「宴のあと」事件
第一審判決

損害賠償請求事件
東京地方裁判所 昭和36年(ワ)第1882号
昭和39年9月28日 判決

原告 有田八郎

被告 平岡公威(三島由紀夫)
被告 佐藤亮一
被告 新潮社

■ 主 文
■ 事 実
■ 理 由


 被告等は連帯して原告に対し金80万円およびこれに対する昭和36年3月26日から完済まで年5分の割合による金員を支払え。
 原告のその余の請求を棄却する。
 訴訟費用は5分し、その1を原告の負担とし、その余を被告等の連帯負担とする。
 この判決は第1項にかぎり仮に執行することができる。

、被告等はその費用をもつて原告のために、株式会社朝日新聞社(東京本社)発行の朝日新聞、株式会社毎日新聞社(東京)発行の毎日新聞、株式会社読売新聞社発行の読売新聞の各全国版社会面に見出し3倍活字、本文1.5倍活字、記名宛名2倍活字を使用して、左記の広告を1回掲載せよ。

     謝罪広告
 作者三島由紀夫、発行者佐藤亮一、発行所株式会社新潮社として刊行した小説「宴のあと」は、貴殿のプライバシーを侵害し、非常に御迷惑をかけたことを、ここに深くおわび致します。同書は、直ちに絶版とし今後の発売を中止致します。また三島は、これを映画演劇化するようなことは致しません。
        三島由紀夫
        佐藤亮一
        株式会社新潮社
 有田八郎 殿
、被告等は連帯して原告に対し金100万円及びこれに対する昭和36年3月26日から完済まで年5分の割合による金員を支払え。
、訴訟費用は被告等の負担とする。
、第2項は仮に執行することができる。

(被告等)

、原告の請求を棄却する。
、訴訟費用は原告の負担とする。
[1]、被告平岡公威は三島由紀夫のペンネームをもつ小説家であるが、雑誌「中央公論」の昭和35年1月号から同年10月号にわたつて「宴のあと」と題する小説を連載執筆したのち、被告佐藤亮一を発行者、被告新潮社を発行所としてこれを1冊にまとめた同一題名の小説の刊行を許諾し、被告新潮社は昭和35年11月15日付で右初版15,000部以上を刊行しその後も重版を刊行発売している。

[2]、「宴のあと」の梗概は『「野口雄賢」という妻を失つた独身の60才を過ぎた外交官出身の男でかつて小国の公使をつとめたことがあり、外務大臣にもなり戦後衆議院議員に立候補して当選したが2度目は落選し、「革新党」の顧問となつていたが同党から推されて東京都知事選挙に立候補した。この野口は都知事選挙の有力候補であつたので「保守党」の対立候補の擁立は人選難に陥り、現職の都知事は辞めそうでなかなか辞めない有様であつたところ、野口の妻「福沢かづ」の経歴、行状を誹謗した怪文書「野口雄賢夫人伝 山漁人著」がばらまかれたため野口は山の手方面で人気をおとし、また選挙資金を調達するため料亭「雪後庵」を売却することも「佐伯首相」に妨害されて野口は選挙の終盤戦で資金がなくなり、反対に保守派からは買収の金が流れ出し、さらに投票日の前日に「野口雄賢危篤」のビラがまかれたりして結局都知事選挙は「敵の謀略と金の勝利」に帰し「20万ちかく引き離され」て野口は惜敗した。野口の妻福沢かづは少女時代から「苦労のかずかず」を重ねてきた女で著名な料亭「雪後庵」の女将であつたが野口と結ばれ妻の座にすわり都知事選挙のために野口にかくれて「雪後庵」を抵当に入れて資金をつくるべく奔走し同料亭は休業するに至つた。しかし怪文書がばらまかれ選挙が野口の敗北に終つたのち野口に背いて「雪後庵」を再開するため野口とは遂に離婚した。』というのである。

[3]三、(一) このように「宴のあと」に登場してくる主要人物には「野口雄賢」と「福沢かづ」という仮名が用いられているけれども以下に指摘するようにこの小説が一般読者に与える印象としては「野口雄賢」が原告、「福沢かづ」が畔上輝井をさしていることは明らかであり、その効果は原告及び畔上輝井の実名を挙げた場合と異らない。
[4](二) すなわち原告は明治17年に生れ昭和5年オーストリア公使兼ハンガリア公使、昭和8年ベルギー大使兼ルクセンブルグ公使、昭和11年1月中華民国大使、同年4月広田内閣、昭和13年10月第1次近衛内閣、昭和14年1月平沼内閣、昭和15年1月米内内閣の各外務大臣を歴任し、昭和28年2月の総選挙には新潟県1区から立候補して衆議院議員に当選したが昭和30年3月の総選挙では落選し、その後昭和30年4月の東京都知事選挙では日本社会党から推されて安井誠一郎と争い落選、昭和34年4月の東京都知事選挙に再び日本社会党から推されて立候補したが、東竜太郎1,821,346票に対し原告は1,652,189票で落選した。また原告は昭和30年10月から昭和34年12月まで日本社会党の顧問でもあつた。
[5] 原告は昭和28年に畔上輝井と再婚したが畔上は少女時代からかずかずの苦労を重ねてきた女で、当時は東京でも著名な料亭「般若苑」の経営者であり、原告の都知事立候補にあたつては原告にかくれて般若苑を抵当に入れ選挙運動資金をつくり、都知事選挙に臨んでは般若苑を休業したこと、またこれを売却しようとする試みは当時の岸首相の圧力で挫折したことがあり原告の都知事選挙に際して「元外務大臣有田八郎氏夫人――割烹料亭般若苑マダム物語」という怪文書がばらまかれ投票日の前日には「有田八郎危篤」のビラもまかれるといつた選挙妨害もあつた。そして都知事選挙の敗退後原告は畔上輝井と離婚し、畔上は般若苑を再開している。
[6] このような原告の主要経歴は世間周知の事実であり、しかも世人の記憶に新らしい昭和34年4月23日投票の東京都知事選挙における幾多のニュースから「宴のあと」の「野口雄賢」はまさに原告以外の何者をも指すものでないとの印象を一般の読者に与えることは明白である。(なお「宴のあと」の叙述のうち原告を連想させる具体的部分を指摘すれば別紙「連想部分の指摘表」のとおりである。)
[7](三) このことは被告等が「宴のあと」を1冊にまとめて刊行した際次のような広告を行つていることからも明白にされている。
[8](1) 発売された「宴のあと」の帯に記載した広告として、本の背に当る箇所に「1960年の傑作といわれるモデル小説」その右側(本の表側)に「臼井吉見氏評……作者は、なまなましい、泥くさい社会種を逆用して、思うさま作者の美的観念を展開してみせている。」、「平野謙氏評……モデル的興味だけに堕しやすい、天下公知の事実を材料にしながら、大人の鑑賞に耐える芸術作品に仕上げた。」との文句を用いて宣伝している。
[9](2) 被告新潮社等が朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、東京新聞等に掲載した広告は大同小異であるが、昭和35年11月18日付毎日新聞朝刊に掲載された広告は「宴のあと」「注目の長篇モデル小説」「トツプクラスの批評家が"モデル小説の模範"というのです。素材になつた元外相と料亭の女主人、そして都知事選挙という公知の現実が、これほど作品の中で変貌し、芸術的に昇華すると、読者は文句なしに、相寄り相容れなかつた二つの人間像に、そして女主人公の恋の悲劇に感動するでしよう。」といつた表現を用い、前述の批評家の評及び河上徹太郎、中村光夫の評を掲載している。
[10](3) 被告新潮社の手で昭和35年11月頃東京都内の書店等に無料で多数配布された扉付宣伝用マツチの広告には、表に「長篇小説、宴のあと、三島由紀夫」と印刷し、表の扉を開けると『御挨拶 この度私の夫野口雄賢は都知事選挙に革新党より立候補することになりました。御存知の事とは存じますが、私は料亭「雪後庵」を経営しております関係上、夫の革新党よりの立候補を意外に思われるお方も多いと思います。その間の事情は、三島由紀夫先生の最新の長篇小説「宴のあと」お読みの上、何卒来るべき選挙に、お力添え給ります様お願ひ申し上げます。11月吉日 料亭「雪後庵」女主人福沢かづ』、裏に「注目のモデル小説宴のあと、三島由紀夫、定価390円、新潮社版」とそれぞれ印刷している。

[11]四、(一) このように「宴のあと」は原告及び畔上の実名を挙げたモデル小説と異るところがないものであり、原告が畔上とはじめてあうところから最初の接吻(被告新潮社発行の「宴のあと」の65頁)、最初の同衾(同83頁)、結婚後の夫婦の愛情と確執(同全般)、妻に背かれる夫(同246頁ないし289頁)を描写し、原告と畔上との閨房についてまで想像をめぐらして具体的な描写を加え(同136頁)、その間に前述のような世間周知の事実を交えて原告がモデルであることを読者に意識させながら空想あるいは想像によつて原告の私生活を「のぞき見」するような描写を行つている。
[12](二) いま被告新潮社の発行した「宴のあと」によつて原告の私生活を「のぞき見」したとみられる部分を章別に具体的に指摘すると別紙「侵害箇所の指摘表」のとおりであるが、要するに、原告を連想させる「野口雄賢」の私生活の描写の全部が「のぞき見」であり原告の妻であつた畔上を連想させる「福沢かづ」を描くことによつて原告の私生活を「のぞき見」したとみられる部分もこれに含まれ、そのうち原文を引用した箇所は原告がとくに羞恥さえおぼえるような部分であるが東京都知事選挙の告示後原告が都知事候補として公の場所で活動した部分に関する描写すなわち都知事候補の「野口雄賢」とその妻が選挙の告示後に公の場所に登場する部分はここにいう「のぞき見」から除外される。

[13]五、(一) 被告等がこのような原告の私生活を「のぞき見」し、もしくは「のぞき見したかのような」描写を公開したことによつて、原告はいわゆるプライバシーを侵害されたものである。
[14](二) プライバシーすなわち身体のうち通常衣服をまとつている部分、夫婦の寝室および家庭の内状、非公開の私室における男女の愛情交歓などその性質が純然たる私生活の領域に属し、しかも他人の生活に直接影響を及ぼさない事項については他人から「のぞき見」を受け、その結果を公開されること、もしくは「のぞき見」の結果であるかのような描写が公開されることから法律上保護される権利ないし利益は民法第709条によつて認められるものであるが、プライバシーが実定法の保護を受ける権利ないし利益であることは次のような根拠からも明かにされる。
[15](イ) 世界人権宣言第1、2条は、「何人も、その私生活、家族、家庭、通信に対する、専断的な干渉を受けたり、その名誉と信用に対する攻撃を受けたりすることはない。人はすべてこのような干渉と攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する」と定め、現代法の基本原則の一が私生活の保護にあることを明にしており、民法第709条もこの立場で解釈適用されるべきである。
[16](ロ) 日本国憲法第13条は、すべて国民が個人として尊重されるとともに、個人の幸福追求に関する権利は、国政上最大の尊重を必要とする旨を明かにしている。プライバシーの尊重は、個人の尊厳の確立と、個人の幸福追求権の実現にほかならないから、国家は国民の一人が現にプライバシーを侵害され幸福追求の権利を妨げられている場合には、その侵害を排除し損害の填補を受けられるように一切の便宜を提供することを要するものと解すべきであり、民法第709条の解釈適用はこの立場においてなされなければならない。
[17](ハ) プライバシー侵害のうち、一定の身分ある者すなわち医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁護人、公証人、宗教もしくは祷祀の職にある者、またはこれらの職にあつた者が業務に関連して知得した他人の秘密をもらす行為や、正当な理由がないのに他人間の信書を開披する行為は刑法上処罰の対象とされる犯罪行為であり、(刑法第133条第134条)、これら刑事処分の対象となる特殊な行為には該当しないとしても一般にプライバシーが民事上の保護に親しむ権利ないし利益であることは明らかである。
[18] これを要するに、各人の私生活はその人にとつてのサンクチユアリー(聖所)であり、各人は「一人でいることに由来する幸福」を追求する権利を法律上保障されているものであるから、第三者がこのサンクチユアリーに立入つて、出版、映画、演劇、ラジオ、テレビ、写真等の手段(少くとも百人単位以上の多数人に対し伝達の可能性がある手段)でその内容を公開することは、たとえその結果が公開された者の名誉を傷つけず、また信用を低下させるものでないとしても、公開すること自体が人格的利益の不当な侵害であり、このようなプライバシーの侵害から個人を救済することが現代における法の要求に合致するものである。
[19](三) このようにプライバシーの侵害は、人が通常他人の面前で公表されることを欲しない私生活を「のぞき見」し、または「のぞき見したかのように」して、「のぞき見」しなければ観察できないような私生活の領域に属する事実を推測や想像を交えて作り出して公開することであり、公開された内容が事実に合致する場合は勿論、それが事実そのままでないとしても「のぞき見」された特定人の私生活らしい外観を呈するときはなおプライバシーの侵害となるものである。
[20] それゆえ、本件で主張するプライバシーの侵害は、「宴のあと」の「野口雄賢」の行状がすべて原告の挙動、心理そのままであることを必要とするものではなく、「宴のあと」の叙述によつて、原告がプライバシーをとくに侵害する部分と指摘した箇所が原告の実際の私生活を描写したものであるとの印象を一般読者に与えることによつて充分である、といわなければならない。なぜなら一般読者にとつては、世間周知の事実である原告の経歴、公的活動とくに選挙とこれをはさんでの結婚および離婚という一身上の変化と「宴のあと」の梗概とを結びつけるならば「宴のあと」に登場する「野口雄賢」が原告をモデルにしたものであることを直ちに知ることができるが、このような世間周知の事実以外の部分の叙述についてモデル本人を除けば一般読者はもとより原告と親しい者でも実際に生起した原告の挙動、心理、感情という客観的事実を探知したうえでの描写であるかそれとも被告平岡の空想の所産であるかを識別することは不可能であり、かえつて「野口雄賢」の私生活の描写が迫真力を有し、これらの場面をつなぐ主人公の社会的活動が原告のそれと一致することによつて原告自身に生起した具体的事実(私生活)を描写したものであるとの印象を与えるからである。このようなモデルの使い方をした「宴のあと」では、「のぞき見」した部分と「のぞき見したかのような」部分とを区別する必要はなく、後者の方法による部分をも含めて公開をはばかる私生活の領域とくに夫婦喧嘩、閨房の行為、妻の肉体などを描写したこのような作品を公表することは、たとえどのような主観的意図によろうと、原告のプライバシーを侵害し個人的尊厳と幸福を追求する権利を危くするものであり、その公表の手段が文芸作品であろうとなかろうと原告に対する侵害の有無がそれによつて左右されるものではない。

