議員定数不均衡訴訟 参議院合憲判決(昭和39年) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上告審判決 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
選挙無効請求事件 最高裁判所 昭和38年(オ)第422号 昭和39年2月5日 大法廷 判決 上告人 (原告) 越山康 代理人 渡辺明 外3名 被上告人(被告) 東京都選挙管理委員会委員長 代理人 鎌田久仁夫 外3名 ■ 主 文 ■ 理 由 ■ 裁判官斎藤朔郎の意見 ■ 上告人の上告理由 ■ 更正決定 本件上告を棄却する。 上告費用は上告人の負担とする。 [1] 憲法43条2項は「両議院の議員の定数は、法律でこれを定める。」とし、同47条は「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。」と規定する。すなわち、憲法が両議院の議員の定数、選挙区その他選挙に関する事項については特に自ら何ら規定せず、法律で定める旨規定した所以のものは、選挙に関する事項の決定は原則として立法府である国会の裁量的権限に委せているものと解せられる。従つて、国会は法律を以つて、参議院の選挙区を全国区と地方区とに区別すること、また、これらの区別を廃止することも、更には地方区の議員を各選挙区に如何なる割合で配分するかということ等を適当に決定する権限を有する。そして、憲法14条、44条その他の条項においても、議員定数を選挙区別の選挙人の人口数に比例して配分すべきことを積極的に命じている規定は存在しない。 [2] もとより議員数を選挙人の人口数に比例して、各選挙区に配分することは、法の下に平等の憲法の原則からいつて望ましいところであるが、議員数を選挙区に配分する要素の主要なものは、選挙人の人口比率であることは否定できないところであるとしても、他の幾多の要素を加えることを禁ずるものではない。例えば、憲法46条の参議院議員の3年ごとの半数改選の制度からいつても、各選挙区の議員数を人口数に拘らず現行の最低2人を更に低減することは困難であるし、その他選挙区の大小、歴史的沿革、行政区画別議員数の振合等の諸要素も考慮に値することであつて、これを考慮に入れて議員数の配分を決定することも不合理とはいえない。前述の如く議員定数、選挙区および各選挙区に対する議員数の配分の決定に関し立法府である国会が裁量的権限を有する以上、選挙区の議員数について、選挙人の選挙権の享有に極端な不平等を生じさせるような場合は格別、各選挙区に如何なる割合で議員数を配分するかは、立法府である国会の権限に属する立法政策の問題であつて、議員数の配分が選挙人の人口に比例していないという一事だけで、憲法14条1項に反し無効であると断ずることはできない。そして、現行の公職選挙法別表2が選挙人の人口数に比例して改訂されないため、不均衡が生ずるに至つたとしても、所論のような程度ではなお立法政策の当否の問題に止り、違憲問題を生ずるとは認められない。従つて、論旨は採るを得ない。 [3] よつて民訴396条、384条、95条、89条に従い、裁判官斎藤朔郎の意見があるほか、裁判官全員一致の意見により主文のとおり判決する。 [1] 多数意見が、各選挙区に如何なる割合で議員数を配分するかは、立法府である国会の権限に属する立法政策の問題であるとしている点は、私にも異論がないところである。しかし、多数意見が、現行の公職選挙法別表2が選挙人の人口数に比例して改訂されないための不均衡が所論のような程度ではなお立法政策の当否の問題に止るとして、例外の場合すなわち、選挙区の議員数について選挙人の選挙権の享有に極端な不平等を生じさせるような場合には違憲問題が生じ、したがつて右別表の無効を認める場合のあることを示唆している点に、私は危惧を感じる。 [2] いわゆる砂川事件の大法廷判決(昭和34年(あ)第710号同年12月16日、刑集13巻13号3225頁)が「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて」といつているのも同様な考え方であると思うが、ある事項を原則的には裁判所の司法審査の対象から除外しながら、例外的にはその事項につき司法審査のおよぶ場合のあることを留保していることは、司法権の権威を守り、裁判官の職務に忠実ならんとする熱意の現われというべきものであつて、それは延いて国民の基本的人権の擁護に奉仕するものである。この心構えが、裁判官にとつて必要なことはいうまでもないが、実際問題として、そうすることによつて果して所期の如くに司法権の権威を高め、国民の信頼をえることができるであろうか。私は、この点を再考してみる必要があると思うのである。アメリカ合衆国最高裁判所が1962年3月26日にしたBaker V. Carr事件の判決についているフランクフルター判事の長文の少数意見を通読して、その感を一層深くした。(以下の記述のうちで、「」をもつて表示してある部分は、同判事の意見またはその引用の先例中の文句を意訳したものである。) [3] 「財力も武器も持たない裁判所の権威は、最終的には、国民の道義的な信頼によつて支えられているのである。そのような国民感情を培養するには、裁判所は、事実上も外観上も、政治的紛争から完全に離れること、政治的決定に際しての政治的勢力の衝突の渦中に身を投じないことが必要である。」司法審査の門戸を広げるだけでは、司法権の権威を必ずしも高めることはできない。司法審査の範囲を拡大するよりも、「司法権の効果的な実行に内在する本来的な限界」を守つていくことの方が、むしろ肝要であらねばならない(拙稿・法と国家権力、法哲学年報1955年16頁参照)。 [4] 選挙区別の議員定数を決定する要素は、多数意見も説示しているように、選挙人の人口比率以外の幾多の要素をも包含している。