裁判員制度合憲判決
控訴審判決

出入国管理及び難民認定法違反,殺人,死体遺棄被告事件
東京高等裁判所 平成22年(う)第42号
平成22年4月22日 第2刑事部 判決

■ 主 文
■ 理 由


 本件控訴を棄却する。
 当審における未決勾留日数中90日を原判決の刑に算入する。


[1] 本件控訴の趣意は,弁護人宮田桂子作成の控訴趣意書,同補充書(弁護人は,「第2 事実誤認について」に記載のある責任能力に関する主張は,職権で考慮してほしい事項として主張する旨釈明し,2頁の下から10行目の「しかしながら」から同頁の下から4行目の「接していない」までの主張は撤回すると述べた。),同補充書2(弁護人は,2頁の9行目「また,取調べ状況報告書」から同頁15行目までの主張及び3頁の「3 選任手続についての疑問」の主張は撤回すると述べた。)及び同補充書3に,これに対する答弁は検察官村岡正三作成の答弁書に各記載されたとおりであるから,これらを引用する。
[2] 論旨は,裁判員制度は憲法に違反する制度であり,同制度により行われた原審裁判は無効である,というのである。

[3] 所論は,憲法は司法権の担い手として裁判官のみを予想して設計されており,裁判員制度は憲法の予想しない制度であって,被告人の裁判を受ける権利(憲法32条,37条)を侵害するものである,という。
[4] そこで,検討すると,憲法が司法権に関して第6章(76条から82条)の規定を置き,裁判官の職権の独立やその身分保障等を定めていることからすれば,憲法が裁判官を下級裁判所の基本的な構成員として想定していることは明らかであるが,憲法は下級裁判所の構成については直接定めておらず(憲法76条1項では「法律の定めるところによる」とされている。),裁判官以外の者を下級裁判所の構成員とすることを禁じてはいない。憲法と同時に制定された裁判所法3条3項が刑事について陪審の制度を設けることを妨げないと規定していることや,旧憲法(大日本帝国憲法)24条が「裁判官の裁判」を受ける権利を保障していたのに対し,現行憲法32条が「裁判所における裁判」を受ける権利を保障することとしていることからも,憲法制定当時の立法者の意図も,国民の参加した裁判を許容し,あるいは少なくとも排除するものではなかったことが明らかである。憲法は,76条2項,32条,37条などの規定によって,独立して職権を行使する公平な裁判所による法に従った迅速な公開裁判を要請し,そのような裁判を受ける権利を刑事被告人に保障しているのである。そして,裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(以下,単に「裁判員法」という。)では,法による公平な裁判を行うことができる裁判員を確保するために,資格要件や職権の独立に関する規定等が置かれ,適正な手続のもとで証拠に基づく事実認定が行われ,認定された事実に法が適正に解釈,適用されることを制度的に保障するために,法令の解釈や訴訟手続に関する判断は裁判官が行い,裁判員が関与する事項については,合議体を構成する裁判官と裁判員が対等な権限を持って十分な評議を行い,その判断は裁判官と裁判員の双方の意見を含む合議体の過半数によって決せられることとされており,このような裁判員制度は憲法の上記要請に沿うものであって,刑事被告人の権利を侵害するものではない。
[5] 所論は採用できない。

