あん摩師はり師きゅう師及び柔道整復師法違反事件
上告審判決

あん摩師はり師きゆう師及び柔道整復師法違反被告事件
最高裁判所 昭和29年(あ)第2861号
昭和36年2月15日 大法廷 判決

上告人 被告人
弁護人 稲本錠之助

検察官 清原邦一 村上朝一

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官垂水克己の補足意見
■ 裁判官河村大助の補足意見
■ 裁判官斎藤悠輔の少数意見
■ 裁判官藤田八郎の少数意見
■ 裁判官奥野健一の少数意見

■ 被告人の上告趣意


 本件上告を棄却する。
 当審における訴訟費用は被告人の負担とする。

[1] あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法7条は、あん摩、はり、きゆう等の業務又は施術所に関し、いかなる方法によるを問わず、同条1項各号に列挙する事項以外の事項について広告することを禁止し、同項により広告することができる事項についても、施術者の技能、施術方法又は経歴に関する事項にわたつてはならないものとしている。そして本件につき原審の適法に認定した事実は、被告人はきゆう業を営む者であるところその業に関しきゆうの適応症であるとした神経痛、リヨウマチ、血の道、胃腸病等の病名を記載したビラ約7030枚を判示各所に配布したというのであつて、その記載内容が前記列挙事項に当らないことは明らかであるから、右にいわゆる適応症の記載が被告人の技能を広告したものと認められるかどうか、またきゆうが実際に右病気に効果があるかどうかに拘らず、被告人の右所為は、同条に違反するものといわなければならない。
[2] 論旨は、本件広告はきゆうの適応症を一般に知らしめようとしたものに過ぎないのであつて、何ら公共の福祉に反するところはないから、同条がこのような広告まで禁止する趣旨であるとすれば、同条は憲法11条ないし13条、19条、21条に違反し無効であると主張する。しかし本法があん摩、はり、きゆう等の業務又は施術所に関し前記のような制限を設け、いわゆる適応症の広告をも許さないゆえんのものは、もしこれを無制限に許容するときは、患者を吸引しようとするためややもすれば虚偽誇大に流れ、一般大衆を惑わす虞があり、その結果適時適切な医療を受ける機会を失わせるような結果を招来することをおそれたためであつて、このような弊害を未然に防止するため一定事項以外の広告を禁止することは、国民の保健衛生上の見地から、公共の福祉を維持するためやむをえない措置として是認されなければならない。されば同条は憲法21条に違反せず、同条違反の論旨は理由がない。
[3] なお右のような広告の制限をしても、これがため思想及び良心の自由を害するものではないし、また右広告の制限が公共の福祉のために設けられたものであることは前示説明のとおりであるから、右規定は憲法11条ないし13条及び19条にも違反せず、この点に関する論旨も理由がない。
[4] よつて刑訴414条、396条、181条に従い主文のとおり判決する。

[5] この判決は、裁判官垂水克己、同河村大助の補足意見、裁判官斎藤悠輔、同藤田八郎、同河村又助、同奥野健一の少数意見があるほか裁判官全員一致の意見によるものである。


 裁判官垂水克己の補足意見は次のとおりである。

[1] 心(意思)の表現が必ずしもすべて憲法21条にいう「表現」には当らない。財産上の契約をすること、その契約の誘引としての広告をすることの如きはそれである。アメリカでは憲法上思想表現の自由、精神的活動の自由と解しこれを強く保障するが、経済的活動の自由はこの保障の外にあるものとされ、これと同じには考えられていないようである。
[2] 本法に定めるきゆう師等の業務は一般に有償で行われるのでその限りにおいてその業務のためにする広告は一の経済的活動であり、財産獲得の手段であるから、きゆう局的には憲法上財産権の制限に関連する強い法律的制限を受けることを免れない性質のものである。この業務(医師、殊に弁護士の業務も)往々継続的無料奉仕として行われることも考えられる。しかし、それにしても専門的知識経験あることが保障されていない無資格者がこれを業として行うことは多数人の身体に手を下しその生命、健康に直接影響を与える仕事であるだけに(弁護士は人の権利、自由、人権に関する大切な仕事をする)公共の福祉のため危険であり、その業務に関する広告によつて依頼者を惹きつけるのでなく「桃李もの言わねども下おのづから蹊をなす」ように、無言の実力によつて公正な自由競争をするようにするために、法律で、これらの業務を行う者に対しその業務上の広告の内容、方法を適正に制限することは、経済的活動の自由、少くとも職業の自由の制限としてかなり大幅に憲法上許されるところであり、本法7条にいう広告の制限もかような制限に当るのである。そのいずれの項目も憲法21条の「表現の自由」の制限に当るとは考えられない。
[3] とはいえ、本法7条広告の制限は余りにも苛酷ではなかろうか、一般のきゆう師等の適応症を広告すること位は差支ないではないか、外科医に行かず近所の柔道整復師で間に合うことなら整復師に頼みたいと思う人には整復師の扱う適応症が広告されていた方がよいのではないか、といつたような疑問は起こる。また、本法7条が適応症の広告を禁止した法意は、きゆう師等が(善意でも)適応症の範囲を無暗に拡大して広告し、広告多ければ患者多く集まるという、不公正な方法で同業者または医師と競争し、また、重態の患者に厳密な医学的診断も経ないで無効もしくは危険な治療方法を施すようなことを防止し、医師による早期診断早期治療を促進しようとするにあるようにも思える。とすれば憲法31条に違反する背理な刑罰法規ともいえないのではないか。
[4] とに角、本法7条広告の禁止は憲法21条に違反しない。むしろ同条の問題ではない。だから、この禁止条項が適当か否かは国会の権限に属する立法政策の問題であろう。