そして、それらの諸要素を考慮に入れて判断するには、「司法的判断のための満足すべき基準」がないということに、留意しなければならない。フランクフルター判事は、 「かかる問題の決定権を裁判所に与えることは、裁判官に神の力を与えようとすることである。」とまで極言している。 「わが憲法の下では、すべての政治的な過誤や立法権の望ましからぬ行使に対し、常に司法的救済が与えられるものとは限らないということを、卒直に認識しなければならない。」「民主社会においては、国民の代表者の良識を呼びさます国民の良識に、救済を求めるより外はないのである。」ということで満足すべき場合もあるのでないだろうか。 [5] 多数意見は、選挙区の議員について選挙人の選挙権の享有に極端な不平等を生じさせるような場合、といつているが、具体的に如何なる事態を指すかは明瞭でない。おそらくは、将来においても、この場合に該当するとして選挙が無効とされるようなことは、容易に起るまいと思う。私は、世論の力、立法機関や行政機関の良識を、もつと信頼してよいのでないかと考える。明確な基準のない場合に、判決で違憲とすべき場合のあり得ることを約束してみても、それに当るものとして提起される訴訟は、基準に達しないものとしてすべて排斥されてしまうのではなかろうか。それでは、「将来を約束する言葉の響きを与えながら、期待をふみにじる」結果になり、かえつて国民の司法に対する信頼を裏切ることにならないかを、私は危惧する。 [6] かりに、公職選挙法別表2が憲法の平等条項に違反することによつて、選挙が無効と認められた場合には、如何なる事態が発生するかを考えてみるに、「その究極の結果は、国民から現在の立法機関を奪つてしまい、しかもそれに代る新しい立法機関を選出する方法もなく、ついに国家の機構の破滅を招来」しかねない。参議院の半数改選議員の選挙が全部無効となるような事態が発生すれば、国会の機能は全く停止されてしまうであろう(国会法10条参照)。 [7] そもそも、公職選挙法204条の訴訟は、本来は、選挙の管理執行上の過誤を是正することを目的とする制度であると考える。さればこそ、右訴訟の結果による再選挙は、これを行うべき理由が生じた日から40日以内に、行わなければならないとされている(公職選挙法109条4号、110条2項、34条1項参照)。本件別表2が違憲無効と認められる場合に、果して40日という短期間内に、別表の改正が行われることを、期待できるであろうか。それができなければ、無効の選挙をくり返えしていくより仕方がない。右204条の規定を合理的な範囲内で拡張解釈することは差し支えないとしても、国会と裁判所との間において、裁量判断にくいちがいの生じるおそれの多分に存する問題についてまで、司法的解決を与えんとすることは、拾収すべかざる混乱を招来するものと思う。かように考えてくると、右204条の訴訟で、本件事案におけるような請求を求めることの合法性に、私は強い疑問をいだく。 (裁判長裁判官 横田喜三郎 裁判官 入江俊郎 裁判官 下飯坂潤夫 裁判官 奥野健一 裁判官 石坂修一 裁判官 山田作之助 裁判官 五鬼上堅磐 裁判官 横田正俊 裁判官 斎藤朔郎 裁判官 草鹿浅之介 裁判官 長部謹吾 裁判官 城戸芳彦 裁判官 石田和外) [1] 当上告人が原審において本件選挙(昭和37年7月1日に行われた参議院地方選出議員選挙を指す。以下同じ。)を違法なりと主張したのは、要するに、本件選挙時において、公職選挙法別表第2が規定する各選挙区の議員定数と選挙人数との間には著しい不均衡が存在したが、これは同表が選挙権の行使について、何らの合理的根拠なく、一部の国民を甚しく有利に、他の国民を甚しく不利に取扱うよう規定していたことになつて憲法14条1項の規定に違反する無効の法令であつたことを示すものであり、従つて同表に基いて行われた本件選挙は違法であるというのであつた。しかるに原審は、右の不均衡の存在およびそれが憲法14条1項に関連する問題であることを認めながら、結局、同表は憲法14条1項に違反するものではない旨判示したのであつた。これは、右の不均衡に対する正当な認識に基く法的評価および憲法の右条項の規定の解釈、さらには憲法の基本的理念の把握を誤つたことに基因するものといわなければならない。当上告人は、以下において原判決の誤を指摘しつつ、従来の主張を理由づける。 [2]一、原判決は、わが「憲法は必ずしも議員定数を選挙区別人口に比例して配分することを要請しているものではない」とし、その理由として、その旨の規定が設けられていないことおよび憲法43条2項、47条が議員定数、選挙区その他両院の選挙に関する事項を法律で定むべき旨規定していることを挙げたのであつた。(註2)しかしながら、国民の代表者(国会議員)を人口に比例して選出すべきことは近代民主政治の基本原理であつて、単にその旨の文言を含む規定の存否というがごとき形式的理由によつて排斥され得べき事項ではなく、また憲法43条2項、47条の各規定についても、それが憲法14条1項の規定に反する法の定立を許容したものと解さざる限り、(註3)これまた人口比例の大原則を否定する論拠とは到底なり得ないといわなければならない。否、人口比例の原則はわが憲法の条文からも容易に導出し得るものであつて、所謂「国民代表制」(註4)を採用したわが憲法下の参議院議員についても、そのまま妥当する原則である。 [3]二、憲法14条1項は、民主主義的・個人主義的理念に照らし合理性のない差別は、単に「法の適用」の面においてのみでなく、「法の定立」の面においても、また、同項後段に列挙されていない事由によつても、一切、これを禁止する趣旨を宣明している。(註5)従つて日本国民は、右の意味で合理的と認め得る場合を除き、他と全く差別されることなく平等の立場で選挙権を行使することを保障され、立法府が選挙に関して恣意的な法を定立することは全く許されないのである。