[21]六、(一) そこで原告は、昭和35年8、9月頃、被告平岡および当時、「宴のあと」を連載中の訴外中央公論社に対し、同小説が単行本として出版されるとの噂があるが、これを中止するよう求めたところ、中央公論社は原告の申入に従うと答えたが被告平岡はこれを拒否した。
[22](二) その後原告は被告新潮社が「宴のあと」を発行する計画であるのを知り、同年10月末頃同被告に対し中央公論社の場合と同様その発行を中止するように求めたが同被告はこれを拒み、同年11月15日付で本件「宴のあと」を発行した。
[23](三) このように被告平岡は「宴のあと」が原告の私生活を描写し、または描写したものと一般読者に受けとられ、それによつて原告が精神的苦痛を蒙ることを認識しながらこれを執筆し、まず雑誌中央公論に連載したうえ、原告の抗議を無視してあえて被告新潮社と出版契約を結び出版させたことによつて最も責任が重い。
[24](四) また、被告佐藤は単行本として出版された「宴のあと」の「発行者」として、被告新潮社はその「発行所」として、ともに発行、発売の責任を負うものであるから、原告に対する民事上の責任としては両者の間に軽重の区別はなく、いずれも「宴のあと」が、原告の公開を欲しない私生活を「のぞき見」し、または「のぞき見したかのように」描写した小説であり、その発行、発売が原告に精神的苦痛を与えることを知りながら原告の抗議を容れず、あえて被告平岡と出版契約を結び、しかもモデル小説であることの広告を繰り返しながら営利を目的として発行、発売したことによつて原告のプライバシーを侵害した。
[25](五) たとえ被告等に右のような故意がなかつたとしても、被告平岡は作家として「宴のあと」を執筆し公表するに際し、モデルとなる原告の私生活を冒すことによつて原告に精神的苦痛を与えることがないように「創作した人物を別の場所に置き、職業をかえ、おそらく階級までもかえる」等してモデルとなる者を保護するように注意しなければならない義務があるにもかゝわらず、その義務を尽さなかつた過失によつて原告のプライバシーを侵害したものである。

[26]、このように「宴のあと」は原告の私生活をほしいままにのぞき見し、これを公表したものでありこれによつて原告は平安な余生を送ろうと一途に念じていた一身上に堪えがたい精神的苦痛を感じた。そこで「宴のあと」の作者、発行者、発売者である被告等は共同して原告に精神的苦痛を与えたものとして、原告に対し損害を賠償すべき義務があるが、原告の損害を填補するには被告等が共同で請求の趣旨第1項記載の謝罪広告を掲載し、且つ慰藉料として少くとも金100万円を支払わなければならない。

[27] よつて被告等に対し共同して請求の趣旨記載のとおりの謝罪広告および慰藉料ならびに後者に対する本件訴状各送達の後である昭和36年3月26日からその支払済まで年5分の割合による民法所定の遅延損害金の支払を求める。
[28]、原告は小説のモデルに使うこと自体が直ちにプライバシーを侵害するものであると主張するのではない。
[29] モデルに使うといつても種々の場合が想定されるが、大別すると、
(1) ある実在の人物の性格や行動にヒントを得て書き始めるが作中の人物は実在の人物をはなれて独自に動いて行く場合
(2) 小説の筋または骨格が終始、実在の人物の行動にそつている場合
で後者はさらに
(イ) 作者がその場所や職業や階級までかえて、実在の人物を連想させないように配慮している場合(この場合でもいわゆるモデル問題が起り得る)
(ロ) 作者に(イ)のような配慮が欠け、実在の人物を連想させる場合(そのはなはだしい場合には実名を使い、あるいは実名を使つたと同視できる場合があり、私小説や伝記小説に多い)、に分けられるが「宴のあと」は、(ロ)の実名を使つたと同視できる伝記小説の一種であるが、(ロ)はさらに次の2つに分れる。
(a) モデルとして実在の人物を連想できる者が限られた少数の者にとどまる場合
 たとえば私小説にでてくる人物のモデルを知るものは「多くても数百名の文壇人や編集人に限られ」「万をもつて数えるその発表紙の読者」はとくに教えられないかぎりモデルが誰であるかを知らないものである。
(b) 万をもつて数える一般読者がとくに教えられないでもモデルが誰であるかを知り得る場合
[30] そして「宴のあと」はこれに属し、天下万人がモデルとして原告を連想できるものであり、他と取り違える余地は全くないほど大胆かつ露骨に原告をモデルとして使つている。このようなモデルの使い方をし、それが私生活場面の描写に詳細に立ち入つている場合には、たとえ作者の意図がモデルに対し「好意的に描写」したものあり、賞讃していたとしてもプライバシーの侵害であり、いわんや夫婦喧嘩や、閨房や、妻の肉体を描写されることは堪えがたい苦痛である。
[31] 原告および妻(当時)の私室ことに夫婦の寝室を「のぞき見したかのように」描写することを原告が知つたならば当然原告はこれに抵抗し、その描写することから免れるために防衛の手段をとるであろうことは社会通念として認められる。たとえその描写が作者の空想や推測にもとづいてるとしても「宴のあと」が原告の実名を挙げて書かれた小説と変りないからには、私生活の場面の描写が原告のプライバシーを侵害するものであることに変りはない。

[32]、言論、表現の自由が優越するとの主張は争う。
[33] 言論および表現の自由が民主主義の基礎であるならば、その基礎の底に大きく横たわつているのが個人の尊厳である。したがつて言論および表現の自由が個人の利益よりも優位に立つということは考えられない。
[34] むしろ一般的にいえば、プライバシーの権利は言論および表現の自由に優先するものと考えるのが正しく、たゞプライバシーの侵害とみえても公表の方法が報道記事であつて公共の福祉に関係する事項であるときや、公人、公職の候補者に関する事項のような特殊な違法阻却事由があるときに限つて、国民の「知る権利」が優先するにすぎないものというべきである。
[35]、抗弁一のうち(一)の公人もしくは公職の候補者についてはその限りでプライバシーの権利がないことは認めるが、同(二)(三)を通じて「宴のあと」との関係でも原告がいわゆる公人ないし公職の候補者であるため、プライバシーの権利を有しないとの主張は否認する。公職の候補者がプライバシーの権利をもたない理由は、投票にさいして選挙民に正しい判断を下すための資料を与えようとの趣旨からにほかならないから、公職の候補者からプライバシーの権利を奪うことができるのはその選挙の投票日までに限られる。原告は東京都知事選挙に落選してからは公職の候補者となつたことはなく、またいかなる公職に就いたこともないから公人でもない。
[36] 被告等の主張は「宴のあと」の執筆および発表当時も原告が公職の候補者であつたかのような誤つた前提に立つものである。また、たとえ公人もしくは公職の候補者であつてもプライバシーの制限にはおのずから限度があり、フイクシヨンをまじえて私生活を描写したり、ことに寝室の描写にまで立ち入ることは許されない。

[37]、抗弁二の承諾の事実は否認する。
[38] もつとも原告の署名入りの書物が被告平岡の手許に届いていることは認めるが、それは「宴のあと」の連載の第1回分が中央公論誌上に発表された昭和34年12月10日以後のことであり、おそらくは昭和35年1月以降のことであろうから、被告平岡が原告の承諾もしくは黙認を得ていた根拠とはならないし、原告は右書物を贈呈するにあたつて、被告平岡が「宴のあと」を執筆していることを知らなかつた。
[1]、請求原因一の事実は認める。

[2]、同二の事実は認める。

[3]三、(一)、同三(一)の事実は否認する。もつとも「宴のあと」が原告および畔上輝井の経歴のうち社会的に公知の事実ならびにニユースに着想し、ストーリーを構成し、創作した小説であること、したがつて「野口雄賢」および「福沢かづ」の描写のなかには、実在する右両者の経歴、職業や社会的活動と似通つた部分があることは争わないが「野口雄賢」および「福沢かづ」は被告平岡が抱いている人間観、社会観を表現する媒体として創作した芸術創作上の人物であり、その言動や心理の描写は、あくまで「野口」なり「福沢」なりのそれであつて原告もしくは畔上輝井の言動や心理の描写ではなく両者は次元を異にしている。
[4](二)、同三(二)の事実のうち、原告の略歴、畔上輝井が、「般若苑」の経営者であり、原告と結婚し、原告の選挙に際しそのような尽力をしたこと、「般若苑」を売却しようとして果さなかつたこと、原告主張の怪文書が配布されたことおよび都知事選挙で原告が敗れた後畔上は原告と離婚し、「般若苑」を再開したこと、ならびに別紙「連想部分の指摘表」に挙げられた叙述が「宴のあと」の中に見出されることは認めるが、その他の事実は否認する。
[5](三)、同三(三)の事実のうち(1)の事実は認める。同(2)、(3)の事実は被告佐藤および被告新潮社が行つたものであることは認めるが、被告平岡は無関係である。
[6] 被告新潮社が「モデル小説」という広告をした意図は、「宴のあと」が社会的に知られた原告および畔上輝井の経歴、選挙に関連する公私の行動およびニユース等を創作の基礎的事実として着想したものである限りにおいて原告をモデルとしたことを認めるにとどまり、それ以外の「野口雄賢」の言動や心理の描写まで原告のそれを写したものであるという趣旨ではなく、また原告の挙げた広告は商業的意図のほか、純文学として芸術性の豊かな「宴のあと」を広く国民に推奨しようという良心的意図に出たものである。

[7]四、(一)、同四(一)の事実は否認する。
[8](二)、同四(二)の事実のうち、別紙「侵害箇所の指摘表」に挙げられた叙述が「宴のあと」の中にあることは認めるが原告の私生活を「のぞき見」し羞恥心を起させ、いわゆるプライバシーを侵害したとの主張は否認する。

[9]五、(一)、同五(一)の事実は否認する。
[10](二)、同五(一)の事実のうち(イ)、(ロ)、(ハ)の各規定があることは認めるが、いわゆるプライバシーの権利ないし利益を実定法上認めさせる根拠になるものではない。
[11] 被告らは個人のプライバシーが尊重されるべきものであることについては同感であるが、実定法上いわゆるプライバシーの権利を認めることができるかどうかについては疑問をいだいており、いわんや原告の主張するような「その性質が純然たる私生活の領域に属し、しかも他人の生活に直接影響を及ぼさない事項」すべてがプライバシーの権利によつて保護されるなどという見解は誤つていると考える。
[12](三)、同五(三)の主張は否認する。すなわち、仮に原告のいうプライバシーの権利が実定法上認められるものであるとしても、プライバシーの侵害が成立する要件としては現実に起つた「事実」が公開されることが必要であり、推測や「想像」によつて「のぞき見されたかのような印象」を与えるというような描写では足りない。ところが原告がプライバシーを侵害した箇所として指摘するところは、被告平岡の「空想と想像により原告の私生活をのぞき見的」に描写したものであると原告自ら認めているのであるから、「宴のあと」は同被告の芸術的イメージにもとづいた創作(フイクシヨン)であつて原告の現実の私生活を記述したものでないことは明らかであり、一般読者もこの小説を読んで原告の私生活を記述したとは考えない。そうすると私生活の平穏がプライバシーという名で法律上保護されるものとしても、「宴のあと」は原告の私生活上の事実を公開したものではないから、結局原告の主張は成立しない。

