一斉交通検問事件 | ||||
上告審決定 | ||||
道路交通法違反被告事件 昭和53年(あ)第1717号 昭和55年9月22日 第三小法廷 決定 上告申立人 被告人 被告人 X ■ 主 文 ■ 理 由 ■ 被告人の上告趣意 本件上告を棄却する。 [1] 被告人本人の上告趣意のうち、憲法違反をいう点は、原審において主張、判断を経ていないものであり、また、判例違反をいう点は、引用の判例は事案を異にし本件に適切でなく、その余は、事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、いずれも刑訴法405条の上告理由にあたらない。 [2] なお、所論にかんがみ職権によつて本件自動車検問の適否について判断する。警察法2条1項が「交通の取締」を警察の責務として定めていることに照らすと、交通の安全及び交通秩序の維持などに必要な警察の諸活動は、強制力を伴わない任意手段による限り、一般的に許容されるべきものであるが、それが国民の権利、自由の干渉にわたるおそれのある事項にかかわる場合には、任意手段によるからといつて無制限に許されるべきものでないことも同条2項及び警察官職務執行法1条などの趣旨にかんがみ明らかである。しかしながら、自動車の運転者は、公道において自動車を利用することを許されていることに伴う当然の負担として、合理的に必要な限度で行われる交通の取締に協力すべきものであること、その他現時における交通違反、交通事故の状況などをも考慮すると、警察官が、交通取締の一環として交通違反の多発する地域等の適当な場所において、交通違反の予防、検挙のための自動車検問を実施し、同所を通過する自動車に対して走行の外観上の不審な点の有無にかかわりなく短時分の停止を求めて、運転者などに対し必要な事項についての質問などをすることは、それが相手方の任意の協力を求める形で行われ、自動車の利用者の自由を不当に制約することにならない方法、態様で行われる限り、適法なものと解すべきである。原判決の是認する第一審判決の認定事実によると、本件自動車検問は、右に述べた範囲を越えない方法と態様によつて実施されており、これを適法であるとした原判断は正当である。 [3] よつて、刑訴法414条、386条1項3号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。 (裁判長裁判官 寺田治郎 裁判官 環昌一 裁判官 横井大三 裁判官 伊藤正己) [1] 道路交通法違反被告事件について、後記のとおり、上告の理由を提出するので、原判決を破棄のうえ、被告人に対し、無罪の言渡しをされたい。 [2] 「それでも、地球は動く。」と、ガリレオは言いました。 [3] 「それでも、法的に罰せらるべき、酒気帯び運転違反はしていない。」と、私は申しあげます。 [4] 改めて、私が申しあげるまでもないことだとは思いますが、たとい、そのために、幾人もの真犯人を取り逃がす懼れがでてくるとしても、ひとりの、無実の者を罰するというようなことになつては、「お前は、運が悪かつたのさ、諦めなさい。」では、司法として許さるべきことではないでしよう。 [5] 殊に、私が正式裁判を要求したときに、検察官は、「微罪ではないか、余り、むずかしいことは言うなよ」とか、「今は、戦時中、つまり、交通戦争の時代なんだ、やむを得ないよ、」といつた類いのお説教を聞かされましたが、裁判官が、もし、そのような政治的次元の配慮を働かせた判決をしなければならないとしたら、裁判制度というものも、権力の単なる飾りに過ぎないもの、憲法上の虚構に過ぎないものとなり、裁判が、そのような結構に終始するなら、やがては、憲法上の人権規定と、そしてこれを保障すべき司法に対する窮極の国民の信頼は失われ、遂には暴力、乃至革命的実力行使等の手段にまたなければ、正義は期待できないということになるのでしようか。 [6] 「疑わしきは罰せず」は、近代裁判の原理、原則だと聞き及んでいますが、司法はまず第一に、厳密正確な事実の立証を要求すべきであり、 本件の場合、一の証拠(検知管)が、如何に有力なものと客観(先入感)されようと、それを補強しない証拠があれば、或いは、補強する事実がなければ、証拠力不足、即ち、疑わしきは罰せず、でなければならないでありましようし、司法的には、「事実誤認」と断ずべきでありましよう。 [7] そこで、私は、まず、この原則、立脚点を見すごした二審判決の「事実誤認」につき上告致します。 [8] 即ち、二審判決においては、事実の認定につき、“原判決の二の2に認定するとおりである。”とし、 “すなわち、原口、鹿島両巡査は、本件当夜、時期的に、飲酒運転の多い情況を踏まえて(予断をもち)飲酒運転など交通関係違反の取締を主な目的とする交通検問を実施し、”(当夜は、自動車事故、その他の重要犯罪が発生した等により、一般の検問取締を行わねばならない必然性、必要性、客観的条件がなかつたにもかゝわらず、また、犯罪捜査に関わる警察機関の組織上の指令下命に基いてではなしに、一審判決文中にも書かれているように、単に、“警邏の一環として、”同僚間の任意の話合いのもとに)とし、なお、二審判決は、 “被告人は、右の検知が、その飲酒の時から、約7時間を経過しており、アルコール反応が出るはずがないのに、これが検知されたのは、右検知管に欠陥が存したにほかならないというが、(私としては、正確な検知なら、血中のアルコール濃度でなければならない筈だし、本件の呼気検査の場合、状況証拠と矛盾するので、検知方法や、検知管の取違え等、何らかのミスがあつたのではないか言つたのです。)「事実の認定」については、提出されている検知管と被告人が署名押印した交通原票のそれらが、法廷に提出されることに承諾を与えたことを以つて、事実認定上、十分であり、そこに、別に、何らの問題もないものとして判決されていますが、単に、提示されている検知管の器械的表示を正確、重要なものであると予断し、慎重、十分な証拠調べを省略して、安易に、証拠の採用、認定、課罰を行つたのは、重要な事実誤認というべきではないでしようか。 [9] 例えば、医学上、体温計や血圧計の器械的表示のみをみて、普通の健康状態の者に、〇〇病と断定することが誤りであるとされるのと同様に、また、司法上、例えば、ウソ発見器という器械の表示をみて、また、表示がでたことを被疑者が認めたからとして、被疑者の陳述が、ウソであると認定することが早計不当であり、裁判上、証拠として採用されないと聞き及んでいますが、 検問、検知の際の被告人の供述証拠にもあるように、前日夕方(6時前後)の少量の(ビール1本、焼酎1合)飲酒後(この点について、後日、当該飲酒店に、警官が来て、被告人のその時の飲酒量等について調査して帰つたそうですが、その証言は、検知管とは逆の証拠となるためか、裁判所には提出されておりません。)ホテルにて、7時間余の休息睡眠をとり、翌、朝方(3時頃)目が覚めたので、数百メートル離れた、県庁北の駐車場まで行き、既に、酒気はとれているものと判断し、(従つて私には犯意など全くなく)自分の車を運転したものであり、 『事実』法が違反運転として予想しているような危険な運行状況など全然見られない正常運転であつたことは、検問警察官自身が法廷で証言しているところであり、且、検問当時、取締警官の指示に対しても、普通人の行う普通の応待が行われており、更には、被告人はかねてから、飲酒後であれば、タクシー等を利用していたものであり、それら幾多の情況証拠と検知管表示との矛盾について検討されることなく、単に一面的に検知管の器械的表示を採用してそこに『犯罪事実』ありと、独断虚構したことは、司法的には、「事実誤認」であると言うべきでしよう。 [10] そして、このことは、一般に、物事を認定するに際しての論理からみて、美濃部達吉著「統計における嘘と真実」や、森田優三著「統計読本」に書かれているように、 「数をして語らしめるのは人であつて、数がみずから語るのではない、したがつて、これを使う人が、正しい使い方をすれば、役にたつよい結果が得られるけれども、まちがつた見方をしたり、故意に、ゆがめて使つたりすると、かえつて、有害な結果を生むことになる」として、 一、主語や定義のすりかえ(顧みて他をいう)が行われる。 例えば、売薬広告の中にかいていることは、試験管の中の試薬についての成績であるが、広告の目的は、人体に対する製薬の効能の吹聴であり、こゝで、主語や定義が巧みにすりかえられている。 即ち、裁判の目的は、事実の確認でなければならない筈であるのに、裁判所が、警察側の被疑者検挙の非法を是認し、正常運転ではあつたが、検知管に表示がでた以上、それをもつて、不正常運転(即ち、酒気帯び運転違反)とする、のでは、そこに、論述の主客顛倒がなされていることに気がつかないのでありましようか、 また、 二、かたよつた対象、かたよつた標本(証拠)の選択、(柳の下に、いつもドジヨウがいるとは限らないし、) 三、条件の隠匿 数字の解釈に必要な条件(飲酒量、経過時間等)をかくしておいて、勝手な解釈をしていることが、しばしばある。 