インド理解のキーワード---ヒンドゥーイズム---

               山上 證道   《京都産業大学世界問題研究所所報『世界の窓』第11号(1995年)に掲載》    0 はじめに    1 誤解されているカースト制度 (1)ヴァルナ制度     (2)ジャーティ制度    2 ヒンドゥーイズム     (1)インド社会の根底を成すヒンドゥーイズム     (2)ヒンドゥーイズムの成立        ーーーブラフマニズムからヒンドゥーイズムへーーー     (3)ヒンドゥーイズムの拡大     (i)リグ・ヴェーダでマイナーな神々     (ii)シヴァ神     (iii)ヴィシュヌ神     (4)ヒンドゥーイズムの光と影    3 まとめーー未来に向けて 0 はじめに  ヒンドゥーイズム(ヒンドゥー教)は、狭義では宗教を意味するが、広義では、インドの社会、 インドの心ともいうべき概念である。そのことは、このレクチャーによって明らかとなるであろう。  インドで暮らした2年間を振り返っていつも思うのは、インドほど不思議な国も珍しい、と いうことである。渡印直後はカルチャーショックというもので、我々日本人の理解を超えることが あまりにも多すぎて、実に驚愕の連続である。そのうち、数カ月してこの国に馴染んでくると、 この国の生活が、心穏やかで、気持ちをゆったりさせてくれる日々であることに気づいてくる。 このような経験は、何もインドに限らず、長い外国生活をしたものは誰でも経験するに違いない。 しかし、インドの場合は、カルチャーショックと、その後にくる充足感との落差が大きいのが特徴である。  まず、インドに到着して、誰しも目を見張るのは、様々な肌の色をし、様々な顔をしたあふれん ばかりの人の群であり、その多くがあまりにも貧しいことである。しかし、少し時間が経ってみると、 多くの人の中には裕福そうな人もいて、多くの使用人を引き連れて優雅に暮らしている場面にも遭遇する。 しかも、不思議なことは、貧しい人々が、自分の生活をそれほど悲観している様子もなく、その表情は 意外に明るい。ジタバタしても始まらないと言う表情すら見える。これは一体どうしたことであろうか。  インドから日本へ帰って後、時間が経過するにつれ、インドの生活がますます懐かしく思われる。 あまり肉の入っていないカレーばかり食べながらーー実際インドの人には菜食主義者が圧倒的に多いーー、 ゆっくり流れる時間に身を任せ、不思議と自然との一体感を持った心の豊かであった生活が無性に 懐かしくなってくる、生活そのものは何一つ決して豊かではなかったにもかかわらず、である。  また、町には最新式の車が走っている一方で、馬車やリキシャーが入り交じり、それでいて 不思議に新旧が調和して流れていく。この猥雑にして調和的という風景は独特である。さらに、 都会、田舎を問わず、神像が多く、年中お祭りのような感じがするほど宗教色が濃い社会をも感ずる。 このようなインドの不可解なことや不思議な魅力について、その根底にあるものを、歴史的・ 思想的に考察していきたい。 1 誤解されているカースト制度 (1) ヴァルナ制度  インドで実生活を営み出すと、この疑問に関する一つの手がかりがすぐに見つかる。家を借りると まず人から勧められるのは、人を雇うことである。コック・掃除人・雑用係などを雇うこと、 つまり自分が多くの人々の就職先となることに驚かされる。さらに、それらの職種は厳密に定められた もので、掃除人の場合は、床を拭く人、卓上を拭く人、トイレを掃除する人、と細分化している。 つまり、まず最初に遭遇するのがインド独特の「カースト制度」と間違って呼ばれている身分制度なのである。  カーストという語はポルトガル語カスタに由来する。ポルトガル語のカスタは、種族、血統を意味し、 15世紀末に南インドにやってきたポルトガル人が、インド人の社会には、ある集団ごとの区別が あるのに気づいて、その集団ごとの社会をカスタと呼んだのである。1)つまり、それは、区別された集団が 多く存在している社会に対して、漠然と、カスタと呼んだことであり、後にイギリス人がその用語を カーストという語で使用することになるが、この事実が後に大きな混乱のもととなったのである。 ポルトガル人がカスタと呼んだ集団が、一体何を基準にして区別されていたかにあまりこだわらず、 漠然とカスタと呼んだことが問題をややこしくしたのである。  さて、インドの身分制度の起源はきわめて古い。ちなみに、BC10世紀頃とみられるインド 最古の文献リグ・ヴェーダの次の一節は有名である。これは、プルシャと呼ばれる巨人を解体し、 その部分より宇宙を創造していく宇宙創造神話の一種である。    彼ら(神々)がプルシャ(巨人)を切りわかちたるとき、いくばくの部分    に分割したりしや。彼(プルシャ)の口は何になれるや、両腕は何に。両    腿は何と、両足は何と呼ばるるや。   彼の口はバラモンなりき。両腕はラージャニヤ(クシャトリヤ)となされ    たり。彼の両腿はすなわちヴァイシャなり。両足よりシュードラ生じたり。2) インドの文献は一概に時代を決定できない特徴があるが、上記の引用は、今から、ざっと 3000年も昔にバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラという四つの階級制度が 始まっていた可能性を示している。  これは、長年の間、インドの悪名高きカースト制度として一般に知れ渡っていたものであるが、 近年この四つの階級制度をカースト制度と称したことは誤解であったことが知られ、歴史の教科書も 訂正された。