 裁判官河村大助の補足意見は次のとおりである。

[1] 原判決の確定した事実関係の要旨は、被告人はきゆう業を営むものであるところ、きゆうの適応症であるとした神経痛、リヨウマチ、血の道、胃腸病等の病名を記載したビラ約7030枚を配付し以て法定の事項以外の事項について広告したというのである。
[2] そこで右認定の証拠となつた押収の広告ビラ(特に証2、5号)を見るに(一)大津百石町の大野灸と題し、施術所の名称、施術時間等あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法(以下単に法と略称する)第7条1項において許された広告事項の記載が存するの外(二)きゆうの適応症として数多くの疾病が記載され更にその説明が附記されている。例えば「灸の効くわけ」として、「○熱いシゲキは神経に強い反応を起し、体の内臓や神経作用が、興奮する○血のめぐりが良くなり、血中のバイ菌や病の毒を消すメンエキが増へる○それ故体が軽く、気持が良くなりよく寝られる、腹がへる等は灸をした人の知る所である◎(注射や服薬で効かぬ人は灸をすると良い)」「人体に灸ツボ6百以上あり、病によつてツボが皆違ふ故ツボに、すえなければ効果はない」等の説明が附記されている。しかして右のようにきゆう業者の広告に適応症としての病名やその効能の説明が(一)の許された広告事項に併記された場合には、その広告は法第7条2項の「施術者の技能」に関する事項にわたり広告したものということができる。蓋しきゆうは何人が施術するも同様の効果を挙げ得るものではなく、それぞれの疾病に適合したツボにすえることによつて効果があるものであるから、施術者又は施術所ときゆうの適応症を広告することは、その施術者の技能を広告することになるものと解し得るからである。されば本件広告は法第7条2項に違反するものというべく、この点の原判示はやや簡略に適ぎる嫌いはあるが、要するに本件ビラの内容には適応症及びその説明の記載があつて施術者の技能に関する事項にわたる広告をした事実を認定した趣旨と解し得られるから、同法7条違反に問擬した原判決は結局相当である。
[3] 広告の自由が憲法21条の表現の自由に含まれるものとすれば、昭和26年法律第116号による改正に当り法第7条第1項において一定事項以外の広告を原則的に禁止するような立法形式をとつたことについては論議の余地があろう。しかし、同条2項は旧法第7条の規定の趣旨をそのまま踏襲したものであつて、即ち施術者の技能、施術方法又は経歴に関する事項は、患者吸引の目的でなす、きゆう業広告の眼目であることに着眼し、これを禁止したものと見られるから、第1項の立法形式の当否にかかわりなく、独立した禁止規定として、その存在価値を有するものである。そこで本件被告人の所為が既述の如く右第2項の施術者の技能に関する広告に該当するものである以上本件においては、右第2項の禁止規定が表現の自由の合理的制限に当るかどうかを判断すれば足りるものと考えられる。ところで右第2項の立法趣旨は、技能、施術方法又は経歴に関する広告が患者を吸引するために、ややもすれば誇大虚偽に流れやすく、そのために一般大衆を惑わさせる弊害を生ずる虞れがあるから、これを禁止することにしたものと解せられる。されば右第2項の禁止規定は広告の自由に対し公共の祉福のためにする必要止むを得ない合理的制限ということができるから、憲法21条に違反するものではない。その他右規定が憲法11条ないし13条、19条に違反するとの論旨も理由がない。


 裁判官斎藤悠輔の少数意見は、次のとおりである。

[1] わたくしは、あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法7条の立法趣旨は、多数説と同じく、「もし広告を無虞限に許容するときは、患者を吸引しようとするためややもすれば虚偽誇大に流れ、一般大衆を惑わす虞れがあり、その結果適時適切な医療を受ける機会を失わせるような結果を招来することをおそれたためである」と解する。従つて、広告が同条違反であるとするには、ただ形式的に同条1項各号に列挙する事項以外の事項について広告したというだけでは足りず、さらに、現実に前記のごとき結果を招来する虞のある程度の虚偽、誇大であることを要するものといわなければならない。すなわち薬事法34条とほぼ同趣旨に解するのである。
[2] しかるに、原判決の確定したところによれば、本件広告は、きゆうの適応症であるとした神経痛、リヨウマチ、血の道、胃腸病等の病名を記載したというだけであつて、虚偽、誇大であることは何等認定されていないのである。そして、きゆうがかかる疾病に適応する効能を有することは顕著な事実である。従つて、本件は、罪とならないものと思う。
[3] 多数説は、形式主義に失し、自ら掲げた立法趣旨に反し、いわば、風未だ楼に満たないのに山雨すでに来れりとなすの類であつて、当裁判所大法廷が、さきに、「あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法12条、14条が医業類似行為を業とすることを禁止処罰するのは、人の健康に害を及ぼす虞のある業務行為に限局する趣旨と解しなければならない」旨判示した判例(昭和29年(あ)2990号同35年1月27日大法廷判決判例集14巻1号33頁以下)の趣旨にも違反するものといわなければならない。もし、前記7条1項各号に列挙する事項以外の事項を広告したものは、その内容の如何を問わず、すべて処罰する趣旨であると解するならば、奥野裁判官らの説くがごとく、同規定は憲法21条に反し無効であるというべきである。因に、前記7条と同形式の医療法69条、70条の規定は、漢方医たる標示を禁止するもののごとくであるが(大塚敬節著東洋医学とともに116頁以下参照)、もし然りとすれば、かかる規定もまた憲法21条違反と解すべきである。


 裁判官藤田八郎の少数意見は次のとおりである。

[1] 「あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法」7条は、
 あん摩業、はり業、きゆう業若しくは柔道整復業又はこれらの施術所に関しては、何人も、いかなる方法によるを問わず、左に掲げる事項以外の事項について、広告をしてはならない。
一 施術者である旨並びに施術者の氏名及び住所
二 第1条に規定する業務の種類
三 施術所の名称、電話番号及び所在の場所を表示する事項
四 施術日又は施術時間
五 その他厚生大臣が指定する事項
 前項第1号乃至第3号に掲げる事項について広告をする場合にも、その内容は、施術者の技能、施術方法又は経歴に関する事項にわたつてはならない。
と規定している。
[2] 同条が、広告の内容が施術者の技能、施術方法又は経歴に関する事項にわたることを禁止していることは、合理的な理由なしとしないであろう。しかし、単なるきゆうの一般的な適応症の広告のごときは、それが虚偽誇大にわたらないかぎり、これを禁止すべき合理的な理由のないことは奥野裁判官の少数意見の説くとおりである。されば同法同条も、施術者の技能、施術方法又は経歴に関する事項にわたらないかぎり、単なる一般的な適応症の広告はこれを禁じていないものと解すべきである。若し、多数意見のごとく同条は同条所定以外一切の事項の広告を禁ずるものと解するならば、同条は憲法の保障する表現の自由をおかすものとならざるを得ないことまた奥野裁判官の説くとおりである。
[3] しかるに、本件の起訴にかかる事実、また本件第一審判決の認定する事実は「きゆうの適応症であるとした神経痛、リヨウマチ、血の道、胃腸病等の病名を記載したビラ」「を配布し」たというのであつて、かかるきゆうの一般的な適応症の記載のごときは本法7条の禁止するところでないと解すべく、従つて本件公訴事実は同条違反の犯罪事実を構成しないものであつて、本件に関するかぎり、同法7条の合憲なりや違憲なりやを論ずるの要はないものというべきである。本件の処理としては、第一審判決を破棄して無罪の言渡をすべきであると思う。