しからば、憲法14条1項は選挙に関して如何なる具体的内容をもつものであろうか。われわれは、ここで「選挙の歴史は近代民主政治のそれでもある」という言葉に想いを致そう。まこと、選挙権の「資格要件」の平等に関する、「普通選挙」の獲得、「投票の数」に関する「複数投票制」の克服の過程は、ともにそれを如実に物語つて余りあるものである。しかしながら、選挙に関する平等は、単に右の2つに関する平等のみによつては、すなわち、さらに各選挙人の「投票の価値」の平等が確立されない限り、実現され得ないものである。けだし、各選挙人に1票づつの投票権を与えながら、ある者の1票が他の者の数票に相当する価値を有する場合には、そのある者に数票、他の者に1票の投票権を与えたと全く同一の事態を招来することになるからである。かくして、憲法14条1項が選挙について要請する「平等」選挙は、「投票の価値の平等」を、従つて議員定数が人口に比例するよう配分されるべきことをも当然に意味するものと解さなければならない。よつて、この点における原判決の誤りもまた明白といわざるを得ない。 (註1) 立法技術としては人口を基礎とする方法と選挙人数を基礎とする方法の2つが有り得る。代表民主主義の理論から厳密にいえば、後者が正当であるといわざるを得ないが、人口と選挙人数とはほぼ近似的割合を示すのが一般の社会現象であることを思えば、この点の議論は、有選挙権者が特定の選挙区に偏在するがごとき特別の事情がない限り、さして実益あるものではない。従つて、以下の論述における両者の関係も、右の特別事情のないわが国の事情を前提としたものである。[4]一、原判決によれば、「もし法律の定めた議員定数の配分が、選挙区別人口の割合に比し著しく不均衡であり、その不均衡が一般国民の正義観念に照らし到底その存在を容認することを得ないと認められる程度に至」つて、はじめて、その法律は憲法14条1項の規定に反するものとなるというのである。しかして、この見解は、ある意味においては、本件が従来のわが裁判例に現れた憲法14条1項の規定に関連ある数多の事案のいずれとも異なつた、謂わば特異な事案であること(註1)を示唆するものとして、その限りにおいては大いに参考とすべき点がないではないが、しかし、そこに設定された抽象的基準は、本件の事案について憲法14条1項を、さらには憲法の基本的理念を正解したものとはいい得ない。 [5]二、選挙に関して「投票の価値の平等」といい、また「議員定数人口比例の原則」といつても、選挙「制度」として非合目的的・非実践的なものが要求されるわけではない。全国をいくつかの選挙区に分つ以上、各選挙区の人口または選挙人数がつねに整数比を示すことは期待できない。従つて立法にあたり、端数処理という技術的な理由から若干の不均衡が選挙区別の議員定数と人口または選挙人数との間に生ずることは避け難い。また、人口の変動に伴う各選挙区の選挙人数の変動に対して、立法府は、あるいは議員定数に、あるいは選挙区割に改訂を施すなどの措置を講じ、もつて選挙区別の議員定数と選挙人数との間に発生した不均衡を是正するための真摯な努力を払うべきであるが、予見不能の突発的人口の増減、国勢調査に要する費用と労力など、その時々、それに対処すべき国家的能力を考慮に入れれば、ある特定の選挙時に不均衡が存在したという一事のみによつて、立法府の不作為がつねに必ず違法の評価を受けねばならぬものでもなく、また当上告人は本件でそのような立法府の不作為の違法自体を言為するものでもない。 [6] しかしながら、選挙権、就中国会議員選出のそれは、主権在国民のわが憲法下においては、国民にとつて最も重大な基本権の一つであるから、選挙区別の議員定数と選挙人数との間の不均衡、すなわち「投票の価値」の不均等を許容し得るものとしても、そのよつて生ずる理由は何人にも首肯せられ得べき真にやむを得ないものでなければならないのみでなく、その程度には自ら一定の限界が存在するものというべく、その限界を超えた不均衡を是認する法令は、その不均衡を生ぜしめた原因の如何を問わず、選挙という重大事の公正を担保し得ないもので、憲法の平等原則に違背するものとして当然無効の評価を受けるべきものと考えなければならない。 [7]三、原判決が選挙区別の議員定数と選挙人数との間の不均衡が許容され得る理由について、それが専ら立法府の裁量事項であるかの如くに説く点が誤りであることは(註2)以上によつて明らかであるが、本件に関する限り、その誤りは必ずしも致命的とは思われない。けだし、本件選挙時において存在した選挙区別の議員定数と選挙人数との間の不均衡は、立法府のある特定の意図の下における積極的立法行為によつてではなく、専らその後の人口の変動およびそれに対する立法府の不作為によつてもたらされたものである。すなわち、現行公職選挙法別表第2は同法の前身たる参議院議員選挙法(昭和22年法律17号)の別表をそのまま継受したもので、当時の国会審議録によれば、右参議院議員選挙法別表は、選挙区割については、既存の行政区劃たる都道府県をそのまま用い(行政区劃主義)、議員定数の配分については、地方選出議員総数を150としたうえ、当時最新の国勢調査に基く全人口をその150で除して得た数で、各選挙区の人口を除して得た数を、各選挙区の議員定数を偶数とするとの前提の下に、四捨五入的手法を用いて整数化するという操作(一種の人口比例主義)によつて作成されたもので(註3)、議員定数の配分に関する限りにおいては、議員定数人口比例という憲法上の大原則――この原則によつて、選挙区の大小、歴史的沿革などを考慮した議員配分が許されないことについては註2参照――からあながち遊離したものではなかつたのであるが、その後の人口の大幅な変動就中世界的傾向たる人口の大都市集中化の事態に対して、無慮16年の永きに亘り、立法上の改訂が加えられなかつたことによるものであるからである。