[13]六、(一)、同六(一)の事実のうち原告が中央公論社に発行中止の申入をしたことは認めるが、その抗議は主に (イ)、「福沢かづ」が吉田茂とおぼしき人物から金を貰つた叙述 (ロ)、同女が大野伴睦と思しき人物にみだらな態度をとつた叙述の2点を理由としたものであり、いずれも原告自身の私生活とはいえない箇所であり、本件とは直接の関係がない。被告平岡が原告の申入を断つたことは認める。
[14](二)、同六(二)の事実は認める。
[15](三)、同六(三)の事実のうち被告平岡に故意があつたとの主張は否認する。被告平岡は作家として、社会的ひろがりを持つた純文学作品を創作したい意図で、「宴のあと」を執筆したが、発表に際して原告の私生活を「狭いすきまを通してそつと見たり」「のぞき見したかのように描写し」たと認識したことは全くない。
[16](四)、同六(四)の被告佐藤、同新潮社に故意があつたとの主張は否認する。両被告が「宴のあと」を単行本として上梓したのは、これまで文壇では雑誌などに連載した作品が完結したときは単行本にまとめることが必要不可欠と考えられてきたところ、本書に対する大方の要望も強かつたので発行したにすぎず、「宴のあと」に原告の私生活を「のぞき見」しまたは「のぞき見したかのような」描写があることを知りながら発行したものではないし、そのような認識を欠いたことについて責められるような過失もない。
[17](五)、同六(五)の過失の主張は否認する。
[18] すなわち、被告平岡は「宴のあと」執筆に当つて(イ)、原告および畔上輝井の名誉を尊重すること、(ロ)、公知の事実および出版物その他により公開された資料を素材として利用すること、(ハ)、畔上輝井と会つて「宴のあと」執筆についての承諾を得、同人を介して原告の了承をも得ることの方針を樹て、「宴のあと」を連載するに先立つて畔上輝井に会い同小説の構想を説明しその承諾を得るとともに原告に対しては畔上から連絡し了承を得ることになつた。その結果原告から署名入りの自著が被告平岡宛に贈られてきたので被告平岡としては原告も「宴のあと」を発表することについて了承したものと理解したのであり、同被告は執筆にあたつて慎重な配慮をしたものというべきである。
[19] また「宴のあと」は興味本位ないし暴露趣味的な記述、描写をした箇所は一もなく、閨房の描写なども文芸作品として必要な最少限度に圧縮し、芸術的昇華度の高い文学作品となつており、全体としても執筆された内容はモデルである原告および畔上輝井に対する作家としての節度を保つたものであり、社会的に許容される合理的な限界を逸脱していない。

[20]、被告等に損害賠償義務があるとの主張は争う。
[21] 仮に、原告主張のプライバシーの権利が実定法上成立し得るとしても、その侵害に対し謝罪広告を請求できるとする根拠はないし、ましてその内容として今後の発売の中止と映画、演劇化の禁止とを宣言するような謝罪広告を請求できるとは考えられない。
[22]、「宴のあと」は次のような動機で執筆されたもので、内容的にも原告の私生活を公開したものではない。
[23] 被告平岡が「宴のあと」を創作するに至つた動機というべきものは、同被告は人間社会に一般的な制度である政治と人間に普遍的な恋愛とが政治の流れのなかでどのように展開し、変貌し、曲げられ、あるいは蝕まれるかという問題いわば政治と恋愛という主題をかねてから胸中に温めてきた。それは政治と人間的真実との相矛盾する局面が恋愛においてもつともよくあらわれると考え、その衝突にもつとも劇的なものが高揚されるところに着目したもので、1956年に戯曲「鹿鳴館」を創作した頃から小説としても展開したいと考えていた主題であつた。たまたま新聞、雑誌の記事や原告、畔上輝井(当時は原告の妻)がそれぞれの立場で発表した資料によつて、原告が東京都知事選挙に立候補したが、保守党内閣のもとに多年外交官として豊な経験と経歴をもつ原告が社会党公認の候補者となつたこと、選挙に際し同夫人が人間的情念と真実をその愛情にこめ選挙運動に活動したにもかかわらず落選したこと、政治と恋愛の矛盾と相剋がついに離婚に至らしめたこと等は公知の事実となつていた。被告平岡はここに具体的素材を得て本来の抽象的主題に背反矛盾するものを整理、排除し、主題の純粋性を単純、明確に強調できるような素材のみを残し、これを小説の外形とし、内部には普遍的妥当性のある人間性のみを充填したもので、登場人物の恋愛に関係ある心理描写、性格描写、情景描写などは一定の条件下における人間の心理反応の法則性にもとづき厳密に構成したものである。
[24] それゆえ、原告がプライバシーを侵害した箇所として指摘する部分はすべて被告平岡のフイクシヨン(創作)であり「宴のあと」にあらわれた登場人物はもはや原告でなく被告平岡のイメージの中にある人物が描写されたもので、その性格、心理、情景、挙動その他すべてイメージによる描写である。
[25] もとより前述の具体的素材が「宴のあと」に用いられている限りでは、「野口雄賢」が原告を連想させる余地があることは被告等も争わない。しかし、「野口」の心理、性格、恋愛、その他の情景描写によつて原告の心理、性格、恋愛、その他原告を取り巻いた具体的情景がこのとおりであつたという印象を「宴のあと」の読者に与えるということはあり得ない。むしろ読者は作者の被告平岡が具体的素材の一である原告から遊離昇華させたいわばイメージの中の人間像を描いたものと受け取るのが普通であるから、原告の私生活が「宴のあと」に描写されているとおりかつて行われ、あるいは行われたであろうと連想することはあり得ないし、いわんや原告の「のぞき見」すべからざる私生活の領域をのぞき見したものであるなどと感じる読者はいない。原告の主張は誤つた仮説の上に立つものである。

[26]、言論および表現の自由はプライバシーの権利に優先する。
[27] 言論および表現の自由は、表現者の受ける個人的利益のほかに社会一般の人がこの表現を受け取るという利益、すなわち「話す、書くことの自由」のほかに「読む、聞く、知ることの自由」をも包含しており、これらが民主主義の前提条件である。これに対しいわゆるプライバシーは原告の主張によれば個人尊重の自由および幸福追求の権利の一であるというから、この権利は個人の利益を図るものであるのに対し言論および表現の自由は社会一般の利益を図るものであり、民主主義の基盤を作るものであるから、両者が抵触するときは後者の優位が考慮されなければならない。
[28] 「宴のあと」は、前述のように原告の公的地位、経歴、公職選挙運動を中心とし、これと関連する前後の結婚および離婚などが中心テーマであり、この小説が社会財として持つ価値をも考慮すれば、それが仮に原告のいうプライバシーの権利に抵触するところがあるとしても、「宴のあと」によつて社会一般の人が読み、聞き、知るという言論および表現の自由の価値が優先することを認めなければならない。
[29]、原告は公職の候補者であつたから、その限りでいわゆるプライバシーの権利を有しない。
[30](一)、すなわち、いわゆる公人とくに公職の候補者はその適格性を国民から判断される立場にあるから、その審査と批判に必要な限度で私生活について公開されることを差し止める権利をもたないものであり、この意味でいわゆるプライバシーの権利をもたないものである。
[31](二)、「宴のあと」の内容を要約すると、
1 著名な料亭雪後庵を経営し政界にも知名の「福沢かづ」が元外相「野口雄賢」と結婚し、同人を政界へ送り出すようにひたすら愛と熱情とをささげ、
2 「野口雄賢」が革新政党の顧問となり、東京都知事選挙に推されて立候補し、
3 「福沢かづ」は雪後庵を抵当にして資金を調達し、「野口雄賢」の意に反して選挙運動に多額の金を使い、
4 「野口雄賢」および「福沢かづ」は保守政党の醜悪な選挙運動になやまされ、
5 「野口雄賢」は不幸落選し、雪後庵再開について「野口」と「福沢かづ」の人生観が全く離反し、ついに二人は離婚した。
というのである。
[32] このように「宴のあと」は「野口雄賢」と「福沢かづ」が都知事選挙に活躍した全部を中心とし、選挙に関連するその前後の事情がこの小説のすべてであつて、以上の諸点を除けば独立した小説とはならない。
[33](三)、原告は請求原因で自認するとおり公職を歴任し、都知事選挙に立候補したものであるから、仮に「宴のあと」の「野口雄賢」が原告を連想させるとしても、原告は公人としてこの小説に叙述されている程度の事項についてはプライバシーの権利を有するものではない。

[34]、原告は被告平岡に対し「宴のあと」を執筆するについて原告をモデルとすることを承諾した。
[35] すなわち被告平岡は「宴のあと」を執筆し中央公論誌上に発表するに先立ち、畔上輝井と会つて同人をモデルとすることについて承諾を得たが、その際、畔上から原告へ話して執筆について原告の了解をも得てもらうことになり、畔上はその頃被告平岡のため原告からモデルとすることについて承諾を得た。
[36] 現に原告は署名入りの自著「馬鹿八と人はいう」を被告宛に贈つてきたが、これは右の承諾があつたことを示すものである。
別紙   連想部分の指摘表
(カツコ内は原告代理人の註記)

 原告の広く知られている経歴(請求の原因三(二))と合致するもの
1 「野口老だよ、むかし大臣を何度もやつたあの有名な、あの方はどいうわけだか、このごろは革新党の一代議士になつて、又それも次に落選してしまわれた。」(15頁)。
2 「野口雄賢元外相」(17頁)。
3 「彼(野口)も亦、本省へかえる前は、小国の大使をつとめたことがあつたが、」(22頁)。
4 野口の言葉、「身軽なのは僕一人だから」(28頁)。
  「家内は終戦後間もなく病気にかかつて死んでしまつた」(45頁)。(実際は昭和18年10月死亡)。
5 「野口は二度目に代議士に落選してのちも、革新党の顧問に名を列ねてゐたが」(61頁)。
6 「野口の元大臣という貴族的な経験と、革新思想といふ現在の彼の信奉しているもの」(65頁)。
7 「元大臣の野口雄賢」(97頁)。
8 「野口が終戦数ケ月前に、天皇に和平の建白書を奉つたという挿話」(161頁)。

 原告の風貌を連想させるもの
1 「その雄々しい顔には、いつまでも失はれない素朴さがあり、身なりも他の人達とちがつて、衒ひや洒落気というものがなかつた。鋭い澄んだ目の上には、筆勢の余つたやうな形の眉が突つ走つてをり、こんな立派な一つ一つの造作も、おのおのがいがみ合つて、痩せた体つきと一そうの不調和を示してゐた。野口は微笑を忘れなかつたが、いつも自分を守つてゐるしるしに稀にしか合槌を打たなかつた。」(21-2頁)。
2 「無口な人ほどその傾向があるが、野口も一旦口に出した言葉は大いに重んじる性格だつた。」(226頁)。
3 「使い古した箒のような眉がやさしげな目の微笑の上に影を落してゐる」(255頁)。
4 「彼の廉直なぎこちなさ」(286頁)。
などは、原告をそのまま写しているかどうかは、別問題として、選挙公報や新聞、雑誌でみた原告の写真や人物評から、右の「野口」の風貌等は、原告を連想させることの妨げとはならない。
 また「野口」の都知事選挙運動における演説をみるに、
5 「少しも愛嬌のない表情で」(186頁)。
6 「まことに抑揚のない調子で」(同)
  「ぢいさん、もうすこし抑揚をつけて喋つてくれないかなあ」(187頁)。
7 「無味乾燥としか云ひやうのないその演説」「話し下手に対する信頼」(199頁)。
などは、直接に、あるいはラジオ等で、原告の演説を聞いた者に、「野口」が原告であることを連想させる。

 原告の妻であつた般若苑の女主人畔上輝井との結婚を通じて原告を連想させるもの
1 「さまざまな苦労のあげくに、今日の地位を得た「かづ」」(86頁)。
2 「「野口」が「雪後庵」の女主人「福沢かづ」との結婚」(92頁)。
3 料亭の「女将が革新党の顧問の奥さん」(97頁、同旨111、118、154頁。)
4 「生れ落ちてからの苦労のかずかずを、」へてきた「福沢かづ」(140頁)。
この程度のことは広く知れていて、「福沢かづ」から原告を連想させる。

 原告は東京都知事選に2度立候補しているが、「宴のあと」は、これを昭和34年4月23日施行の選挙1つにかえている。「宴のあと」の東京都知事選が昭和34年4月のそれであることを示しているものとして、
1 「現都知事がやめそうでなかなかやめないのも、保守党の候補者の人選難から首相の同意が得られないためであること」(176頁)。(前都知事安井誠一郎についての同様のことがあつた)。
2 都知事が任期の途中で辞職し、すぐ選挙の告示が行われたこと(181頁)。(安井前都知事は昭和34年3月14日、任期途中で都議会で辞意を表明し、選挙告示は3月29日)
3 終盤戦になつて、「折しも区会議員の選挙がはじまつた」(208頁)。(区会議員選挙告示は同年4月18日、投票は4月30日であつた)。
4 都知事選終了後、「参議院選挙がはじまり、野口もかづも応援演説をたのまれた。(227頁)。4月23日の都知事選終了後、参議院議員の選挙は同年5月7日告示、同年6月2日に投票が行われた)。