バラモン以下のこの身分制度を示すインドの言葉は、現在でも「ヴァルナ」(varna)と いう語であり、リグ・ヴェーダより数百年後の文献であるブラーフマナ文献に「四ヴァルナ」という 語がすでにみられる。3)このことよりしても、このヴァルナ制度がきわめて古いことは確実である。 このBC1000年という年代を日本の歴史と対照して考えてみれば、如何にこれが古いかが理解できるであろう。  さらに、その成立が古いことは、次の事実からも推察されうる。つまり、ヴァルナという語は 「色」という意味でも普通に用いられる単語であるという事実である。この事実は何を暗示しているか。 それは、ヴァルナ制度成立に「色」が何らかの関わりを持っていたことを示しているのである。  そこで我々は、BC1500頃といわれるアーリヤ人のインドへの進入を想起しなければならない。 白色のアーリヤ人が北西インドに進入したとき、彼らはそこに「色」の黒い土着の民を見たのであった。 アーリヤ人の記したリグ・ヴェーダは次の讃歌を残している。   ・・・汝(インドラ神)は、5万の肌黒き(悪魔)を打ちのめし、砦を壊    し、・・・(4.16.13)   ・・・魔術を使う祈りを知らぬ悪魔ダスユを沈没させたまえ、(インドラ    神よ)・・・(4.16.9)   ・・・(インドラ神は)武器をもって悪魔ダーサの頭を粉砕せり・・・     (4.18.9)4)  これらの讃歌から容易に想像できることは、白色のアーリヤ人が進入してそこに見たのは、 肌の色が黒い、異なった信仰を持った人々であり、その土着の民を有力な武器でもって駆逐して いったということである。さらにこのことから、また、容易に推察されることは、戦いに敗れた 色の黒い土着の民が、白色の勝者により、容赦なく酷使され、軽蔑され、差別されたであろう、 ということである。5)かくして、「色」を意味するヴァルナの語が、後に、身分階級をも表すに至った とみられるに十分値する資料であるといわれるのである。  ところで、これらの肌黒き土着の民とは誰であったのか。それは、長年謎であったが、現在の 進行中のインダス文字の読解の最新の研究では、それらの人々は、現在南インドに住むタミル人など に代表されるドラヴィダ族の人々で、しかも、彼らは、インダス文明の担い手であったのではないか、 と推察されるようになってきた。6)確かに、現在の南インドの人々は、北インドの人々と肌の黒さ、 顔立ちが全く異なっており、一目でわかることは事実である。もちろんこのような結論が出された わけではない。しかし、この結論は、インドの古代の歴史を考えるうえで、最もわかりやすい筋書きを 我々に提示してくれることになる。インドには土着の民としてドラヴィダ族が住んでいて、BC 2300年頃、北西インドに彼らによるインダス文明が栄えた。その後、その文明が衰退した頃に、 アーリヤ族が北西インドに進入して北インドではドラヴィダの人々が駆逐され、あるいは、混血が 進んだが、南インドは、北インドほど重大な影響は受けなかった。かくして、現在でも南インドは ドラヴィダの人々が中心である、と。 (2) ジャーティ制度  さて、以上のように、古代においてヴァルナ制度がいち早く始まったインドで、その後古代から 中世にかけて、さらに、別の身分制度が築かれ始めた。それは職業に関するもので、世襲制を伴った 中世的身分制度であり、現在ジャーティ制度と呼ばれているものである。このジャーティ制度が いつ頃から、どのようにして成立したかは、現在では明確になっていない。今後の研究の成果を 待たねばならない。ジャーティの意味するところは、「生まれ、出生」で、その意味からも 想像されるように、氏族制度にあたるゴートラ制度等の中世的社会に特徴的ないろいろな要素が 絡み合って、このような職業世襲制を核心とした煩瑣きわまりない職業身分制度であるジャーティ制度と なったものと思われている。7)現在も厳然として存在するこのジャーティ制度は、それと並列的に 存在している前述のヴァルナ制度よりもはるかに厳しい閉鎖性を持っており、一般によく言われる インドの厳しい身分制度とは、このジャーティ制度の方を指しているのが実状である。  ここで前述のポルトガル人がカスタと呼んだことを想起してほしい。15世紀といえば、ジャーティ 制度が完全に確立している時代であり、ポルトガル人が見たインドの集団別の社会とは、ヴァルナ制度と ジャーティ制度という元来全く別の二種の身分制度が複雑に入り交じった現在インドに見るのと 同様の社会であったはずである。それをカースト制度という名の下に単一の身分制度としてみなして きたところに混乱の原因があったといえよう。  かくして、当初に述べた、インドで生活を始めると多数の人を雇うはめになる、というのは このようなジャーティ制度によるものである。  しかもこのジャーティ制度は厳格で、我々の理解をはるかに超える。確かに人口の多いインドにあって、 限られた職種の確保、職業分担という点では、この制度の肯定的一面は認めうるかもしれない。 しかし、これらの職種は、浄・不浄の概念につながっており、貴賎の差別が明確にあり、身分差別と いうべきことが平然と行われていることは事実である。しかし、差別している人々も差別されている 人々も、意外に平気であるのは、このような社会に対する慣れからであろうかと思ったり、上述のように、 数千年に及ぶ長いヴァルナ・ジャーティ制度の歴史のなせる技であろうかと、思ったりもする。 