(従つて、昭和22年4月に行われた第1回選挙以来、第6回目にあたる本件選挙まで計6度に亘つて、その名称に変化はあつたにせよ、現行別表第2と同一内容の議員配分規定が適用され続けてきたのである。)従つて、ここでは、議員配分を規定する法令の憲法適合性が、いかなる理論によつて、またいかなる基準によつて決定されるべきかについて、その配分によつて選挙区別の議員定数と選挙人数との間に生ぜしめられる不均衡を許容し得る限界という観点から論ずることとする。 [8] この点について、原判決は「一般国民の正義観念」なる語を用い、それ「に照らし到底容認され得ないと認められる程度」を憲法適合性の限界基準としたのであつた。まず、「一般国民の正義観念」なる語の意味内容自体必ずしも明確でないが、そこで用いられた基準がかなり緩やかなものであることは何人も否定しないであろう。憲法問題についてかような、謂わば一見緩やかと解される基準を用いる例は、アメリカ合衆国最高裁判所の裁判例にないではない。しかしながら、それはいずれも州の法令が連邦憲法に違反するや否やという事案においてであつたことを見逃してはならない。アメリカにおいてはその国家構造上、州の自主性が尊重され、従つて「州の立法」に対する連邦最高裁判所の立場は「連邦の立法」に対するそれとは自ら異なつたものたらざるを得ないのである。(所謂ダブル・スタンダードの理論)従つて原判決が右の例にならつてかかる緩やかな基準を設けたものであるならば、その不当は多言を要しないところである。ついで、最も重要なことは、前にも触れたごとく、本件で問題となつているのは近代民主政下の国民にとつて最も重大な基本権の一つたる「選挙権」の「平等」であるということである。成程、違憲法令審査権の発動は、それが三権分立の大原則を破るものといい得るだけに慎重になされなければならない。しかしながら、違憲法令審査権発動に慎重であるのあまり、憲法適合性の理論的枠組をいたずらに拡げるようなことがあつてはならない。けだしそのような事態はやがて司法権の、否憲法自体の自壊を招くことになるからである。さらに、原判決の所謂「一般国民の正義観念」なる語は一体いかなる意味内容を盛られたものであろうか。日本国民特有の正義観念なるものを想定し、それを指すというのであろうか。あるいは、ある国民もしくは国民団体が現に抱懐している正義の意識・感覚を指すというのであろうか。差別なり不平等なりが憲法上許容され得る理由として、合理性を挙げようが、はたまた正義観念を援用しようが、憲法の基本的原理が主権在国民の民主主義にある以上、それらは民主主義的合理性、民主主義的正義を意味するものと考えなければならない。従つて、もし日本国民に特有の正義なるものを観念し得るとしても、それが憲法の予定する民主主義的正義と異なるものであるならば、そのような独得の正義観念を基準とする憲法解釈は到底正当とはいい難い。また後者についていえば、われわれは憲法「規範」違反を問題としているのであつて、憲法規範が現実において国民一般の憲法意識・感覚に充分支えられているかどうかはもちろん、ある国民もしくは国民全体が現に抱懐している憲法「意識」「感覚」違反を論じようとしているのではないから、「ある者」の抱懐する法意識・法感覚はそれを「一般国民」のといい換えただけでは問題とはならないはずである。けだし、憲法解釈の基準としてただちに社会的(心理的)事実を持ち込むことは、事実に適用すべき法の内容は何かという正になさるべき究明を放棄するものであつて、法の解釈としては逆立ちした論理といわなければならないからである。(憲法典自体特定の憲法意識の所産ではある。また、総じて実定法が「規範に形成された存在」としてばかりでなく「存在に制約された規範」として機能するものである以上、実定憲法典の解釈に「存在制約性」(Seinsgebundenheit)の作用する余地を認めないわけではない。)そこでわれわれは、原判決の所謂「一般国民の正義観念」とは憲法の予定する「民主主義的正義観念」と同義に用いられたものと善解して論を進めることとする。 [9]四、さて、選挙区別の議員定数と選挙人数との間の不均衡が憲法上許容され得る限界基準としての「民主主義的正義」とはいかなるものをいうのであろうか。「人格の価値がすべての人間について平等」であるというのが憲法14条1項の規定の趣旨であるならば、(註4)少くとも1人に他の2人分以上のものを与えることは均分的正義に反し許されないといい得るかとも思われる。だが、この論議はいささか大ざつぱにすぎるようでもある。われわれは結論を急がず、ここで、民主主義に立脚し、従つて憲法に平等条項をもつている諸外国に目を転じよう。そこにおける選挙制度の実態や選挙権平等に関する裁判例・学説等を瞥見することがわれわれの結論を導く「道しるべ」として大いに有益と考えるからである。まず、永い間この問題について苦しみ続けてきたアメリカでは、1人に他の2人分以上のものを与えるのは許されない不平等だという単純ではあるが当然かつ多分に示唆的な発想から「投票の価値」の比「1対2」(2 to 1 ratio)が平等条項に対する適否の数理的基準として挙げられる(註5)一方、いずれの1票の価値も理論上適正な1票(the ideal or perfect vote)の価値の上下20パーセントの枠内にあること(註6)(上限下限の比という点では1対1.5にとどまることに注意)とか、補充的に、過半数議員を選出するに必要な最少選挙人数が全体の40パーセントを降らないこと(註7)などが右と同じ点に関する基準として提唱されている。