[6] 所論は,参加意思の有無にかかわらず国民に裁判への参加を強制し,守秘義務や財産上の不利益等の負担を課す裁判員制度は,憲法が保障する国民の基本的人権(憲法13条,18条,19条,21条,29条)を侵害するものである,という。
[7] なお,検察官は,この点について,所論は被告人以外の第三者の権利を援用する主張であり,被告人は裁判員裁判に参加する国民の権利について具体的な利害関係を有しないのであるから,その主張適格がない,という。
[8] しかし,裁判員制度は司法権を担う下級裁判所の構成に直接関わるものであり,同制度が国民の基本的人権を侵害し憲法に反するものであるとすれば,被告人の裁判を受ける権利(憲法32条,37条)を侵害することになるから,この点について被告人の主張適格を否定することはできない。
[9] そこで以下,所論について検討すると,裁判員制度が裁判員に選任された者について,辞退事由が認められない限りその職に就くことを義務付けているのは,裁判員制度が司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する(裁判員法1条)という重要な意義を有する制度であり,そのためには広く国民の司法参加を求めるとともに国民の負担の公平を図る必要があることによるのであって,十分合理性のある要請に基づくものである。そして,その義務の履行の担保としては刑事罰や直接的な強制的措置によることなく秩序罰としての過料を課すにとどめ(同法112条),一定のやむを得ない事由がある場合には辞退を認め(同法16条。なお,平成20年1月17日政令第3号の6号は,「精神上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当の理由」を辞退事由として規定している。),また,対象事件については必ず公判前整理手続に付して争点や証拠を整理することとして集中的・計画的審理の実現を図り(同法49条),出頭した裁判員に対して旅費・日当を支給する(同法11条)等,国民の負担を軽減する措置を講じている。裁判員制度の意義の重要性を踏まえて,これらの点を考慮すると,裁判員になることが義務付けられているとはいえ,それは裁判員制度を円滑に実施するための必要最小限度のものと評価することができ,そのような制度が憲法13条,18条,19条等に抵触するとはいえない。
[10] 次に,守秘義務についてみると,憲法21条が保障する表現の自由も公共の福祉による合理的で必要やむを得ない程度の制限を受けることがあるところ,裁判員,補充裁判員及びこれらの職にあった者に守秘義務を課すことは適正な刑事裁判を行うために必要不可欠なことであり,裁判員法108条に規定する内容の刑罰を伴う守秘義務を課すことは憲法21条に抵触するとはいえない。
[11] また,裁判員等に生じる財産的負担についてみると,財産権にはそれ自体に内在する制約があるほか,憲法29条2項により立法府が社会全体の利益を図るために公共の福祉に適合するような規制を加えることができることとされており,裁判所としては,立法府の判断が合理的裁量の範囲を超えるものである場合に限り憲法29条2項に違背するものとしてその規制立法の効力を否定することができるものと解すべきである(最高裁判所大法廷昭和62年4月22日判決・民集41巻3号408頁参照)ところ,上記の裁判員制度の目的が公共の福祉に合致することは明らかであるし,所論が指摘する財産上の不利益が生じる可能性があるからといって,裁判員制度を設置した立法府の判断が合理的裁量の範囲を超えるものとはいえない。
[12] 所論は,採用できない。