しかし、それでも、これほどの不合理がなぜもこのように平然と、現代社会でまかり通っているのか、 やはり不思議である。国家としてもこの制度が近代化を大きく妨げていることは否定できない。 優秀な人材が、低い身分に多く埋没してしまっている可能性も多いであろう。当然インド政府も 最下層の人々を「神の子」(ハリジャン)と呼んで保護の手をさしのべたり、時には、かなり思い切った クオータ制、つまり、職場に一定の枠を作って低い身分の人を採用させる制度などを実施したりして 努力はしているものの、反発が激しく、なかなか効果が現れない。ヴァルナ・ジャーティ制度の改革が、 なぜ、思うようにいかないのであろうか。この問題は、これから述べることと関わってくる。 2 ヒンドゥーイズム (1) インド社会の根底を成すヒンドゥーイズム  さて、インドに住みはじめて人々とつきあい出すと、当然、思ってもいなかったことが次々と 起こってくる。今述べたような、信じがたいヴァルナ・ジャーティ制度に驚かされるのみでなく、 民族・人種が実に複雑で多様であること、従って、言葉も多様であり、一家で4種類も5種類もの 新聞が購読されていること、紙幣に14の言語で金額表記がなされていること、など枚挙にいとまがない。 また、時間があって無きかのごとくであることには、誰もが当初全く閉口させられる。これらのことは、 すべて、インドが数千年の歴史の中で築いてきたことであり、インドほど古代からの文化が現代まで 継続している国も珍しい。一国の現代を学ぶには、その国の古代からの歴史・思想・文化の知識が 不可欠であることは言うまでもないが、インドに関する限り、他に類例を見ないほどこのことが 重要となる。現代インドを学ぶには古代の知識が大前提となっていることがほとんどである。 なぜそうであるのかも逐次述べるであろう。  さて、戸惑うことが多いインドでの生活で、私の注意を引いた一つのことは、休日が多いと いうことであった。実際に日本と比較してそれほど多くはないのであるが、なぜかやたらに休みが 多いように感じた。休日の理由を聞いてみると、ヒンドゥー教の神様に関連する日であることが多く、 それだけ宗教を重視する国なのだ、と自らを納得させようとしていたが、そのうちに驚くことに 出会うことになった。仏教の開祖釈迦の誕生日も国民の休日であるという。イスラムのラマダンの 断食明けの日も国民の休日であるという。よく爆弾テロで耳にするシク教の開祖の誕生日も休日で あるという。ついには、12月25日はクリスマスであるから国民の休日である、という。 これは一体どういうことか、と不思議に思うのも無理はあるまい。そこでインドの宗教と言われる ヒンドゥーイズム(=ヒンドゥー教)なる宗教は、一体どのような宗教であるのか、と誰もが 考え出すに違いない。現在、9億人ともいわれるインドの人口のおよそ80%はヒンドゥー教徒と いわれている。それ以外は、10%ほどイスラム教徒が占めている他は、シク教、キリスト教、 パルシー教、仏教、それぞれが1〜2%ずつ存在しているのみである。このようなヒンドゥー教国に おいて、先に述べたようにマイナーな宗教の休日を国民の休日としているのが不思議であるが、 後述するように、これがまさにインドなのであり、ヒンドゥーイズムなのである。そして、 そのヒンドゥーイズムを知るにつれインドの不思議さが何となく理解できるようになるのである。 そしてまた、ヒンドゥーイズムを知ることは、インド数千年の文化のおさらいをさせられることでも あり、また、現代インドのあらゆる問題に立ち入ることにもなるのである。 (2) ヒンドゥーイズムの成立ーーブラフマニズムからヒンドゥーイズムへーー  それではいかにしてヒンドゥーイズムが成立し、インドの国土に浸透したのであろうか。 その歴史と経過をしばらく考察してみよう。  またしても話は再び数千年以前に遡る。BC1500年頃にアーリヤ人が北西インドに侵入した と述べた。その地には、それより遡ること1000年も以前に、インダス文明という高度な文明が 存在していたこともすでに述べた。アーリヤ人は、土着の民であったドラヴィダの人々を駆逐して、 北インドにアーリヤ文明を開いたのである。その文明の結晶が、ヴェーダ文献であり、その宗教を ブラフマニズム(バラモン教)と呼んでいる。従って、ブラフマニズムは、本質的に、アーリヤ人が、 自分たちが以前に定住していた土地(それは黒海とカスピ海の間といわれるが)で持っていた 文化を中心としたものであったといえる。西方へ進行していったアーリヤ人の別のグループが 現在のヨーロッパ文明を築いたことはよく知られていることである。インドにバラモン文化・ ブラフマニズムを築いたアーリヤ人達も、やはり、半遊牧民であったらしく、動物を神に捧げる 犠牲祭に代表される祭儀文化を持っていたのである。人々の生活は祭儀を中心として成り立って いたと考えられる。ヴェーダと呼ばれる文献も、すべてこれは祭儀のためのものであったのである。 先に引用したリグ・ヴェーダとは、祭儀の時に祭官が神をたたえて歌う讃歌集なのである。それ故、 その祭儀を実行する立場にいたバラモンが、最高の位置に立ったのも当然といえる。  バラモンが取り仕切る祭儀を通じて、王族や庶民は、神に祭儀を捧げるかわりに神から恩恵を 受けるというギヴアンドテイクの取引を神としたのである。これがヴェーダ初期のブラフマニズムの 宗教である。ある意味では非常にドライな関係が神と人の間に成立していたといえよう。