五、正しくない比較 統計の数字を使つて考えるときは、たいてい、いくつかの数字を比較してみて、その数字の差の原因がどこにあるか考えるのであるが、その際に、数字の性質の上つつらだけをみて考えていると、思わぬまちがいをする、また、これが、ごまかしの手段にも使われる、(酒気帯びか否かの科学的、生理学的判定は、血中アルコール濃度と、脳神経に対する吸収、反応係数である筈だのに、) 六、相関々係の曲解 統計の相関計算は、数字の上の計算である、大きな相関係数が出たからといつて、ほんとうに密接な関係があるとは限らない、数字以外の理窟で説明できるのでなければ、その関係は意味がないといつてよい。 こゝに、こじつけや、誤つた解釈の起る危険がひそんでいる。と書かれていますが、 [11]例えば、私は、かねがね、現在の道路交通法と、警察の検問捜査体制に、憲法上、重大な問題があると考えているものゝひとりですが、(昭52、6、6号、日経ビジネスへの私の投稿小論「自家用車保有禁止立法の断行を」及び後述の主張参照)警察当局が、警察法上、無差別検問の責務があると主張するのにあやかつて、われわれ市民には、この問題、特に、非法な検問捜査体制を摘発改正させる憲法上の、国民的責務があると考え、“悪意をもつて”否、私としては、警察が、そう主張するのと同じく、“善意をもつて”「擬制相関」(逆の鼠取作戦)を虚構し、 若し、私が全く一滴のアルコールを飲んでいなくて、普通に運行しているときに、たまたま、このような非法交通検問にあつて停車を求められたので、停車直後、一気に、アルコールをあほり、そのため、当然、検問警官から、酒臭がするとされ、検知を受ければ、表示がでるであろうし、その検知管の器械的表示を楯に“酒気帯び運転違反”として断定させたならば、私は、そして、警察は、裁判所に対し、全くの事実誤認を擬制したことになるでしよう。 [12] つまり、原告(警察側)に挙証責任があり、しかも、フラフラ運転等の事実はなかつたという証言を無視した判断は、単純に表現するなら、あいつは、キリストの絵を踏んだから違法者ではないし、踏まなかつたから違法者(信者)であるとして、この非法、業法、悪法を維持した昔の踏絵裁判に類するものというべきでしようし、従つて、近代の裁判が、そこに、ひとりの無実の者を罰することにならないよう、たとい、多くの真犯人を取りこぼす懼れが生ずるとしても、「疑わしきは罰せず」とすることの存在意義があると言うべきでございましようし、逆に、本件のように、器械的表示と一致しない反証があれば、“酒気帯び運転違反の事実なし”乃至、“可罰的違法性なし”として無罪とすべきでありましよう。 [13] 更に、今日の道路交通法がその施行令において、単に警察の行う呼気検査の器械的表示を以て、酒気帯び運転違反とするという規定であるとするなら、当該規定のほかに、例えば、「一定時間前に飲酒した後で、車両を運転しようとするときは、整備義務を命じた検知器によつて、自ら検知確認をした後に、運転しなければならない」といつたような、補完規定を伴わなければ、当該法令は、違憲性のある法令規定とすべきでありましよう。 [14] さて、つぎに、二審判決は、 “右の本件経過のもとにおいて法律上問題とされているのは、(何ら不審の見受けられない、通常に)走行中の車両(すべてに対し)に停止を求める交通検問が許されるものかどうかであるが、”とし、 警察法第2条は、警察官の権限行使の一般的根拠を定めたものであり”とし、この規定が「警察は」と記されてあつて、「警察官は」と規定しておらず、この規定が、いわゆる警察機関の所掌職務範囲を例示的に規定したものにすぎないという普通の理解を排除し、 “同条一項が、(「被疑者の逮捕、交通取締、その他、公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする」と例示規定している表現を、)“交通取締を警察の責務として掲げ、交通の安全と交通秩序の維持を、その職責として規定していることに鑑みると、同条項は、交通取締の一環として、当然、右のような、交通検問の実施を、警察官に許容しており、”と拡張解釈し、同法のこの規定が、いわゆる警察機関が、その職務を遂行するため、種々の非強制手段(非権力手段)たとえば、交通安全教育、防犯連絡その他の指導を行いうることも規定しているにすぎない点には考及せず、更には、同条第2項が、「警察の活動は、厳格に、前項の責務の範囲に限らるべきものであつて、その責務の遂行に当つては、不偏不党、公平中正を旨とし、いやしくも、日本国憲法の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあつてはならない」と規定されている厳粛な法意は不問にしたまゝ、 