[13] 所論は,裁判員制度における手続について,(1)証拠開示手続に著しい不公平がある,(2)裁判員に対する分かりやすさ,参加しやすさばかりを指向した争点・証拠の絞り込みが行われるため,本来あるべき刑事裁判の主張や立証の在り方を切捨てている面がある,(3)弁護人が検察官と同様に冒頭陳述を行うことで,裁判員が検察官の主張と弁護人の主張のいずれが正しいのかという見方をしてしまい,本来検察官に立証責任があるにもかかわらず,弁護人の主張が信用できないからという理由で検察官の主張を正しいと判断するという事態を生じかねないという制度的な欠陥がある,(4)裁判員への分かりやすさを追求するあまり,扇情的あるいは誤導的な主張,立証が行われる危険がある,として,憲法31条に規定する適正手続の保障を侵害するものである,という。
[14] しかし,(1)について,現行の証拠開示制度は,充実した公判審理を継続的,計画的かつ迅速に行うための公判前整理手続において,当事者に主張を明示させ,類型的証拠のほか主張関連証拠を開示させることとしたものであって,その目的や手続は合理的かつ妥当なものであり,憲法31条に違反するものとはいえない。所論が指摘する(2)ないし(4)の各点はいずれも制度運用上の問題であって,そのような運用に陥らないような配慮が求められることは当然であるが,直ちに憲法31条の問題となるものではないし,所論が指摘する点が制度的な欠陥であるともいえない。所論は失当である。
[15] 論旨は,要するに,原判決は,被告人が,平成21年3月9日(以下「平成21年」の記載を省略する。),千葉県a郡所在のA方台所において,A(当時30歳)に対し,殺意をもって,包丁でその胸部等を数回突き刺すなどし,同人を心臓の刺し傷からの大量出血により死亡させ(原判示第2),同月11日,ビニールシートに包んだ同人の死体を栃木県b市所在の牧場内に掘られた穴の中に遺棄した(同第3)との事実を認定しているところ,原判決は,被告人の原審公判供述,捜査段階における供述証拠(心情等についての5月27日付けの検察官調書抄本(乙8)や殺害を認める旨の5月24日付けの検察官調書抄本(乙11)),殺害現場の状況等に関する統合捜査報告書(甲16)の各証拠の証拠能力を認めてこれを上記事実認定の証拠としているが,これらの証拠はいずれも弁護権侵害により得られた自白の反復自白やその派生証拠であって証拠能力が否定されるべきであり,他の証拠によっては上記事実は認定できないから,原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反及び事実誤認がある,というのである。
[16] しかしながら,控訴理由として訴訟手続の法令違反及び事実誤認を主張するには,いずれも訴訟記録及び原裁判所において取り調べた証拠に現れている事実であって明らかに判決に影響を及ぼすべき法令違反あるいは事実の誤認があることを信ずるに足りるものを援用しなければならないところ(刑訴法379条,382条),本件においてはその援用がなされていない(なお,一件記録によれば,被告人が殺人罪で5月11日に逮捕され同月13日に勾留されたこと,同月18日に被疑者国選弁護人が選任されたことが認められるが,これのみで明らかに判決に影響を及ぼすべき法令違反や事実の誤認があることを信ずるに足りるといえないことは明らかである。)。
[17] 弁護人は,これらの点を立証するために,当審において新たな証拠(被告人の弁解録取書,勾留質問調書,検察官調書,取調べ状況報告書,被告人の警察署における出入房や弁護人の接見日時等に関する弁護士会照会事項回答書等)の取調べを請求するのであるが,本件については原審において公判前整理手続を経ていて,上記弁解録取書,勾留質問調書,検察官調書,取調べ状況報告書は検察官から原審弁護人に対して証拠開示されていたにもかかわらず,その取調べ請求はなされていなかったものであり,弁護士会照会事項回答書等についても原審における入手に支障のなかったものであるから,その取調べ請求をしなかったことにつき,刑訴法382条の2第1項の「やむを得ない事由」があるとはいえない(弁護人は,原審弁護人の弁護活動が不適切であったというが,そのような事情は窺えない。)。
[18] したがって,上記訴訟手続の法令違反及び事実誤認の主張は刑訴法379条,382条,382条の2第1項の要件を欠き,不適法である。