まだこの時代、 すなわち、ブラフマニズム初期には、輪廻や業という思想は存在していなかったと思われる。しかし、 次第に、祭儀を取り仕切るバラモンの力は絶大なものとなり、祭儀を正しく執行することにより 恩恵を得ることが出来るという結果のみが一人歩きをしだしたのである。このような傾向が、 バラモンを堕落させると同時に、人々にも祭儀中心の宗教に不満を持たせ、バラモンと庶民との 距離が時代とともに広がっていったと思われる。  ちょうど、この時期に、輪廻の思想が登場してくる。(輪廻思想の成立については、別の機会に ゆずる。)BC5、6世紀の古ウパニシャッドには、輪廻の思想が明確に見られる。バラモンは、 宇宙の根元であるブラフマン(梵)を中心とした深遠な哲学理論(梵我一如)を展開した。 学習と苦行或いは瞑想によって輪廻から解脱すると説く彼らの解脱論は、思想としてはそれなりの 深まりを示し、宇宙と人間が一体であると感得することにより解脱するというこの基本思想は、 実際に、後のヒンドゥーイズムに受け継がれていくことになる。しかし、同時に、これを契機に 禁欲主義の傾向も強まってくる。つまり、ペシミズム的思想の流れが出来たことも事実である。  これ以後インドにおいて輪廻思想は最も重要な思想として人々のこころから離れることはない。 解脱しない限り、我々は永遠に輪廻を続けるのであり、現世は永遠の時間の一部でしかない、 と人々は考えるようになる。  しかし、難解な教理・難行苦行による解脱の思想は、もとより、一般大衆に浸透するはずはなく、 大衆は、自分たちの祖先から伝えられた土着的な信仰対象など素朴な民間信仰を大切にしていた と思われる。その土着信仰の多くには、非アーリヤ的要素が多く見られることは見逃せない。 それを土台として形成されることになるヒンドゥーイズムの源に非アーリヤ的要素の存在が 考えられるということは、インダス文明以来の土着要素が連綿とインドには伝わっていた可能性を 示すからである。難行道に背を向け、易行道を求める民衆の力は、大きなうねりとなりインド全土へ と広がる気配を見せた。このような大衆の要望に応える形で仏教、ジャイナ教などの新しい宗教が 勢力を拡大していく有り様に、バラモン達が危機感を持ったことは想像に難くない。彼らバラモンは、 民衆の求めに応じなければならなくなったのである。かくして、民衆を巻き込んだ土着信仰・ 民間信仰の広がりによって、ブラフマニズムの変質が始まるのである。バラモン達は民衆が身近な ところで大切にしていた土着要素・民間信仰を自らの宗教に取り入れだしたのである。さらに、 民衆に理解可能で到達可能な解脱の道を説かねばならなくなったのである。しかし、その一方で、 彼らバラモンは、自分たちの信ずるダルマを宇宙の正しい法則として教示することにより、結果的に、 バラモン優位の社会体制を巧妙に固めてもいくのである。このように、民衆を意識して次第に 変質していったブラフマニズムをヒンドゥーイズムと呼んでいるが、宗教の大衆化とそれに対する バラモン・支配階級の採った対策とが微妙に交差するところに、後世複雑なインド社会が生まれる 一因があったといえよう。 (3) ヒンドゥーイズムの拡大 (i) リグヴェーダではマイナーな神たち  上述のように、ヒンドゥーイズムとはブラフマニズムが土着要素を取り入れて変身した姿と いえるが、そのようなヒンドゥーイズムに独特な広がり方を見ることにより、その特色がより明確となる。 ヒンドゥーイズムといえば、ヴィシュヌ神とシヴァ神の名称が即座に挙げられるが、ごく初期には、 ブラフマー神(梵天)も有力であったと見られている。しかし、この神は、宇宙の根元ブラフマンの 神格化ということもあり具体性に欠けていたためか、その後ヒンドゥーイズムの表舞台から後退して しまい、ヴィシュヌ、シヴァの2神が中心となる。  ヴィシュヌ神は、すでにリグ・ヴェーダにその名を見ることが出来るが、数ある神々の中では、 全く目立たないマイナーな存在であったといえる。そこにみるヴィシュヌ神は、太陽の光照作用を 神格化した神と見られる。リグ・ヴェーダでは、わずか5編の讃歌しか与えられていない。   「彼(ヴィシュヌ)は地界の領域を測れり、最高の居所(天界)を支えたり、   歩幅広き[神]は三重に闊歩して。・・・彼の大いなる[三]歩の中に一切   万物は安住す」(1.154.1-2)8)  一方、シヴァ神は、リグ・ヴェーダでは、暴風雨の神ルドラの尊称として用いられた形容詞 「吉祥な」(Siva)という表現から、前身はルドラであるとされる。しかし、ルドラもそこでは それほど大きな存在ではなく、後世シヴァ神として人々に崇められるようになる兆候は見られない。 しかし、後にシヴァ神のもつ特徴につながるものは、若干見いだされる。ルドラは雷光をともなう 暴風雨神とみなされるが、同時に、次にように医薬により、恵みを与えるものとしても描かれる。 また、ルドラは牡牛ともいわれている。   なが与うる・最も効験ある医薬により、ルドラよ、われ願わくは、百歳の   [齢]を全うせんことを。(2.33.2)9)  このようにリグ・ヴェーダにおいてはむしろマイナーであったヴィシュヌ、シヴァの両神が どのようにして現在のような大きな存在となったのであろうか。 さきほど、民衆は身近で素朴な神に救いを見いだしたと述べたが、そのことが重要な要素として 浮上してくるのである。シヴァ神、ヴィシュヌ神が現在持つ特徴を考察することで、この問題に いくばくかの光を当てることが出来よう。