ついで、イギリスおよびオーストラリヤでは完全平等(perfect equality)に一歩でも近づこうという立法的努力が次第に実りつつあり、ことに後者では(The Australian House of Representativesにつき)1票の価値比の上限下限が1対1.5、過半数選出可能の最少選挙人全国百分率は48.3パーセントに達したことが報告されている。(註8)さて、右から学んだ点を考慮したうえ、われわれが設定すべき数理的基準の目安として次の3つのシエーマを用いて過去6回の選挙の実態を分析してその間の推移を考察しよう。ここで3つのシエーマとは、 (1) 最も有利な選挙区の1票と最も不利な選挙区の1票との比較 (2) 当該選挙区における1票の価値が理論上適正な1票の価値の上下3分の1の枠外にはみ出す選挙区の数、その同時選出議員数、選挙人数と百分率 (3) 同時選出議員の過半数を選出するに要する最少選挙人数の全国百分率 であり、分析に用いた基礎計数はいずれも自治省選挙局発表の統計資料によつたものである。 (註1) 本件は、まず、後に述べるごとく立法後自然に発生した差別である点、ついで特定地域の住民という地域に関係づけられた差別である点、さらには上告人自身の権利の侵害が問題とされない所謂民衆訴訟である点に特徴があり、従来の最高裁判所の裁判例中、ある法令が憲法14条1項に違反するか否かが争われた事案にこの種のものはない。たとえば、地方公共団体が各別に条例を制定する結果、地域による差別が生じた場合に関する最判昭和33・10・15刑集14・3305なども、結局第三の点の相違によつて、本件に役立つ理論を直接には提供しない。[10]一、次葉に示す表一から過去6回の選挙の実態をふり返つてみよう。昭和22年4月選挙においてすらシエーマ(1)の関係では1対2を超えてはいるが、シエーマ(2)および(3)の関係でこれを敢て違憲と評価すべきではなかろう。また昭和25年6月、28年4月、31年7月の各選挙については、時を経るに従つて不都合な点が目立つてきたといえるがこれまた違憲とは評価し得ないであろう。しかし、昭和34年6月選挙については事情がかなり異なつたと判断しなければならないであろう。すなわち、シエーマ(1)の関係では1対3.5を超え、シエーマ(2)の関係でも枠外に全体の20パーセントを超える選挙人が存在したことになり、さらにシエーマ(3)の関係において遂に40パーセントを割つたからである。おそらくこの結果を積極的に違憲と判断するためには大きな苦労が必要だつたのではなかろうか。しからば、本件選挙はどうであろうか。まず、シエーマ(1)の関係では1対4.1であり、同(2)の関係で全体の40パーセントに近い選挙人が枠外にはみ出している。さらにシエーマ(3)の関係はより悪化している。 [11] 原判決はかかる実態を認識しながら、なおかつ民主主義的正義に反した不均衡にあらずと強弁するのであろうか。右のシエーマ(2)などが現時の民主主義諸国間ではむしろ緩やかにすぎる程の尺度によつたものであることはすでに明らかなところである。してみれば原判決が民主主義的正義に反しないとした判断は、結局において憲法14条1項の解釈を誤つたものといわなければならない。しかしてその誤りが原判決の結論を左右するものであることも明白である。 (表一)
B 全国選挙人総数を議員総数150で除したもの C 最も有利な取扱を受けた選挙区名とそこでの票値 D 最も不利な取扱を受けた選挙区名とそこでの票値 E 票値133.3を超える選挙区の数と同時選出議員数および選挙人数合計 F 票値66.7未満の選挙区の数と同時選出議員数および選挙人数合計 G 同時選出議員数の過半数を選出するに要する最少選挙人数の全国百分率 なお、「票値」とは「理論上適正な票」(Bで1名を選出し得る選挙区の票)の価値を100とした場合における当該選挙区の1票の相対的価値をいう。 [12] 最後に、当上告人は、本書面末尾添付の「原告準備書面(第二)抄」と題する書面の内容をここに引用してその主張を補充する。 [13]一、そもそも民衆訴訟とは、国民が公人としての立場から国または公共団体の法規の適正な執行を監視するという目的に奉仕する制度である。しかして、公職選挙法所定の選挙無効請求訴訟は、この意味において正しく民衆訴訟に属し、選挙管理執行機関の選挙法規に適合しない選挙管理執行行為を是正するために設営された制度であつて、同法第205条第1項の、選挙が「選挙の規定に違反し」という要件は違法な選挙管理執行を意味するものである。この点について、原告は準備書面(第一)において、選挙管理執行の「手続」規定違反に限られないと主張し、これに対して被告は、本年10月24日付準備書面において、若干の判例を引用して反論したのであつた。思うに、選挙を一連の行為より成る「手続」と目し得る限度において、この点に関する論争は単なる用語上のものに堕し、実り少い論議を惹起するにすぎない。けだし、被告援用の判決例をつぶさに検討するならば、判例の「手続規定に関する」とは、精々、選挙運動の取締規定もしくは選挙罰則に関する規定を除外せんとする趣旨のものにすぎないのであつて、選挙管理執行行為につき「管理側」に瑕疵が存在する場合は当然に右要件を充足するものと解すべきことは右にみた民衆訴訟としての性格に徴し疑いを容れないところであるからである。さらに、このことは、被告自身が答弁書において援用した東京高等裁判所判決(本年4月18日)が本件類似の点について、本案に立入つて判断していることからも充分に首肯し得るところである。従つて、論議の核心は専ら管理執行の違法性に存することは明白である。この点について、被告は行政機関の法令忠実執行義務を根拠に、管理執行機関が執行法令を形式上遵守する以上管理執行に違法はあり得ないと説くかのごとくであるが、これは憲法第73条第1号の字句のみに捉われ大なる過ちを犯すものである。