 都知事選における原告の選挙運動を連想させるもの、
1 前記B5、6、7の「野口」の演説。
2 「福沢かづ」は、選挙運動のために、「雪後庵を抵当に入れた」(170、171頁)。
3 「雪後庵を売ることになつた」(171頁)。
4 「雪後庵」は、「野口」と「藤川コンツエルンの藤川玄蔵」との間に売買の話が「たちまちまとまりさうに思はれたが、売値一億に、むかうはどうしても八千万円の線までしか歩み寄つて来なかつた」(172頁)。(原告と五島慶太との間に同様の話がすすんだ)。
5 「佐伯首相から圧力が」かかつて右の売買は破談になり、「野口」は「佐伯首相」を公邸に訪ねて抗議した(179-180頁)。(佐伯首相は岸信介のこと。これもかなり知られている事実である)。
6 「東京都八重洲口」の最初の「演説会場」で、「野口」の演説中、「マイクが突然故障を起した。」「折しも、むこうの一角で対立候補の飛田厳の演説がはじまり、」(186頁)。(この事実はその時八重洲口にいた人達ばかりでなく、昭和34年3月29日付朝日新聞夕刊では、有田候補の第一声として「マイク故障でイライラ」のサブタイトル見出しで報道され、その他にも広く知られている)。
7 請求の原因三(二)記載の怪文書。
「そら、これだ」
と戸塚が卓上へ薄つペらな小冊子を無造作に取り出した。
見ると、
「野口雄賢夫人伝
       巫山漁人著」
と書いてある。
頁をめくるかづの手はひどく慄へた。各節に煽情的な見出しがつき、少女時代のかずが上京して数年後、戸塚と同棲してゐる個所では、戸塚自身の名が本名で出て来て、戸塚が純情な色男に、かづが淫佚きはまる女に描かれてゐる。「色と野心との二筋道では、必ず色を捨てて野心へ赴くといふのが、彼女の決つたコースである」などと書いてある。その後の遍歴も、ひとつひとつ閨房にまで立入つて書き、かづをあたかも色を売物にして、多くの男を踏台にして、今日の地位を築いたかのごとく描いてゐる。最後の章の記述をばらばらめくつて読んで、かづはこの小冊子の書かれた目的を知つた。そこでは野口を神のやうなお人好にしてあり、かづを野口を欺して都知事夫人の座に納まらうとする悪辣な女に仕立ててある。(194-15頁)
数日後この怪文書は、こんな約束にもかかわらず、都内の名ある人々のところへ隅なく無料で頒布されてゐた。部数は数十万部にのぼると推定された。山崎が、「いよいよ無差別爆撃がはじまりましたね」(197頁)。
請求の原因三(二)記載の怪文書と全く同じであつて、その頒布方法も同じである。
8 投票日の前日、「深川、渋谷、新宿、池袋、杉並、吉祥寺」で、『野口雄賢、重態』といふビラと、『野口雄賢、危篤』といふビラ、号外売りが鈴を鳴して、無料で配り歩ていゐるさうです」(209、210頁)。(これも原告の選挙について事実あつたことで、広く知られている)。
9 選挙の結果、「午後の二時に、飛田厳の当選が確実になつた。飛田の票は百六十万を越え、二〇万近く引き離された。大阪でも保守党が勝ち、」(218頁)。(原告の選挙の実際は169,157票の差で破れた。大阪では、同日自民党公認の佐藤義詮が勝ち、社会党公認の小畑忠良が破れた)。

 選挙後の原告を連想させるもの
1 「福沢かづ」の「雪後庵」再開(242頁以下、287頁)
2 「野口」と「福沢かづ」の離婚(289頁)。(選挙後、輝井は原告と離婚して、般若苑を再開した)。
3 「野口は多くの隠退政治家と同じやうに、」(285頁)。
(1) 原告の権利又は利益が侵害された箇所は、「宴のあと」における原告を連想せしめる「野口雄賢」の私生活の全部である。また原告の妻であつた畔上輝井を連想せしめる「福沢かづ」を描くことにより、原告の私生活を「のぞき見」したと見られる部分についても、原告のプライバシー侵害があるものとみなければならない。ただし東京都知事選挙の告示後、都知事候補として、「野口雄賢」とその妻が、公の場所に登場する部分については、原告はプライバシー侵害を主張しない。
 以上章別にこれをのべる。そのうちとくに原文を引用摘記した箇所は、原告が羞恥をおぼえるような部分であり、プライバシー侵害の著しい部分といわねばならない。

(2) 第一章 雪後庵(7-14頁)
 「野口雄賢」と交渉のはじまる前の「福沢かづ」を描いているので、原告の権利(プライバシー)侵害を主張しない。

第二章 霞弦会(15-27頁)
 「野口」を描いた部分について、原告の権利侵害を主張する。

第三章 環夫人の意見(27-36頁)
 「野口」を描いた部分について原告の権利侵害を主張する。

第四章 暇な同士(36-48頁)
 「野口」と「かづ」のなれ初めについて描いてあり、全部について、原告の権利侵害を主張する。

第五章 恋に関するかづの解釈
 全部について、原告の権利侵害を主張する。原告が婦人から綿々と思慕されている状態を、婦人の側から描かれることも、原告にたいする「のぞき見」であるとみなければならない。

第六章 旅立ち迄(59-69頁)
 結婚にいたる「野口」と「かづ」の交際を描いているので、全部について原告の権利侵害を主張する。なお次のような「最初の接吻」の描写がある。
 彼等の恋はきわめて徐ろに進行し、二人がはじめて接吻したのは、正月にかづが野口の家に年賀に行つたときであつた。(65頁)
 「私を思つて下さるのだつたら、あの女中に暇をやつて下さいまし。女中なら、もっと気の利いたのを、いくらでもお世話しますわ。暇をやつて下さらなければ」と言ひさして、かづは泣き出した。「家にゐても、私は心配で、おちおち寝られやしません」
 野口は沈黙で抵抗した。庭の寒紅梅の下の竜の髯の碧玉の実を数へてゐる。しばらくかづの訴をきいてゐてから、思ひ出したやうに銚子をとりあげた。かづは涙に濡れた手巾の上に、無理にすすめられた木杯を一旦とつたが、忽ちそれを畳の上へ放り出して、野口の仙台平の袴の膝へ顔を伏せて泣いた。そのとき、手巾の乾いたはうをひろげて袴にあて、袴がよごれぬやうに気を配つた。
 野口の手がしづかに帯のお大鼓の上を撫でた。さうしてゐるとき、かづは抜いた襟からのぞかれるつややかな背中が、白い香りのよい粘りの強い肉を湛へて、野口の目を惹くことを確実に知つてゐた。撫でてゐる野口の手のうごきの、放心したやうな静けさにも、かづのよく知つてゐる音楽のやうなものがあつた。そのあとで二人は最初の接吻をしたのである(68-9頁)
第七章 二月堂御水取(69-83頁)
 「野口」と「かづ」を描いた部分について、原告の権利侵害を主張する。なおつぎのような「最初の同衾」の描写がある。
 ホテルの部屋にかへると、窓外に遠く鶏の声をきいた。
 しかし空はまだ白みかけてゐなかつた。
 一風呂浴びてから寝やうと野口は言つた。かづの目はなほ興奮にかがやき、疲れてはゐるがとても眠れさうにもないと言つた。かづは羽織を脱いだ。それを畳みかけてから、野口の注意を羽織の裏へ惹いた。あかるい部屋の燈の下で、寝台の上にひろげられた羽織のかたはらへ、野口は寄つて来た。葡萄紫の裏地は沈静で発句が書かれてゐた。
 「何だね」
と野口はネクタイをほどきながら言つた。
 「宗祗の発句ですわ。この旅行のために、書家にたのんで、書いていただいたんです。もう春ですしね」
 かづはそもそも宗祗の句をすすめたのが、呉服屋の入知恵であつたことは言はなかつた。
「待とだに
 しらば やすらへ
   はるの花」
 野口はネクタイをほどく手をやめて、黙つて永いことこの句を見入つた。その老いた静脈の一杯浮いた枯れた男の手を、かづは美しいと思つた。
 「なるほどね」
とやうやう野口が言つた。感想はそれだけだつた。その夜明け、六十をすぎた男と五十の女は一つ寝床に寝んだ。(82-3頁)
第八章 華燭(84-99頁)
 「野口」と「かづ」の結婚の発表と、それを妨害しようとする永山元亀を描く、全部について原告のプライバシー侵害を主張する。

第九章 いわゆる「新生活」(99-113頁)
 原告らの結婚生活を「のぞき見」しているので、全部について原告の権利侵害を主張する。

第十章 重要な訪客(113-129頁)
 前同様。

第十一章 本物の「新生活」(129-157頁)
 「かづ」が青梅市において公衆の前に現われる部分である148頁7行目から155頁末行までの部分は、原告の権利侵害を主張しないが、その他の部分については、原告の権利侵害を主張する。夫不在の時における妻の私行を「のぞき見」することや妻の肉体の描写は、夫のプライバシー侵害である。なおつぎのような寝室の描写もある。
 野口家の寝室には、古い十畳間に、結婚以来新らしいツイン・ベツドを入れた。それらは古いペルシヤ絨毯の上に置かれてあり、それに仰向けになると天井が異様に近く、周囲の襖や壁が異様に迫つてみえた。
 野口がきまつて先に寝入つてしまふと、かづはまた枕許のあかりをつけて、本や雑誌を読むでもなく、じつと何かに目を凝らして、眠りを待つことがある。たとへば半月の形をした、刀の鍔のやうにこまかい彫金を施した襖の引手をじつと見てゐることがある。その引手にはそれぞれ四君子が彫り込んであり、蘭の引手が目の前にある。薄闇の中で、黒ずんだ金属の蘭の花は、かづの寝もやらぬ冴えた目に相対してゐる。
 部屋のなかは瓦斯ストーブをさつき消したので、温気が引き潮のやうに退いてゆく。いつもの週末の、同じ静かな夜のあひだに、野口がどんな風にして出馬の決心を固めたのか、妻にもまつたく窺ひ知ることができない。立候補を受諾する前の彼も、考へ中の彼も、受諾後の彼も、見事なほど変りがなかつた。いかに野口でも定めしわくわくしたり、悩んだり、思ひ直したり、又元の考へに戻つたりしたにちがひない。しかし妻にはその片鱗も見せず、同じやうな寝る前の一トしきりの咳、同じやうな中途半端な愛撫や不透明な接近の仕方、同じやうな断念、同じやうな身をちぢこめて眠る蛹めいた寝方を示したにすぎない。何か野口のベツトには、吹きさらしのプラツトフオームのやうな感じがある。それでも彼は、かづよりも寝つきがいいのである。(135-136頁)
 また次のような妻の肉体の描写もある。
 かづの卒直と正直は、別に愛してゐない男の前では、容易に露出的にまでなるのだつた。彼女は人の幻想を破るためにこれ力めるが、人はかづにはじめから幻想を抱きやうがなかつた。肥り肉の美しさには平俗な暖か味があり、衰弱したところは少しもなくて、どんな宝石や衣裳に飾られても、故里のあとにあらわれる黒い土の香りがあつた。実際こんな豊饒な印象が、お喋りをもうるさく思はせず、むしろつきづきしく見せるのである。(140-141頁)
第十二章 衝突(157-170頁)
 「野口」と「かづ」の夫婦間の私生活を描いたもので、全部について原告のプライバシー侵害となる。なお次のような「かづ」の肉体描写も存在する。
 元亀は顔色を変へてしまつた。それからすぐ座を立つのは大人げないと思つたものか、相客に例の猥談を一トくさりやつて、いつもより早々と帰つた。帰りがけにかづが廊下を送つてゆくと、元亀はかづの肩に手をまわして、乳のあたりを二三度軽く叩いた。こんな陰欝な色仕掛がかづの心を、元亀から決定的に引き離した。
 あくる日山崎が呼び出されて雪後庵へゆくと、かづは自室で長襦袢一枚で按摩をさせてゐた。その長襦袢のみごとな鴇いろに、今さら山崎はおどろいた。しかし人によつては媚態とも見まちがへかねぬかづのふしだらな姿態が、愛さない男にだけ示す寛ろぎだといふことを、山崎はとつくに承知してゐた。腿を揉ませるとき、鴇いろの裾が乱れてまつ白な大腿がちらつとあらはれる。これは五十も半ばの女とは思へない底光りを澱ませた滑らかな腿だつた。かづはその腿を、無責任にそこへ放り出してゐるのである。(159頁)。
 また次のような「かづ」にたいする「野口」の暴力行為を描写する場面もある。
 家へかへると、野口は黙つてかづを書斎へ伴ひ、内から鍵を下ろした。彼の怒りは燃えてゐるやうには見えなかつたが、怒りは険阻な岩のようにそびえ立つて、よぢ上るすべもなかつた。
 「どうして雪後庵へ出かけたかわかるか」
 かづは泣いたまま、かすかに首を振つた。その首の振り方に、自分でもいけないと思ふのに軽い媚態がちらついてゐた。そこでいきなり頬桁を張られた。彼女は絨毯の上へ崩折れて泣いた。
 「わかるか」と野口は息をはずませながら言つた。「今日印刷所から家へ電話がかかつて、僕がそれに出たのだ。カレンダーのお金が精算してないから払つてほしい、といふ。奥さんに頼まれたといふのだ。訊き質したあげく貴様の仕業がわかつた。雪後庵へ行つてみると、カレンダーばかりぢやない。これは何だ。これは一体。無礼者!」
 野口はかう言つて、今度はパンフレツトでかづの顔を何度も叩いた。かづは良人と諍ひをしたことは再三あるが、これほどの目に会つたことはない。打たれながら上目でちらりと見ると、野口は息をはずませてはゐるが、顔が怒りに歪んでゐるといふのではない。こんな狂気の冷静さがかづの身を慄へさせた。
 「貴様は亭主の顔に泥を塗つてくれた。いかにも貴様のやりさうなことだ。僕の履歴書を見事に汚してくれた。恥を知れ、恥を!、亭主が世間の笑ひ者になるのが嬉しいか」
 そして今度は床の上のかづの体を所きらはず踏んだが、その軽い体重はいかにも非力で叫び声をあげながらころげまわるかづの体の豊かな弾力に、足はともするとはね返された。野口は机のむうの椅子に落ちつくと、泣き叫ぶかづの寝姿を遠くから眺めた。
 野口の叱責は言葉つきも古風で大時代で、いかにも古い正義感の権化を思はせた。彼の怒りには堂々たる型があり、かづは内心かういふ古くさい男の怒りが好きだつた。かづは痛みと幸福のために気を失ひかけてゐたが、野口は一旦怒つて禁ずべきことを禁じてしまへば又あとはすぐ盲らになり聾になる男だといふことを、気を失ひかけた頭でゆつくり考へた。この考への反復のうちに、かづはふたたび、野口に対して寛大なる以上に自分に対して寛大になつた。
 それでゐてかづの声は獣のやうに、叫びながら宥しを乞ひ、ありつたけの詑び言をわめいてゐた。気を失つて静かになり、又前にまさる声で宥しを乞うた。野口の拷問は長くつづき、この分ではかづが相当の金を使つてゐるにちがひないから、何もかも白状するまでここを出てはならぬと言つた。かづは譫言のやうにかう言つた。
 「自分でためたお金……あなたのために使つた……みんなあなたのために……」
 野口は冷然とこれをきいた。そして一語も弁解をきかないといふ態度を示して、書棚から洋書を出して来てかづから顔をそむけて読んだ。
 かなり永い沈黙があつた。机上のスタンドのあかりだけが輪をひろげ、雨の音と、時折野口が洋書の頁をめくる音のほかには、かづの乱れた息づかひがきこえるきりである。そこには静かな書斎の夜があつて、ただ床に裾を乱した豊かな体躯の初老の女が横たはつてゐるきりである。かづは自身の裾から腿があらはれ、スタンドの仄明りの外側に、それが息づかひにつれてかすかに起伏してゐるのを知つてゐる。かづはそこが次第に冷えて痺れたやうになることで、露はれてゐる肉の所在を確実に知つてゐる。その疑ひやうのない無益を自らいとほしみ、その冷たさ、その痺れで、かづは自分の腿のおぼめいている白い部分が、すべての拒否にさらされてゐると思ふのである。その痺れをとほして、野口の拒否が彼女の身内に流れ込んでくるやうに感じられる。
 たうとうかづは裾の乱れを直して、居住ひを正して、絨毯の上に頭をつけて、何もかも白状すると申し立てた。雪後庵を抵当に入れたことから、洗ひざらひ言つてしまつた。(166-170頁)
第十三章 恋路の邪魔(171-181頁)
 「野口」と「かづ」の夫婦間の私生活を描いた箇所、夫不在の時における妻の私行の描写は、原告のプライバシー侵害である。「雪後庵」を抵当に入れたこと、その売却交渉が行われたこと、佐伯首相の圧力から破談になつたこと、「野口」が佐伯首相に抗議した点については、プライバシーを主張しない。

