、がんばってください」
 お鈴「は〜い」

10.長崎俵物をめぐる食文化の歴史的展開 {English} 『京都産業大学日本文化研究所紀要』創刊号(1996.3.31)pp.128-161
[要旨]  近世中後期の長崎貿易における主要な輸出品であった長崎俵物(煎海 鼠・干鮑・鱶鰭)については、江戸幕府の貿易統制・流通統制、あるいは 地域における生産・集荷の実態を明らかにする視点から研究が進められて きた。本稿は、そこで欠けていた食文化の視点を加え、縄文時代にまで さかのぼり、長崎俵物をめぐる食の歴史を考えようとしたものである。  一では、長崎俵物として登場する以前の日本におけるナマコアワビ ・フカヒレの食の状況について、以下の事例などから、その具体像を見た。   1縄文時代 貝塚の出土遺物   2古代 文献・木簡に見る地域ごとの国家への貢納、名称、用途   3中世 公家の日記、兵庫港の通交税、調理法、贈答   4近世前期 地域の特産物、市中での売買の状況 そして、日本では、フカヒレを食べる習慣は無かったが、他の二品は縄文 時代以来かなり食べられていたこと、最初は高級品であったこの二品が、 時代を追って階層的にも地域的にも広がっていき、長崎俵物貿易成立時点 では、かなりの食需要があったことを明らかにした。  二では、長崎貿易のなかでの俵物の位置について検討した。17世紀末 において日本・中国双方の思惑が一致し、長崎俵物貿易が始まり、中国へ の一時的な供給過多が価格低下と一層の食需要を喚起した。しかし、長崎 貿易の構造的な問題から漁民からの俵物買い上げ価格は低かったこと、中 国商人はアワビをナマコとのバランスを考え購入していたこと、国内民 衆のナマコ・アワビに対する根強い消費需要があったこと、食物としての 保存性の問題、これらの理由により、長崎俵物の生産・集荷・輸出は順調 にいかなかったことを明らかにした。


12.唐人参座の設立について {English} 『京都産業大学日本文化研究所紀要』第2号(1997.3.31)pp.137-168
[要旨]  本稿は、享保二十年に長崎と江戸に設立された唐人参座について、そ の設立事情を中心に検討したものである。  最初に、近世中後期の長崎貿易史研究が最近活性化してきていること、 享保期の研究も吉宗の医療政策や輸入品の国産化政策など新たな方面で 進展が見られることなど、本稿と関わる近年の研究動向について簡単に述 べた。  一では、唐人参座設立以前の段階にあたる、寛文初年および元禄〜享保 期における唐人参の輸入動向について、中国の事情、朝鮮人参との関係、 吉宗の長崎における薬草政策などにも留意し、詳しく見ていった。そして、 (1)十七世紀の後半に朝鮮人参の輸入が減少し価格が高騰し、江戸幕府は 唐人参に注目し始めたこと、(2)唐人参は中国の統制品であったが、江戸 幕府は十七世紀末から、低率の「掛り物」賦課や「追売」での優遇措置な ど、積極的な唐人参輸入政策をとっていたことを明らかにした。  二では、長崎奉行細井因幡守が提出した長崎での唐人参座設立願書を紹 介し検討した。そこでは、座の利潤によって困窮している長崎御用物役高 木作右衛門や町年寄を救済するためと、唐人参を安定的に供給するための 二つが、座の設立理由として記されており、特に前者との関連で長崎上級 役人の積極的なはたらきかけのもとでこの願書が作成されたのではないか と推測した。そして、当時の長崎の困窮状況と長崎奉行の対応について述 べた。  三では、実際に設立された唐人参座の役人構成や流通体制などについて、 朝鮮人参との比較もふくめ、簡単に見た。そして、幕府は薬用人参の安 定供給を重視し、長崎から江戸への唐人参の直通ルートの構築をめざして いたと推測した。  最後に、会計帳簿の分析によって、唐人参座の活動をさらに明らかにす ることを今後の課題としてあげた。


16.京都の経済・産業の歴史的展開について {English} 『京都産業大学日本文化研究所紀要』第6号(2001.3.31)pp.217-243
[要旨]  本稿は、京都の経済・産業の歴史的展開を、権力(朝廷・幕府など)と の関係外国との関係に留意しつつ、概観したものである。「はじめに」 では、「危機」といわれている京都の経済・産業の現状(伝統産業の衰退 など)について述べる。次に、京都の経済・産業の歴史を、時代を追って 見ていく。古代(一)では、平安京以前の京都の様子、平安京の経済活動、 学問・教育について具体的に述べる。中世(二)では、当時の京都の経済的 位置、商業活動、学問・教育の状況を見る。近世(三)については、当時の 京都の経済的位置、朱印船貿易との関連、生糸と西陣、醤油醸造仲間、豪商 三井家、学問・教育・出版、幕末京都の動乱などをとりあげる。近代(四) では、明治維新後の東京遷都と京都の近代産業について見る。そして、1.古 代〜近世の京都は、先進的な手工業都市であり、経済の中心地であり、消費 都市であったこと、2.その経済発展を支えた要因は、であったこと、権力 との結びつきが大きかったこと、また外国との関係が意外に大きいことを明 らかにする。そして、今後の京都経済・産業のあり方について、あらためて 公権力(政府・府・市)との関係・外国との関係を考える必要性を指摘する。


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