[19] もっとも,所論のうち弁護権侵害による自白の証拠能力に関する主張については,事柄の性質にかんがみ,職権で調査することとする。
[20] 本件記録及び原審証拠並びに当審で職権により取り調べた証拠によれば,(1)被告人は,5月1日に死体遺棄罪で逮捕された当初から死体遺棄の事実を認めていたところ,同日,被告人の希望により当番弁護士(B弁護士)と接見し,5月2日,勾留手続においても,死体遺棄の事実を認めるとともに当番弁護士との接見を希望し,翌3日,当番弁護士(C弁護士)と接見したこと(職権で取り調べた当審弁2ないし4,当審検2。以下「当審弁」とあるのは,職権で取り調べた証拠の弁号証としての番号である。),(2)被告人は殺人罪で5月11日に逮捕された当初から殺人の事実を認めるとともに被疑者国選弁護人の選任を希望する旨捜査官に申し出ていたが(当審弁4),担当者の手違いにより国選弁護人請求書・資力申告書の作成及び裁判所への送付が遅れ,5月18日に至って,これらの書類が作成・送付され,直ちにD弁護士が国選弁護人に選任され(当審弁25),次いで同月22日,E弁護士も国選弁護人に選任されて(当審弁26),D弁護士とともに被告人の弁護活動に従事するようになったこと(両弁護士は起訴後も国選弁護人である。),(3)5月18日,担当検察官が被告人に対し,担当者の手違いで被疑者国選弁護人の選任手続が遅れていたことを謝罪するとともに当日その手続を取った旨を告げ,かつ,殺人罪による逮捕から5月18日までの間に被告人を取り調べて得た被告人の供述内容は裁判の証拠として用いない,弁護人が選任され,被告人と接見した後に改めて初めから取調べをするので,弁護人の助言を受けて新たな気持ちで話してもらいたい等と説明したこと(当審弁6),また,現にその間に作成された被告人の供述調書は原審において証拠請求されていないし,取り調べられていないこと,なお,上記被告人の供述調書は原審弁護人に対して証拠開示されていること,(4)原審においては,いずれも被告人が出頭した上で3回にわたって公判前整理手続期日が開かれ、第3回公判前整理手続期日において,最終的な争点及び証拠の整理が行われ,その結果,出入国管理及び難民認定法違反(原判示第1)及び死体遺棄(同第3)についてはいずれも争いがなく,殺人(同第2)についての争点は,殺意の発生時期であり,原審弁護人の主張は,被告人に殺意が生じたのは被告人が被害者の首を切った時点であり,それ以前の行為は殺意をもってなされた行為ではないというものであるとされ,殺害現場の状況等に関する統合捜査報告書を含む甲号証(甲13ないし22),被告人の5月24日付け検察官調書抄本及び5月27日付け検察官調書抄本を含む乙号証(乙8ないし12)の証拠請求について同意の上採用決定がなされたこと,(5)原審第1回公判期日における被告人の事件に対する陳述は,「被害者の腹と胸を刺したときは殺そうとは思わなかった。のどを切ったときには殺そうと思った。あとは間違いない」というものであり,被告人は原審第2回公判期日に実施された被告人質問においてもその陳述に沿う供述をしていることが認められる。
[21] 以上の事実によれば,殺人罪により逮捕勾留された被告人が被疑者国選弁護人の選任を希望していたにもかかわらず,担当者の手違いによりその選任手続が遅れたことは弁護権の侵害に当たるが,被告人が逮捕当初から死体遺棄や殺人の事実を認めており,自白を獲得する目的で故意に弁護人選任手続を遅らせた等の事情も窺われない本件においては,そのような弁護権侵害に,被告人のその当時の身柄拘束をも違法,無効とするまでの違法性があるとはいえない。また,弁護権が侵害されていた間に得られた被告人の供述証拠は原審において一切証拠請求されておらず,弁護人が選任された後に改めて被告人の取り調べが行われて供述調書が作成され,被告人も出頭して開かれた公判前整理手続において,所論が指摘する上記証拠を含む検察官請求証拠について弁護権侵害等の主張がなされることなく,同意意見が述べられたという経過にも照らすと,原審で取り調べられた証拠が弁護権侵害により得られた自白の反復自白やその派生証拠ではないことは明らかというべきである。
[22] なお念のため,所論が指摘する証拠について個別に検討してみても,被告人の5月27日付け検察官調書抄本(乙8)は被告人の日本における生活状況や被害者との関係(被告人が被害者の経営する整体院で住込みの整体師見習いとして稼働するようになった経緯,被害者を兄として慕い尊敬していたこと等)について,5月24日付け検察官調書抄本(乙11)は被告人が被害者の死体を遺棄した状況についてそれぞれ供述したものであり,いずれも争いのない事項に関するものであって任意性や信用性が問題となるようなものではないし,供述内容と弁護権侵害との間に因果関係があるものともいえない。殺害現場の状況等に関する統合捜査報告書(甲16)は,犯行(殺人)現場の見取り図,ルミノール検査の結果,現場にあった洗濯機の中から包丁が発見された状況に関する報告書であり,被告人の身柄拘束とは直接の関わりのないものであり,弁護権侵害により得られた自白の反復自白やその派生証拠とはいえない。被告人の原審公判供述の内容は争点である殺意の発生時期について被告人の主張に沿うものであって,弁護権侵害の影響を受けたものといえないことは明らかである。