第十四章 いよいよ選挙(181-212頁)
 告示の日の朝の夫婦間の私生活の部分、201-203頁における夫婦間の私生活の部分は、原告のプライバシー侵害である。その他については(選挙運動に関するので)プライバシーを主張しない。

第十五章 その日(212-226頁)
 216頁2行目-221頁1行目までの投票、開票、選挙の結果については、プライバシーを主張しないが、その他の部分である「野口」と「かづ」の夫婦間の私生活の部分については、原告の権利侵害を主張する。

第十六章 洋蘭、オレンヂ、寝台(226-241頁)
 選挙後における夫婦の私生活を書いているので、全部について原告の権利侵害を主張する。とくに次のような「独りよがりの老人の媚態」の描写がある。
 物質的にも社会的にも失ふべきものを失ひ尽したので、そこに却つて静かな浄福を発見したといふのが、このごろの野口の好んでとる考へ方だつた。これはあんまり単純な詩的心境で、野口の年齢なら自然でも、かづの年ではあまり自然ではなかつた。のみならず野口はときどきこの心境を誇張した。ある日、革新党本部へ出かけたかへりに、デンドロビウムの一鉢を買つてきた。
 出迎へたかづはかう言つた。
 「まあまあ、御自分で植木鉢をお持ちになるなんて。花屋が届けなければ、一寸電話を下されば、女中をとりにやりますのに」
 ろくろく花の種類を見きはめずに言はれたこの言葉には、親切よりも不平の調子がありありと現はれたので、野口は俄かに気むづかしくなつた。鉢を受けとつてからはじめてかづは気がついた。それは二人がかつて精養軒で中食をしたとき、野口が説明した花だつたのである。
 しかしこの発見はかづにやや煩はしい感じを与へた。投票当日にかづの作つた背広を着てみせた心遣りは、深くかづを感動させたが、今度の蘭の花は二度目の感動とまではならなかつた。ここには枯れた老人の手が、かづを引き込まうとしてゐる詐術のやうなものがあり、紅を刷いた洋蘭の花の、記憶のなかの色褪せた捺し花を、目前の瑞々しい同じ花に強引に結びつけようとする手つきのやうなものが感じられたからである。こんな独りよがりの老人の媚態は、やすやすと回想を未来に結び、凋んだ記憶の中の洋蘭と活きた洋蘭とを同列に置き、かうして丹念に編んだ陰惨な花環の裡に、かづを閉ぢこめてしまはうとしてゐるやうに思はれた。
 警戒心を起しながらも、しかしかづは数時間しらん顔をしてゐて、寝室へ入つてからかう言ふのを忘れなかつた。
 「あの花、何て申しましたつけ? 精養軒で名前を教へて下さつたわね」
 寝つく前の一トしきりの咳がやむと、野口は麻の夏蒲団の中で寝返りを打つ乾いた大仰な音を立てて、かづへ背を向けた白髪の頭が、面倒臭さうにかう言つた。
 「デンドロビウム」(227-229頁)
 また妻の浮気に関するつぎのような描写がある。
 二人は夕刊をとりよせて、見るべき映画を何やかと選んだ。気晴らしのために見るのだから、何でも面白可笑しいものでなければならない。さうかと云つて、かづは喜劇が嫌ひだつた。
 二人の前に展げられた夕刊の上へ、かづが頬と頬とが触れんばかりに顔をさし入れて、指輪をはめた指は白くこまやかに活字を辿つて動きまはるのを、山崎は重苦しい気持で眺めながら、一体自分はこの女の何だろうと自問した。かづは愛さない男の前でだけ、自然な情人、気楽なくつろいだ色女になり、素朴で、わがままで、野の香りをさへ立てるのだが、一旦愛する男の前へ出ると、彼女からは「自然さ」が消えた。確実に山崎は、野口の全く知らないかづを見てゐた。しかし山崎には、別にそれを有難い特権と感じる理由は一つもない。(239頁)
第十七章 夕雲の墓(241-262頁)
 夫婦間の私生活と、夫を裏切り離反して行く妻を描いているので、全部について原告の権利侵害を主張する。

第十八章 宴のあと(262-289頁)
 離婚にいたる大詰を描いているので、全部について原告の権利侵害を主張する。なおつぎのような描写がある。
 気が咎めてゐたせゐもあり、又、取り残された山崎の孤立を慰めたくもあり、言葉よりも身体の表現のはうがずつと自分を弁護してくれることを知つてゐるかづは、永い附合に一度もなかつたことだが、山崎の手を上から包むやうにして強く握つた。山崎のおどろいてこちらを見た目は、遠い外燈の光をうけて煌めいた。
 しかし山崎はこんな唐突な表現を誤解するたちではなかつた。はじめて野口家でかづに会つてから、今日までの一年間の帰結が、こんな形でやつて来るのは、二人の人間の間のわがままな関係で、山崎は無限に恕すことで、自分の客観性を保持してきたのであるから、かづだけがわがままだということはできなかつた。そして最後に、書家が折角構図の整つた絵を、おしまひの一刷毛で台なしにしてしまふやうに、かづは急に手を握つたりする不釣合な表現で台なしにしてしまつたのであるが、恋愛にとつては浅薄であり、友情にとつては冒涜である筈のこんな仕打ちも、山崎は別の角度へ飛び退つて、やすやすと恕すことができた。
 それよりも山崎が感じたのは、かづの羽根蒲団みたいに柔らかな温かい手が、包み込んでゐるふしぎな力だつた。それは有無を言はせない不合理なあいまいな温かさで、強い破壊力をひそめてゐた。それは密度を以て肉を充たし、まことにそれ自体のかけがへのない重みと暖かさと、そして暗さを蔵してゐた。
 やつとかづは手を離した。(275-277頁)
第十九章 宴の前(290-295頁)
 本章は離婚後の「福沢かづ」の生活を描いているのであるから、とくに原告の権利侵害を主張しない。

[1](一) 請求原因一のとおり小説「宴のあと」が連載され、のち単行本として刊行されたこと、同小説は請求原因二のような梗概のものであること、小説「宴のあと」が原告および畔上輝井の経歴のうち社会的に周知の事実ならびにニユースに着想し、ストーリーを構成し、創作されたものであること、したがつて同小説に登場する「野口雄賢」および「福沢かづ」に関する描写のなかには原告および畔上輝井の経歴、職業その他社会的活動と似通つた部分があること、(請求原因三(一)関係)原告の略歴および畔上輝井が「般若苑」の経営者であり、原告と結婚し、原告の選挙に際し尽力したこと、「般若苑」を売却しようとして果さなかつたこと、原告主張の怪文書が配布されたこと、都知事選挙で原告が敗れたのち畔上輝井は原告と離婚し「般若苑」を再開したこと(請求原因三(二)関係)、他方小説「宴のあと」には別紙「連想部分の指摘表」同「侵害箇所の指摘表」に挙げられた各描写があること、
(二) 「宴のあと」が単行本として刊行発売されるに際し、請求原因三(三)(1)のような広告が出され、また被告佐藤、同新潮社が請求原因三(三)(2)、(3)のような広告をしたこと、
(三) 原告が昭和35年8、9月頃小説「宴のあと」を連載中の中央公論社に対し、同小説を単行本として出版しないようにと申し入れたこと、また同年10月末頃被告新潮社に対しても同様の申し入れを行つたが、同被告はこれを拒み、同年11月15日付で単行本として出版したこと(請求原因六(一)、(二)関係)、
の各事実は当事者間に争いがない。
[2] 前示一の当事者間に争いがない事実ならびに証人嶋中鵬二の証言、原告、被告平岡公威、同佐藤亮一各本人尋問の結果および成立に争いない甲第18号証の1、2、乙第1ないし8号証の各1、2を総合すると、

[3](一) 被告平岡は昭和31年に戯曲「鹿鳴館」を発表した頃から政治と恋愛との衝突というようなテーマを小説としても展開してみたいと考えていたところ昭和34年の春から夏にかかる頃中央公論社から連載小説の執筆の依頼を受けた。その当時たまたま原告の都知事選挙出馬とそれをめぐる様々な話題が新聞、雑誌等に現われ、とくに原告の選挙とそれをめぐる原告夫婦の破局が同被告のあたためてきたテーマを展開するのに好個の材料であると思われたので、すでに公開されていた原告およびその妻であつた畔上輝井の手記、談話の類その他の報道記事、刊行物等を資料として集める一方、小説の構想を練り、同年秋頃漸く、胸中に小説の決定的契機ともなるべきものをとらえることができたように思えた。そこで被告平岡は中央公論社に対し「般若苑のマダムについて右のようなテーマで書きたいが、それでよいか」とただしたところ、同社は「異存はないがあまりになまなましい事件であるから少くともモデルとされる畔上輝井さんに会つてその意向をうかがつたうえで掲載の運びにしたい」との意見を述べ、被告平岡も小説の構想が女主人公を中心に立てられていたので、その必要性を認め、中央公論社の社長嶋中鵬二、同社の担当記者青柳正己と共に料亭「般若苑」で畔上輝井に会つた。被告平岡はこの当時はまだ女主人公を中心に小説を展開し、男主人公は傍系としてとどめる構想であつた。