けだし、憲法第98条第1項によれば憲法に違反する法令は無効のものであつて、違憲法令を忠実に執行したという一事のみでは、執行機関の責任問題はさておき、該執行行為を有効と目すべき論拠たり得ないからである。法令執行行為は単に機関執行の執行行為自体に関する過誤によつてのみならず、また被執行法令の違憲無効によつても違法性を帯びるにいたるものであつて、選挙無効請求訴訟が所謂民衆訴訟に属し被告に擬せられた管理執行機関の責任を追及することを目的とするものではないことに想いを致すならば、選挙法令の違憲無効を理由に該法令に基く選挙管理執行行為の違法を「憲法の「選挙に関する規定」に違反する選挙」と主張する本訴請求が、公職選挙法所定の争訟としての事件性ないし争訟性を認めらるべきものであることは一点の疑念だに残さざる事柄である。 [14]二、被告は最高裁判所判決(昭和23年1月17日)を引用したうえ、本件においては公職選挙法別表第2の議員数の改正が行われない限りあらためて選挙を行つても前回と同一の結果になることが明らかであるから、公職選挙法第205条第1項の「選挙の結果に異動を及ぼす虞」は全く存在せず、従つて、訴却下は免れ難いと主張する。よつて原告は、便宜上、本項でその点につき触れれば、ここでもまた、被告は明らかに誤解から出発しているものといわねばならない。けだし、本要件を欠くときをも本案判決に至らざるかのごとくに説く点はさておくとしても、右判例がすでになされた「違法」執行の選挙とこれから行うべき「適法」執行のそれとを比較したことを誤認して、すでに行われた「違法」執行の選挙とこれから行われるであろう「違法」執行のそれとの対比からその結果的同一を論じたにすぎぬものであるからである。右別表第2が違憲無効である限り、同法に基いて執行される選挙は、幾度繰り返されようとも、すべて「違法」執行の選挙たることもより当然であるから、右判例を正当に適用するならば、対比の一方は適憲に改訂された別表に基く選挙でなければならないのである。この点について原告が準備書面(第一)において、多くを論ずるの要なしと述べたのは、憲法に適合するよう改訂された議員配分に基く選挙が本件選挙とその結果において異動を生ずべき虞あるものであることは自明の事項に属するものであつたからにほかならない。要するに、被告の右主張は判例を曲解して被告独自の見解を披瀝したにすぎないものと考える。 [15]一、原告はここで、現行議員配分を定める公職選挙法別表第2が本件選挙において如何なる内容をもつものであつたかを自治省発表の資料に基いて検討して、右別表第2が国民の一部を不平等に取扱つた事実およびその程度を実証したのち、さらに進んで、そこに何らの合理的根拠を発見しないこと、すなわち右別表第2が憲法の平等則に明白に違背するものであることを、立法当時の国会審議録を検討しながら論証する。 [16]二、選挙区毎の議員数と選挙人数との割合に存する歪みの度合は種々の観点から測定可能であるが、ここでは最も一般的な若干の方式を用いる。 (一) 同時選出議員1名あたりの選挙人数の点を考察すると、東京区(議員数4、選挙人数5,923,100)の1,480,525人が最高で、鳥取区(議員数1、選挙人数362,182)の362,182人が最低であり、 (二) 同数の議員を選出するに必要な選挙人数およびその全国百分率の点では、本書面末尾に添付する別紙図表のとおりであるが、同時選出議員の5.33%にあたる4名を例にとると、東京区が5,922,100人および10.54%、鳥取・栃木・山梨3区合計が1,694,582人および3.02%であり、 (三) 同時選出議員の過半数38名を選出するに要する最少選挙人数を算出すると、(註1)21,510,658人(鳥取、栃木、山梨、福井、群馬、奈良、徳島、岡山、熊本、佐賀、滋賀、島根、高知、鹿児島、香川、石川、茨城、長野、富山、和歌山、宮崎、京都、広島、北海道各区合計)で、これは全国選挙人総数の38.32%にあたることが知られる。 [17] しかして、右(一)からは、原告が度々述べてきた国民1人あたりの「投票の価値」ないし「国政への参与力」に1対4.09の差が存在したこと、右(二)および(三)からは前述の歪みが単に東京鳥取両区間のみの問題ではないことをそれぞれ理解し得る。 [18]三、さて、憲法前文および第43条第1項によれば、参議院議員は衆議院議員と全く同様に全「国民」の代表であつて各「府県」の代表者ではなく、諸外国の上院について応々見られるごとき地域代表制はわが憲法の全く認めていないところである。従つて、右国民代表および原告がつとに主張する平等選挙の両原則からすれば、参議院地方選出議員定数の配分は選挙区毎の選挙人数のみを考慮して決定されなければならず、被告が答弁書において主張したごとき選挙区域の大小、歴史的沿革、行政区劃別議員数の振合等の要素を加味することは全く許されないといわねばならない。(もつとも選挙区の決定にあたつて、便宜上、行政区劃を利用することは直ちに違憲とはいい得ないであろう。)ただ、完全に選挙区毎の議員数と選挙人数との割合を一定化することが主に技術的な理由により困難であるから、その限りにおいて生じる不都合のみは制度上已むを得ないものとして合理的に説明し得、従つて当然に許容されるべきものであることはすでに原告において述べてきたとおりである。そこで原告は、右の分析から知られる「投票の価値」に存した1対4.09という較差は如何にしても合理的に説明し得ないと判断するのであるが、その結論を導く前に右別表第2の成立過程を一瞥しよう。 [19]四、右別表第2は現行公職選挙法の前身たる参議院議員選挙法(昭和22年法律第17号)の別表をそのまま受け継いだものである。しかしてその別表は、行政区劃主義と人口比例主義に拠つて作成されたものである。