 裁判官奥野健一の少数意見は次のとおりである。

[1] 広告が憲法21条の表現の自由の保障の範囲に属するか否かは多少の議論の存するところであるが、同条は思想、良心の表現の外事実の報道その他一切の表現の自由を保障しているのであつて、広告の如きもこれに包含されるものと解するを相当とする。広告が商業活動の性格を有するからといつて同条の表現の自由の保障の外にあるものということができない。しかし、表現の自由といえども絶対無制限のものではなく、その濫用は許されず、また公共の福祉のため制限を受けることは他の憲法の保障する基本的人権と変らない。従つて、広告がその内容において虚偽、誇大にわたる場合又は形式、方法において公共の福祉に反する場合は禁止、制限を受けることは当然のことである。
[2] あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法7条は、きゆう業を営む者はその業に関しきゆう等の適応症について一切広告することを禁止している。すなわち、虚偽、誇大にわたる広告のみならず適応症に関する真実、正当な広告までも一切禁止しているのであつて、これに反する者を刑罰に処することにしているのである。(明文上同条が正当な適応症の広告は禁止していないと解することは到底できない。)そもそも、本法はきゆう等の施術を医業類似の行為として一定の資格を有する者に対し免許によりこれを業とすることを許しているのである。すなわち、きゆう等の施術が何らかの病気の治療に効果のあることを認めて、その業務につき免許制を採用しているのである。従つて、その施術が如何なる病気に効能があるか、真実、正当に世間一般に告知することは当然のことであつて、かかる真実、正当な広告まで全面的に禁止しなければならない保健、衛生上その他一般公共の福祉の観点からもその理由を発見することができない。これは正に不当に表現の自由を制限しているものという外はない。
[3] 多数意見は、「もしこれ(広告)を無制限に許容するときは、患者を吸引しようとするためややもすれば虚偽誇大に流れ、一般大衆を惑わす虞がある」というのであるが、単に広告が虚偽誇大に流れる虞があるからといつて、真実、正当な広告までも一切禁止することは行過ぎである。成程、取締当局としては予め一切の広告を禁止しておけば、虚偽、誇大にわたる広告も自然防止することができるであろうが、かくては正当な広告の自由を奪うものであつて、取締当局の安易な措置によつて、正当な表現の自由を不当に制限するものである。これは恰も集団示威行進が時として公安を害する危険性を包蔵するからといつて、公安を害する直接、明白な危険もないのに、予め一切の集団行進を禁止するのと同様であつて、到底是認することができない。このことは人命、身体にきゆう等より重大な影響を持つ医薬品についてさえ薬事法34条が虚偽又は誇大な広告のみを禁止しているのと対比して考えても、きゆう等について特に医薬品と区別して正当な広告までも一切禁止しなければならない合理的根拠を発見することができない。また、多数意見は「その結果適時適切な医療を受ける機会を失わせるような結果を招来する」というのであるが、若し然りとすれば、むしろ当初からきゆう等の施術の業務を禁止すべきであつて、既に医業類似行為として病気治療上効果のあることを認めて、その業務を免許しておきながら、その施術を受ける適時適切な医療を受ける機会を失わせるとの理由で、正当な広告までも禁止することは、それ自体矛盾であるという外はない。
[4] なお、一切の適応症の広告が禁止されている法制を前提として、これを甘受して自ら進んで免許を受けた者であるから、今更適応症の広告禁止の違憲を主張することは許されないのではないかという疑問もあるが、かかる憲法の保障する表現の自由の制限を免許の条件とするが如きことは許されざるところであるから、かかる議論も成り立たない。
[5] これを要するに、本法7条が真実、正当な適応症の広告までも一切禁止したことは不当に表現の自由を制限した違憲な条章であつて無効であると断ずるの外なく、同条に則り被告人を処罰せんとする第一審判決は違憲であるから破棄を免れない。