[4](二) 右席上で被告平岡は畔上輝井に対し、自分の念頭にあるのは政治と恋愛との対立というような主題で、私は小説の女主人公に非常に美しいイメージをいだいており、小説では一つの理想の姿、肯定的な人間像をあなたを通して描いてみたいという趣旨の話をしただけで、その構想の具体的な内容、梗概などは話題に上らず、また中央公論社側も小説の具体的な内容については被告平岡に委ねてあり、般若苑のマダムがモデルになるという程度にしかその構想を知つていなかつたので、原告との関係で本件小説がどのように展開されるかなどの問題については格別説明しなかつた。この申し入れに対し、畔上は自分がモデルにされることの可否については即答を留保し、原告の意向もたずねてみたいとの態度であつたが、被告平岡には会談の空気から推して彼女に本当の自分の姿を書いてもらいたいという気持が動いていたように推察された。そして被告平岡ないし中央公論社と畔上との間でこの件について何度か交渉があつて漸く同女もモデルとされることについて明確な承諾を与えたので、小説「宴のあと」は雑誌中央公論の昭和35年1月号から同年10月号まで10回にわけて執筆連載される運びになつた。

[5](三) 原告は小説「宴のあと」が中央公論誌上に連載される前に、畔上輝井から電話で三島由紀夫という小説家が般若苑のことを小説に書きたいと申し入れてきたがどうしたものだろうかという趣旨の簡単な問い合わせを受けたが、そのときはすでに畔上と離婚していたので「その問題については私としては諾否いずれとも返事をしない、お前がどう処置するかは私の関係するところでない」という意味のこれまた簡単な応答に終始し、原告がその作品のモデルとされる余地、その場合の問題などについてはなんらの意見の交換、打合も行われず、また被告平岡ないし中央公論社側から原告に対しこの点について原告の意向を直接打診するような措置はとられなかつた。

[6](四) 畔上輝井は右(二)で認定したように一回は小説のモデルにされることを承諾したけれども、「宴のあと」が中央公論誌上に半ばほど発表された頃すなわち連載の第6回分が発表された頃、中央公論社に対し手紙で、「軽卒に承諾したがあのように自分が淫らな女として扱われている小説は全く心外であり、迷惑であるから、「宴のあと」の掲載は中止してもらいたい」旨を申し入れ、その頃から被告平岡の許にも幾度か同趣旨の申し入れがあつた。しかし被告平岡は「小説は中途では否定的な箇所も現われるけれども結論として最後に残るイメージが重要なものであり、「宴のあと」も最後まで読んでもらえば肯定的な人間像として描かれていることが判るでしようから」と答え、連載中の同小説の執筆、発表を続けた。ただ中央公論社の方では、畔上から掲載中止の要求がくり返されるので、連載についてはすでに同女の承諾を得たうえでのことではあり、作品も芸術的に秀れたものであるからこれを中止することはできないけれども、この小説にはモデルがない旨の断り書を中央公論誌上にうたうことで、一応畔上の抗議に応えることにし、同女にもその線で了解を求め、昭和35年8月号、同10号にその趣旨の断り書を附した。

[7](五) 原告は「宴のあと」が中央公論誌上に連載されるようになつて暫くしてこの小説の中で原告もモデルとなつていることを知つたけれども、連載のはじめの数回を続んだところでは、とくに不快な感じもいだかなかつたので、安心していたが、回が進み同年4、5月頃からは原告をモデルにしたと覚しい男主人公「野口雄賢」の取り扱いに堪え難いものを感じるようになり、とりわけ「野口雄賢」と「福沢かづ」との間の肉体的交渉が描かれている部分や「野口雄賢」が「福沢かづ」を踏んだり蹴つたりする部分などには非常な不快感と憤激を覚え、一時は連載を中止させたいとまで思つたが、すでに同小説も結末に近く、いまさらその連載の中止を要求したところで容れられる望みはないから、むしろ人の噂も七五日という諺もあることだしそのままにして騒ぎ立てない方が賢明であると判断し、中央公論誌上での連載については敢えて抗議を申し込まないでいた。
[8] しかしその後になつてこの連載小説が完結したあかつきには、あらためて単行本として出版されるということを耳にしたので、原告も、眠つた子を起すような行為はどうしても阻止しなければならないと決意し、連載が完結する直前頃青野秀吉その他の友人知己に「宴のあと」の発表によつて蒙つている苦痛を話し、この人々を介してまず被告平岡に単行本として出版することを思いとどまつてもらいたい旨を働きかけ、さらに、出版の件で直接同被告と会つて話をしたいと吉田健一、高木健夫を介して申し入れたが、いずれも被告平岡の容れるところとならなかつた。そこで原告は昭和35年8、9月頃出版を予定していた中央公論社の社長嶋中鵬二と会つて、この小説によつて原告が蒙る精神的苦痛、不快を縷々説行し、「宴のあと」がモデル小説でないといくら断り書をつけても受け取る方ではそうは取らないこと男主人公「野口雄賢」のような経歴を持つ者は原告一人であり、当然に一般の読者は「野口雄賢」が原告を指していると解釈すること、すでに政界を引退している原告の過去の問題をいまさら小説という形で公衆の前に引きずり出されるのは甚だ迷惑であることを訴え、単行本として出版することは思いとどまつてほしい旨を申し入れた。

[9](六) 右の申し入れに対し中央公論社長嶋中は原告が迷惑を蒙つていることに同情の念を示し、中央公論社としては「宴のあと」が芸術的に優れた価値をもつていると認めているので出版したいけれども、原告が蒙る迷惑は最小限度にとどめたいと思う旨を答え、原告および被告平岡との間の話合による解決の途を残しておいて、あらためて被告平岡に会い、「宴のあと」の字句の訂正や単行本の発売を適当な時期まで延ばすというような方法で、いわば芸術家として許せる範囲で妥協できないものかとその意向を打診した。しかし被告平岡は、出版社がその主たる雑誌に一旦掲載した以上は、作家の味方になつて単行本として後世に残すよう努力してくれるべき責務があるのに、原告の肩を持ち過ぎること、発売時期を遅らせるというけれども、その時期を明示しないことなどの点で、中央公論社は出版社としての責務に欠けるところがあると反論し、結局両者の話い合いは物別れになつた。

[10](七) 被告新潮社は昭和35年9月末頃被告平岡から、「中央公論社では単行本出版のふんぎりがつかないようなので、自分として同社からは出版したくない、ついては新潮社で出さないか」との問い合わせを受けた。被告新潮社はすでに中央公論誌上に連載されたときから「宴のあと」の芸術的価値を認めていたので、同小説が巷間にモデル問題で論議を巻き起しつつあつたこと、同小説を一読すれば原告と畔上輝井が男女主人公のモデルであることは容易に判ることなどは充分認識していたけれども、むしろ中央公論社が連載中に同小説にはモデルがないなどと断り書を附した態度の方が曖昧であつて、第一級の文芸作品であるとの確信がある以上はモデル小説で押し通してはばかるところはない、中央公論社の態度には文学に尽す立場の者としては信念が弱いのではないかという意見の下に喜んで「宴のあと」を単行本として出版することを引き受けた。その結果被告平岡は中央公論社の了解を得て、ここに単行本の出版権は連載小説として掲載した中央公論社ではなく被告新潮社が取得するという事態を生じるに至つた。

[11](八) 原告はこの話を聞き前述した中央公論社の場合と同様に10月末頃から手紙およびその秘書を介して口頭で被告新潮社に対して「宴のあと」の出版を取り止めるよう強く訴えたが、被告新潮社はすでに同小説の出版を引き受けるときに、原告からこのような抗議が来るであろうことは予想していたところであり、前記(七)のとおり中央公論社のとつた措置には賛成できないとその態度を明らかにしていたので、原告のこの申し入れによつて既定の方針を左右するようなことは全くないどころか「宴のあと」の広告にあたつては、むしろ積極的に正面からモデル小説であることをうたい、請求原因三(三)(1)(2)のような広告を出し、被告佐藤を発行者として昭和35年11月末にまず初版3万部を発売し、その後1万部を増刷発売したことがそれぞれ認定でき、これを左右する証拠はない。
[12](一) すでに認定したように「宴のあと」は被告平岡が胸中にあたためていたテーマが原告の東京都知事選挙への立候補とその後の夫婦関係の破局という現実に発生した事件に触発されて小説という形式で具体化されたものであるが、被告平岡公威尋問の結果によれば、被告平岡の意図したところは、政治的な理念と人間的な真実としての恋愛とが、ある局面で非常に悲劇的に衝突し、そこに人間の美しい真実が火花のようにひらめき現れるということ、別な表現でいえば全く純粋な人間の魂と魂がじかに触れ合うということは、非常に難しく、様々の外的な条件が制約となつてその触れ合いを妨げ、そこに起るギヤツプがいつも人間の悲劇を生み出すという思想に立つて、たまたまその年の春、すなわち昭和34年4月の都知事選挙を契機として社会的にも関心を惹いた原告と畔上輝井との間の夫婦の問題を、その主題を展開させる好個の材料と判断し、このような社会的に著名な事件を素材として借りながら、小説としての構想をめぐらすにあたつては、男女の主人公にそのモチーフを展開するにふさわしい性格と肉づけを与えようと試みたこと、したがつて、「宴のあと」の描写で原告がプライバシーの侵害として指摘する部分のごときは、被告平岡が小説家として本件小説のために創作した情景であつて、原告のいわゆる「侵害箇所の指摘表」に指摘されているような「野口雄賢」および「福沢かづ」に関する描写と同一の行為、感情が原告または畔上輝井に生起したかどうかは被告等の全く関知しないところであつたことを認めることができ、右の指摘表にあるような描写に対応する事実が現実に生起したものであること換言すれば、本件小説の描写が原告や畔上の行動を敷き写しにしたものであることを認めさせるような証拠は存在しない。

[13](二) このように本件小説はいわゆる暴露小説、実録小説などのように実在し、あるいは実在した特定の人物の私行を探り出しこれを公開しようとする意図の下に書かれた小説とは、その制作の動機および表現された内容において異質のものであることは否定できないところであり、本件小説の発表、刊行をもつて写真、報道記事の類もしくはいわゆる暴露小説、内幕物の類によつて他人の私生活、秘事を暴露、公開する行為と同一視しすることは正当ではない。
[14] しかし小説が写真や報道記事などと異り作家のフイクシヨン(創作)によつて支えられているものであるとしても、いわゆるモデル小説と呼ばれるものについて、そのモデルを探索し考証することが一つの文学的研究とさえなつていることは公知の事実であり、まして小説の一般の読者にとつてはモデルとされるものが読者の記憶に生々しければ生々しいほどその小説によせるモデル的興味(実話的興味と言い交えることもできよう)も大きくならざるを得ないのが実情であり、そうなればなるほどモデル小説といわれるものは小説としての文芸的価値以外のモデル的興味に対して読者の関心が向けられるという宿命にあることもみやすいところである。

