京都府学連事件
上告審判決

公務執行妨害、傷害被告事件
最高裁判所 昭和40年(あ)第1187号
昭和44年12月24日 大法廷 判決

上告申立人 被告人
被告人 長谷川俊英
弁護人 青柳孝夫

■ 主 文
■ 理 由

■ 被告人の上告趣意
■ 弁護人青柳孝夫の上告趣意

■ 主  文

本件上告を棄却する。
当審における訴訟費用は被告人の負担とする。

■ 理  由

[1] 本条例が、道路その他屋外の公共の場所で、集会もしくは集団行進を行なおうとするときまたは場所のいかんを問わず集団示威運動を行なおうとするときは、公安委員会の許可を受けなければならないと定め、これらの集団行動(以下単に「集団行動」という。)を事前に規制しようとするものであることは所論のとおりである。しかしながら、本条例を検討すると、同条例は、集団行動について、公安委員会の許可を必要としているが(2条)、公安委員会は、集団行動の実施が「公衆の生命、身体、自由又は財産に対して直接の危険を及ぼすと明らかに認められる場合の外はこれを許可しなければならない。」と定め(6条)、許可を義務づけており、不許可の場合を厳格に制限しているのである。そして、このような内容をもつ公安に関する条例が憲法21条の規定に違反するものでないことは、これとほとんど同じ内容をもつ昭和25年東京都条例第44号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例についてした当裁判所の大法廷判決(昭和35年(あ)第112号同年7月20日判決、刑集14巻9号1243頁)の明らかにするところであり、これを変更する必要は認められないから、所論は理由がない。
[2] 所論は、本条例は、許可を与える際必要な条件をつけることができると定め(6条)、この条件に違反し、または違反しようとする場合には、警察本部長が、その主催者、指導者もしくは参加者に対し警告を発し、その行動を制止することができ(8条)、更に、条件違反の場合には、主催者、指導者等を処罰することができる旨定めている(9条)が、このように、右条件の内容の解釈および条件違反の判定をすべて警察に委ねている点で、適法手続を定めた憲法31条に違反し、また、条件を取締当局に都合のよいように定めることを許している点でも、白地刑法を禁止した同条に違反する旨主張する。
[3] しかし、本条例6条1項但書は、公安委員会の付しうる条件の範囲を定めており、これに基づいて具体的に条件が定められ、これが主催者または連絡責任者に通告され(6条2項、同条例施行規則5条)、この具体化された条件に違反した行為が、警告、制止および処罰の対象となるのであつて、所論のように取締当局がほしいままに条件を定めることを許しているものではなく、犯罪の構成要件が規定されていないとかまたは不明確であるとかいうことはできない。そうすると、所論違憲の主張は、その前提を欠くことになり、適法な上告理由とならない。
[4] 所論は、本人の意思に反し、かつ裁判官の令状もなくされた本件警察官の写真撮影行為を適法とした原判決の判断は、肖像権すなわち承諾なしに自己の写真を撮影されない権利を保障した憲法13条に違反し、また令状主義を規定した同法35条にも違反すると主張する。
[5] ところで、憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定しているのであつて、これは、国民の私生活上の自由が、警察権等の国家権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものということができる。そして、個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法13条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない。しかしながら、個人の有する右自由も、国家権力の行使から無制限に保護されるわけでなく、公共の福祉のため必要のある場合には相当の制限を受けることは同条の規定に照らして明らかである。そして、犯罪を捜査することは、公共の福祉のため警察に与えられた国家作用の一つであり、警察にはこれを遂行すべき責務があるのであるから(警察法2条1項参照)、警察官が犯罪捜査の必要上写真を撮影する際、その対象の中に犯人のみならず第三者である個人の容ぼう等が含まれても、これが許容される場合がありうるものといわなければならない。
[6] そこで、その許容される限度について考察すると、身体の拘束を受けている被疑者の写真撮影を規定した刑訴法218条2項のような場合のほか、次のような場合には、撮影される本人の同意がなく、また裁判官の令状がなくても、警察官による個人の容ぼう等の撮影が許容されるものと解すべきである。すなわち、現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、しかも証拠保全の必要性および緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときである。このような場合に行なわれる警察官による写真撮影は、その対象の中に、犯人の容ぼう等のほか、犯人の身辺または被写体とされた物件の近くにいたためこれを除外できない状況にある第三者である個人の容ぼう等を含むことになつても、憲法13条、35条に違反しないものと解すべきである。
[7] これを本件についてみると、原判決およびその維持した第一審判決の認定するところによれば、昭和37年6月21日に行なわれた本件京都府学生自治会連合主催の集団行進集団示威運動においては、被告人の属する立命館大学学生集団はその先頭集団となり、被告人はその列外最先頭に立つて行進していたが、右集団は京都市中京区木屋町通御池下る約30メートルの地点において、先頭より4列ないし5列目位まで7名ないし8名位の縦隊で道路のほぼ中央あたりを行進していたこと、そして、この状況は、京都府公安委員会が付した「行進隊列は4列縦隊とする」という許可条件および京都府中立売警察署長が道路交通法77条に基づいて付した「車道の東側端を進行する」という条件に外形的に違反する状況であつたこと、そこで、許可条件違反等の違法状況の視察、採証の職務に従事していた京都府山科警察署勤務の巡査秋月潔は、この状況を現認して、許可条件違反の事実ありと判断し、違法な行進の状態および違反者を確認するため、木屋町通の東側歩道上から前記被告人の属する集団の先頭部分の行進状況を撮影したというのであり、その方法も、行進者に特別な受忍義務を負わせるようなものではなかつたというのである。
[8] 右事実によれば、秋月巡査の右写真撮影は、現に犯罪が行なわれていると認められる場合になされたものであつて、しかも多数の者が参加し刻々と状況が変化する集団行動の性質からいつて、証拠保全の必要性および緊急性が認められ、その方法も一般的に許容される限度をこえない相当なものであつたと認められるから、たとえそれが被告人ら集団行進者の同意もなく、その意思に反して行なわれたとしても、適法な職務執行行為であつたといわなければならない。
[9] そうすると、これを刑法95条1項によつて保護されるべき職務行為にあたるとした第一審判決およびこれを是認した原判決の判断には、所論のように、憲法13条、35条に違反する点は認められないから、論旨は理由がない。