それらの特徴とは、シヴァ神に関しては、その象徴が リンガ(男性性器)であること、さらには、その妻や子供など、一族とされる神々が非常に多いこと である。また、ヴィシュヌ神に関しては、その生まれ変わり、化身とされるものが非常に多いと いうことである。このような特徴が両神の築いた地位を物語ってくれるのである。 (ii) シヴァ神  狂暴なルドラを前身とするシヴァ神は、宇宙の破壊をその特徴とし、時間・運命・死を意味する カーラと同一視される(マハーカーラ=大黒天)。そのシヴァ神は、まずリンガ信仰と結合した。 リンガ信仰とは、人間の生殖作用による創造を神聖視したもっとも原始的な土着宗教の形態で、 元来、どこの国にもみられる性器信仰のことである。この信仰が、シヴァ信仰と結びつき、リンガが シヴァ神の象徴として祭られるようになったのである。どのようにして結びついたかは、いまのところ 明らかではない。今後の研究に待たざるをえない。シヴァ神の持つ狂暴で男性的なエネルギーが 関連しているともいわれる。かくして、今日でもシヴァ神のご神体はリンガである。どこのシヴァ寺院 でも、中に入っていくと一番奥に、リンガがおかれている。10)  さらに、このリンガ信仰との関わりでもあろうし、またシヴァ神の持つ男性的精力を強調する 側面でもあろうが、シヴァ神の妃が多数存在することもその特徴である。ところが、その妃の多くが、 実は、もとはといえば、インド国内諸地方の人々が信仰する女神であったのである。これらの多くの 女神がシヴァ神と結婚させられたのである。これもシヴァ信仰が、インド全土に広がった大きな 理由であろう。たとえば、インド女性の鏡として讃えられる美女であるパールヴァティー(山の娘の意味)は、 その名の示す通り、ヒマラヤ地帯で大いに人気のあった女神であった。それをシヴァ神の妃とすること によって、ヒマラヤ地帯をシヴァ信仰に取り込むこととなったのである。また、ドゥルガー、カーリー の二女神は、ベンガル地方で多くの人たちに信仰されていた女神であったが、それがまたシヴァ神の 妃とされることで、この地方もシヴァ信仰に取り込まれた。このようにして、シヴァの妃は、 サティー(貞淑)、アンナプールナー(豊饒)、などなど女性の持つあらゆる側面を神格化した 女神がすべてシヴァ神の妃とされるにいたった。(もっとも、ヒンドゥーの人々は、シヴァ神の 妃は一人であり、その一人の妃が女性の持つあらゆる側面を表す多くの女神に姿を変えているだけで あるというのであるが。)それと同時にこれらの女神を信仰していた人々も当然シヴァ信仰へと 取り込まれていったのである。このように女神がシヴァ神の妃としてシヴァ信仰と結びついていく 過程には、女神信仰に関するインドの特殊性も考慮されねばならないであろう。ヴェーダでは 女神の勢いは決して大きくない。それは、ヴェーダを生んだアーリヤ民族は、「父の宗教」を 持っていたからである。そのヴェーダを中心としたブラフマニズムが衰退を始めた頃と、インド 各地に女神信仰が台頭する頃とがたまたま一致したこともあろう。一部の女神は、たとえば、 ドゥルガーなどは、シヴァ神以上に信仰を集めることになる。村々の土着の神は、その多くが 女神であり、その女神誕生の物語が、シヴァ神の妃として語られるようになったのであろう。11) さらに、女神のみでなく、現在もボンベイ地方でことに人気のある知恵の神であり、また、 富の神でもあるガネーシャという半象半人の奇怪な神を、シヴァ神の息子とすることによって、 ガネーシャ信仰の人々もシヴァ信仰へと取り込んでいくのである。  また、古代の民衆は、身の回りにいる動物や自然に対して篤い信仰心を持っていた。その典型が、 古代のインドにおける牛の信仰であろう。重要な労力であることはもちろん、ミルクからとれる あらゆる食料は実に貴重であり、また、その糞までもが貴重な燃料となったことを思えば、彼らが 牛に対して特別の信仰を持って当然であったであろう。ルドラが牡牛の意味を持っていたことも 関連するであろうが、牡牛はシヴァ神の乗り物ナンディン牛として神聖化されてシヴァ信仰に 結びついていったと思われる。これが有名な、インドにおける牛の信仰の源となったのである。  牛の信仰もインダスの遺跡にみられ、これも非アーリヤ文化であろうといわれる。ヒンドゥーイズム の中心であるシヴァ信仰の重要な部分が非アーリヤ文化である、ということは、現在のインドを 理解する上で重要である。先に述べたように、インダス文明の担い手であったドラヴィダの人々が、 アーリヤ人の支配下に入った後にも、その文化は土着性となり、民衆に伝承され続け、ついには 表面化してヒンドゥーイズムとなった、という筋書きが可能である。  このように、シヴァ信仰の広がりを見るとき、ありとあらゆる信仰を飲み込んでいくその エネルギーにはただ驚嘆するばかりである。 (iii) ヴィシュヌ神  一方、ヴィシュヌの信仰はどのようにして広まっていったであろうか。それは、化身という 手法を使って国民的英雄や人気の高い人物、動物などの信仰を取り込んでいったのである。化身とは、 原語でアヴァターラといい、それは、「上から下へ降りてくる」、「降下」を意味している。つまり、 下界が悪の支配により乱れると、神=ヴィシュヌが姿を変えて、世界を悪から救うために地上に 降りてくる、という思想である。その典型が有名な叙事詩ラーマーヤナの英雄ラーマである。  この物語は、マハーバーラタと同様、庶民の間に好まれていた英雄伝説であったが、人々はこの 国民的英雄であるラーマを見逃すはずはなく、そのラーマをヴィシュヌの化身としたのである。 