TEAM

沿革

1965年 京都産業大学創立と同時にラグビー部を設立
1974年 関西大学ラグビーAリーグ(1部リーグ)に昇格
1982年 全国大学ラグビー選手権大会に初出場
1990年 関西大学ラグビーAリーグで初優勝

 

主な成績

  • 関西大学ラグビーAリーグ 優勝 4回
    (1990・1994・1997・1998)
  • 全国大学ラグビー選手権大会 準決勝進出 7回
    (1983・1985・1990・1993・1994・1997・2006)

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チーム理念


一.いついかなる場合もチャンピオンを目指す集団であること
一.何事にも学生らしく一生懸命ひたむきに取り組むこと

公式戦ユニフォーム

 

1stジャージ


 

2ndジャージ


HISTORY

チームの歴史

1965年創立の京都産業大学は、大西健が赴任した当時(1973年)、まだ8年目の出来立ての大学であり、知名度アップのために運動部の強化に取り組み始めたところであった。創立と同時に設立されたラグビー部もようやく関西大学ラグビーCリーグ(3部リーグ)からBリーグ(2部リーグ)への昇格を決めたばかりであり、部員数も少ない、文字通りの新興チームであった。
当時の関西大学ラグビー界は、同志社大学の1強時代から同志社大学と天理大学の2強時代に突入し始めた頃であり、Aリーグ(1部リーグ)に上がったことすらなかった京都産業大学はまったく無名の存在であった。
大西が就任した1973年シーズン、京都産業大学ラグビー部はBリーグを1位で終え、Aリーグに昇格することになった。Aリーグ昇格を機に、大西は主将の林正人らと語り合った夢を3つの具体的な目標として明文化し、選手に提示した。
1.同志社大学に勝つ
2.イギリス(ラグビー発祥の地)遠征をする
3.大学ラグビーチャンピオンシップを勝ち取る(大学選手権で優勝する)
この目標は極めて興味深い。それは、そこに、通常のチームであれば必ず目標として掲げる「関西リーグ制覇」といった類の記述が存在しないためである。大西は「関西リーグ制覇」を「同志社大学に勝つ」という言葉で代替したのだろう。当時のAリーグにおいては、同志社大学に勝つことは、リーグ戦に優勝することとほぼ同義であったから。しかし「同志社大学に勝つ」という言葉は、選手たちにはそれ以上の意味を与えた。この目標の明示により、京都産業大学の選手にとって「同志社大学戦」は、「聖戦」に昇格したのである。選手の気持ち、気迫が勝敗に大きく影響するラグビーにおいて、この効果の持つ意味は大きかった。また同志社大学戦を聖戦にしたことは、後に京都産業大学のOBや現役の学生をラグビー部ファンにするというもう1つの効果をもたらした。彼らはエリート集団同志社大学にひたむきに挑戦する雑草集団に自らの姿を重ね合わせ、試合会場に足を運び、熱狂的な声援を送るようになったのである。
Aリーグ昇格後、試行錯誤の8年を過ごし、1980年にスクラムを中心としたセットピースラグビーに基本戦略を固めた。当時、日本一と言われた練習量と選手たちのひたむきに取り組む姿勢がシンクロし、スクラムは次第に選手たちの間でも京都産業大学ラグビー部のコアコンピタンスと認識されるようになり、スクラムを中心としたセットピースラグビーは京都産業大学ラグビー部の文化となっていった。

 

【1982年12月19日 京都新聞掲載 関西大学ラグビー】前半終了間際、京産大執念の認定トライ成功(花園ラグビー場で)
京都新聞社提供
【1987年12月6日 京都新聞掲載 関西大学ラグビー】対同志社戦初勝利。14度目の挑戦で同大打倒)スタンドと一帯となって喜びを爆発させる京産大フィフティーン(花園ラグビー場)
京都新聞社提供
 