[15](三) しかも「宴のあと」が発表されたのは、原告が出馬した昭和34年4月の東京都知事選挙から僅に1年前後を経過した時であり、同選挙がいわゆる般若苑マダム物語という怪文書事件や原告と畔上輝井との離婚事件、般若苑の売却、再開問題などでとくに世人の印象に深かつたことは公知の事実であるから、このような社会的な状況の下に、原告の主要経歴、政治的地位、選挙活動および畔上輝井の職業、両者の夫婦関係の破綻といつた事実をそのまま借りて「宴のあと」の主人公である「野口雄賢」および「福沢かづ」を設定する際に利用している以上は、この小説の読者が「野口雄賢」から原告を、「福沢かづ」から畔上輝井を連想することは避けられないところであり、被告平岡公威もその尋問の結果の中でこのことを肯定している。(なおすでに指摘したとおり「野口雄賢」および「福沢かづ」の描写のうちその経歴、職業、社会的活動が原告および畔上輝井のそれに着想したもので、したがつて彼此酷似するところが多いことは被告等も認めるところである。)このように昭和34年4月の都知事選挙をめぐる公知の事実と原告が別紙「連想部分指摘表」に挙示した本件小説中の各描写部分(ただしB項を除く)とを対照し、これに証人嶋中鵬二の証言、被告平岡公威、同佐藤亮一および原告各本人尋問の結果ならびに成立に争いない甲第1ないし6号証、第9号証、第12号証の1、2、第17号証の1ないし3、第21号証、第24号証、第25号証の1、2の各証拠を総合すれば「野口雄賢」および「福沢かづ」がそれぞれ原告および畔上輝井をモデルとしたものであることを一般の読者にも察知させるに充分な内容のものであつたことが認定でき、この意味において「宴のあと」がモデル小説であることは否定できない。しかも「宴のあと」が発表、刊行された時期および社会的な状況が前述のとおりであるところ、このように世人の記憶に生々しい事件を小説の筋立に全面的に使用しているため、一般の読者が小説のモデルを察知し易いことは原告の実名を挙げた場合とそれほど大きな差異はないといつても過言ではない。
[16] 以上の判断を左右する証拠はない。
[17](一) すでに認定したとおり、原告がプライバシーの侵害として挙示する描写はいずれも原告の現実の私生活を写したものではなく、被告平岡のフイクシヨンになるものと認められ、そのかぎりでは「宴のあと」が原告の私生活を暴露、公開したとはいえない。
[18]、しかしモデル小説の一般の読者にとつて、当該モデル小説のどの叙述がフイクシヨンであり、どの叙述が現実に生起した事象に依拠しているものであるかは必ずしも明らかではないところから、読者の脳裏にあるモデルに関する知識、印象から推して当該小説に描写されているような主人公の行動が現実にあり得べきことと判断されるかぎり、そのあり得べきことに関する叙述が現実に生起した事象に依拠したものすなわちフイクシヨンではなく実際にもあつた事実と誤解される危険性は常に胚胎しているものとみなければならない。ましてモデル小説の執筆にあたつて作家が当該モデルに関する様々の資料を入手し、執筆の参考に供していることは読書人の常識となつている実情にあるから、モデル小説の中で読者の既成の知識にない事柄の叙述が出てきた場合にこれを悉く作家のフイクシヨンと受け取るとはとうてい期待できないところであり、叙述された事象が読者のモデルに関する知識イメージなどから推して信じ難いようなものであれば別であるが、あり得べきことであるかぎり一般的には読者のモデルに対する好奇心、詮索心によつて助長されたフイクシヨンと事実の判別は極めて難しくなるであろうことは明らかである。もつとも、作者がそのような叙述の内容となつた事実についてなんらの資料、知識をも有しないことが一般の読者にも明らかであれば、全くのフイクシヨンであることは読者にとつても明らかであろうけれども、本件ではそのような事情が存在したことを窺うに足る証拠はない。しかも被告平岡公威尋問の結果によつても明らかなとおり、被告平岡は「宴のあと」の構想、執筆にあたつて、小説の背景には現実感が必要であり、原告および畔上輝井をモデルとする以上は両者に関する公知の事実を小説上でわざわざ舞台を変えて設定することはかえつて不自然な感じを与えるから、小説の舞台は現実らしきものを設定して書かなければならないと考えていたことが認められるから、このような技法が一般の読者をして事実とフイクシヨンとの境界をますます判別し難くさせたであろうことは察するに難くない。(もし事実とフイクシヨンが水と油のように分離して何人にもその区別が明らかな小説があるとすれば、そのような小説ではいわゆるモデルのプライバシーの問題は起り得ないであろう。)
[19]、そしてモデル小説というものは必ずしも常に小説としての文芸的価値の面でのみ読者の興味を惹くとはかぎらず、モデルの知名度言葉を換えればモデルに対する社会の関心が高ければ高いだけ、モデル的興味(実話的もしくは裏話的興味)が読者の関心を唆る傾向にあることは否定できないところであり、このようなモデル小説は、味わうために読まれるばかりでなく知るために読まれる傾向が作者の意図とは別に否応なく生じるものである。これが小説の正しい読み方であるかどうかの論議は別としてこのようなモデル的興味は好奇心、詮索癖という人間の心理的な特質に由来するかぎりにわかに消滅し去るものではない。いわんや被告新潮社、同佐藤が「宴のあと」を単行本として発売するに当つて行つた広告であることに争いがない請求原因三(三)の各事実およびこれらの広告である成立に争いない甲第1ないし5号証を総合すれば被告新潮社が内心どのように「宴のあと」を評価していたかは別として、モデル的興味を惹き起すことに広告効果の重点が置かれていたものと認めざるを得ないのであり、モデル小説においては、このようなモデル的興味が潜在しているからこそ、このような広告効果を期待できるわけであり、それもモデルの知名度が高ければ高いほど大きいことは明らかである。そして作者の被告平岡自身もこのような広告がますます原告の憤懣をかうであろうことが予想できた旨同被告本人尋問の結果中で供述している。被告佐藤亮一尋問の結果も右の認定を左右するに至らず他に反証はない。とくに「宴のあと」の発表、刊行は原告の都知事選挙出馬とその後の離婚といつた社会的に著名な事件の発生から僅に1年前後を経過したにすぎない時であり、当時なお原告と畔上輝井の夫婦関係の破綻は世人の記憶に生々しく、週刊誌等でも大きく取り上げられたことは成立に争いない乙第1ないし8号証の各1、2にまつまでもなく公知の事実であつたから、モデルが原告および畔上輝井(もしくは般若苑のマダム)であることの確信とそれに支えられたモデル的興味とは今日とは比較にならないほど強かつたことは想像するに余りがある。
[20]、このようにモデル小説におけるプライバシーは小説の主人公の私生活の描写がモデルの私生活を敷き写しにした場合に問題となるものはもちろんであるが、そればかりでなく、たとえ小説の叙述が作家のフイクシヨンであつたとしてもそれが事実すなわちモデルの私生活を写したものではないかと多くの読者をして想像をめぐらさせるところに純粋な小説としての興味以外のモデル的興味というものが発生し、モデル小説のプライバシーという問題を生むものであるといえよう。
[21]、これまで判断したように、「宴のあと」の中で原告がプライバシーの侵害として指摘するような私生活の各描写はいずれも被告平岡のフイクシヨンであると認めざるを得ないけれども、原告の消息に特に通じた者を除けば、一般の読者は、そのフイクシヨンと事実とを小説の叙述のうえで明確に識別することは難しく、とくに「宴のあと」にあつては読者にとつて既知の事実が極めて巧に小説の舞台に織り込まれているだけに、作者の企図した「現実感」という効果が読者に強く迫り、迫真性を帯びて来ることと、この小説がモデルおよび事件に対する世人の記憶がまだ生々しい間に発表されたという時間的要素とが相乗的に作用し、モデル的興味を唆ると同時に本来なら主人公の私生活の叙述であるにすぎないものがモデルである原告および畔上輝井の私生活を写しまたはそれに着想した描写ではないかと連想させる結果を招いていたことは否定できないところと認められ、このような受け取られ方が、モデル小説、私小説をも含めて小説本来の正しい味わい方であるかどうかは別として、主人公の私生活ないし心理の描写はすべて作者のフイクシヨンであるとか読者にとつて既知の事実でない部分はすべてフイクシヨンであると受け取られるほどには、今日のモデル小説に対する関心、興味は純化されていないと考えられ、いわばこれがモデル小説の今日おかれている社会的な環境ということができ、「宴のあと」の発表方法もその例外であることはできない。

[22](二) したがつて、小説「宴のあと」が発表されたため、作者の本来の意図とは別に、そこに展開されている主人公「野口雄賢」の私生活における様々の出来事の叙述の全部もしくは一部が実際に原告の身の上に起つた事実ではないかと推測する読者によつて原告は好奇心の対象となり、いわれなくこれら読者の揣摩臆測の場に引き出されてしまうのであり、これによつて原告が心の平穏を乱され、精神的な苦痛を感じたとしてもまことに無理からぬものがあるといわなければならない。そしてこのようなことによつて原告が受ける不快の念は、小説に叙述されたところが真実に合致していると否とによつてさしたる径庭はない。(むしろ虚構の事実である場合の方が臆測をたくましくされたという感じをいだく点でより不快の念を覚えることさえ考えられないではない。)
[23] この点については、成立に争いない甲第28号証の1、2、および証人嶋中鵬二の証言、原告本人尋問の結果ならびに弁論の全趣旨を総合すれば、「宴のあと」の描写のなかで原告がとくに強く不快の念をいだいた点は、(イ)妻を踏んだり蹴つたりする場面が詳細に叙述されていること(166頁ないし170頁)、(ロ)寝室での行為、心理の描写(とくに135頁、136頁など)、(ハ)妻が料亭の再開にあたつて政敵から金銭的な援助を得たような描写の3点で、このほか「野口雄賢」と「福沢かづ」夫婦の生活のあとを叙述する部分とくに接吻などの場面についても程度の差はあるが、それが原告と畔上輝井の夫婦の間に起つた出来事として受け取られるおそれがあることを思うときは、羞恥ないし不快の念を禁じることができなかつたこと、なかんずく原告が憲法擁護国民連合に関与していたこともあつて、(イ)のように女性を足にかけるような描写にはとくに強い憤懣を感じたし、また総体的にも、原告は都知事選挙を最後に政界から引退し、余生を平穏に送るべく念願していたところに、「宴のあと」が発表され、再び公衆の面前に自分の全身をさらけ出されたような気持で、堪え難い苦痛を覚えたことが窺い知られ他に反証はない。これによれば原告がとくに不快ないし羞恥、嫌悪の念を覚えたという(イ)(ロ)の部分およびこれにまつわる「野田雄賢」と「福沢かづ」の私生活の描写(とくに227頁ないし229頁)については、それがたとえ小説という形式で発表され、したがつて当然に作者のフイクシヨンないし潤色が施されていることが考え得られるものであるにしても通常人の感受性を基準にしてみたときになお、原告がその公開を望まない感情は法律上も尊重されなければならないものと考える。

[24](三) もつとも、被告等は私生活をみだりに公開されないという意味でのプライバシーの尊重が必要なことは認めるけれども、それが実定法的にも一つの法益として是認され、したがつて法的保護の対象となる権利であるかどうかは疑問であると主張する。しかし近代法の根本理念の一つであり、また日本国憲法のよつて立つところでもある個人の尊厳という思想は、相互の人格が尊重され、不当な干渉から自我が保護されることによつてはじめて確実なものとなるのであつて、そのためには、正当な理由がなく他人の私事を公開することが許されてはならないことは言うまでもないところである。このことの片鱗はすでに成文法上にも明示されているところであつて、たとえば他人の住居を正当な理由がないのにひそかにのぞき見る行為は犯罪とせられており(軽犯罪法1条1項23号)その目的とするところが私生活の場所的根拠である住居の保護を通じてプライバシーの保障を図るにあるとは明らかであり、また民法235条1項が相隣地の観望について一定の規制を設けたところも帰するところ他人の私生活をみだりにのぞき見ることを禁ずる趣旨にあることは言うまでもないし、このほか刑法133条の信書開披罪なども同じくプライバシーの保護に資する規定であると解せられるのである。
[25] ここに挙げたような成文法規の存在と前述したように私事をみだりに公開されないという保障が、今日のマスコミユニケーシヨンの発達した社会では個人の尊厳を保ち幸福の追求を保障するうえにおいて必要不可欠なものであるとみられるに至つていることとを合わせ考えるならば、その尊重はもはや単に倫理的に要請されるにとどまらず、不法な侵害に対しては法的救済が与えられるまでに高められた人格的な利益であると考えるのが正当であり、それはいわゆる人格権に包摂されるものではあるけれども、なおこれを一つの権利と呼ぶことを妨げるものではないと解するのが相当である。

[26](四) 右に判断したように、いわゆるプライバシー権は私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利として理解されるから、その侵害に対しては侵害行為の差し止めや精神的苦痛に因る損害賠償請求権が認められるべきものであり、民法709条はこのような侵害行為もなお不法行為として評価されるべきことを規定しているものと解釈するのが正当である。
[27] そしてここにいうような私生活の公開とは、公開されたところが必ずしもすべて真実でなければならないものではなく、一般の人が公開された内容をもつて当該私人の私生活であると誤認しても不合理でない程度に真実らしく受け取られるものであれば、それはなおプライバシーの侵害としてとらえることができるものと解すべきである。けだし、このような公開によつても当該私人の私生活とくに精神的平穏が害われることは、公開された内容が真実である場合とさしたる差異はないからである。むしろプライバシーの侵害は多くの場合、虚実がないまぜにされ、それが真実であるかのように受け取られることによつて発生することが予想されるが、ここで重要なことは公開されたところが客観的な事実に合致するかどうか、つまり真実か否かではなく、真実らしく思われることによつて当該私人が一般の好奇心の的になり、あるいは当該私人をめぐつてさまざまな揣摩臆測が生じるであろうことを自ら意識することによつて私人が受ける精神的な不安、負担ひいては苦痛にまで至るべきものが、法の容認し難い不当なものであるか否かという点にあるものと考えられるからである。
[28] そうであれば、右に論じたような趣旨でのプライバシーの侵害に対し法的な救済が与えられるためには、公開された内容が(イ)私生活上の事実または私生活上の事実らしく受け取られるおそれのあることがらであること、(ロ)一般人の感受性を基準にして当該私人の立場に立つた場合公開を欲しないであろうと認められることがらであること、換言すれば一般人の感覚を基準として公開されることによつて心理的な負担、不安を覚えるであろうと認められることがらであること、(ハ)一般の人々に未だ知られていないことがらであることを必要とし、このような公開によつて当該私人が実際に不快、不安の念を覚えたことを必要とするが、公開されたところが当該私人の名誉、信用というような他の法益を侵害するものであることを要しないのは言うまでもない。すでに論じたようにプライバシーはこれらの法益とはその内容を異にするものだからである。
[29] このように解せられるので、右に指摘したところに照らしても本件「宴のあと」は少くとも前記(二)末尾で説示した範囲では原告のプライバシーを侵害したものと認めるのが相当である。(原告が掲げる侵害箇所の指摘表挙示のその他の叙述については、後に判断する。)
[30] プライバシーの保護がさきに指摘したような要件の下に認められるものとすれば、他人の私生活を公開することに法律上正当とみとめられる理由があれば違法性を欠き結局不法行為は成立しないものと解すべきことは勿論である。