 裁判官河村又介は、裁判官奥野健一の右少数意見に同調する。

(裁判長裁判官 田中耕太郎  裁判官 小谷勝重  裁判官 島保  裁判官 斎藤悠輔  裁判官 藤田八郎  裁判官 河村又介  裁判官 池田克  裁判官 垂水克己  裁判官 河村大助  裁判官 下飯坂潤夫  裁判官 奥野健一  裁判官 高橋潔  裁判官 高木常七  裁判官 石坂修一)
[1] 私は今回、自己の営業上、必要なりと考へ、又是が、公共の福祉に添ふ性質あるものなりと思ひ、自己の宣伝構想を表現した、広告が、はからずも法違反なりとして告発され裁判所に於て罰金刑の言渡しを受けた、然しながら自分は、憲法の基本的人権なるものの本旨を思考し、自分の思想と行為が、正当なる人権の行使なりと考て此行動したのである、憲法保障の人権は侵す事の出来ない永久の権利として我等に平等に与へられたものであり、公共の福祉に反しない限り、立法国政の上で、最大の尊重を必要とせられて居る、然しながら何時、にても我等は受動的に、此人権が、擁護保障せられて居るとは限らない、或場合には、此人権が、不当に侵され、或は圧迫、禁止される事があり得ると思はれる、斯の如き時、我等は、自己の正当なる、人権を自覚する時、是が、不当に侵害圧迫或は、禁止されたる時、之を排除し不断の努力を以つてこれを、保持しなければならないと憲法第12条に規定してある、営業上、自己の正当なる、かつ社会の要求するものある、此灸術の治療技術を穏健なる、表現方法をもつて広告する事は、自己の自由、及患者や、又自己の生活権の為に、幸福追求に対する我々の権利である、憲法第19条に、思想及良心の自由はこれは侵してはならない、とあり又我等の最大の関心を以つて見るものは憲法第21条,「集会結社及言論出版その他一切の表現の自由はこれを保障する」との明文である、然しながら是は総て表現せんとする思想及行為が、国家社会、公共の福祉に反しない範囲内に於て人権として認められ保障されるものなる事を我々は知らなければならない。故に是等の思想表現が、国家社会、公共の福祉に反せず、反つて公共の福祉に添ふものなる時は、憲法第12条の、「常に公共の福祉のために、これを利用する責任を負ふ。」と規定があり、当然なる人権にして侵す事の出来ないものとして憲法の保障されるものであり、猶国民の義務として利用する責任を要求されて居るものである。然て憲法第98条に、法律命令と雖も、憲法条規に反するものは、国務に関するものと共に、一部又は全部は其効力を有しないと規定されてある。又第99条に、天皇、摂政、及国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員は、この憲法を尊重し、擁護する義務を負ふ。」として公共の福祉に反しない国民の思想や、其他一切の表現の自由は正当なる人権として尊重され擁護されなければならない、即ち国家公務に関与する、一般公務員は、憲法を擁護するは、義務なりと規定してある、然るに一般公務員の人々は法律規則の条規のみに汲々として根本法規なる憲法精神を忘れたるが如き事実に屡々遭遇する。即ち憲法精神を自覚して眺めて居る時、法を生す為に憲法精神を没却して居るが如き場合がある様に見える、今般私の灸術広告が法違反なりとして告発警察より検察庁に送附されたる事件、是を検事は起訴し裁判所より金2千円也の罰金を判決された、これを静に考へる時、斯の如きものを起訴し罰金を課するは果して至当なりや、法律の規定のみを眺めたる時は違反と考へられるであらう、然しながら法律は憲法の条規に遵守されて作成されなければならない、然るに、明かに条文を以つて、「言論出版その他、一切の表現の自由は、これを保障する。」と云ふ、現在の憲法は実に宏大なる表現の自由を認めて居る、これは第13条の幸福追求の自由として、公共の福祉に反しない限りと云ふ事と、第19条の思想及良心の自由の元に於て行はれなければならないと考へる、斯の如き一切の表現の自由を保障あると云ふ、憲法が、侵す事の出来ない人権として、明文で厳然と規定して居るのに、一方法律で極めて狭い範囲を限定し、何人も何たる方法を以つてすると問はず、其法定の範囲を越へる広告してはならない、として完全に憲法保障の人権を奪ひ其表現の自由を禁縛してしまつて居る、まことに、不思議な現象である、少し常識のある人なら、此法律が、違憲である事は直に認識されるであらう、此法律は、「あんま師、はり師、きゆう師柔道整復師等法第7条に、広告制限、条項を設け、業務の種別、姓名、住所、電話番号、治療の期日、時間及厚生大臣の指定する事項等で、此場合でも、業者は施術方法、経歴、及技能に、わたつてはならないとして極端なる制限条規を以つて、有効適切なるいかなる表現広告も一切禁断してしまつて居る。言論出版その他、一切の表現の自由はこれを保障する、と云ふ、憲法明文があるのに、何と云ふ、不可解な事であらうか、私は灸術の免許を得て20年以来研究に、治療に、関して相当なる治験と自信を持つて居る、医学進歩の現代と雖も、猶、医術に依つて治らない、と云ふ患者が、世の中に随分とあるのであり、此様な人に常に接するのである、それが自分の灸術治療に依つて治ると云ふ例証が、毎日の如くいつもある、今日、医師に依る医療が万能でない限り、病気の治療は決して医師の専断のものではないのである。
[2] 私は永年の体験を活して医師に依る医療で治らない又灸治療を求める人に、自分の此希望や、自分の存在を知らしめ以つて病苦を救ふ事は自分の尊き職務であり又、人道に添ふものであると考ふるものである、今般告発の資料となつた、自分の広告も、毎年農繁期前に農家の人が、繁忙期に備える為に、病気の治療や健康の為に灸をする習慣があり、其人々の為に前記の目的を以つて広告したのである、それが法違反なりとして告発されたのである、自分は、此広告宣伝が、営業上必要ありと考へ又、此治療が、永い歴史と習慣、猶、無数の優れたる治験を有して居ても、医学の進歩、良薬の出現に依つて其応用範囲は次第に縮少されて来て居る、又一方社会保障制度の一部として健康保険の普及等に依つて営業業績が、次第に圧迫されつつあるは否めない事実である、此儘に居ると灸術と営業者は、次第に生活上不利益を来して来る、優れたる独特の効顕を以つて居ても、一般の人はそれを知らない、そして又医術に依つて治らない病で、然も灸術の適応症で、灸をすれば速に効果を期待すべき病気や、患者が、随分に在るものである、其人達に、穏健なる表現方法を以て其適応症を知らしめたのである、是は正当なる人権の行使であり生活権の擁護であり、幸福追求の願である、是が、決して、公共の福祉に反するとは考へられない。又此広告は、法の解釈に依つて違反を構成するものではないとの自分の考の元に於て行動したものである。自分が、広告した、其表現文章は、一般に従来から認められて居た、灸の適応症を表示しただけである、此広告表示は、昭和22年迄の過去の法律と内務省の見解に於て、明治44年鍼灸術取締規則、制定以来、鍼灸の適応症病名列記は差支なしとして長い間、許されて居たものであり業者は、種々なる表現方式を以つて広告して居たものである。