ゼミ生が語る「私の好きな京都」(2019年春学期)
清水の舞台
中川魁人
(2017年度入学 鈴木ゼミ一期生)

 私は歴史的建造物を巡るのが好きだ。私の好きな歴史的建造物が日本で一番多い都道府県が京都である。京都には国宝・重文の建造物が292件も存在する。その中でも思い入れのある清水寺を紹介していきたい。音羽山清水寺の開創は778年で1200年前から存在する。現存する伽藍のほとんどは1633年に再建されたものでもともとの伽藍は10度にわたる火災によって焼失している。

 清水寺の歴史の始まりを記した書物「続群書類従」によると、賢心という僧が「北へ清泉を求めて行け」と夢の中で白衣の老翁にお告げを受けたことから始まった。賢心は霊夢に従って北へ歩き、音羽山で清らかな水が湧出する瀧を見つけた。そこで修行をする老仙人、行叡居士(ぎょうえいこじ)に出会った。行叡居士は賢心に観音力を込めたという霊木を授け「あなたが来るのを待ち続けていた。どうかこの霊木で千手観音像を彫刻し、この観音霊地を守ってくれ」と言い残して姿を消したという。賢心は「行叡居士は観音の化身だ」と悟り、以後音羽山の観音霊地を守り続けたとされている。それから二年後のある日、山へ鹿狩りに音羽山を訪れた坂上田村麻呂(のちの征夷大将軍)に殺生の戒め、観世音菩薩の功徳を説いた。蝦夷討伐を終えた坂上田村麻呂は延鎮(賢心が改名した名前)の教えのお礼として寺を建立した。

賢心が守り続けた地「音羽の瀧」の清らかさにちなんで清水寺と名付けられた。清水寺の宗派は延鎮が興福寺の出身であることから同じ宗派の法相宗であった。しかし急激に変化する社会情勢に対応していくため1960年代に大西良慶和上によって北法相宗が立宗された。南の奈良に対して、北に位置する京都で法灯を掲げるという意味が込められている。ここまで記した通り、とても歴史のあるお寺であることを理解していただけただろうか。さらに清水寺はその造りからも素晴らしいといえる。本堂の前面にある舞台は、清水寺の数ある建造物の中でも最も有名である。「清水の舞台から飛び降りる」ということわざがあるほどだ。清水の舞台は崖に張り出していてそこから飛び降りるほどの覚悟を決めて物事に向き合うという意味である。このことわざにも出てくる崖に張り出した清水の舞台は、懸造りと呼ばれる日本古来の伝統工法で、格子状に組まれた木材同士が支えあい、崖上での建築を可能にしている。舞台を支える柱は継ぎ手と呼ばれる手法で柱同士を何本もの貫が通されていて釘を1本も使用していない。さらにはこの舞台は清水寺の御本尊である観音様に芸能を奉納する場でもある。日本の伝統芸能である雅楽や能、狂言、歌舞伎などがこの舞台で演じられてきた。観光客は舞台から京都の景色を観ること楽しむが、本来は本堂の奥にある内々陣に祀られている観音様に向き合う場所となる。本堂の屋根は奇棟造りで古い宮殿や貴族の邸宅の雰囲気が感じられる。本堂の内部は外陣(礼堂)と内陣、内々陣の3つの空間に分かれている。内々陣には御本尊が奉祀されており清水寺にとっても最も神聖な場所である。普段は内々陣にはお参りできないが、千日詣りの期間中には間近で観音様にお参りが出来る。

 清水寺の御本尊である「十一面千手観世音菩薩」は十一の表情と四十二の手で大きな慈悲をあらわし、人々を苦難から救うといわれている。御本尊は有名であるが私は御本尊に付き従う眷属「二十八部衆」を知ってもらいたい。「二十八部衆」は「千手観音」を護り同時に「千手陀羅尼経」とその信仰者を守護する役割を持っている。「二十八部衆」たちはそれぞれの分野を持っていて、大弁功徳天は福徳・学問を、難陀竜王は海洋などそれぞれの分野を担うことで全方位の守護を可能にしている。ほかにも「薬師如来の十二神将」や「不動明王の八大童子」などがあるが、観音様の「二十八部衆」ほど数が多いものは珍しい。また「二十八部衆」の諸天諸神はそれぞれ500の眷属を率いているといわれている。つまり千手観音は14000の神々によって護られている。これらの「二十八部衆」も内々陣に祀られており、千日詣りなどの本堂内々陣特別拝観の際に間近で見て頂くことが出来る。今まで記述したような知識を身につけて清水寺に訪れることでまた違った清水寺が見えると私は考える。少しでも興味を持っていただいたのなら身近なところからでも京都の歴史に触れてみるのはいかがでしょうか。

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