[10] 被告人本人のその余の上告趣意は、憲法違反をいう点もあるが、実質はすべて単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、刑訴法405条の上告理由にあたらない。
[11] 同弁護人のその余の上告趣意は、事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、同条の上告理由にあたらない。
[12] よつて、同法408条、181条1項本文により、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 石田和外  裁判官 入江俊郎  裁判官 草鹿浅之介  裁判官 長部謹吾  裁判官 城戸芳彦  裁判官 田中二郎  裁判官 松田二郎  裁判官 岩田誠  裁判官 下村三郎  裁判官 色川幸太郎  裁判官 大隅健一郎  裁判官 松本正雄  裁判官 飯村義美  裁判官 村上朝一  裁判官 関根小郷)
[1] 本件行為の前提たる秋月巡査の写真撮影行為が適法な職務行為であるとの論拠たる昭和29年京都市条例10号、集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例(公安条例)は合憲なりとする原判決を以下に批判し、その判断の誤りを指摘する。

[2](1)京都市公安条例は日本国憲法第21条に定める「表現の自由」保障の規定に違反する無効の立法である。集団行進、集団示威運動等いわゆるデモ行進が集団意思を表現するための効果的手段たることは無論であつて、日本国憲法第21条において国民の基本権として保障せられ、しかもこの権利は「侵すことの出来ない永久の」(憲法第11条)ものとせられる。
[3] 然るに同市条例は、デモの適法性を行政機関たる公安委員会の許可にかゝらしめている。行政法上「許可」なる用語は、行政機関が国民に対してなす行政行為のうち、本来は許されないこと(不自由なること)を解放して許すこと(自由を与えること)を意味する。従つて同条例の条文によれば、デモという表現行為は本来許されない(国民に対しその自由が与えられていない)のであつて、行政主体たる公安委員会の許可があつてはじめて許される(自由が与えられる)こととなる。これは表現の自由を基本的人権として保障する憲法の立場に真向から刃向う規定である。憲法は国民が自己の意思を自由に表現することを本来的に認めているのであつて、国民に誰の許しをも要せず意思表現を叶えしめることを以つて民主主義の要諦なりとしているのである。およそ国民は、その全てが様々な思想を有するのであつて、これら一切につき、あらかじめの公的統制を行なうことをせずその表現方法において制限を加えないことこそ、憲法の立場である。その立場は勿論若干の弊害を生ぜしめる。しかしそのことは既に、憲法自体がこれを予見し、「国民はこれを濫用してはならない」(第12条)とするのである。

[4](2)原判決は、本件条例が集団行進、集団示威運動に対する公安委員会の「許可を義務づけ不許可の場合を厳格に制限し、公共の安全に対し「直接の危険を及ぼすと明らかに認められる場合」という合理的かつ明確な基準の下に制限する場合があることを定めたものであるから、同条例は憲法第21条その他いかなる条章にも牴触するものではない」と判示している。これは原判決にも言う如く、昭和35年7月20日最高裁判所大法廷判決に基づくものであるが、そこで以下に右判決を考察する。

[5](3)右判決は言う。「表現の自由は、これを濫用することを得ず、公共の福祉のために利用する責任あり」と。これはまさに正論である。けれどもそれがひきつづいて、「集団行動は暴力に発展する危険を内包しているからこれを事前に予知し、不測の事態に備えるための法的規制は必要である」とするに及んでは、まさしく本末転倒の論法であるとの感が深い。憲法はそのような危険性を知りながら、表現の自由を絶対なりとし、但し濫用を禁ずるとしているのである。もしこれを破る「暴力沙汰」が現実のものとなつた場合には、その段階において刑事法的処理をすれば足りるのである。合憲論が必要なりとする「法的規制」なるものは、実定法上たゞちに「許可」を介しての「行政的規制」を意味し、しかもその「行政的規制」は全くの裁量によつて恣意的に発動せられ、これに対する実効を伴う救済方法は見当らない。このような行政的恣意的に表現の自由を制約ないし剥奪することから生ずる非民主化への大きな危険性と、表現行為から暴力に発展するかもしれない内包的危険と、いずれを重視するものであるのか、多くの歴史書を紐解くまでもなく、合憲論の皮相性は自と明白である。