昔より灸術の施術目的は、病気の治療と健康の増進に在つた、然て、其効果は現代の科学に検討して見ても、優れたる、独特の医学的の理由と根拠をもつて居る事は、数々の学者に依り発表証明されて居る、然しながら灸の効果も元より何病にも無制限に応用出来るものではなく、適応性なれば、相当顕著なる効果あるも、応用の出来ない所謂禁忌症なるものあり、灸をしても、効果のないもの又害の発生する恐れあるものもある。然し、適応症例えば、神経痛、リヨマチ、心臓病、カツケ、高血圧症、其他一般、神経障害、血行循環障害等のものは強烈なる温熱刺戟に依る神経反応又血液循環の盛行等に依り新陳代謝免疫増進等に依つて、薬物以上顕著なる効果を然も短期の間に奏ぜしもの枚挙に暇なき程である。これある故に、千数百年来現代に至る迄其需用が、絶えないのである、今後と雖も、医術が万能に達せない限り決して灸術は医療より没するものではないと信ずるものである。自分の此広告を一般の人が見て此広告表現文章が、公共の福祉に反したり、人や社会に害毒を与へるものと誰が思ふであらう、応用する場合、適応の病と、不適応の病とあり、是は専門のものにして知悉するものであるが、一般の人は是を知らないのである、斯の如く応用に限界があり故に灸治療を希望する人にそれを知らしめる事は、是非必要な事である、灸は熱いものである、故に効果のない病にすえては、無駄であり灸のあとが、皮膚に残る、灸が何に効き、何病に適応なるかを知る人は稀である、病気の場合医師を訪れるは普通の常識である、其治療の科目専門も今は一般の常識で、説明や指示する必要はない、内科の病の人は内科医を、外科、耳鼻、咽喉科、産婦人科等、患者は自己の病を考慮して其適応科目の医師に行く事は誰も誤りない筈である、然るに灸術に関する限りそれだけの常識は一般的には、ない、今日医術万能でない限り、医術にも限度があり薬物にも効果の有限がある、病院や専門医に罹つても治らない、と云ふ患者は、相当にあり、誰も悉く医薬に依つて治るとは思つて居ないし、それが現状である、今医薬がないからと云つて治らない患者は、病の治療を諦めるか、此の様な場合、患者の悩は実とに、深刻である、病に苦しむ、事は人生の悲劇である、医薬で、治らぬ時、他の何等かの治療を切望し探し求めんとする、是は病に罹つた時、誰もが、経験する心理である、此様な患者に我々が一番よく接する、医師に依る治療が、科学的検査や、数回の施療を要する病が、簡単に然も、1、2回の灸療で、見ごと治つたと云ふ例証は毎日の如くある、世間の人は是れを知らない、知らないのは知らしめないからである、永い間此様な患者を扱ひ多数の治験を以つて居る此の側から現代医術を眺めた時、あまりにも国家も大衆も医師偏重医薬万能に考へ頼り過ぎて居る観がある。我々医薬で効を見ない、患者を簡単速に治癒せしむる方法があるのに、国家も大衆も認識不足である、医薬で効を見ない時、他に治るべき療法があるならば、それを患者に教へる事は、公共の福祉に添ふものであり、共同生活の親心である。憲法に明記せる如く国民は健康で、文明的な生活をする権利がある。
[3] 国民が病に罹り、又不健康な場合、健康への幸福を追求せんとする時、国に於ては其願を叶へる何等かの便を与へる必要があると考へる、然るに過去の政府に於て認めて居た穏当なる適応症の表示さへも一切禁止するとは何たる事であらうか、治病や、健康を希望する、大衆の要望を遮断するが如き法律の条項や、是を知らしめんとする業者の宣伝表現を認めないとするなれば、是れ明に憲法第21条及其他の基本的人権の不当侵害である、我々は政府に於て、灸術検定試験の時、灸の適応症を課題され、それに合格して来た、其資格者が過去に認められて居た其適応症の表現広告するのに何故に禁止しなければならないのか、吾等の希望するのは穏当なる適応範囲内の広告である、此広告が禁止されるとしたら、灸を希望し然も何に効き何病に良いのか、知らない又、知りたき場合これを知らす事が出来ないとしたら、患者も業者も灸をもつと利用する事が出来ず、患者にも業者の生活にも不幸と云はなければならない。明治以来今禁止しなければ、ならない様な弊害があるとしたら、過去の政府と雖も決して認める筈がない。差支なしと認めたから禁止する事をしなかつたのである、然るに、自由と人権を与へる今の国体と憲法があるのに、永い間認められて来たと同じものを何故に禁止するか、是は憲法違反ばかりか、民主政治の逆行である、今仮りに一部に害があるとしても、有効有益なる要素を含んで居るものを知らしめず、害の方面のみを見て禁止すると云ふなれば、是は人権と公共の福祉を抹殺したる暴政である、今は宣伝の世の中である、我々が自己の営業を社会に知らしめ、患者を吸集せんとする生活上の要求病者に、自己の技術を知らしめ利用せんとする幸福追求の自由の権利、是を適切に広告せんとする、思想及良心の自由と表現の自由、此憲法が何条かの明文を以つて保障する基本的人権、是は侵す事の出来ない、永久の権利として我々に与へられ信託されたものである、広告を制限するにしても、公共の福祉に反しないとか、自己の技能、資格を、逸脱したるとかの条件を附して禁止するならば、とも角、只無条件に極めて僅かの範囲以上は、一切思想表現を禁止するとあるならば、斯の如き憲法精神を無視した法律が、存在するのは不思議な事である。害があるとの理由に依るならば、何事も悪用すれば、害は発生する、害ある故に禁ずるなれば、良き部面が多分に在り、其良き部面を発揮適切に行はるならば、社会の福祉に貢献するものあるに関らず、害のみを視、害の発生を怖れて全面的に禁止すると云ふ精神なりとせば明に憲法の恩典を無視し人権を不当に圧迫蹂躙するものと思はざるを得ない、然らば、法定の範囲内の表現広告したとて、それは、カンバン程度のもので、広告として何等魅力なく我々が、社会に知らしたく、又広告とその利益価値は全然ない。今は何業者も宣伝広告に必死となつて居る。何等かの方法を以つてしても、自己の存在と其技術を知らしめなければ、其存在と利用価値が減少して行くは、営業の常である、営業の存在を大きくし、収益を揚げ又社会にも、利益を及して行くには出来るだけ効果ある宣伝をする事である、我等も国家より免許を受け営業して居るものである宣伝の方法が公共の福祉に反せず、何等社会に害を及さないならば、憲法の恩典は充分に保障さるべきである。我々は狭い国土に生存して行かねばならぬ、新聞にラジオに街頭に、何業者も皆思ふ通り自由自在に宣伝広告して居る、我等も同じ、営業者である、然るに法律で、宣伝表現を極端に制限されて居る、公共の福祉に反しても、又添ふべきものであつても、法定の範囲を越えた時は、法違反なりとして、罪に問はれる、不公平も甚だしく、我等は不満ならざるを得ない、今迄我々の広告が、それ程害があつた事は私は知らない、其例も業界に発表されたものもない、只誇大の広告とか、患者を惑すとか位しか考へられない、害があると云ふなら、病院や医師の誤謬、間違つた、治療に依つて生命を失い、或は病を悪化せしめた例はいくらでもあり此様な患者に我等は常に接する、灸や鍼其他医業類似行為が必要でなくなる時代は医術や薬物が、万能的に効く様になる時代である、然しそれは、理想で、猶遠い前途である、灸の如き薬物の効なき病に卓効を奏し患者を速に病苦から救た例は世間どこにでも在る、これは皆患者から患者へ指示、教に依るものである、斯の如き医学万能でない限り、他の療法も有害ならざる様、社会に指示道標は許すべきである、政府や一般の人が、灸術を重要視しないのは、決して其科学的、臨床的に、低級的なものでなく発輝研究すれば、今日と雖も医術の一科をなすべき筈なるに、其扱が低かつたが為に世人の信用も認識も少なく業者の素質も向上出来なかつたに過ぎぬのである、知らざるものには、宣伝は必要である、有益なるものも、知らざれば、利用する事も、せられる事も次第になくなるのは当然である、今や灸や鍼の技術が宣伝広告する事も出来ず、社会から次第に忘れられつつある有様である、此傾向の中に業者は次第に生活不安を感じつつある、医者の普及良薬と健康保険の利用等然しながらまだまだ医術万能でない限り灸術をする人や必要あるべきを、法の為に、不当、圧迫、拘束される事は、遺憾千万な事である。