本来のラーマーヤナ物語は、王子ラーマが妃であるシーターを悪魔から取り戻す冒険物語で、無事に 妃を取り戻して大団円で幕となるものであったはずである。ところが、いつのまにかその物語に、 プロローグとエピローグとが追加された。天界で神様たちが相談をしている、今下界に悪魔がのさばり 人々は苦労している、誰かあの悪魔を退治にいかないか、と。その役がヴィシュヌ神に決まり、 かれはある王妃の体内に子として宿ってこの地上に出現した、それがラーマ王子であった。 これがプロローグである。かくしてラーマは英雄として大活躍し、悪魔を退治して妃を連れ帰る。 しかし、そこにエピローグが追加されている。その話は、こうである。無事、妃のシーターを 救ったラーマは、シーターを妃として迎え入れようとしない。悪魔に幽閉されていたことで、 もはや体が汚れていると冷たく言い放つ。悲しみに打ちひしがれたシーターは、大地の神に 自分の身の潔白を証明するよう依頼する。大地の神はシーターの潔白を証明せんと、シーターを 大地の奥深く抱き取ってしまう。大地の奥深くシーターが沈み込んだのをみてラーマは後悔するが もはや如何ともしがたく、ついには、元のヴィシュヌ神の姿に戻って天へ帰っていった、と いうのである。巧みにこのように前後をつけることによってラーマをヴィシュヌ神の化身と してしまったのである。  このような手法により、一般に理解されているだけで、ヴィシュヌ神には10の化身が想定されて いる。いずれも、古代からの民話に登場する動物であったり、英雄であったりするのである。ことに、 化身の一つとみなされるクリシュナ信仰との融合も重要であるがここでは省略する。  先にインドの休日のところで釈迦の誕生日までもが国民の休日になっていることにふれたが、 実は、釈迦もヴィシュヌ神の化身なのである。インドの人々が、日本人を兄弟とみてくれるのは 日本が仏教国であること(少なくとも、彼らにはこのように思われる)の故なのである。それにしても 不思議である。インドにおいて仏教は反ブラフマニズムの立場で登場し、その思想もインドの 伝統的思想とは鋭く対立し、インドの思想界で全くの異端者であり(たとえば仏教の無我の思想などは その典型である)、また、仏教の勢力は一時隆盛をきわめ、それ故、仏教以外の思想界からの敵意も 相当であったのにも関わらず、釈迦がヴィシュヌ神の化身とされているのである。その取り込み方が 実に巧妙でおもしろい。インドの伝統に真っ向から対立した釈迦その人を、偉人視するわけにはいかない。 しかし、衰退しかけていたとしても、仏教徒の勢力は無視できない。現在の1〜2%という弱小教団では なかったのである。12)そこでこのような話が作られた。ヴィシュヌ神は人間の姿をとり、釈迦となって、 一見ヴェーダの宗教を守っている振りをしながら、実は、悪法を説きまくったのである、と。13) かくして、釈迦の説く悪法に惑わされた悪魔どもはことごとく地獄に落ちて滅んでしまったのである。 かくして釈迦はヴィシュヌ神の化身としてヒンドゥー教徒からも大切にされると同時に、多くの 仏教徒をヒンドゥーイズムに取り込むことに成功したのである。このしたたかな策略は誰が 考えたのかはもちろん不明であるが、驚嘆に値する、と同時に、先のラーマの例と同様、ヴィシュヌ 信仰がインド全土に広がっていった一例として我々の理解の助けとなる。かくして、釈迦の誕生日が 国民の休日であって当然である。ひょっとすると近いうちに、シク教の教祖グル・ナナクも、 いやそればかりか、キリストも、マホメットも、マルクスも(もっとも、最近彼の価値は下がったが、) ヴィシュヌ神の化身ということになるかもしれない、と真面目にいうインドの人もいるくらいである。 ここでもシヴァ信仰の拡大と同じく、あらゆるものを飲み込んでいくエネルギーが感じられる。  このようなシヴァ・ヴィシュヌ信仰の拡張のあり方をみると、共通の特徴が明らかである。 それは、新しい土地に対して、そこにあった信仰をいったん否定して消しさり、その後に新たな 信仰を植え付ける、というヨーロッパや中東にみられる方法と大きく異なっているのに気づくで あろう。その土地の信仰をそのまま受け入れ、あるいは、化身とすることで、巧みにシヴァ・ ヴィシュヌの信仰に取りこんでいく。当然、シヴァ・ヴィシュヌを最高の存在とみるものの、 シヴァ・ヴィシュヌにまつわるその他の神々も同様に信仰対象として大切にしていく。すべてが、 シヴァ・ヴィシュヌ信仰に飲み込まれていく、これがインドゥーイズムの本質である。 (4) ヒンドゥーイズムの光と影  このようなシヴァ、ヴィシュヌ両神の信仰の拡大を眺めてみると、バラモンの意図は別にして、 かくも、なにもかも巻き込み飲み込んでいくという傾向は、インドという土地に古来からある 土着性のものであろう。しかし、宗教活動面で、民衆から遊離してしまっていたバラモンは、 民衆の信仰に迎合し、自らの変身を始めると同時に、彼らは、リグ・ヴェーダ以来説かれてきた 宇宙の法則(リタ=ダルマ)を基準とした自らのバラモン世界の価値体系の整備を謀っても いるのである。14)それが明確な形を取ったのが、マヌ法典の名で代表される法典類の整備である。 マヌ法典が成立したのは、およそ、紀元前後と言われるが、法典の整備自体はBC5〜6世紀から 始まっていたと思われる。15)必然的に、その内容はヴァルナ体制に沿ったものであり、それら法典類の 作成は、ヴァルナ体制の維持強化の役を果たすことになる。