[6](4)右最高裁判決の東京都公安条例に関する部分を見るならば、この判決は一方において集団行動の暴徒化するという危険性の存在を指摘し、これをもつて集団行動の事前抑制の根拠としながら、しかも規制の合憲性・違憲性の基準を明確にせず、他方、条例の運用にあたる公安委員会の権限濫用のおそれの存在を指摘しながらも尚東京都公安条例は違憲でないとしている。要するに同判決は、公共の福祉のためには集団行動の事前抑制はやむをえないということを示すに止まり、そこにはその合憲性・違憲性の判断の基準を定立して、これを厳格に適用しようという意図はみられないのである。濫用のおそれを防止しうるように立法する可能性があるのに濫用のおそれのある立法をし、これを合憲とするが如きは、憲法の精神を著しくゆがめたものと言わなければならない。

[7](5)翻つて本件条例に関する原判決の判示を以上の観点と、条例の具体的適用過程に則して観るならば、次の如くその誤りを指摘することができる。
[8] まず「許可を義務づけ不許可の場合を厳格に制限し」ているとの判示であるが、なるほど同条例第6条においてそのことは規定せられる。ところが同条第1項は「第4条の規定による許可申請があつたときは」と述べて、義務づけられるべき許可を制限している。つまり、第4条にいう諸事項を具備しない場合にはそもそも許可の対象とはならないのであり、現実には許可申請書を差し出す警察署の係官の段階において、申請書を受理しないのである。例えば「屋外集会、集団行進又は集団示威運動を行う日時の72時間前までに」許可申請書を提出しない場合、国民はそれらの行為をなすことが出来ないのであるが、もつぱら緊急度が高く、しかも72時間待つことによつてその行為の効果が著しく減少し或いは喪失してしまうことが往々にして起りうる。例えば、ある国の核実験再開が発表され、この発表を取り消させ、実験を未然に阻止するを目的として緊急にデモ行進を開催すべく許可申請をしても、それが72時間の待機を求められるが故に、既に実験は実行され、それへの抗議の運動しか展開しえないというが如き場合が実際に起つているのである。思うに事の態様を考慮せず、すべてを72時間の後に延期させること、更には「緊急性」の判断をそれを主張すべき国民の手から取り上げ、国家権力がそれに代わることは歴然たる憲法第21条の侵害であると言わざるをえない。

[9](6)第二に、原判決がいう「公共の安全に対し「直接の危険を及ぼすと明らかに認められる場合」という合理的かつ明確な基準の下に制限する」ということについて考えれば、その「合理的かつ明確な基準の下に」デモ行進に付与される京都府公安委員会の許可条件には、何時の場合においても次の事項がはいつている。
[10](イ)行進隊列は4列縦隊とし、一隊の人員はおおむね200名を限度で編成し、隊列間の距離は約20メートルを保つこと。
(ロ)行進中、ジグザグ行進、うずまき行進、逆行進又ことさらなおそ足行進や停滞などの禁止。
(ハ)行進中、旗竿、プラカードなどをさゝえにスクラムを組むなどして、交通の安全を阻害し、又は隊列の内外で旗竿、プラカードなどをふるなど交通上危険な行為をしないこと。
[11] いうまでもなく「表現の自由」は日本国民の基本的人権として享有さるべきものであつて、その内容において他のいかなる基本権から優るとも劣らないものであり、憲法第12条に言う如く「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」のである。同時に「表現の自由」が表現という形態をその本質とする基本権である以上、表現の形態・様式についてもその自由が保障されると解するのは自明の理である。つまり「表現の自由」を行使する主権者たる国民は、その態様につきあらゆる可能性と機会を与えられるのである。ところでいかなる権利行使といえども、他の一切の国民の権利と衝突しないはずはなく、そのため先述の如く憲法第12条において基本的人権の濫用を禁じ、公共の福祉のために利用する責を説くのである。しかしこゝに生起する権利間の衝突は、国民の権利行使の内在的規制として、国民自ら克服すべきものであつて、他から強制ないし規制されるものではない。従つてデモ行進によつて交通秩序にある程度の混乱をきたすが如き事例は想像に難くないが、そのことをもつて前述の如き条件をいつの場合にも付与し、表現の態様の制限を個別的かつ具体的に、あらかじめ予定することは、明らかに憲法の条項、精神に牴触するものである。

[12](7)以上に述べたいずれの観点からしても、本件公安条例が日本国憲法に背反する無効の立法であることは明白である。しかして右条例に基づく京都府公安委員会が本件デモ行進に付した許可条件も無効であり、仮にかかる「許可条件」に違反する行為があつたとしてもそれは犯罪を構成せず何ら捜査の対象となりえないから、本件警察官の「捜査行為(写真撮影行為)は適法な職務行為とはならない。然るに原判決は本件条例を合憲なりとし、日本国憲法の解釈適用を誤つているのである。
[13] 京都市公安条例の違憲性から、本件写真撮影行為は適法な職務行為でないことを先に述べたが、もし仮に右条例を合憲なりとしても、今尚この「職務行為」を適法としえないことを以下に述べる。

