2004/04/12
■■■■ 京都部落問題研究資料センター メールマガジン vol.50 ■■■■

□論文紹介□  森田康夫「大塩平八郎の被差別民観」
               (『大塩研究』50号、2004年3月)

 天保8年(1837年)2月19日、大坂の元東町奉行所与力で陽明学者であった 大塩平八郎が、飢饉にあえぐ民衆の窮状を見かねて、世直しの武装蜂起に立ち 上がったことはよく知られている。また、大塩は、日頃、防災・治安要員とし ての穢多身分との親交があり、蜂起の際には穢多身分に広く動員をかけていた ことも、部落史上では常識に属することであろう。ところで、大塩が穢多身分 の人々を動員しようとしたことに対する評価は、従来、あまりかんばしいもの ではなかった。たとえば、部落史研究上で、大塩研究の代表格であった岡本良 一氏は、「部落民の熾烈な解放への意欲を利用することによって、部落民の限 りない献身、犠牲を期待する封建支配階級的意図〔ママ〕から出たところの、 まことに狡猾な術策にすぎなかったことが明らかである」(『部落問題事典』 1986年刊、の大塩平八郎の項)と、まったく否定的評価であるし、布引敏雄氏 もそれを踏襲して「彼には真に近世部落の人びとを人間として認める観点はな く、あくまで彼らを利用するために『解放』をほのめかしているにすぎない。 部落民の解放へかける熾烈な意欲を自己の都合のいいようにだけ利用しようと いうのである」(『部落解放史・上』1989年刊)と否定的に評価している。  しかし、私は、世直しの時の武装蜂起を呼びかける同志にたいして、悪意あ る利用というような感情をもっていただろうかと疑問を感じていた(確かに、 長州藩が作った奇兵隊をはじめとする諸隊も、人民のエネルギーの利用だとい えばそれまでだが、だまして引っ掛けるというような「利用」とはいえまい)。 むしろ、そうした否定的評価の裏には、今から20年前くらいまでは部落史研 究に色濃く存在した「差別さがしの部落史」という流れを感じていた。要する に、いかに部落民が差別され抑圧されてきたかの証拠物件を歴史の中に求めよ うという考えである。したがって、いかに大塩が部落民の心情に同情的であっ ても、所詮は支配階級の策略である、というような解釈になってしまうのであ る。
 最近の部落史は、そうした差別の証拠さがしからは脱却しつつあり、大塩の 評価も大きく変わりつつあるが、標記の森田康夫論文は、「封建支配者の利害 や現状維持を最善とするものからは大塩の乱は起こされない。被差別部落民の心情を理解しているが故に、大塩が脱賤化を条件に政治的危機や自然災害の際 に彼らの力が期待できることを認識していたことは、封建制下の支配者にはみ られない、優れた人間理解として評価すべきであろう」と論じている。従来の 大塩関係の論文も丁寧にまとめてあり、「支配階級の利用」論を批判する動向 の到達点をしめすものといえよう。 (灘本昌久)

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