ヴァルナ体制が確固たるものとなれば、 下位の人々は上位の真似をすることで少しでも上位たらんと欲するものである。不殺生(アヒンサー) の戒をまもるバラモンの菜食主義を下位の人々も真似をし、少しでもバラモンに近づく努力をした。 かくして、リグ・ヴェーダ時代には、人々は肉を食した記録があるにも関わらず、時代が下がると、 バラモンのみでなく下位のヴァルナの人々も菜食主義となり、現在のような事態に至っている。  このようにブラフマニズムからヒンドゥーイズムへ変化していく過程で、バラモンたちは、 民衆に迎合せざるをえない局面では、民衆に容易い道を与える一方で、ヴァルナ制度の維持 というバラモンにとっての重要課題を巧妙に宗教の中に織りまぜつつ、次第に現在のような ヒンドゥー社会に移行していったのである。そのようなヒンドゥーイズム生成期にあって、 偉大な叙事詩マハーバーラタに挿入されたバガヴァッド・ギーターは、一般大衆の絶大な人気を 博し、ヒンドゥーイズム・ヴィシュヌ派最大の聖典となるにいたったのである。そこには、 上記に述べたバラモンが民衆の信仰を意識した面と、ヴァルナ体制の維持を意識した面の両面が 如実に現れている。重要な部分を少し引用してみよう。  対戦の火蓋が、まさに、切って落とされようとするその時、弓の名人アルジュナは、相手 陣内に自分の同胞・親族の姿を見て、一族同士が殺戮しあわねばならないこの戦いを嫌う。 そこで、馬車の御者を勤めていたクリシュナ(実はヴィシュヌ神)が、「汝戦うべし」と檄を 飛ばす。そのクリシュナの教示が、バガヴァッド・ギーターそのものである。   人が信愛(バクティ)をこめて私に葉、花、果実、水を供えるなら、その敬   虔な人から、信愛を持って捧げられたものを私(神)は受ける。   たとい極悪人であっても、ひたすら私を信愛するならば、彼はまさしく善人   であるとみなされるべきである。彼は正しく決意した人であるから。   実に、私に帰依すれば、生まれの悪い者でも、婦人でも、ヴァイシャ(生産   業者)でも、シュードラ(従僕)でも、最高の帰趨に達する。   いわんや福徳あるバラモンたちや、王仙(クシャトリヤ)である信者たちは   なおさらである。この無常で不幸な世に生まれたから、私のみを信愛せよ。   私に意(こころ)を向け、私を信愛せよ。私を供養し、私を礼拝せよ。この   ように私に専念し、(私に)専心すれば、あなたはまさに私(神)に至るで   あろう。   更にまた、あなたは自己の義務(スヴァダルマ)を考慮しても、戦慄(おの   の)くべきではない。というのは、クシャトリヤ(王族、士族)にとって、   義務に基づく戦いに勝るものは他にないから。 もしあなたが、この義務に基づく戦いを行わなければ、自己の義務と名誉と   を捨て、罪悪を得るであろう。   あなたは殺されれば天界を得、勝利すれば地上を享楽するであろう。それ故、   アルジュナ、立ち上がれ。戦う決意をして。 苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いの準備をせよ。そうす   れば罪悪を得ることはない。16) ブラフマニズムの説く抽象的な解脱論では、もはや民衆には訴えるものはなくなっていた。 苦に他ならないこの生を無限に繰り返す輪廻から逃れるためには、厳しい修行をし、禁欲・ 苦行をして自己の中にある自己の原理アートマンが、宇宙原理ブラフマンと一体であることを 認識するほかはない、というウパニシャッドの思想は、毎日の生活にあくせくする一般の庶民に とってはなにの救いにもならなかった。また、リグ・ヴェーダ時代の祭儀は、形骸化し、バラモンの 立場を守りこそすれ、庶民の悩みに応えてくれるものではなかった。かくして、一般民衆は、 救いを何に求めたか、それがここにみられるバクティとプージャーであったのである。日常生活を 営む中で神へ信愛(バクティ)を捧げ、沐浴により身を清め、身近な花や水を神に供える供養 (プージャー)により解脱できる、という易行道がここには説かれている。これにより、ヒンドゥーイズムは 一般民衆に爆発的に受け入れられていった。ちょうど、日本の鎌倉仏教が民衆に受け入れられたように。  しかしバラモンもしたたかであった。最高の真理の世界としてのブラフマンはそのままヒンドゥーイズム にも受け継がれる一方で、自己の義務(スヴァダルマ)の遂行もしっかりとこれに付随させていた のである。宇宙の法則ダルマの教示は、自ずと各自が自ら持つ社会的責務の遂行へとつながる。 それ故、自己の義務(スヴァダルマ)の起源もリグ・ヴェーダに遡ることが出来るのである。17) またしても古来からの思潮を切り捨てることなくその上に諸思想を重ねていくというパターンが ここにも見られる。 3 まとめーー未来に向けてーー  輪廻を繰り返すこの世界で、人々は神にバクティを捧げつつ、自己の義務を遂行することが 解脱への道でありブラフマンの世界にいたる道である、と説く上記のギーターを民衆はなににも まして重要な聖典として大切にしたのであった。かくして、貧しくともヴァルナ・ジャーティ制度 に疑問を持たず喜々として自分の仕事に精を出し、神にバクティを捧げる現代のインドの人々の 心の中には、このようなヒンドゥーイズムの聖典の言葉があるのである。前述したように、 長年に渡る政治的努力にも関わらず、ヴァルナ・ジャーティ制度が改善されない理由もここにある。18)  何度も輪廻を繰り返すうちに必ずこのような最高の世界に到達できる、と信ずる心では、 時間はまさに無限に見えるであろう。