この点をやや具体的に述べれば、選挙区割については既存の行政区劃たる都道府県をそのまま用い、議員配分については地方選出議員総数を150人としたうえ、当時の全人口を150で除して得た数で、各選挙区を除して算出した数を、各選挙区の議員数を偶数とするとの前提の下に四捨五入的手法により整数化するという操作によつたものであつた。(註2)この方法により選挙区割および議員数の配分を決定したことの当否(たとえば、人口差のはなはだしい選挙区を作ること自体平等選挙の観点から充分疑問をさしはさみ得るが)(註3)はさておき、そこで作成された右別表が各選挙区毎の議員数と選挙人数(当時人口を基礎とした点は混乱期のため選挙人数を正確に把握することができず選挙人数と近似的割合を示す人口を利用したものと推定される)の割合を一定化すべしとの憲法上の要請からあながち遊離したものだつたとはいい得ないであろう。しかるに、戦後のはげしい人口の増加・移動にもかかわらず(選挙人数の変化につき昭和22年4月に行われた第1回参議院議員選挙時を100として本件選挙時のそれを示せば、全国総数は137.1、東京区は224.1であり、全国増加の21.6%を東京区が吸収している)立法当初から16年の長きにわたり議員配分の改訂を怠つたため、本件選挙時において既述のごとき憂うべき歪みが発生したのである。なるほど参議院制度には、3年毎の半数改選という憲法上の要請その他議員配当技術上当然に許容されねばならない制約があるであろう。しかしながら、既に見たごとき程度にいたつた一部国民の差別取扱は制度上当然に許容されるべき合理的な限度をはるかに越えるものであつて、到底これを是認することはできないものといわなければならない。(註4)制定時適憲即有効の法令もそれが適用される条件の変化によつて違憲即無効の存在と化し得ることは、かのブランダイス判事の言(註5)を俟つまでもなく、しごく当然のことである。たとえ別表第2がその制定時適憲だつたとしても、少くとも本件選挙時においては違憲無効の評価を受けるべきものであることまた当然である。 [20]一、被告は議員定数、選挙区の是正は、所謂政治問題ないし統治行為に属し、司法審査になじまぬものであると主張する。そこで原告は本訴請求が何ら政治問題ないし統治行為の理論と関連しないものであることを主張論証せんと試みるものであるが、それに先立ちまずその理論につき検討を加えることとする。(なお、本訴は被告の主張するごとき選挙区または議員定数の「是正」もしくは「改訂」そのものを求めるものではない。) [21]二、最高裁判所がかつて「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為」を司法権の審査の及ばぬものと判示した(昭和35年6月8日、ほぼ同旨同34年12月16日いずれも大法廷判決)ことは被告の指摘を俟つまでもなく原告の認めるところである。しかしながら憲法第76条は司法権はすべて独立の裁判所の行うところとし、同法第81条は一切の法律、命令、規則または処分が憲法に適合するか否かを決定する権限を裁判所に与えているのであつて、国家の立法、行政の行為は、それが法律上の争訟となる限りにおいて、原則としてすべて裁判所の司法審査に服すべきものであることは論を俟たないところである。そもそも近代国家における法治主義の原則は、すべての国家行為が法に基き、法に従つてなされなければならないこと、および、すべての国家行為がその点につき独立の裁判所による司法審査に服すべきことを要請する。けだし、かような原則によつてはじめて、前法治国家的な恣意的国家行為を排除し、もつて個人の権利を真に保障し得るからである。勿論、この法治主義の原則は近代諸国家における人権保障の拡充過程において、徐々に形成貫徹されてきたものであつて、現にすべての実定国法において純粋に徹底された形で妥当しているとはいい得ないが、この意味においては、右に見たごとく最も完成した形態において法治国体制を採用したことをその一大特色とするわが憲法下においては、司法審査の限界を劃する右政治問題ないし統治行為は、もし認め得るとしても、その範囲は憲法第81条の明文に徴し、また法治主義の要請に照し最少限度に局限されるべきものである。けだし、憲法に関する多くの問題が多かれ少なかれ政治性を帯びざるを得ない結果、裁判所の違憲審査の制度は、法の支配による正義の実現という所期の目的に反して殆んど有名無実の存在と化することを免れないからである。近時、フランスおよびアメリカの裁判例において所謂政治問題ないし統治行為の概念を狭く限定する傾向を看取し得る(註6)ことは、この間の経緯を如実に物語るものといい得よう。 [22]三、さて、原告は本件において、現行の議員配分が違憲無効なりやの判断を通して本件選挙の無効宣言を求めているのである。なるほど国会議員の選出に関する事項は現実に政治と無関係とはいい得ない。しかし、本年3月26日のアメリカ合衆国最高裁の判決がいみじくも説くように、 「ここで問題にしているのは「政治問題」の法理であつて「政治的案件」の法理ではない。政治的と称される行為が憲法上付与された権限を踰越しているかどうかに関する善意の訴訟を法律上の訴に当らないとして退けることはできない。」(註7)のであつて、あくまでかかる問題は個々の事件の特定な事実および事案の形態について、ケースバイケースな審案が必要なのである。(註10)要するに、所謂政治問題ないし統治行為に関しては十把一からげ的な立論は大きな危険を伴うものである。 [23]四、そこで、被告援用の最高裁判例を検討してみよう。まず昭和34年の所謂砂川事件の審査対象は安保条約の効力である。従つて、そこには国際法と国内法との関係という学説上も対立のある困難な問題が含まれており、その判決には、条約に対する、違憲審査の問題と統治行為の問題という2つの要素が包括されている(この点は奥野、高橋両裁判官の少数意見においても指摘されている。)(註11)のであつて、かかる問題の含まれていない本件とは事案を全く異にするものである。