製薬会社が、新薬を発売する時、胃腸薬何々、心臓病の薬等、薬の名称のみを広告した時、誰も其薬を買ふだろうか、是れでは何の魅力も、反響も微々たるものに違ひない、或程度、薬の応用効果を広告しなければ、商社の利益になる程収益はないであらう。今は民主政治であり憲法を以つて宏大なる自由と人権を附与して居る、之は公共の福祉に反しない限りと云う事になつて居る、灸師が永い間認められて居た、適応病名を広告したからとて、どこに公共の福祉に反し、社会に害を与へるものがあらうか、注射や服薬しても、効のない患者に対して免許あるものが其の術の適応症の広告する事は公共の福祉に添ふ事があつても、害があるとは常識では考えられない、法を以つて斯の如きものを禁ずるなれば、憲法保障の人権は一体どうなるのか、太陽の温き光が雲に蔽へぎられた如く我々は暗黒なる不自由なる世界に居住しなければならない事になる、今や侵す事の出来ない人権が、法の違憲の為に侵されて居る。健康と生活の安定を求めんとする幸福追求の自由を遮断され、過去には政府で認められて居た事項を、一般に知らしめんとする、良心と思想の自由、是れを表現せんとする自由、之等が無条件に禁止されて憲法精神はどこで生きるのか日本の憲法は末梢の法律の為に、其恩典が、遮断され得べきものであらうか、我等は与へられたる人権を不断の努力を以つて獲得保持しなければならない。
[4] 若し此法律が、立法の時、他の団体(医師会等)の為に考慮されたるものある時は、正しく国民平等一切無差別の条項に該当するものと考えられる。問題は、私の行為が、公共の福祉に反するものか、否やに依て判断されるものである、医師にかかつても病が治らぬ時、灸施療を希望するは、患者の自由である、不案内なれば、それに対して適当なる道標するは、妥当な事で、是れを禁ずる、それ自体公共の福祉に反する。法第7条の精神は業者が、誇大な広告し患者をして迷ひ惑はしめ治療の適切を誤らしめるを考慮したものと考えられる、我々は此様な事なき様反省しなければ、ならない、然しながら穏当なる適応病名を表示する事は、灸の智識の不案内なる大衆に、暗夜の灯、盲人の杖の如く、道に迷へる者に道標を示す如く公共と病者に寄与するものである、斯の如きものを一切禁止するなれば、非民主的の甚だしきものであり、それに違反したものは、此法の為に、処罰されるとしたならば、違憲法律の為に人権が、抹殺されてしまふ事になる、私は憲法附与の人権を堅持し今回の不当なる、大津簡易裁判所の判決に服する事は出来ない、然て斯の如き、悪法に断乎闘つて、人権及我々営業者の生活権擁護の為めに控訴を致すものであります。是は自分の一人の為ならず、全国業者の利益と公共の福祉の為に、責任を感ずるものである。あんま師、はり師、きゆう師、柔道整復師等法、第7条は、憲法第10章、第97条乃至8条、9条に抵触するものと考へる又同法の解釈に依つて違反を構成しない、関る法律を作成する時に当り日本に宏大なる、自由と数々の人権を与へ是を保障せる憲法が厳存するを知らないかと疑ふものであります。
[5] 今般自分の広告違反事件に関して告発当事者たる、草津保健所及警察署、検察庁の見解は当該広告は、あんま師、はり師、きゆう師、柔道整復師等法、第7条の法定の事項以外の事項に、わたつて広告したるが故に、違反なりとの見解を以つて告発し、起訴し、かつ罰金刑を言渡された自分は此事件は、違反とはならず、犯罪を構成するものではないとの考をもつものであります。同法第7条、後項目の内に、「前項第1乃至3号に掲げる事項について広告する場合にも、其内容は施術者の技能、施術方法又は経歴に関する事項に、わたつてはならない。」と規定してある、自分の広告の問題になるのは、技能である、起訴状に「灸の適応症であるとした、神経痛、リヨマチ、血の道、胃腸病等の病名を記載した、ビラを配布し以つて法定の事項以外の事項について広告したものである」云々違反の骨子となるものは、灸適応病名の表示である、即ち技能にわたつてはならない、とあるから問題は、技能にわたつて広告したか否かである、技能に関する事項に、わたつて居なければ犯罪要素を具備して居ない、然らば、技能とは、何を云うや、技能の見解を明かにしなければならない、然て、此技能に私の広告文章が、わたつて居るか否やを検討して見なければならない、第一に技能の定義其範囲、是の解釈を考て見なければならない。技。とはわざと云ふ事であり、腕前、技倆等と字典にのつて居る、即ち技を更に詳しく解した時、技は特殊の智能、学問経験を云い、是の表現は言論、工芸美術、其他普通以上の何等かの形態を以つて表現されるもので、技は静的なもので、精神中に内在するものである、即ち技は静的無形のもので、智能の内に僣在するものである、即ち技が発動すれば、特異、特殊なる感覚表現が感受されるものである、音楽の技術をもつて居ると云ふても、書画の技倆を有して居ると云ふも、それは、表現行動に発現せしめなければ、第三者に客観的に観受されない或技術を持つて居ると云ふても、一度も表現する事がなかつたら其人の技術は、精神中に、内在する無形のもの故、第三者には空無に等しきものである、音楽の技術は、其技智能を第三者に、特殊、賞観的に感受せしめるべき音波に表現しなければ、技だけでは、第三者は客観的には知り得ない書画工芸技術は、同じく物体を以つて第三者の視覚に、特殊的感動を起さしめるものでなければ、ならない。故に技のみを論ずる時、技は大脳中に僣在する無形の智能である、之を表現して始めて第三者に客観的に存在を知了せしむるものである、然しながら、技と云ふものは、誰にも簡単に行へる、かつ、第三者に客観的に、特異、特殊的なる感動を与へない、平凡なるものは技としての価値がない是を技と云ふ事は出来ぬ、余程の経験を経なければ、出来ない、普通では行へないものを、技として評価されるものであらう。尋常普通一般的のものを技術として評価されない、表現すれば、第三者に、五官的存在感覚を生ぜしめる特異、特殊の智能を技術と云ふのである、と自分は思考する。能。能とは、はたらき機能、作用にして活動する事を意味する、即発動作業する事であつて精神中に内在する智能が、外表面に発現する事である、精神中に、内在する技智能が形態を以つて第三者に客観的に存在表現するを覚知せしむる作動である、即ち技の表現行動である、人なれば、身体を以つて発動作用し、技其物の智識、学問、経験を外部に形態を以つて表示するを云ふのである。画家が技術を持つて居ても、一度も其機能を発揮しなければ技だけで、能なきに等しである。