[23] 論旨は,要するに,(1)出入国管理及び難民認定法違反の罪による逮捕は殺人及び死体遺棄の自白を得る目的でなされた別件逮捕であって違法である,(2)原審裁判長が通訳による被告人質問を促す訴訟指揮を怠り,被告人質問が日本語で行われ,被告人の意思が裁判員に正確に通じなかった結果,不当に重い判決が導かれているのであるから,原審裁判長の訴訟指揮には憲法及び刑訴法に違反する手続的瑕疵がある,(3)原判決が,殺人の事実を認定する証拠とした被害者の死体や血糊のついた包丁の写真,証拠物としての包丁は,いずれも裁判員にショックを与えて被害を過大に評価する不当な心証を形成させ得るものであるから法的関連性を欠き,証拠能力がない,(4)原審においては,原審弁護人及び検察官によって,裁判員に対する分かりやすさを追求すると称して誤導的な訴訟行為がなされ,これに対して原審裁判長が的確な訴訟指揮を行わなかったところ,以上はいずれも判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反である,というのである。
[24] しかし,(1)については,出入国管理及び難民認定法違反の罪による逮捕は,その理由と必要性があってなされたものと認められ,記録を精査してみても,これが専ら殺人及び死体遺棄について被告人を取り調べる目的でなされた違法な別件逮捕であるとはいえない。
[25] (2)については,記録によれば,被告人は,平成14年10月に来日した後,昼間は日本語学校に通い,夜間は工場等でアルバイトをするという生活を送り,平成15年春ころから平成17年6月ころまで日本人女性と同棲して子どもを儲け,その後は牧場で住込みで働いていたという経歴を持ち,日常会話に困らない程度には日本語能力を身につけていること(被告人は原審公判において,普通の会話なら日本語で話せる旨述べている。),通訳人を介さずに被告人質問を行うことは被告人の希望によるものであったこと,原審第2回公判において実施された被告人質問においては,原審弁護人の主尋問は通訳人を介さずに質問・応答が行われたが,検察官の反対尋問,裁判員及び裁判官の補充質問は全て通訳人を介して質問が行われ,これに対して被告人が日本語で答え,被告人が必要とした時に通訳を介して答える,という方法で実施されたことが認められ,これらの事情に照らせば,通訳に関する原審裁判長の措置は適切であり,通訳を介さなかった部分についても被告人の意思は十分に裁判員に伝わったものと認められる。
[26] (3)については,原審で取り調べられた被害者の死体の状況や凶器を撮影した写真,証拠物としての凶器はいずれも客観的で証明力の高い証拠であり,裁判員に不当な心証形成をさせるようなものとはいえないのであって,これらを採用して取り調べたことが訴訟手続の法令に違反するといえないことは明らかである。
[27] (4)について,所論は,ア 原審弁護人が被告人質問の際に犯行直前の被告人と被害者との殴り合いの状況を弁護人2人で再現したが,このような演出は有害無益である,イ 検察官は論告において,被告人の動機に酌むべき事情がないとして「物損事故について」という項目を立て,起訴事実である不法残留と並べて,無免許・飲酒運転を掲げ,裁判員に起訴されていない余罪を認定させる危険を犯している,また,裁判員に対し,不法残留や無免許・飲酒運転による物損事故によって被告人の悪性立証をするかのような印象を与える論告メモを配布しているが,ア及びイのような不当な訴訟行為に対して原審裁判長が的確な訴訟指揮を行わなかったことは訴訟手続の法令違反に該当する,という。
[28] しかし,アについては,先に被害者が被告人に対して攻撃を加えてきた等の被告人側の主張を裏付ける防御活動の一環として実施されたものであり,イについては,殺人の犯行に至る経緯を述べるものであって,いずれも不当なものとはいえず,所論は採用できない。
[29] その余の所論を検討してみても,原判決に所論がいうような訴訟手続の法令違反はなく,論旨は理由がない。
[30] 弁護人は,控訴趣意補充書(平成22年3月5日付け)の「第2 事実誤認について」は,被告人が本件殺人の犯行当時,責任無能力ないし限定責任能力の状態にあったことを主張する趣旨である旨釈明したが,同主張は控訴趣意書提出期限(平成22年2月19日)後に新たになされたものであって不適法な主張であるし,職権をもって記録を検討しても,被告人の責任能力に問題があったことは窺われない。
[31] 論旨は,要するに,被告人を懲役18年に処した原判決の量刑は重すぎて不当である,というのである。
[32] 本件は,被告人が本邦に不法残留し(原判示第1),その間に,知人を殺害し(同第2),その死体を遺棄した(同第3)という事案であるが,原判決の量刑に関する判断は正当である。
[33] 原判決も説明しているとおり,殺人については,被告人が惹起した交通事故の示談交渉に尽力していた被害者との意見の相違に端を発した争いから殺害に至ったものであるが,余りにも短絡的なその経緯や動機に酌むべき事情はないこと,殺害の態様は素手の被害者に対し包丁を使ってその体の枢要部分(腹部,胸部)を複数回突き刺した上,最後には首を切り裂いてとどめをさすという強い殺意に基づいた執拗なものであること,仕事や生活の場所を与えて親しく面倒をみていた被告人から突如として包丁で突き刺されて多大な恐怖や苦痛を味わい,30歳という働き盛りの若さで妻を残して落命した被害者の無念は察するに余りあること,当然のことながら遺族である妻の処罰感情は厳しいこと,死体遺棄についても殺人の発覚を免れるためという動機に酌むべき事情はなく,家畜の糞尿を貯めておく穴の中に投げ入れるという態様も悪質であること,不法残留も5年を超えて長期にわたるものであることなどに照らすと,被告人の刑事責任は重いといわざるを得ない。