[14](1)原判決は「前記「許可条件」を熟知していなかつた被告人は右許可条件に違反し、御池通の緩行車道に沿つて左折せず、そのまま河原町通を南下し、同交差点中央付近まで行進し、デモ隊もこれに追尾したため、同所付近に待機していた警察官隊に押し戻され、デモ隊は混乱して御池通を東進して木屋町通を南下することとなつた」原判示場所付近においてデモ隊が隊列を乱して先頭部分においては7、8列縦隊となり車道の東側端でなく中央部を進行する等前記「許可条件」に違反する」と述べ、本件デモ行進が京都市公安条例に基づく、公安委員会の許可条件に違反していたと判示している。しかしこの点は著しく事実を誤認しており、判決に重大な影響を及ぼしている。
[15] 被告人はデモ許可条件について、デモ行進の進路に関する部分は当日あらかじめ伝達を受けており、デモ隊が河原町通を南下して御池通との交差点に差し掛つた際にも、伝達の進路(つまり許可された進路)に従いそれを左折せしめるべく誘導を計つたのである。ところが御池通は2本のグリーンベルトによつて区分されており、デモ隊がどの部分を進行すべきかについては不知であつた。通常デモ行進が交差点にて折進する場合には、現場に配備された警察官からどの道のどの部分を進行するかについての指示があるのであるが、本件デモの当地点ではそれが為されなかつた。そこで被告人は、折進の場合の通常の例に従い、可能な限り交通に支障を来さない方法をとるべきだと判断し、まず北側グリーンベルトの北側の緩行車道(実はこれが許可条件に示された進路であつた)を行進せんと考えた。ところが当時この道路には数台の大型車が駐停車しており、4列のデモ隊が行進するのは不可能の状況であつて、しかも警察官が進路整備を行つている様子も伺いえなかつた。やむなく次に北側グリーンベルトの南側車道北端を行進すべくデモ隊を誘導していつたとき、丁度左折に入らんとしたその瞬間にいわゆる乱闘服とヘルメツトに身を固め、現場付近に待機していた京都府警機動隊員が一勢にデモ隊に襲いかゝつたのである。右機動隊員による殴る、蹴る、或は頭髪を引張る、鼻孔を押える、かきむしる等、無抵抗な学生に対する理不尽な集団暴行の下で、デモ隊は混乱させられ、その隊形を解体させられた状態で御池通北側歩道まで押し上げられた。デモ隊はたゞちに隊列を整えつゝ御池通木屋町交差点に向い、こゝを右折する段には、ほぼ正常の状態に戻り、本件行為の前提たる秋月巡査による写真撮影行為がなされた時には、既に何らの違法状況もなく、デモ隊は整然と行進していたのである。しかもこのことは、検察側証人として一審法廷に出廷した採証班員の津田孝彦巡査も、次の如く証言しているところである。
[16]問、このようになつた前(被告人が突いたといわれる状況)デモ隊の情況はどんな情況だつたですか、なんらか違反がありましたか、ありませんでしたか。
答、別に整然と歩いていました。
問、許可条件違反の点はありませんでしたか、
答、私はこの木屋町の御池からデモ隊の右側のほうに、先頭のほうに平行して歩いておりまして、少し2列、3列目ぐらいになつておりましたけど、そのときには私は見かけておりません。
[17] 然るに原判決はかくの如き証言を取り上げず、又弁護側証人の証言を何の理由もなく「措信できない」ときめつけ、事実を誤つて認定しているのである。デモ隊に違法状況が存在しなかつたとすれば、秋月がこれに対し捜査行為を開始するのは、適法な職務行為と言い難い。

[18](2)ともあれ本件デモ行進は何ら違法状況を呈せずと右の如く主張しても、同デモ行進が、先頭より最後尾に到るまで徹頭徹尾4列縦隊を維持し、許可条件にいう道路の所定位置を行進していたとは言わない。通常デモ隊が部分的に2、3列になり、或は5、6列になることはこれへの参加者が途中で隊列を離れ、或は加わる等大衆運動の特殊性によつて当然起りうべきことである。又デモ隊には指揮者、旗手、レポーター、シユプレヒコールをやる者等が居り、それらはその性格上独立して行動することが要請され、行進に際しては適宜隊列の側面に付くため、これまた隊列を必然的に増減せざるをえない。これらの事実は、デモ行進実施上のやむをえない現実として容認されたものであつて、警察官等より本件行為時は無論のこと、公安条例制定以来一度の警告を受けたこともないのである。もしこのような特殊な事情を認めず、これをも厳格に取締るのであれば、もはやそれもまた公安条例の違憲性を説く有力な論拠になりうるのであつて、原判決はかゝる観点を看過し、その判断を誤つたのである。

[19](3)本件行為の前段階において、右に述べたデモ行進の状況を違法状況とすると警察官が判断したとしても、まだ秋月の行為は適法なる職務行為たりとしえない。何故なら先述の大衆運動の特殊性につき、既に警察官は充分の認識を得ており、それが故かつて何等の警告も与えず、制止もせず、いわんや捜査は出来なかつたのである。およそ警察官たるものは、警察法並びに警察官職務執行法によつてまず何よりも犯罪を予防し、制止する義務を負つているのである。然るに先述の如き「違法行為」に対して警察権を発動するとしても、この程度のものならばまず警告、そして制止、しかるのちに捜査という手順が踏まれるべきが、警察権行使の手段の相当性に鑑みて妥当である。本件の如く前2段階を捨象して、いきなり「捜査行為」たる「採証活動」に入るは、警察法、警察官職務執行法の精神を破壊する違法なる行為と言わざるをえない。ましてや先に証明した如く。本件デモには何らの違法行為もなかつたのであるから、それに向けられた捜査が、憲法の表現の自由保障に基づくデモ行進を抑圧し、妨害する結果をもたらせたのであつて、秋月の写真撮影行為は憲法第99条(公務員の憲法尊重義務)に違反し、警察法第2条第2項(基本的人権への干渉・権限の濫用の禁止)及び同第3条(憲法・法律の擁護)に背反する行為であり、適法な職務行為たりえないばかりか、違法行為であると言わねばならない。然るに原判決はこの点をも看過するの誤りを犯しているのである。