能ある鷹は爪をかくすと云ふが、死ぬ迄其爪の能を表さなかつたら、其鷹は能なきに等しである。鷹の爪のみを見て能ありとは云えぬ、爪を表すに依つて能ある鷹と云えると思ふ、技術あるものが、特殊なる、かくかくの事をすると云えば、技能を表現した事になる、自分の有する、技術を話すだけで、それを行ふと云はなかつたら技能を表した事にはならぬ、即ち作用行動を表示しないからである、能は静的のものでなく活動的のものであり無形のものでなく、何等かの形に依つて表現を生ずるものである。形態運営作用を発生作動しなければ技能とは云はれない。技は、智能、無形、静的、大脳中に僣在。能は、発動、有形、作用動的、五官に覚知す。以上の考察に依つて技能とは技術を作動をもつて表現したものを云ふのである、必ず、技術が、表現されなければならない、技術しだけを以つて技能と云えない、斯の如く技能とは、特殊なる、経験、智能、学問を外部に表現する事である、普通一般的にして大して経験を要せないものや、誰でも簡単に出来る一般的な行動を技能と云ふのではない、特殊、特有にして第三者たる外部に対して価値あるものでなければならぬ、自転車に普通に乗る事は技能的価値はない、誰にも一寸出来ない由来りしたり、普通平凡にして誰にもすぐ行はれる人々に感賞起さしめるに足らない様なものは技能ではない、又其行動源たる智能も技術でもない、即ち人間の常識行為たるに過ぎぬ。灸師が、灸の一般的、適応症名のみを記載した広告をした場合、灸の適応症だけなら技能を広告したとは云えぬ、灸の適応症と云ふは治療、病気に限界があり科学的に見て、又永い間、灸治療家の経験に依る治療の効果ある病気の範囲である、是は過去に於ても現在に於ても、灸師が、習学する時も又資格検定試験の時にも一般的常識的に課題されかつ認められて居たものである、是を心得る事は灸師の技術であつても、病名だけを表示したものを、技能にわたつたとは決して云はれない。其病を治すに就て其者特有の技術の機能、即ち技術の運営方法を表現したならば、技能と云ふべきも適応病名だけなら一般的なもので、作動運営を現して居らざる故に、是を以つて、技能と見る事は出来ないのである、適応病名は、灸治療家の行ふべき技術の範囲内の表示であつて業者の一般的技術である。病名表示は何の作動も表現行動も附しては居ない是を以つて技能なりとの見解をしたならば、静的のものを活動せる如き行過ぎた見方であり誤れる観察である。芸術家の今表現して居ない技術を指して何かを表現したかの如く見る事となる、今停車中の汽車を指して、走れる汽車とは云はない、弁論会の控室に居る弁士を指て弁舌鮮かとも、滔々たる弁論とも評する事も出来ないであらう、汽車は走る行動を起すものであり、弁士は言論を発するものであるが今停り、今言語を発して居なければ、行動の事を言ひ表す事は出来ぬ。技術を行動に移さなければ技能を表したとも技能に渉るとも云えぬ。灸師が一般適応病名のみを表したのは技術のみの表現で、作動を伴へる技能と云ふ事にはならないのである。これ故灸の一般適応病名たる、神経痛、リヨマチ、血の道、胃腸病等と病名のみを表示したものに技能に渉つたと、解するのは、停れる汽車を指して驀進して居ると云つたら人は笑ふであらう、絵を書いて居ない絵師を指して絵がける絵師と云ふ人があるだらうか、機能行動を起して居ない、静止の状態に在るものを活動せりと見たらそれは錯覚である、パーマーネントとカンバンを出した場合カンバンだけを見て此人は上手か下手か分るか、パーマネントなる技術経験は、此美容師の大脳中に僣在せる智能で,無形のものである、是れを表現する事が技能である、即ち技智能を発揮して行動に移して第三者の五官に覚知せしめなければ、技術の有無は分らない。左甚五郎、狩野探幽の彫刻又は画を見て観賞するは、其の人の技術の表現物があるからである、これは術者の技能の証拠物件である、技術だけなら此術者は何百年前に世に没し去つて居る、技能は飽く迄も行動を伴へる技術の表現、現象である。法律条項に、技能にわたつてはならない、と云ふ事は行動表示してはならないと云う事である、機能を起して居ないのに、機能を起したものとして処分されたら是は誤りの判断に依るものである、犯罪要素を具備して居ないのに、具備して居るが如き判断に依つて犯罪人とされたら由々しき人道問題にはならないか、自分の技術表示の広告を見て、法定の事項以外の事項について広告したものである。と、起訴状にある、条項の内に業者が広告せんとする場合でも、技能にわたつてはならないとある、技能にわたつたか、わたらないかは何を以つて判断されるのか、第一は技能とは何ぞやと云ふこと、技能の正しき見解をもつて考へなければならない、私の此見解は前記の通りである、前記の見解に依つて見る時、自分の広告は技能にわたつては、ならない。と云う条項に該当して居ないとの考をもつて見るものである、此広告は技を表示して居ても、表現行動たる能は表現して居ない、即ち、技能にわたつた広告したものではないと判断するものである、技能にわたつたら犯罪要素を具備するであらうが、技能にわたつて居なければ、其重要なる要素を欠いて居る、犯罪要素を欠いて居るものは違反を構成するものではない、技能にわたつてはならない、との規定に関して技能にわたつて居なければ、違反とならない事は明瞭である。灸術の広告を技能と見る時は、どうして治すか。とか、治るとか、何回で治るとか痛が止るとか、何病の前とか速効ありとか、即ち技術を運用して特殊なる結果を招来すべき事を予定するを表示したものを技能と云ふのである、必ず、技術の運用発揮が伴ふものでなければ、技能とは、云はれない故に神経痛、リヨマチ、血の道等、適応病名だけならば、其運営作用を表現してない故に、是を、技能にわたつたと見るは浅識の謬見なりと考へる。神経痛専門の灸、中風の灸、胃腸病特効の灸、リヨマチの各灸等は、技能に、わたるものであると解釈する事が出来る、神経痛、リヨマチ、胃腸病等の適応病名だけなら其表示者特有のものでなく業者なら皆知り、かつ灸の適応症として科学的に認められて居るものなのである、是れを自己に特殊的に現し其技術の発動作用を現したら、技能の広告と云ふ事が出来る、神経痛と云ふだけでは、神経痛なるものを、どうして治すか、どう扱ふか、との様な結果を来すか、何も分らない、それは技術だけの表示だからである。神経痛専門の灸と云えば、神経痛を主要に扱ひ特殊的に治すと云ふ、機能運営がはつきり分るそれが技能である、自分の広告は、此病名だけしか、表示して居ない、自己のそれに対する機能は広告されて居ない故に違反とならないと私は信ずる。鍼灸が検定試験をされ、明治44年、内務省令に依つて鍼術、灸術、取締規則と云ふものが、公布された時、其時の条規の中に、第6条、「業者は、施術方法、経験、技能に関する広告をする事を得ず。」と規定され、之を犯したものは、科料又は罰金に処すと規定されてあつた、それが、昭和23年、新法が公布されるまで多少改正されて居ても、同様の主旨のものが、効力をもつて居た、然て此規則に依る技能を広告する事を得ず。