[34] 一方,殺人の犯行はけんかに端を発した突発的なものであって計画性はないこと,被告人は,殺意の発生時期については争うものの事実関係は認め,被害者や遺族に対する謝罪の気持ちを表明するなどして,反省の態度を示していること,被害者の妻に対して被害弁償の一部として99万6500円を支払ったこと,日本における前科はないこと,父親が原審公判において被害者遺族への謝罪と被告人の監督を約束していることのほか,原判決後,被告人は,被害弁償の一部の支払いに代えて,被告人所有の自動車を処分することによって被害者の債務の弁済に充てたことが認められることなど,被告人のために考慮すべき事情はあるけれども,これらの事情を加えて検討してみても,原判決の量刑はやむを得ないものであって,これが重すぎて不当であるとはいえない。
[35] 所論は,(1)裁判所は,「量刑の基本的な考え方」と題する文章に示された考え方や量刑検索システムを利用して量刑判断を行っているが,前者は社会常識における一方の極(刑の上限)の問題しか考慮していないものであり,後者は正確性に問題があるものであって,いずれも裁判員の量刑判断を誤導する可能性のあるものである,(2)被告人は,本件殺人の犯行時,パニック状態にあり,強い殺意など持ちようがなかったにもかかわらず,「強い殺意」を認定した原判決には量刑に影響を及ぼす事実誤認がある,(3)原判決は,殺人の犯行がけんかの際の突発的なもので計画性がなく,先に暴力を振るったのが被害者であるという被告人に有利な事情を十分に評価していない,(4)原判決は被告人が被害者の遺体を汚物を貯めた穴に投棄したことを量刑を重くする事情に挙げているが,遺体に対する考え方に関する国民性の違いを看過しており,また,被告人には遺体を辱めようとしたり犯行発覚を遅らせようとしたという明確な意図はなかった,(5)被告人は若く,日本語学校を中退した後も独力で日本語の能力を高め,職場に適応するなど能力も高く,被告人を気遣う両親を持っているのであるから更生可能性は大きい,という。
[36] しかし,(1)については,「量刑の基本的な考え方」や量刑検索システムは,当然のことながら参考資料として示され,利用に供されているものであって,裁判所の判断を覊束する性質のものではなく,原審においてこれが利用されたとしても,何ら不当な影響を及ぼすものとはいえないから,所論はその前提を欠き失当である。
[37] (2)については,当時被告人が怒りや興奮が入り交じった心理状態で無我夢中であったことは否めないものの,殺害に包丁を用いていること,当初から腹や胸といった身体の枢要部分に複数回の攻撃を加えていること,刺突により被害者の身体に生じた傷の程度,最後にはのどを切ってとどめをさしていることに照らせば,被告人に強い殺意があったことは明らかであり,この点についての原判決の判断に誤りはない。
[38] (3)について,原判決は,殺人の犯行がけんかの際の突発的な犯行であって計画性がないことを被告人の刑事責任を軽減する事情として挙げており,十分な評価がなされている。また,先に暴力を振るったのが被害者であるという事情は,本件殺人の態様や結果等に照らせば、被告人の刑事責任を軽減する事情として格別考慮することができないことは原判決が説明するとおりである。
[39] (4)について,所論は遺体に対する考え方に関する国民性の違いを強調するが,被害者の遺体が汚物にまみれて発見された事実が,被害者の遺族(被告人と同国人)に対して大きな精神的打撃を与えたことは想像に難くなく,原判決がこの点を被告人の刑を重くする方向に働く事情の1つとして挙げたことに誤りはない。また,殺人の発覚を免れる目的で被害者の死体を遺棄したことは被告人自身原審公判において認めて争いのないところであり,一方,被害者の遺体を辱める意図の有無については原判決においてそもそも問題とされていないのであるから,所論は失当である。
[40] (5)については,原判決の量刑の理由で被告人の刑を軽くする方向に働く事情として挙げられ,考慮されている。
[41] なお,所論は,未決勾留日数の裁量算入は憲法31条に違反し,本件においても全部算入が認められるべきところ130日の算入に止まる原判決の量刑は不当である,という。
[42] しかし,所論は独自の見解であって採用することができず,原判決における未決勾留日数の算入は適切に行われている。
[43] その他,所論の指摘する点を検討してみても,原判決の量刑が重すぎて不当であるとはいえない。
[44] 論旨は理由がない。

[45] よって,刑訴法396条により本件控訴を棄却し,当審における未決勾留日数の本刑算入につき刑法21条を,当審における訴訟費用の処理につき刑訴法181条1項ただし書をそれぞれ適用して,主文のとおり判決する。

  (裁判長裁判官 小西秀宣  裁判官 深見玲子  裁判官 地引広)

■控訴審判決       ■トップページに戻る