[20](4)原判決は「人には所論の如き肖像権が認められるとしても、現に犯罪が行われておる場合には現行犯処分に準じて、被疑者の意思に反しても捜査のための写真撮影は許されるものと解するのが相当である」と判示し、秋月の写真撮影行為は適法なりとしている。しかし、かゝる解釈は憲法に違反し、その解釈を誤つたものであり、以下その理由を述べる。
[21](イ)日本国憲法第13条は、日本国民が個人として尊重され、その自由権は最大の尊重を受けねばならないと規定している。しかも今日の社会の如く、社会生活のあらゆる部面における進歩発展、高度な生活水準が一般化した状況の下では、自由権への侵害は単なる物理的強制によつてのみなされるものではない。そこでは言葉、写真、録音等、一見物理力をもたないが如き方法によつて、個人の抑圧、私人の生活への介入が可能であり、そのような事例は往々にして存在することが認められる。
[22]いわゆる肖像権、即ち承諾なしに自己の写真を撮影され、使用されない権利は、プライバシーの権利の一つとして構成される。これを国家権力ことに警察権の行使との関係において考察すれば、前述憲法第13条、警察法第2条第2項(「警察の活動は……いやしくも日本国憲法の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権利を濫用することがあつてはならない」)によつて、警察官のかかる写真撮影行為は当然違法なるものである。
[23](ロ)ところで本件秋月の写真撮影行為は、現に隊列の中からはつきりと抗議の声が上つていたのであるから、同意、承諾のなかつたことは明白である。撮影を拒否するのは、デモに参加する学生が、それを家庭やアルバイト先に知られては困るというような、学生としてもつともな理由によるのであつて、それを強いて撮影することは、明らかに個人の自由の侵害であると言わねばならない。
[24](ハ)原判決がいう如く、もし仮に犯罪が行われておつたとしても、右に述べたことから、写真撮影行為が強制捜査たることは言を待たない。もつとも原判決は強制捜査でないと形式的にいうが本件捜査の実体としては秋月の写真撮影が前述の如く人の自由権を侵害するという法益侵害をなしているのであるから、その解釈は誤りである。強制捜査であるなら勝手には行えないはずである。例えば刑事訴訟法第218条は「身体の拘束を受けている被疑者」に限つて、捜査官がその「写真撮影」をも令状なしにやり得ると認めているのであつて、この規定の主旨から推して、不拘束の人間を令状もなく、その明示した意思に反してまで撮影することは許されない。敢えてこれを行うは、憲法の令状主義に背反するものである。
[25](ニ)従つて、原判決が肖像権の存在を一方で認めながら、秋月の撮影行為を適法なりとするは、憲法第13条、警察法等法令の解釈・適用を誤つたものである。
[26](1)被告人の本件行為直前の秋月の行動が、客観的にみても警察官としての適法な職務の執行と言えず、従つてそれが公務執行妨害の対象たり得るものでないことは先に述べた。また本件行為当時、被告人は秋月が警官であるとは知らず、その撮影を警察官の適法な職務執行とは考えなかつたのだから、主観的にも公務執行妨害の故意がなかつたのである。

[27](2)もつとも原判決は「本件写真撮影中の秋月潔が警察官であることを被告人が認識していたことは被告人の自供するところであり(被告人の検察官に対する昭和37年7月10日付供述調書)」「被告人が暴行の故意をもつて秋月潔を突いたものであることは、被告人が旗竿を両手で持つて写真を撮ろうとしている男の「上半身の方向に向つて突き出」すと「相手は体をねじる様にしてよけましたので私は当つたかなあと思いました」(被告人の同供述調書)との被告人の供述と、原審証人秋月潔の証言中、被告人はその旗竿を「左手を旗尻のほうへ、右手を旗先のほうへ持ちまして、いつたん構えるような格好をして、1秒ぐらいか2秒ぐらいおいてやゝおろし、もう一回構えてついてきた」との供述を総合すると、十分に認められるところである」と判示しているが、これは重大な事実誤認によるものであつて、その理由を以下に述べる。
[28](イ)まず被告人が本件行為前に秋月を警察官と認識していたとする所論であるが、本件行為前の秋月は私服であつて、まずその服装態様より警察官と認識することは困難であつた。然るに被告人は秋月に対し「どこのカメラマンか」と質したのであつて、このような言葉はどこの新聞社或はニユース社のカメラマンかというものであり、もし秋月が警察官たるを知つておれば、それに対して問いかける言葉ではなく、ましてや秋月がこれに何らの回答を与えることなく、あたかも無頼の徒の如き態度をとるに及んでは、到底彼を警察官と認識するを得ないのであつた。原判決にいう供述調書には、被告人が秋月を私服警官ではないかと思つた旨の供述が散見するが、これは検察官の巧みな誘導と、当時学生運動の高揚の中で日夜その激務に追われた後、不当に身体を拘束されていたことからの被告人の極度の疲労による不注意が招いた誤れる供述である。このことは被告人が第一審公判廷で供述するところであり本件行為の直後に秋月の周囲から飛びだして来る連中がいたので、さては私服警官であつたかと気付いたのであつて、検察官への供述はかゝるいきさつの前後における自己の気持を区別しえないでなしたものである。
[29](ロ)次に同被告人供述書並びに秋月の一審公判廷での証言によつて被告人に暴行の故意ありとする所論であるが、右供述書は原判決の引用部分に引きつづき「が手応えはなく当らなかつた様に思いました」と述べているのであつて、右判決はこれを捨象し、部分的な抽出をなすことによつて事実の公正な認定を誤つている。また「上半身の方向に向つて突き出す」とは具体的には、秋月が再び被告人を撮影せんとして胸部に構えたカメラを、撮影防止のために払おうとしたのであつて、人を対象とした有形力を行使したのではないから当然暴行の故意は存在しえないのである。
[30] 秋月の証言についてであるが、もし彼が「かくも正確に」一定時間にわたり事態を観測したのであれば、本件当時勤続13年のベテラン刑事たる彼は、一目にしてその加害者の人相・風体を当然認識しえたはずであるが、彼は全証言を通じて、被告人が突いた男だと断定することは出来ないと言いつづけたのである。
[31] 従つて原判決が引用した秋月証言こそ措信するに足らず、前述した事実関係の真実と併せ考えれば、被告人が暴行の故意をもたなかつたことは容易に断定できるのである。