1982年以降の新聞記事に「スクラムトライ」やスクラムによる「認定トライ」という言葉が散見される。つまり、この年、現在では「京産伝統のスクラム」とマスコミやラグビーファンの間で形容される京都産業大学のスクラムの原型が完成した。
1982年、当時強豪であった天理大学に初めて勝利し、大学選手権に初出場した。
1987年、目標のひとつ「同志社大学に勝つ」を達成した。
京都新聞の観戦記(京都新聞1987年12月6日朝刊)を引用する。
「劇的な逆転勝ちを決めたのは沖の冷静で正確なキックだったが、それを呼び込んだのはFWのひたむきな前進だった。平均で約5キロの体重差をものともせず、スクラムは低い姿勢と固いパックで押し込む。モール、ラックも鋭い突っ込みで支配した。個々の技量で劣る分を結束力でカバー。前半7分、ゴール前のスクラムを押してコラプシング(故意に崩す)を誘発、PGで先制したことも自信を深めさせたに違いない。同志社大は後半18分、No.8宮本、FL中尾の突進からトライを奪って9−7と一度は逆転した。だが、京都産業大の予想を上回る重圧にミスを連発。同志社大らしい組織力、波状攻撃は最後まで見られなかった」
「京都産業大スタンドが水を打ったように静かになった。後半39分に得たPG。最後のチャンスだ。角度はないが、距離は39m。『もう見ていられない』。大西監督は目を閉じ、下を向いてしまった。SO沖の左足から蹴り出された楕円のボールは、勝利の願いを乗せ、一直線にゴールを越えて行った。10−9。逆転だ。14回目の挑戦で初めて王者・同志社大の高く厚い壁を打ち破った瞬間だった。1974年、関西Aリーグ昇格以来、『より大きな存在を倒すことこそ男の夢』(大西監督)と、打倒同志社大だけに執念を燃やし続け、ここ数年は常に手の届くところまで来ていた。そしてこの日、ファーストスクラムを力強く押し込んだ。フィフティーンもスタンドの応援団も一気に燃え上がった。タックルでもイーブンボールへの仕掛けでも常に同志社大を圧倒した。足を痛めたFB前田に代わり最後の逆転PGを決めた沖が『勝つと信じていた。PGも蹴る前から入れる自信があった』と話すように、気迫で悲願の勝利を掴み取った。ノーサイドの瞬間、15年間にわたってチームを率いてきた大西監督の目に、大粒の涙があふれ出た。『捨て身で突っ込んでプレッシャーをかけ続ければ、必ず勝機は訪れる。うちはそれしか出来ないが、選手らがみなそれを信じてやってくれた』。話す言葉は興奮に震えるばかり。スタンドの万歳コールに合わせるように大西の体が胴上げに舞った。『リーグ優勝も、大学選手権もない。同志社大に勝つことだけを待っていたんだ』。大西監督の誇らしげな声が冬空に響いた」
 【1990年11月24日 京都新聞掲載 関西大学ラグビー】京産大 悲願の初制覇 関西大学ラグビー)優勝決定の瞬間、こぶしをつき上げ、喜ぶ京産大フィフティーン
京都新聞社提供
 
1990年2月、「念願のイギリス遠征」を実現した。
大西がイギリスにこだわったのは、ラグビー発祥の地であり、世界で最もたる伝統校ケンブリッジ大学やオックスフォード大学と対戦したかったからである。大西は伝統校にチャレンジすることで「歴史は浅くとも伝統校になれる」と信じていた。
ケンブリッジ大学と学生単独チームが戦うのは京都産業大学が初めてであった。選手たちは勢いよく飛び出して行き、臆することなく勇敢に戦った。
24-25でケンブリッジ大学に勝つことは出来なかったが、素晴らしいゲームだった。観客も全員立ち上がり「Congratulations!」と言って拍手で祝福してくれた。
この年、京都産業大学は関西大学ラグビーAリーグで初優勝を果たした。
 
 
イギリス遠征
 
その後、1994年に2度目の優勝を飾り、1997、98年には2年連続で全勝優勝を果たした。
 
 

【1994年12月4日 京都新聞掲載 関西大学ラグビー】京産大 同大下しV 4年ぶり2度目)京産大-同大 後半5分京産大 22メートルライン付近のラックから左に回し、フランカー小野が突進、ゴール前に攻め込む(宝が池)
京都新聞社提供

  【1998年11月24日 京都新聞朝刊掲載 関西大学ラグビー】龍大-京産大 後半5分京産大、相手陣22メートルライン付近のモールから岡本が左中間にトライ、24-3とする(西京極)
京都新聞社提供
 
上述の通り1965年の創部以来、脈々と受け継がれてきた京都産業大学ラグビー部のDNAは、 チーム理念によって表現されている。
  • いついかなる場合もチャンピオンシップを目指す集団であること
  • 何事にも学生らしく一生懸命ひたむきに取り組むこと
1973年に明文化された3つの目標のうち、未達の目標「大学ラグビーチャンピオンシップを勝ち取る(大学選手権で優勝する)」を叶えるため、京都産業大学ラグビー部は一生懸命ひたむきに取り組み続ける。