今井町に行って来ました PART 1
奈良県の今井町は、橿原市の市街地の一部で、歴史的記念物といってよい街並みを保存しています。
★写真★街並み
そんな今井町を気のあった仲間と真夏に訪れてみました。
★写真★同行した仲間
京都方面から国道24号線を南下、奈良市、田原本町を通り、橿原市に入ってすぐ今井町を示す標識があり、これに沿っていくと、まもなく木造の明治の建築の前に出ました。この建物は「今井まちなみ交流センター華甍(はないらか)」と呼ばれ、今井町旧環濠外の東南部に位置し、この町のインフォメーションのような役割を果たしているようです。
★写真★華甍(はないらか)
華甍でいただいたパンフレットによると、この建物は、「明冶36年に建設された博物館であるが、昭和初年より約30年間今井町役場として使用されていた。外観は(...)和風的にまとめた県下では数少ない明治建築」だそうです。この建物の前に町のガイド板があります。
★写真★今井町案内図
華甍はガイド板の左下掘割(地図には町のぐるりに水色で旧環濠の跡が記されているが、いまはほとんど存在しない)の外に位置しています。この建物の周囲に旧環濠を再現してあります。子どもが落ちた場合などの危険を避けるため深さは浅くしてあるそうですが、こんな立派な掘割が今井町の周囲を防御している勇姿を見てみたかったような気がいたします。上の写真左手道路のさらに左が今井町の旧市街になります。
★写真★旧環濠の再現
旧市街地は「東西600m、南北310m、周囲には環濠土居を築いた戸数1,200軒、人口四千数百人を擁する財力豊かな町であった。町割は西、南、東、北、新、今の六町に分かれ、9つの門からは木橋を通って濠を渡り、外部の道路と連絡している。内部の道路で見通しのきくものはなく、ほとんどが一度屈折させてある。これは、敵の侵入に備えて、その遠見、見通し、弓矢・鉄砲の射通しを不可能にしたものであった。これらは当初、軍事目的のためにつくられたものであるが、江戸時代中頃は富裕な商人の生命、財産等を外部から守るというものに変ぼうした」とパンフレットは教えてくれます。小学館の百科全書によると、「現存する民家の約8割は江戸時代からのもので、特徴的な寺内町の姿をとどめている」のだそうです。
★写真★古くから存在する民家
ここで、この町の由来について学んでおきましょう。パンフレットのなかに今井町の歴史という文章があるので、これを読んでみましょう。「今井町の成立は戦国の世、天文年間(1532〜1555)この地に一向宗本願寺坊主の今井兵部卿豊寿によって建設されたことに発する。一向宗の門徒が、今井に御坊(称念寺)を開き、自衛上武力を養い、濠をめぐらし、都市計画を実施した。永禄十一年(1568)織田信長が、足利義昭を擁して上洛以来、本願寺も反信長の旗を立て、寺を中心とした城塞都市の形態を整え、抵抗したが、天正三年(1575)今井氏は、明智光秀を通じて信長に降服し、事なきを得た。かくして、大坂や堺などとも交流がさかんになり、商業都市としての変ぼうをとげ、江戸時代には南大和最大の都市となって、大いに栄えた。また、堺と並び自治的特権が認められ、惣年寄、町年寄をおき町政にあたらせた。」
この町を歩いてみると、たしかに堺との交易で栄えた裕福な町の面影があちこちにしのばれます。
★写真★喜多古美術店
次の写真はこの町でも一番最初に紹介されることの多いです。手前のオレンジ色のシートはこの建物が隣接していたといわれる旧環濠の発掘復元の工事ではないかと想像されます。
★写真★今西家の外観
例のパンフレットによると、「今西家住宅(昭和32年6月18日重要文化財指定):今西家は、永禄9年(1566)今井町に入町した十市兵衛遠忠の一族で、もと河合氏を名のっていたが、三代目から今西姓になった。惣年寄の筆頭で、領主、代官の町方支配の一翼を担い、自治権をゆだねられていた。八つ棟造りは、その役柄に相応した建物で、棟札には慶安3年3月22日(1650)の年代が記され民家というよりも城郭を思わせる構造で、今井町の西口にあり、その西側は環濠となっている。外壁を白漆喰塗籠めとし、大棟の両端に段違いに小棟を付け、入母屋造の破風を前後喰違いに見せ、本瓦葺きの堂々とした外観をもっており、わが国の民家建築史上貴重な建物」なんだそうです。
★写真★今西家の正面
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