[32](3)かくの如く、被告人には秋月に対する暴行或は傷害の意思もなかつたのである。被告人は再びカメラを構えた秋月の行動を拒絶意思を明示しているにも拘らず繰返そうとする不法かつ急迫な侵害行為と考えて、とつさにそれを阻止すべく旗竿を突き出したのである。その意図は、自己の姿の撮影を阻止することにあり、秋月に対して暴行を加える積りは更になかつた。またその結果についても、弁解録取書によれば、相手に当つたか当らなかつたか分らないというのであり、検察官調書によれば、当らなかつたと思うということになつているのである。仮にそれが誤つて秋月に当つたとしても、それは被告人の意図したところではなかつたのである。暴行の意思のないところには、仮に傷害の結果が生じたとしても、故意の傷害罪の成立する余地はないのである。しかも、この際、被告人は自己の人格権――肖像権――に対する急迫不正の侵害に対して防衛行為を行つたものであるという点からみても、それが犯罪となるはずはない。尚肖像権の存在については、広島高裁昭和30年6月15日判決が、左の如く判示しているのである。
[33]「何人も自己を対象として写真撮影をせんとする場合許諾の自由を有することは当然であり、この自由は法律上保護するべき利益であるから、他人が正当な理由なく、しかも自己の意思に反して写真撮影を強行せんとする場合には、右の利益を防衛するため必要にして相当な措置をとり得べきことは言をまたない」
[34](4)被告人の犯意並びに、正当防衛を判断するにつき、原判決は以上の誤認を犯しているものと言わざるをえない。
[35] 以上に述べた如く原判決は多くの点で憲法の解釈・適用を誤り、判決に影響を及ぼす法令の違反、重大な事実誤認を犯しており、いずれの諸点からも被告人の無罪は明白であるから、速やかに原判決を破棄せられるよう求める次第である。
(その他の上告趣意は省略する。)

[1] 本件第一、二審判決は、秋月巡査が集団行進中の先頭部を写真撮影した行為を適法な職務行為と認定しているが、本件写真撮影行為は違法なものであつて公務の執行とは到底認められないものであるから、この点に於て原判決は憲法違反及び判決に影響を及ぼす重大な法令解釈のあやまりと事実誤認があり破棄は免れない。
[2]一、まず警察官が集団行進そのものについてその許可条件違反の有無を視察、採証することが一般的にゆるされるとする第一、二審判決の立場について考察するに、その前提として、原判決は京都市公安条例(昭和29年6月1日京都市条例10号)について、集団行進等の自由権も、それが濫用され公共の福祉が著しく侵されることを防止し必要最小限の範囲内でこれらの集団行動を規制することは憲法上も許される旨論じ、右京都市公安条例の規制は合理的かつ明確な基準の下に制限する場合があることを定めただけであるから合憲だというのである。

[3]二、しかしながら、右のごとき許可制の当否の問題(この点については原審弁護人の控訴趣意第一点の二を援用する)以外にも本件では、許可された集団行動について、ことこまかな規制ができる(条件づけ)ことを定めた右条例第6条及びこれが規制の手段として警察力の行使が認められている同第8条の問題があり、これを考えると、かゝる条件なるものは著しい人権の制限抑圧であつて、右条項は少くとも原判決のいう「必要最小限の規制」或いは「合理的、明確な基準による制限」というものには当らないものである。
[4] 即ち、第二審判決が引用する最高裁判所昭和35年7月20日大法廷判決なるものは、東京都公安条例と広島市公安条例に関するものを指していると思われるが、その中心は「一般的許可制」に関する論議が主要なものである。

[5]三、京都市公安条例第6条は、集団行動等を公安委員会が許可するにつき、必要な条件をつけることができるとして、6つの項目を挙げている。この条件が大変なしろものであるが、更に同第8条では、この条件に違反し、又は違反しようとする場合は警察本部長は、その主催者、指導者は勿論参加者までにわたるすべての者に対し警告、制止することができるばかりでなく、「その他違反行為を是正又は防止するにつき必要な限度において所要の措置をとる」ことができると規定する。
[6] また、第9条に於ては、条件違反がおこつた場合その行動の主催者指導者は罰するとさえ規定するのである。