と云ふ、技能は今回自分の見解に依るものと同一の様であつて、業者が、適応症名列記は差支なし、として認めて来たのである、其頃の内務省伺ひに依るも、鍼灸業者が、適応病名表示せる広告は差支なしとし違反とは認めて居なかつた、それを裏附ける文書を自分はもつて居る、昭和22年迄其様な法的な扱に依つて経過して来たものである、それ迄は業者は、神経痛、リヨマチ、胃腸病等病名だけを表した広告は違反に問はれなかつた、自分も昭7年位より17年位迄今回と同様な広告を各方面に配布したが、違反に問はれた事は一度もなかつた、然るに民主国体となつた現在「言論出版、その他一切の表現の自由はこれを保障する。」と云ふ実とに宏大な人権行使を認めて憲法、条項に保障されて居るのに、表現禁止に等しき範囲を定めそれ以上一歩も表現意志を認めないと云ふ事は人権行使を極端に圧迫禁止せる、言語道断の法律である、斯の如きは政府自ら憲法条規を無視し人権を奪ひ、違憲行為を、なして居ると思はざるを得ない。法をもつて取締り人を罰するには、公共の福祉に反し社会、国家に損害を与へ其の行為が共存、社会に害があると認められるからで、灸師が適応症を広告したとて、そのどれに、該当するであらうか、然も法の中に技能にわたつてはならない。とある其技能にわたつて居ないのに、其解釈もなく、技能にわたつた、との見解をもつて告発、起訴、罰金判決を下されるに至つては人権は認められないかと思はれ遺憾至極悲しい事である、法第7条広告制限条項の中、第2項の第1条に、規定する業務の種類、とは、あんま、はり、きゆう、柔道整復等の業者の扱ふ術科目種類を云ふ、と思うが、此業務の種類の中に、技能にわたらぬ限り従来より認められて居た、適切なる、適応症名を包含しても差支なきものと考へる、何を扱ひ、何に効果あるかを知らしめる事は社会の人が、灸の適応症と云ふものを、大多数知らない故に、道標として含まれて居ても決して害が発生するものではないと思ふ、それ位の事を知らしめなければ、灸を求め、其適応症を知りたき人に、不安と惑ひの念を抱かしめ、利用を遮ぎり迷しめる事になるであらう、然るに、法令のみに、こだはり厳格にこれさえも認めないとするならば徹底的に、表現の自由を奪取せる見解なりと云はざるを得ない、灸師が適応症名を広告したとて、之が世に有害迷惑と批判する人は冷静なる常識をもつ人の中には恐らくないであらう。顧みて私は斯く人権を守る。
[6] 今回私の違反事件となつた、あんま師、はり師、きゆう師、柔道整復師等法、第7条に対して私は同法、同条項の規定は、憲法の人権を保障せる、各条規に違反抵触して、人権を不当に圧迫、禁断せる違憲法律なりとの考をもつものであります。依つて此法律の違憲性と憲法の効力に就て私の常識的、見解を申述べたいと思います、憲法は国の最高の法規であり、総ての法律命令其他一切の国務に関するものは、憲法の規定と精神に準じて定められ行はるべきは云ふ迄もない事である。
[7] 然て総ての、法令行為に関しても、憲法効力は優先すべきものなる事は、第10章に宣言されて居る。然るに茲に、憲法明文に違反せる法律が公布された時、此法律の効力は、いかなるべきか、違憲法律が公布されても憲法第98条に照した時、其効力を有しない事は、明文をもつて示されて居る、私の疑義をもつものは、違憲法律が最高裁判所の判決に依つて効力を失い、それ迄は明に違憲であつても、其法律は効力を有するものであるとしたならば、違憲の裁定を得ない限り其法律は違憲の儘に、社会に効力を発生して居て、折角の憲法の恩典が雲に蔽える日光の如く国民は常に憲法の憲法の恩典を知らず、是が無期間に、不利を受けて行く事になる、又幸にして最高裁判所の判決を得たものは良いが、違憲であるが、最高裁判所の判決を経る手続する事もなく、違憲と思はれても、其儘に存在せる法律があるなら無期間に憲法を遮断してしまふ事になる違憲法律が、斯くの如く生きて居る限り憲法の恩典は国民に届かず、太陽の恵みを違憲と云ふ雲が遮蔽して其恩恵を受ける事が、出来ない事になつてしまふのである。猶斯の如き違憲法律の為めに、それを犯したからとて、処罰されるとしたら是れ程不幸な事はない。これでは憲法の恩典は死文となつてしまふ。明かに違憲である法律は立法の時、憲法条規を誠実に遵守する事を忘れたものとして、又憲法に違反して作成公布されたものとして、法律としての形の効力があつても、憲法条規に照鑑した時、最高法規の力に依つて其効力を失ふものである、憲法は一切のものに優先的に効力を有して居るとしたら、違憲法律は公布の姿の儘に効力を失つて居るものであると考えられる、故に憲法保障の人権は、法律をもつてしても、公共の福祉に反しない限り不当に制限し得ない筈である、憲法は国の法治の根底をなす、最高の法規であつて法律は憲法の規定条項の内に作成されなければならない、従つて其法律は、憲法条規を誠実に遵守されて居る事に於て、効力を有するものであり、若し明かに、憲法明文に違反したものがありとしたならば、其法律は、憲法第98条に抵触して効力を失つて居ると常識的に考えられる、普通に法律に反する場合は、公共の福祉にも反すると考えられるであらう、違憲の法律にして憲法精神を無視し人権をも尊重しないものが、あるとしたならば、或は、又其内容に不備欠陥があるとしたならば、此様なものは、公共の福祉に反するものであると考えられる、此様な法律が、いつ迄も、効力があるならば、憲法条規は此法律の為に常に死文となつてしまふ事になる、憲法に逆く法律は、憲法の優先効力に依つて其拘束力を失ふは当然である、憲法に反して居ても、一度公布された以上法としての効力を発輝するならば、憲法効力はこれの為に、抹殺されてしまふ事になるのではないかと思ふ。末梢のために大本の精神が封ぜられて然も違憲として取上げない限り、いつ迄も此状態が、続いて人は常に圧迫、侵害されて居る事になる。憲法が大切なのか、法律が大切なのか、憲法は国の大本を規定せる根本法規で是れを侵す力のものは日本には存在しない筈である、是れに違背せる法律、命令、国政等一切のものは、憲法優先効力にていつでも無効となると考える、裁判所の此審査権は、外部に向つて之を公表し、判決はこれを決定する事になるのであらう、法律は違憲性があつても、一度公布された以上、是れに違反したものは、当然法違反として罪に問はれるとしたら憲法の恩典はどうして受けるのか。憲法に随順してこそ,法としての効力あれ、第98条の規定がある以上、憲法条規に反する、法律は効力なきが儘に存在して居ると見られる、法律のみを眺めた時、違反者は罪となるかも知れないが、最高法規の立場に立つて其条規に照した時、法律は当然効力を失ふべきである、見解に依つて差異が生ずるものなら、とも角、明に憲法条項に条文となつて居るものを法律が禁止して居るとなつたら、見解に依つて動くものではなく、違憲は明かで、法の失効は当然である。太陽本然の姿は、光明燦然たるもので、決して光が薄くなつたり。暗くなつたりするものではなく、斯の如くなるのは、地上の雲霧等の障害である、憲法の恩典は、平等無差別に宏大なる太陽の温熱の如く自由と人権を認めて居る、国家社会に損害し、公共の福祉に反しない限り、これを制限したり、禁止したり奪取したりする事は法律命令をもつてしても、許されない事は、憲法第10章に明に宣言してある、此様な、場合に処しても、我々に憲法第11条乃至12、13条及第19条、第21条の憲法保障に依る基本的人権を侵す事の出来ない、永久の権利として不断の努力を以つて保持しなければならない、私は斯の如く信ずるものであります。

■第一審判決   ■上告審判決   ■判決一覧に戻る