ゼミ生が語る「私の好きな京都」(2019年春学期)
「京都」を変えた琵琶湖疏水
菅浪 大志
(2017年度入学 鈴木ゼミ一期生)

 琵琶湖疏水は滋賀と京都をつなぐ単なる水路ではない。京都の衰退時代から今の「京都」に至るまでを支える存在である。言い換えれば、衰退時代の京都が息を吹き返すための生命線であった。琵琶湖疏水とは、滋賀県大津市から京都府京都市までのおよそ全長20㎞の第一疏水と全線トンネルの全長7.4㎞の第二疏水を総称したものである。第一疏水とは第3代京都府知事の北垣国道が明治維新による東京遷都で沈みきった京都に活力を呼び戻すことを目的に建設を計画した水路である。

 日本の「都」として栄えていた京都が東京遷都の影響を受けて人口が減少したことに伴って産業も衰退していた。この状況を打破するために北垣国道が農地へ水を供給する灌漑や水運を目的とした琵琶湖疏水を計画した。第一疏水は、1885年(明治18年)に、これまでの土木建設の規模では収まらないほどの大計画を立て、着工した。当時、京都府の年間予算の約2倍の費用で約5年の歳月を費やす京都府の一大事業として造られた。ほとんどが人力で、約2㎞のトンネルを掘る、難工事であった。その一方で、当時21歳の田邊朔郎が建設の主任技師に任命された。田邊朔郎がアメリカで視察したアイデアを取り入れた日本初の営業用水力発電所の建設につながった。この電力を用いて、1895年(明治28年)に京都と伏見を結ぶ日本初の電気鉄道の運転が始まった。また、東本願寺や京都御所(堀川への一部供給)では防火用として、南禅寺界隈の別荘群では庭園用水として疏水の水が引き込まれていた。京都の名所へ水を運ぶ役割を果たした点で琵琶湖疏水の水路に対して絶対的な信頼性があったと考える。

その後、京都市は三大事業として、電力需要の増大に対応すること、地下水に頼っていた飲料水の量と質の問題を解決すること、市電開通と幹線道路各幅を行うことを掲げた。第一疏水だけでは、対応できない電力需要を賄うことを目的に第二疏水の建設に着工し、約4年の歳月を経て1912年(明治45年)に第二疏水が完成した。第二疏水の完成に伴って、第二疏水から取水する日本で最初の急速ろ過方式を採用した蹴上浄水場が完成した。しかし、当時の京都市の人口が約50万人に対する水道事業の普及率は8%程度であった。その後、3つの発電所の増設も行われて発電量が約4倍となった。発電量の増加に伴って、幹線道路に市電が開通し。陸上交通が飛躍的に発展した。京都市の三大計画は、第二疏水の建設計画とともに水道と市営電車を開業することで、京都のまちづくりの基礎を生み出したと言える。
その後、時代とともに鉄道や陸上交通が発展したこともあり、舟運は徐々に、その数を減らし、昭和になると貨物量はさらに減少した。1951年(昭和26年)に舟運は途絶えたことで琵琶湖疏水にとって、水運の役割が失われた。しかし、琵琶湖疏水の役割である水道事業、そして、電力事業の2本柱は絶対的な存在感を示し続けてきた。
琵琶湖疏水は、水力発電による電力発電や水道用水の役割を果たし、市民の生活水準を高めた。また、水運による輸送を可能とし、灌漑や工業用水として、あらゆる場面で存在感を示してくれる。特に琵琶湖疏水の特徴は、「水路」ではない。大切な役割として「電力発電」がある。琵琶湖疏水は明治の産業革命で人力から電力による産業へ切り替わる一時代の終焉と新たな時代への架け橋となった。琵琶湖疏水が供給する電力を用いて京都は産業を発展させ、京都の近代化に貢献した。ただの水路でなく、時代の先端を歩むように電力という要素を含んだ琵琶湖疏水は東京遷都により、活力を失わせた京都に息を吹き返すためのきっかけを生み出したとも言える。

 現在の「京都」も支えている琵琶湖疏水は京都市の水道事業の普及率が99%を超えており、約147万人に届けられている。電力事業では関西電力によって発電所が稼働し続けている。京都の産業発展への一翼を担うだけではなく、現役施設として今もなお「京都」にとっての生命線であり続けている。琵琶湖疏水は今も過去も京都にとって必要な「存在」であり続けている。
琵琶湖疏水の「存在」が一番わかるのは災害時である。地震大国である日本において、人工物である琵琶湖疏水は常に点検することが求められる。なぜなら万が一、大きな地震が起きて第1・第2疏水が途絶えるようなことが起きると、想像もできないことが起こる。地震により、火災が発生しても消火に使う水も、生きるために必要な水も不足する。琵琶湖疏水が途絶えると水供給インフラの消滅と言えるだろう。蛇口をひねれば、当たり前に出てくる「水」を琵琶湖疏水が支えてくれる。

約135年前に建設計画を立てた琵琶湖疏水は時代とともに役割を変化させつつ、「京都」の発展に寄与している。古き時代から都であった京都は、二条城や金閣寺のような観光地となっている歴史的価値のある場所や物がたくさんある。その中でも琵琶湖疏水は近代の京都にとって最も重要な施設の代表であると言える。北垣国道や田邊朔郎は建設計画から約135年後の「京都」でも価値を持ち続ける偉大な「存在」を生み出したのである。
 私の考える琵琶湖疏水の価値とは、琵琶湖疏水の「存在」であると考える。都として栄えていた京都の衰退時代を覆し、水を通したことで人とモノが繋がり、電力を生み出すことで失ったはずの京都の活力を取り戻した。

もし、琵琶湖疏水の「存在」がなければ、今の「京都」は、なかったのかもしれない。

参考資料:  
琵琶湖疏水記念館HP ・ 京都市上下水道局HP ・ コトバンク
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