[7]四、かゝる「条件附許可制度」は、申請者の申請を許可する代りとして苛酷な条件を集団行動参加者に強制し、官憲の監視の下に集団行動をおき、官憲の行動に対する干渉、介入を容易ならしめることに道をひらいている。本件において、多数の制私服官憲が、行進の当初よりこれを監視していたことも、これがためである。これが「必要最少限度の規制」というべきものであろうか。官憲はさゝいな行進参加者の外形的行為を目して、或はわざと行進者の行動をみだしてまで形式的に条件に違反した行為があるとして「所要の措置」という名目で集団行動者の表現の自由を禁圧するために恣意的な実力行使ができるのである。
[8] これは極めて重大な憲法第21条の侵害である。

[9]五、次に「条件違反」に対しては警察権力が、集団行動に介入し警告、制止、又は所要の措置をとりうるということは前記「条件」なるものの内容解釈、その条件違反の判定がすべて警察権力にゆだねられている点において適法手続を規定した憲法第31条に違反していることは明らかであるし、条件違反に対して刑罰を科することを定めている点は、条件の設定が極めて曖昧になされ、いわば、取締官憲の都合のよいように定められることが必定であることから、これは白地刑法を禁止している憲法第31条に違反するものである。

[10]六、以上のごとく、京都市条例の条件附与の点における規制は違憲の疑いがあるのにこれが合憲を前提として秋月巡査の写真撮影行為を適法な採証活動だとする第一、二審判決の論旨は根本的にあやまつているものである。

[11]七、即ち、原判決が、かゝるあやまれる観点から論じている不当な点を指摘してみよう。
[12](一)原判決は京都市公安条例は第1条及び6条で「公衆の生命、身体、自由又は財産に対して直接の危険を及ぼすことなく行われるよう」にするため条件を附して集団行進等を許可するものだとしているが原判決が判示するこの条件なるものは「行進隊列は4列縦隊とし、一隊の人員はおゝむね200名を限度で編成し、各隊列間の距離は約20メートルを保つこと」等いさゝか枝葉末節にわたりすぎることを規定している。とくに行進の順路等は細をうがちすぎ行進者の行為をがんじがらめにしばつているとさえいゝうるものである。
[13] しかるに原判決はかゝる附与された条件の当否を問題にしようとする態度もない。あたかもかゝる条件は必要なのか不必要なのか何ら検討する余地もない最高のものとさえ考えているようである。そして、このような苛酷な条件をつけられている集団行進に対して、これが違反はないかとうかがつて終始監視をしている警察権力の行動に対してこれまた当然のごとく何らの考慮を払う形跡も見受けられない。これは国民の自由権を軽視しその侵害に対して無関心である態度であり、原判決のあやまりの根源をなしているといわねばならない。
[14](二)次に、原判決は被告人が「許可条件」を熟知していなかつたので被告人を含む行進者がこれに違反して左折すべき地点で左折しなかつたのでその地点に待機していた警察官隊に押しもどされ、デモ隊は混乱状態になつたと判示しているが、参加者(責任者と判決ではいつているが、かゝる用語は右公安条例中にはない)たる被告人等としては「条件」を熟知する義務はないのであるから(また公安委員会に於ても参加者に「条件」をすべて告知してはいない)参加者に「条件」をわきまえるよう要求しているがごとき原判決の立場なるものは当然責任なきものに責任をはじめから帰せしめようとするものといわなくてはならない。けだし、義務違反を問われうる者は主催者(許可申請義務者)にすぎないからである。
[15] しかも、原判決によるも前記のごとき「条件違反」なる行為は、集団行進の参加者が敢てこれを行つたものではないことをうかがうに十分であるのに、これに対して何故直ちに待機の警官隊からの実力行使がなされねばならなかつたかも重大な問題だといわねばならない。
[16] 右実力行使が、唐突に激しく行われたことは原審弁護人の控訴趣意書第一点の三に記載されているとおりである。
[17] この地点にあらかじめ警官隊が配置され待機の姿勢にあつたということは、公安条例による一切の規制が警察権力によつてはじめから一手に担当掌握されていることを意味する。しかも秋月巡査ら私服はすべて警備係である。この公安警備警察なるものがいかなる実体をもつものかは既に公知の事実であるが、戦前の特高警察と同じように大衆運動の取締を明確な任務とする政治警察の機能をいとなむものである。警備公安警察の特長の第一は機構と警備における軍隊化であり、大衆運動の鎮圧をめざす「機動隊」を中核とした所謂公安の維持実力で実現することを主要任務とする。第二には特高的性格であり、労働組合、民主団体からの情報収集スパイ活動を主要任務とする。この面の活動の実態は既にわれわれの目にも明らかにされている。
[18] かゝる国民を敵視した警備公安警察の任務から当然公安条例による規制措置は、それが、政府の施策に対する反対の意思表示たる集会やデモに対し警察権力のあからさまな取締りを本質とするのである。従つて本件における警察官隊の実力行使も不必要な暴挙さにみちている。それは公衆の安全などという見地をはなれたあからさまな行進自体に対する干渉と抑圧を本体としているものといわなければならない。公安条例による条件附与とその規制は、このように権力による国民に向けられた不法不当な政治的抑圧の手段以外の何者でもない機能をになつている。かゝる実態を考慮に入れようともしない原判決の態度は、公安条例のおそるべき違憲性をことさらに無視するものであり、警察官憲の不必要にして不法不当な行為に対する考察をすべて避けて警察官の行為であれば、これをすべて適法な職務行為視しようとする盲目的な立場につながつているといわなくてはならない。
[19](三)さらに又、原判決は集団行進に「条件違反」があれば直ちに警察官による犯罪の捜査ができるとしているが、公安条例第9条第2項によると「条件違反」の場合これが処罰の対象者となつているものは主催者、指導者又は煽動者のみに限られているから、一般参加者は犯罪の対象者ではないが、右主催者以外の指導者、煽動者なる概念もまことに曖昧である。例えば本件の被告人のごときは先頭部にいたことや立命館大学学生隊の責任者であるといつているが、それならば、被告人は指導者だというのか煽動者だというのか原判決からしてもこれをうかゞい知る余地はない。それはとも角、原判決は秋月巡査は犯罪があると思料して、捜査のために写真撮影をしたというのであるが、右犯罪なるものは「違法なデモの状態」および「違反者の確認」のためだという。しかし、かゝる違法なデモの状態なるものは前述のとおり形式的外形的にいえば、いついかなる場面に於ても行動しているデモの状態には「条件」が前述のごとく不必要なまでに細かな規定をしていることから形式上は何らかの違法をなしているものとの口実がつけうることになろう。
[20] 即ち、デモにおいては、終始これが警察の規制の対象となり犯罪捜査という名目さえつければ、いついかなる写真撮影もこれが不適法なる場合はなくなるという結果になり、警官による写真撮影はとりほうだいという状態になるのである。

