ゼミ生が語る「私の好きな京都」(2019年春学期)
伏見のシンボル伏見城
小山 雅宏

 私は伏見城を好きな京都に挙げる。伏見城は京都市伏見区の桃山地区にある城であり、私が住んでいる街のシンボル的な存在である。城の周りは総合公園として整備されており、天守閣や門などの見学ができるほか、地域のイベントなども開催されている。またスポーツの拠点ともなっており野球場や多目的グラウンド、フットサルコートがあり、スポーツを楽しむ人たちでも賑わっている。しかしながら、現在の伏見城は近年になって新しく再現され建てられた城であることや、当時とは違う位置にあるといった話を私は聞いていた。また城の名称も伏見桃山城や伏見城、桃山城、指月城などと複数耳にしたことがある。また城の近くには明治天皇陵もあるがそれも何か関係があるのかまた城の歴史についてなど知らないことが多いため調べてみようと思った。


現在の伏見桃山城

<豊臣秀吉時代>
 伏見城の始まりは天正19年(1591年)まで遡る。この年、豊臣秀吉が関白の位と京都における聚楽第を豊臣秀次に譲り、自身の隠居所として伏見の地に築いた屋敷が伏見城の始まりである。しかしながらこの屋敷は豪華なものではなく、隠居所であったため現在のように立派な城ではなかったとされている。
大規模な改修が行われたのは1594年のことである。理由としては明の施設を迎えて日本の国威を見せつけることや豊臣秀頼が生まれ、将来的に大阪城を与えるためだった。この城は指月伏見城と呼ばれ秀吉の隠居所から政治・軍事の施設として秀吉の本城となった。本城となったため大規模な工事が行われた。まずは宇治川の流路を巨椋池と分断し外濠とした。また大阪と結ぶ港や大和街道、豊後橋と次々に土木工事を行い各地との交通の要所となった。築城には小豆島から石材、土佐や出羽から木材が運ばれ全国各地から調達された。また宇治川の対岸には支城に当たる向島城が築城された。

 しかし1596年に慶長伏見地震と呼ばれる大地震が発生する。これによって天守の上二層が倒壊し城内だけでも600人ちかくの死者が出たとされている。

この地震により秀吉は木幡山の仮小屋に避難することになった。地震による火災などは発生しなかったことから、資材の再利用が可能だったためすぐに木幡山伏見城と呼ばれる新たな城が建てられた。大阪城と伏見城を行き来していた秀吉だったが晩年の多くは伏見城で過ごし、1598年に伏見城で最期を迎えたのだった。

<徳川家康時代>
 秀吉の死後伏見城は徳川家康が居留守役として入城するも、半年ほどで大阪城に移ってしまう。これに伴い多くの大名屋敷が大阪に移ってしまい、伏見の城下町は荒廃していったとされる。1600年には関ケ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いが起こり、八月一日に炎上し落城してしまう。石田三成はこの時に建物をことごとく焼き払ったと書状に記しており、秀吉が建てた主要な建築物はすべて焼失したとされている。
 関ケ原の戦い後に徳川家康は伏見城の再建を始めた。1602年に伏見城に帰城してから大阪に移っていた大名屋敷も伏見に戻ってきた。翌年に伏見城で徳川家康は征夷大将軍の宣下を受ける。1605年には朝鮮通信使との会見も行われた。その後新たな御殿が建設され、完成の際には徳川秀忠の将軍宣下が行われた。家康はその後伏見城から離れ新たに松平定勝が城代となった。
 大阪の陣後は将軍参内時の居館として利用されたが、一国一城令により二条城との両方の維持が難しくなったため1619年に伏見城の廃城が決定した。

<廃城後>
 城跡一帯が解体され桃の木が植えられたことから桃山とこの地域は呼ばれるようになり、城も通称として桃山城と呼ばれるようになった。本丸跡は明治天皇陵とされたことにより、無許可での立ち入りが禁止されている。現在の天守閣は1964年に建てられたもので、遊園地(伏見桃山城キャッスルランド)の建設と同時に鉄筋コンクリートで造られたものである。2003年に遊園地は閉園となったが城は伏見のシンボルとして保存されることとなり、京都市に贈与された。また敷地内は伏見桃山城運動公園として整備された。城の内部は耐震基準を満たしていないことから非公開となっている。指月伏見城の跡地は現在も確認ができて

いない。2015年にマンション造成地において遺構が出土したことから存在の裏付けとなる初の出土となった。出土したのは一部の堀や石垣であった。
 また現在の伏見桃山地域の町名には伏見城の城下町に存在していた屋敷の人名が用いられている。松平・毛利・伊達などの名前が町名として存在している。屋敷名を見ると、大半は豊臣秀吉時代の大名になるが、徳川家康の家臣団の名前もみられる。
最後になるが、都市伏見区のシンボルである伏見桃山城は豊臣秀吉が建て、徳川家康が立て直したという見た目だけでなく、歴史的にも非常に重要な建造物だと分かった。また現在でも地域のイベントやスポーツ活動を通して区民の集う場であり、住所のに大名屋敷の名前が使われているなど伏見の人にとっては暮らしの中に400年以上前の歴史を受け継いでいるのだ。これからも伏見桃山地域のシンボルとして伏見城は存在し続けるだろう。

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