ついで、昭和35年の所謂苫米地事件の審理対象は衆議院の解散の効力である。しかしてその判決は、解散が衆議院の機能を一時的に閉止し、あらたな衆議院、更にあらたな内閣成立の機縁をなすものであると同時に、多くは内閣がその重要な政策ひいては自己の存続の当否を直接国民の総意に問わんとする場合に行われるのであつて、その国法上および政治上の意義は重大であるとの理由により裁判所の審査を拒んだのである。従つて、これまた行為の性質上極めて政治的なものであつて、本件の事案と全く異なることは明らかである。 [24]五、前掲合衆国最高裁判決は 「ある問題が政治問題の範疇に入るか否かを決するにあたつては、裁判所以外の政治部門の行為に終局性を付与することがわが政治機構の中で適切であること、および、司法判断のために満足すべき基準が存在していないことの2つが支配的な要因である」(註12)とし、その他政治問題に関する諸事例の検討を通じて、州議会議員の不平等配分が合衆国憲法の平等条項に反するという本件と全く同様の事案について、上告人のこのような主張が「司法判断の可能な憲法上の請求原因を提起しており、これにより上告人は審理裁判を受ける権利を有する。」と判示したのであつた。(註13)また、連邦議会議員選挙区再編成の問題についてすら、つとに、それが司法判断に適することを確立している。(註14)しかして、これらの判例における精緻な法理は、少くとも同様の事案に関する限り、彼我の法制の相異に全くかかわらない普遍的真理であつて、本件についてそのまま妥当するものというべきである。本件議員配分の問題は、基本的にはいわば算術によつて片づけられるべき事項であつて、現行の不平等配分の程度が憲法の平等則に違反するか否かは政治問題でないことは勿論政治的案件でもありえない。思うに、被告は参議院議員の選挙という事項が政治的な色合いを帯びないとはいい得ない点を把えて本件が所謂政治問題ないし統治行為に該当すると主張するようであるが、違憲違法の選挙が裁判所の司法審査に服すべきことは、それが議会民主制の公正を担保する唯一の途であることから明白であり、公職選挙法の選挙訴訟に関する諸規定もその建前から設けられているものである。 [25]六、なお、前掲砂川事件における最高裁判例は、国家存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有する国家行為も、それが「極めて明白に違憲無効である」と認められる場合には裁判所の司法審査権が及ぶ余地を認めている。これはアメリカの判例法上「政治問題といえども、明白に許されない権限の行使があることがはつきりした場合には、その力を失う」(註15)とされているのと軌を一にするものといい得よう。従つて、本件がかりに高度の政治性を帯びるものと仮定しても、既に本書面第三の二等において論証したとおり本件選挙が違憲無効であることは極めて明白であるから、結局、本件選挙の効力が裁判所の司法審査に服せしめられねばならないことは当然である。 [26] 本件は、少くとも次の2点において、すぐれて重要性を帯びていると思われる。すなわち、その一は「議員不当配分は立法の医術によつては癒すことのできない病いである」(註16)との名言によつて端的に示されるように、こと議員不平等配分の問題は裁判所のみが真に妥当な解決者たり得る点であり、その二は憲法が保障する各種の基本的人権のうちでも最も高度の尊重が払われねばならぬ最も基本的な権利――平等権ないし平等選挙権――が大きく侵害されたという点である。「議員配分に関する事件において司法判断適合性の真の問題は、当事者適格とかイクイテイとかの技術的なものではない」(註17)ともいわれているが、原告はここに前掲合衆国最高裁判決中のクラーク判事の補足意見中の一節を引用して本書面を結びたい。曰く、 「当裁判所が憲法問題の判断に際して、自主的抑制と自重のもとに行動することは、これを是とする。しかしながら、本件におけるように、かくも多数の州民の国民としての権利が、かくも長期間にわたつて、かくも明白に侵害されてきた場合においても、なおかつ自主的抑制が相当であると判断された事例はない。裁判所に対する国民の尊敬は、遁辞を弄して右述の州民の権利を無価値たらしめるよりも、直截簡明にこれが擁護を図ることにより増進される。」(註18)と。 (註1) この手法はアメリカにおいてひろく採用されていることについて、Dauer & Kelsay, Unrepresentative States, 44 Nat.l Munic. Rev. 571(1955). 上告人 真伍こと 越山康 被上告人 東京都選挙管理委員会委員長 右当事者間の昭和38年(オ)第422号選挙無効事件について、申立により、判決中明白な誤謬を発見したので、次のとおり更正する。 本件について、昭和39年2月5日言い渡した判決の「上告人の上告理由」中、1頁11行目「批例」とあるを「比例」と、8頁7行目「(seinsgebundenheit)」とあるを「(die seinsgebundenheit)」と、11頁3行目「違憲」とあるを「適憲」と14頁1行目「機関執行」とあるを「執行機関」と、22頁4行目「Nat.l」とあるを「Nat'l」と各更正する。 昭和39年3月9日 最高裁判所大法廷 (裁判長裁判官 横田喜三郎 裁判官 入江俊郎 裁判官 奥野健一 裁判官 石坂修一 裁判官 山田作之助 裁判官 五鬼上堅磐 裁判官 横田正俊 裁判官 斎藤朔郎 裁判官 草鹿浅之介 裁判官 長部謹吾 裁判官 城戸芳彦 裁判官 石田和外) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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