[21]八、以上のごとく、原判決は京都市公安条例が適法であるとの前提にたつたことからこれが実施についての警察の措置、行動をすべて頭から合法視して、少しも厳密な検討をなそうとする態度が見受けられない。原判決の判示すべてから考えて、この原判決の態度は、京都市公安条例について何らの真摯な検討をなさず国民の自由人権に対する考慮を欠いた結果といわねばならないし、何よりも京都市公安条例のおそるべき違憲性に目をふさいでいる結果である。
[22]一、次に秋月巡査が集団行進の状況を写真撮影した当時集団行進者の側には何らの許可条件違反の事実はなかつたのに第一、二審判決は、本件の許可条件のある点につき外形的には違反していたといい、これを極めて実質的に考察していない。

[23]二、即ち原判決は違法なデモの状態だというのは右秋月巡査が写真撮影をした時点に於ては、単にデモの先頭部分が7、8列縦隊となり車道の中央部を行進したという二点の外形的行為を指摘するにすぎないものである。しかしながら証拠を検討すれば当時隊列は整然として行進していたし、先頭部には列外に指導者レポーター、シユピレヒコールをやるもの等がいたので正確な4列縦隊ではなかつたというだけである。仮に原判決のごとくだとしても実質的には違反状態とはいえない程度のものである。かゝる場合これを目撃した警察官のとるべき措置としては何が必要最少限のものかを考察すべきである。けだし、警察力の行使には常に、人権を無視しないことが要請されるものであり、単に外形的行為のみで軽々に決し、行動すべきではないのである。特に、本件秋月巡査はその当否はともかく本件行進を当初より視察していたものであつて、その経過なりゆき等については一貫してこれを現認しており、自己のなすべき行為の必要相当な行為は何かを判断できた筈であるからである。
[24] 即ち、原判決は、本件行進の条件が、道路上の行進経路について、ことこまかな内容をもつていたことを判示している。かゝる詳細な条件が何故に必要であつたろうか。そしてまた、行進が左折すべき地点を左折しようとしなかつたと警官隊に判断され、「所要の措置」の名目の下に不必要な実力行使を受け、行進者は混乱した結果隊列がみだれたけれども、これが次第に被告人の指示等により回復されていたのである。何か、この回復が断絶したとか新たな違反行為が行われようとした形跡もないのである。従つて本件場所でこの時点に何故秋月巡査の写真撮影がなされる必要があつたのだろうか理解にくるしむところである。むしろ右時点ではデモの外形的な違反行為は次第に整然たる行為に回復しつゝあつたのであり、殊更これを違反に問われる余地はなかつたことは明らかである。これを秋月巡査が知らなかつた道理はない。秋月巡査の写真撮影はかくのごとく不必要、不法なものであつた。
[25]三、しかるに原判決は単に写真撮影の時点における外形的面のみをとりあげ「司法警察職員は犯罪があると思料するときは、犯人及び証拠を捜査することができるのであり、任意捜査である限り裁判官の令状を必要としないのである」という。しかし、実質的にみて、そこには犯罪捜査、証拠収集の必要性のなかつたことは前記のとおりである。
[26] しかも秋月巡査は至近距離(5米内外)からデモ先頭部の写真をとつたのである。これは明らかにデモの状況を対象としたのではなく人の顔写真をとるべくねらつたものである。これはその撮影の目的が原判決がいうところも別であつたことを物語る明らかにデモ参加者の顔写真をとるというスパイ的情報収集活動だといわなくてはならない。これはあからさまな人権の侵害そのものである。秋月巡査は、犯罪捜査を名目とするけれども、それが根拠のないことは以上のところから明らかであつて、明かに職務行為の範囲を逸脱した行為をなしたものでありこれをみとめなかつた第一、二審判決は重大な事実の誤認、法令違反をなしたものである。

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