それらを受けて制定されている、その警察権の発動、即ち、警察官が、その責務を遂行するに当つての規定、つまり、 警察官職務執行法第2条第1項において「警察官は、異常な挙動、その他周囲の事情から合理的に判断して、何らかの犯罪を犯し、若しくは、犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者、又は既に行われた犯罪について、若しくは、犯罪が行われようとしていることについて、知つていると認められる者を停止させて、質問することができる。」とし、 同条第2項が、「その場で、前項の質問をすることが、本人に対して不利であり、又は、交通の妨害になると認められる場合においては、質問するため、その者に付近の警察署、派出所又は駐在所に同行することを求めることができる」と規定していることや、更に、 道路交通法が第67条において、「警察官は、車両等の運転者が、第64条、第65条第1項、前条又は、第85条第5項、若しくは、第6項の規定に違反して車両を運転していると認めるときは、当該車両等を停止させ、及び、当該車両等の運転者に対し、第92条第1項の運転免許証、又は、第107条の2の国際運転免許証の提示を求めることができる」と規定し、また、 同条第3項が「前2項の場合において、当該車両の運転者が、第64条、第65条第1項、前条、又は第85条第5項若しくは第6項の規定に違反して、車両等を運転するおそれがあるときは、(検知、検挙をせよとは規定しておらず)警察官は、その者が、正常な運転ができる状態になるまで、(本件の場合、当該警察官自身が、正常な運転状態であつたと証言しているにかゝわらず)車両の運転をしてはならない旨を指示する等、道路における交通の危険を防止するため必要な応急の措置(例えば、駐車指示乃至家族への連絡等の措置)をとることができる、」と規定されており、本件のような無差別の検問、検知、検挙という人権無視の措置をとることができるとは規定していない点を看過し、殊に、 昭38、9、6の大阪高裁判決が、警察官の職務執行、特に、いわゆる自動車検問の適法要件の一つとして、「自動車検問が許されるのは、自動車を利用する重要犯罪に限られる。職務質問の対象者に該当しない多数の者の自由を制限しても已むを得ないと認められる程度の重要犯罪にかゝわる場合でなければならない。」と示している判例にも本件が違反することになるので、本件、警察官の非法行為の根拠を、警察官職務執行法第2条、或いは、道路交通法第67条ではなしに、検察側の身勝手な無理な解釈を採用し、警察法第2条に、職務執行の根拠を援用擬制し、強制、非強制にかゝわりなく(本件の場合、検問警察官において、無法な車内侵入が行われたことは不問にして、)警察官の職務執行は、警察官職務執行の一般規定(特別規定ではない)である警職法に基くべきであるにかゝわらず、善意の市民が、例えば、令状なしの警察の検問、検知、検挙に応じたことを以て、任意の協力であり、警察官の行為は適法であるとするような、更には、 昭43、7、22の京都地裁判決において「その当時における具体的情況に照して、何ら犯罪を疑わせる等の客観的、合理的な理由が存しないにもかゝわらず、その主観的な観察のみに頼つて、被告人に対し、いわゆる職務質問を敢てしたことに帰着し、その行為は、適法な職務の執行と認めることはできない」とする判例が示しているところの(検問の客観的、合理的な、第一次の要件の存否は不問にしたまま) “本件検問は、時期的に多発する飲酒運転等を取締る必要から、警察官が、右の目的で実施し、走行上の外観の不審点にかゝわりなく、通過する車両の全てに対して停止を求める方法でなされたのも「交通違反が、走行中の車両の外観から直ちに確実に見分けられない(本件のような、酒気帯び運転、運転免許証不携帯、特別運行許可証の不携帯、整備不良車両の運転《過労運転、前方不注意運転》等)点を考慮するとやむを得ないところであり、」”とし、例えば、脱税が多発する申告時期に、これを摘発する必要から、税務官が、右の目的で、豪華な衣裳や高価の買物をしている市民の全てに対し、検問調査を行つても、脱税が、一見しては、確実に見分けられない点を考慮するとやむを得ないところであるとするような、いわば、警察権執行当局側の便宜主義的な身勝手な主張に同情、同調し、 “しかし、その方法には強制的要素が全くなく、相手方である被告人に対して過重な負担をかけるものでなかつたこと”と独断し、強制、非強制にかゝわりなく、警察官の職務執行に際しては、犯罪を疑わせる等の客観的、合理的理由の存否が、適法性の第一次要件であることは不問にし、第二次適法要件である、身体に対するいわゆる暴力行為がなかつたことを以て(本件の如く、実は、正常運行の車に停車を命じ、更に、車内に不法侵入したものであつて、これをしも、憲法の人権保障各規定からみて、過重な負担をかけるものでないと言えるのでありましようか。 [15] また、道路交通法は、前述の如く、そこに、事故乃至、フラフラ運転等の警察障害が発生している場合、その原因が、酒気帯び等であつた場合の厳罰を規定しているのであつて、危険が予想される段階では、「正常運転ができるようになるまで,運転中止を指示することができる」と規定しているのであつて、以上の諸点を考慮すると原判決は、明らかに法律の解釈と適用を誤つた判決というべきでしよう。 [16] かつて、徳川封建時代に「生類憐れみの令」といういわゆる美名悪法を掲げて庶民を制圧した歴史的事実がありますが、人命保護、公共の安全、法律順守等の美名を掲げて刻苦精励しているわが国の警察行政は立派であり、国民一般に対する警察官の、非法過剰な職務執行も、それが、無差別に行われるのであれば、それは、公平な職務執行というべきであり、現在は、戦時中だ、交通戦争の時代だ、これに即応するいわゆる有事立法はないが、この際は、警察庁の職務規定である警察法を援用し、市民一般に対する警察官の応待が丁寧であり、善意の市民の協力に基く検問、検知、検挙であるならば、違法ではないとするのでなければ、法(非法、業法、悪法)の維持が困難になるのではないか、といつた、政策的配慮に基く判決であつたと言うべきでしよう。 [17] さて、今日の「道路交通法」が、絶対的には無となることのあり得ない、自動車の存在に伴う事故を減少させようという善意があるなら、物理の原則にたち、まず、政府に対し、道路の整備、或いは、自動車保有のコントロールを行うなど、円滑安全な交通体系を確保すべき責任と義務を明示すべきでありましよう。 [18] 警察当局が、一日道路交通の追跡調査を行つたところ、90%以上の者が違反行為を行つていたと公言しているところでありますが、神様でなければ守り得ないような、自動車社会における道徳律、運転者教育論、訓示規定(例えば、ヘルメツトやベルト着帯といつたようなことまで)にとどまるべきものを、運転者即ち、国民の直接の法的責任に転稼し、国民生活における日常の、また個々の人権、生活権を不当過剰に拘束して、セツセと罰金を稼ぎ、過酷な体刑を課している法構成であるとするなら、旧憲法時代の「治安維持法」に見られた“予防拘禁的思想”(事故の発生等そこに警察障害のみられない「酒気帯び運転」を罰するといつたような)思想と軌を一にするものであり、 国民に保有を認めた、凶器の使用、即ち自動車の運行の規制は、「許された危険の法理」乃至「車両運行権」に基き、憲法の保障する基本的人権及び生活権を侵害することになるような規定の制定は、厳格、最低限にとゞめるべきであり、 若し、それが事前抑制の課罰規定を含むとするならば、そのような法令の規定は、憲法前文の精神を踏みにじり、更に、憲法11条の「基本的人権の亨有」、同12条の「自由、権利の保持の責任と濫用の禁止」同13条の「個人の尊重」同14条の「法の下の平等」同18条の「奴隷的拘束からの自由」同21条の「表現の自由」同22条の「居住移転の自由」同25条の「生存権」同29条の「財産権」同97条の「基本的人権」の保障各規定に反するものであり、また、その執行方法において、警察のいわゆる“鼠取作戦による”いわば“当り屋的道交法違反摘発、(検問、検知、検挙)を認めるならば、憲法19条の「良心の自由」31条の「法定手続」同34条の「不法な抑留」同35条の「住居不可侵」各条の保障規定、ならびに同36条の「拷問、残虐な刑罰の禁止」同38条の「自己に不利益や供述、」同99条の「憲法尊重擁護義務」各条規定に違反するものというべきでありましよう。 [19] 最高裁判所は、このような実態をご認識いたゞき憲法81条の「法令審査権」同98条の「最高法規性」の規定に基き、適正厳粛な判決を仰ぎたいと思います。 (添付書類省略) |
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