[31](一) しかし、小説なり映画なりがいかに芸術的価値においてみるべきものがあるとしても、そのことが当然にプライバシー侵害の違法性を阻却するものとは考えられない。それはプライバシーの価値と芸術的価値(客観的な基準が得られるとして)の基準とは全く異質のものであり、法はそのいずれが優位に立つものとも決定できないからである。それゆえたとえば無断で特定の女性の裸身をそれと判るような形式、方法で表現した芸術作品が、芸術的にいかに秀れていても、この場合でいえば通常の女性の感受性を基準にしてそのような形での公開を欲しないのが通常であるような社会では、やはりその公開はプライバシーの侵害であつて、違法性を否定することはできない。もつともさきに論じたとおり、プライバシーの侵害といえるためには通常の感受性をもつた人がモデルの立場に立つてもなお公開されたことが精神的に堪え難いものであるか少くとも不快なものであることが必要であるから、このような不快、苦痛を起させない作品ではプライバシーの侵害が否定されるわけでありまた小説としてのフイクシヨンが豊富で、モデルの起居行動といつた生の事実から解放される度合が大きければ大きいほど特定のモデルを想起させることが少くなり、それが進めばモデルの私生活を描いているという認識をもたれなくなるから、同じく侵害が否定されるがそのような例が芸術的に昇華が十分な場合に多いであらうことは首肯できるとしても、それは芸術的価値がプライバシーに優越するからではなく、プライバシーの侵害がないからにほかならない。

[32](二) また被告等は言論、表現の自由の保障がプライバシーの保障に優先すべきものであると積極的主張二のとおり主張するけれども、本件についてはその主張するところは正当でない。もちろん小説を発表し、刊行する行為についても憲法21条1項の保障があることはその主張のとおりであるが、元来、言論、表現等の自由の保障とプライバシーの保障とは一般的にはいずれが優先するという性質のものではなく、言論、表現等は他の法益すなわち名誉、信用などを侵害しないかぎりでその自由が保障されているものである。このことはプライバシーとの関係でも同様であるが、ただ公共の秩序、利害に直接関係のある事柄の場合とか社会的に著名な存在である場合には、ことがらの公的性格から一定の合理的な限界内で私生活の側面でも報道、論評等が許されるにとどまり、たとえ報道の対象が公人、公職の候補者であつても、無差別、無制限に私生活を公開することが許されるわけではない。このことは文芸という形での表現等の場合でも同様であり、文芸の前にはプライバシーの保障は存在し得ないかのような、また存在し得るとしても言論、表現等の自由の保障が優先さるべきであるという被告等の見解はプライバシーの保障が個人の尊厳性の認識を介して、民主主義社会の根幹を培うものであることを軽視している点でとうてい賛成できないものである。

[33](三) 被告等は原告が右にいう公的存在であつたことを理由に侵害行為に違法性がないと主張する。
[34] なるほど公人ないし公職の候補者については、その公的な存在、活動に附随した範囲および公的な存在、活動に対する評価を下すに必要または有益と認められる範囲では、その私生活を報道、論評することも正当とされなければならないことは前述のとおりであるが、それにはこのような公開が許容される目的に照らして自ら一定の合理的な限界があることはもちろんであつて無差別、無制限な公開が正当化される理由はない。とくに私生活の公開が公人ないし公職の候補者に対する評価を下すための資料としてなされるものであるときはその目的の社会的正当性のゆえに公開できる範囲が広くなることが肯定されるであろうけれども、本件のように、都知事選挙から1年前後も経過し、原告がすでに公職の候補者でなくなり、公職の候補者となる意思もなくなつているときに、公職の候補者の適格性を云々する目的ではなく、もつぱら文芸的な創作意慾によつて他人のプライバシーを公開しようとするのであれば、それが違法にわたらないとして容認される範囲はおのずから先の例よりも狭くならざるを得ない道理であり、おおむねその範囲は、世間周知の事実および過去の公的活動から当然うかがい得る範囲内のことがらまたは一般人の感受性をもつてすれば、被害意識を生じない程度のことがらと解するのが妥当である。
[35] そうであれば先に四(四)末尾で認定したような部分は、原告が被告等主張のような公的経歴を有していること(この点は争いがない)を考慮に入れてもなお原告が受忍すべき範囲を越えたものとして、そのプライバシーの侵害は違法なものと認められる。(もつとも侵害箇所の指摘表で原告が挙げるその他の部分は右に挙げた基準に照らし未だ原告のプライバシーを侵害したと認めるに充分ではない。なお、同表で侵害した部分として原告が挙げるもののうち野口雄賢に関する叙述がなく「福沢かづ」の心理、挙動を中心に描写した部分たとえば140頁、141頁、159頁、239頁、275頁ないし277頁などについて、原告は、妻の私行や妻の肉体の描写も夫である原告のプライバシーを侵害したことになると主張するけれど、両者は別個の人格であるから、原告に関する叙述がないかぎり原告のプライバシーを侵害したとは認め難い。)これらの判断を覆すに足る証拠はない。

[36](四) さらに被告等は「宴のあと」の執筆について原告が承諾を与えていたと主張するけれども、これを認めるに充分な証拠はない。
[37] もつとも成立に争いない乙第19号証の1、2、証人嶋中鵬二の証言および原告、被告平岡公威各本人尋問の結果を総合すると、前記二(一)で認定したように、被告平岡が畔上輝井に会つて承諾を求めた当時の構想では、「宴のあと」は女主人公を中心として展開し、男主人公は傍系にすぎなかつたので、執筆についても女主人公のモデルである畔上輝井の承諾を得ることのみを考えており、とくに原告の承諾を得ようとは考えていなかつたこと、それは一には男主人公が傍系として設定される構想であつたからであるが、一には、原告が都知事選挙の敗北について手記、著書の類を公にし、いわば自分自身の傷を客観視する心境にあると推察されたこと、さらには原告のように豊富な人生経験をもつ知識人には「野口雄賢」も作品全体を通して読めば立派な人物として描かれていることが納得してもらえると考えていたことにも原因があつたこと、そのようなわけで被告平岡はもちろん中央公論社としてもとくに原告に承諾を求めるようなことはしなかつたけれども、畔上は諾否の返答をする前に原告の意向も打診したいとの態度をとつていたので、その後に畔上がモデルとされることについて承諾の返事をし、しかも同女から原告の三島由紀夫宛の署名入り著書「人は馬鹿八という」1冊を送呈してきたので(早くとも昭和34年12月25日以降と推測される)、原告もモデルとされることに異議がないものと考えるに至つたことが認定でき、反対の証拠はない。これをもつてみれば原告は「宴のあと」のモデルとされることについて承諾を与えたかのようにみえないではないが、すでに二(一)ないし(三)で認定したとおり、被告平岡が畔上輝井と会つてモデルにすることについて承諾を求めたときの説明では、般若苑を背景とし同女をモデルに政治と恋愛との対立という主題で小説を書きたいが、自分としてはこの女主人公に非常に美しいイメージをいだいているので、これを肯定的な人間像としてとらえたいとの説明がされたにとどまり、またその当時の構想では男主人公はあくまで傍役として考えられていたこともあつて、畔上に原告の承諾をもらうように依頼したわけでもなければ、畔上が被告平岡らに原告の承諾をとつてやることを約束したわけでもないこと、したがつて畔上が諾否の返答をするに先立ち原告に電話で意見を求めたときの模様も前記二(三)のとおり三島由紀夫という小説家が般若苑のことを小説に書きたいと申し入れてきたがどうしようかという程度の簡単なもので、これに対する原告の返事も、もつぱら畔上自身に関係したことであるから自分の関知したところでないという極めて素つ気ない内容のものであつたことが認められるから、この事実に照らせば、原告が「宴のあと」のモデルとされることについて畔上を介して承諾を与えた旨の被告等の主張は先に認定した事実を考慮してもなお未だ立証が十分とは認め難い。原告が署名入りの自著を被告平岡に贈つたことも、右に挙げた事実を斟酌すると前妻をモデルとした小説を執筆するときの参考という程度の意味であることも十分考えられるところであつて、これをもつて直ちに原告の承諾があつた徴憑とは解し難く、他に被告等の主張を認めるに足る的確な証拠はない。したがつて右抗弁もまた採用できない。

[38](五) なお被告平岡は右に認定したとおり少くとも「宴のあと」を中央公論誌上に連載してからかなりの間は原告も承諾を与えてくれたものと誤信していたのであるから、直接原告に承諾を求めるとかあるいは畔上その他第三者に明確に原告の承諾を得てもらいたい旨を依頼するなどの積極的な措置を講じないまま、このように誤信した点で過失の責任は免かれないとしても、故意はなかつたものと認めるのが相当である。しかし前記二(五)で認定したところから、被告平岡は「宴のあと」の連載が完結する頃には原告が承諾を与えていなかつたことを察知できたものと認められるから、本件で問題とされる被告新潮社からの単行本としての出版については他の両被告と共に故意があつたものと認めて妨げない。
[39] 被告佐藤及び被告新潮社は「宴のあと」が中央公論社に連載された後に単行本として刊行される段階において関与するに至つたものではあるが、前認定の事情の下で原告からの出版の中止方の要請に対してこれを拒みモデル小説としての広告を敢てなした上で単行本として出版したものであるから被告平岡のなした原告のプライバシー権の侵害行為に加担したものというべく、被告平岡と共同して出版により新に原告に精神的苦痛をあたえたものといえるから被告平岡と共に原告のプライバシー権の侵害による損害賠償義務あるものと解するのが相当である。
[40](一) 以上判断したとおり、被告等の主張は結局採用することができないので、被告等は「宴のあと」の発表及び単行本としての出版によつて原告が蒙つたプライバシーの侵害に対し損害を填補すべき義務があるものといわなければならない。
[41] 原告は本件損害の賠償請求として、謝罪広告および金銭による損害賠償の2つを請求するけれども、私生活(私事)がみだりに公開された場合に、それが公開されなかつた状態つまり原状に回復させるということは、不可能なことであり名誉の毀損、信用の低下を理由とするものでない以上は、民法723条による謝罪広告等は請求し得ないものと解するのが正当である。

[42](二) そこで金銭賠償の請求について判断すると、原告が本件「宴のあと」の発表及び単行本としての出版によつて蒙つた精神的な不安、苦痛は前記二(五)、四(二)、(四)で認定したとおりであること、しかしながら「宴のあと」が中央公論誌上に連載される過程では、被告平岡に署名入りの自著を贈呈したり、また連載分について承諾を与えたわけではないが積極的に抗議もしなかつたというような事情があつて、被告平岡をして、原告の承諾があつたかのように誤信させると同時に、これによつて被告新潮社から単行本として発売される以前に、すでに「宴のあと」は広く発表されていたこと、他方、被告新潮社および被告佐藤は前記二(七)、(八)、四(一)、2で認定したように、出版業に従事する者としての信念に基づくとはいうものの原告の重ねての出版中止の要求を拒否し、そのうえ積極的にモデル小説であることを広告したというより、モデル的興味を喚起するのが主眼であるとしか考えられないような広告を出すことによつて、とくに世人の注意を惹き、原告のプライバシーに対する侵害を著しくしたこと、そして被告新潮社が出版した部数は合計4万部に達することその他本件で認定した諸事実を合せ考えると、「宴のあと」を執筆し発表し出版をさせた点で被告平岡の責任が最も大きいもののようにもみえるが、プライバシーの侵害という観点からみれば、被告新潮社の販売方針とみられる前示のような広告の内容が著しく影響していることは看過することができない事実である。このような点を考慮すれば、中央公論誌上に発表した点で被告平岡の行為は他の被告等よりも侵害の態様、期間において大きい(この部分については被告新潮社および被告佐藤は関与していない)けれども、その他の被告等の責任との間に結局甲乙はないものというべく被告等は連帯して原告の受けた精神的苦痛を慰藉するに要する金員として80万円を支払うべき義務があると認めるのが相当である。この損害額の算定を左右するに足る証拠はない。
[43] 以上のとおり判断されるので、本訴請求のうち慰藉料の支払を求める部分は80万円およびこれに対する各訴状送達の後であること記録上明らかな昭和36年3月26日から完済まで年5分の割合による民法所定の遅延損害金の範囲で認容し、その余の部分および謝罪広告を命じる請求はいずれも棄却することとし、民事訴訟法92条93条1項但書、196条を適用し主文のとおり判決する。

  (裁判官 石田哲一 滝田薫 山本和敏)

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