今、この時間とても、無限に続く一瞬であるにすぎず、 輪廻の一こまにすぎない、と感じるに違いない。先に述べたインドの人に時間の観念が希薄で あるのは、このことも無関係ではないであろう。  また、宇宙との一体を説くウパニシャッド以来の宇宙根元ブラフマンの思想は、自然との 共生を前提としたもので、無限の時間の中で自然と一体となって生きる喜びを説いているともいえる。 このように、ありとあらゆる思想を飲み込み、ヒンドゥーイズムとしてしまう土着性に気付けば、 新旧が並行していても違和感を与えないのも当然といえる。  以上で最初に述べた、インドにおける様々な感想が、実は、まさにインド的なるもの、インド土着の ヒンドゥーイズムを根底として生じてきているのに気づくであろう。まさに、ヒンドゥーイズム という語はインド理解のキーワードなのである。  時間の都合でこれ以後、現代に至るまでの詳細は別稿を期すこととして、重要なポイントだけを 以下に挙げておく。8世紀以後、北インド、殊にパンジャブにはイスラムが根を下ろす。それ以後、 北インドはヒンドゥーイズムとイスラムの相克の地となる。しかし、そのような中においても ヒンドゥーイズムはたくましく生き抜いていった。何でも飲み込んで自分のものにしてしまうと いう社会は、イスラムをも飲み込んでいったのである。イスラム側からのヒンドゥー融和策が あったにしろ厳しいイスラム支配の中で人々は依然として、神へのバクティを捧げ、力強く 生きていったのである。そのような中で、15世紀、ヴィシュヌ教徒であったラーマーナンダは、 イスラムの影響を受けてカースト否定、男女平等を訴えた。その彼の思想は弟子カービルをへて ナナクへと継承されていく。ナナクは、やはり、15世紀に、ヒンドゥーの子に生まれたが次第に イスラムに傾倒していき、ヒンドゥー・イスラム両者の相克の中で彼が確信に至ったことは、 両方の宗教によって神は種々に説かれるが、真の神は唯一であるということであった。その神に 近づくのは、バクティによるほかはない、と主張したのである。つまり、ヒンドゥーとイスラムの 折衷的宗教・シク教の誕生である。ヒンドゥーイズムを中心としてこのように複数の宗教を統一 しようとする努力は後に18世紀19世紀のラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダの運動へと 続いていき、インド独特の宗教運動が展開されることになる。その象徴が、カルカッタにある ラーマクリシュナ・ミッションの世界本部の建物である。それは、ヒンドゥー教寺院・イスラム モスク・キリスト教会の三様式を取り入れた建物となっている。このような発想から、いま世界を 悩ませている宗教戦争や民族紛争の解決の手がかりがつかめるかもしれない。そのように考えると、 すべてを飲み込むヒンドゥーイズムが奇怪に映る一方で、人類を救う可能性を持っているとも いえないであろうか。 注 1 辛島昇監修:インド、新潮社、pp.175-6 2 リグ・ヴェーダ 10.90(辻直四郎:リグ・ヴェーダ讃歌、岩波文庫、p.320) 3 Bohtlingk und Roth : Sanskrit Worterbuch に Satapatha-Brahamana 6.4.4. 9 とある。 4 辻直四郎:リグ・ヴェーダ讃歌、岩波文庫、p.169 5 辻直四郎:インド文明の曙、岩波新書、p.10 6 辛島昇他:インダス文明、NHKブックス、p.107ff. 7 近藤治:インドの歴史、講談社現代新書、pp.41-7 8 辻直四郎:リグ・ヴェーダ讃歌、p.42 9 Ibid. p.54 10 ちなみに、リンガという語は非アーリヤ系の言語、オーストロアジア系の言語 であると言われる。 11 立川武蔵ほか:ヒンドゥーの神々、せりか書房、pp.115-6 12 現在インドの仏教徒は、ヴァルナ・ジャーティ制度を否定する人々、すなわち、 ハリジャンが ほとんどを占める。 13 立川武蔵ほか、前掲書、pp.66-7 14 渡瀬信之「マヌ法典」中公新書、p.22 15 Ibid. まえがき 16 「バガヴァッド・ギーター」、上村勝彦訳、岩波文庫、pp. 37-38, 83-85 17 渡瀬、前掲書、pp.16-7 18 シク教をはじめとするヒンドゥーイズム改革を目指す宗教は、いずれも、ヴァルナ・ジャーティ 制度の打破を旗印として発足するが、発展段階で次第に旧体制を容認せざるを得なくなってしまう。 この体制はかくも強固なまでにインドに根付いたものであるといえる。しかし、現代の世界の 転回の速度は以前の比ではなく、世界が狭くなった現代、インドにもヒンドゥーイズムにも 否応なしに現代的風潮は押し寄せている。ヴァルナ・ジャーティ制度も都市部を中心として 急速に揺らぎつつあるとも言われる。しかし、インドそのものであるヒンドゥーイズムが 数千年、その中心に据えてきたこの制度がそう簡単に消滅するとは思えない。ヒンドゥーイズム は現代社会にどのように自らを適応させようとしているのか。経済改革が、一応成功を収めた ように見える現在ではあるが、巨象の苦悩は続くことであろう。時間は少々かけても、インドに とって、また、世界にとって、ベストの道を歩んでほしいと世界が期待している。

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Last modified: Tue Sep 21 14:00:41 JST 2004