2004/2/26 ■■■■ 京都部落問題研究資料センター メールマガジン vol.046 ■■■■

□運動情報□  部落解放と天皇制―部落解放研究京都市集会での討論

 メルマガ前々号で予告したように、第35回部落解放研究京都市集会が2月21日 (土)に京都会館で行なわれた(実質的な担い手は部落解放同盟京都市協議会、 京都市、京都市教育委員会など)。午前中は、全体会としてモンゴルの踊りや音 楽を鑑賞し、午後は、分科会に別れて討論を行なった。8つの分科会のおおよそ の中味は、「部落解放と天皇制」「部落の実態」「街づくり」「福祉」「同和保 育」「解放教育」「多文化教育」「わたし自身と差別問題」である。午後の分科 会の参加者の総数は、1,300人余りだったが、第1分科会の「部落解放と天皇制」 には、全体の4割近い500人あまりが詰めかけ、300部しか刷っていなかった討議 資料が不足して、急遽増刷するハプニングになった。この第1分科会は、従来か ら比較的参加者は多いのだが、今回、予想をはるかに上まわる人が来場したこと で、いかにこの問題への関心が高いかがわかる。  パネラーは、灘本昌久(京都部落問題研究資料センター所長)、吉田智弥(花 園大学講師)、田中和男(龍谷大学講師)で、コーディネーターを山内政夫(部 落解放同盟京都市協議会議長)が務めた。内容的には、討論の大枠を紹介すべき 私に言いたいことが多すぎて、うまく全体像を紹介し切れなかった点を残念に思 う。また、今まで運動の中で、反天皇制を闘ってきた山内氏が、人選の都合で急 遽コーディネーターにまわらざるを得なかったので、分科会の討論の運営として も、難しかっただろう。
 そして、何よりも、この問題は、昭和天皇一代の問題、近代の天皇制の問題、 千年を超える天皇制の歴史的・文化的問題など、非常に多岐にわたるため、一日 では到底論じつくせない問題であることをあらためて痛感させられた。  そんなわけで、隔靴掻痒の感がなきにしもあらずであったけれども、天皇制 について違う意見の持ち主が議論した場合、どのようにすれ違うかはかなりわ かってきた気がして、その点だけでも個人的には収穫があった。  フロアからは、灘本の問題提起のしかた自体がルール違反であるとの意見も 出されたが、コーディネーターであり、分科会の仕掛け人でもある山内氏から、 議論していくこと自体が重要であるとの返事がなされ、私も同感である。今後、 できるだけ多くの人、特に部落問題の研究者が大いに議論をたたかわせて、問 題を掘り下げていかなくてはいけないと感じた。そして、口頭での議論も大事 であるけれども、吉田氏の発言にもあったように、問題提起の重大さにもかか わらず、灘本批判が師岡論文以外にほとんど見られないのは残念である。これ を機会に、賛否の論考が闘わされて、問題の所在が明らかになることを祈って いる。(灘本昌久)


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□研究動向□  幻の「洞部落強制移転」問題

 部落差別が天皇制によって生み出されたとする説を象徴的に示す事例として あげられてきたものに、「洞部落強制移転」(1917年=大正6)がある。神武 天皇陵を見下ろす位置に被差別部落があるのはけしからんということで、天皇 制国家権力により蹴散らされるように強制移転させられたというものである。  この事件をはじめて取りあげたのは意外に新しく、1968年2月、鈴木良氏に よる「天皇制と部落差別」(『部落』)がはじめてである(もちろん、移転し たこと自体は知られていたが)。これは、政府の「明治百年祭」にたいし、部 落問題研究所が反対のキャンペーンを繰り広げる一環としてなされた主張で、 「『明治百年』と部落問題」というシリーズの第1回目である。そして、この 鈴木説が部落解放運動家に急速に普及していく。のちに部落解放同盟中央執行 委員となる辻本正教氏も「その一文を胸が張り裂ける思いで読んだ。自分の生 まれ育った部落が、こんなにも大きな歴史事実に遭遇していたのかと思うと、 天皇制に対する怒りや部落差別に対する怒りが、腹の底から沸き立つのを禁じ 得なかった」と回想している(辻本『洞村の強制移転』)。そして、辻本氏は この事件を、同地を訪れる人に「まるでテープレコーダーでもあるかのように」 語り続けていく。
 しかし、辻本氏は、移転後の洞部落の道路が縦横に整然と走っていることな どに気がついて、鈴木説に疑問をいだくようになり、研究の結果強制移転では なく、部落大衆の「自主的献納」であったことを明らかにした(辻本、同上)。 また、その後、高木博志氏は「近代神苑論」をあらわして、被差別部落だけで なく、一般の村落も移転していることを明らかにした。  以上、紹介した論文も大枠においは反天皇制なので、旧説である鈴木論文の 見直しが明確でないが、私流にまとめれば以下のようなことになる。「江戸時 代から続いてきた天皇陵整備が明治になって加速し、その一環として神武天皇 陵が拡張されるときに、洞部落が敷地にひっかった。洞部落では、これを機会 に村をまとめて移転をはかり、補償費用で部落の改善を行なった(200戸の部落 に総額25万円以上)。しかし、移転の途上や移転後、まわりの村からは、様々 な差別排斥を受けた。」
 もちろん天皇陵の拡張なので、天皇制と無関係とはいえないが、「天皇制が 部落差別の元凶である」という事例としては、既に用をなさなくなったと、私 は考える。(灘本昌久)

〈参考文献〉

 鈴木良 「天皇制と部落差別」(『部落』1968年2月号)
 鈴木良 『近代日本部落問題研究序説』兵庫部落問題研究所、1985年、p.154〜164
 高木博志「近代神苑論―伊勢神宮から橿原神宮へ―」
                    (『歴史評論』573、1998年1月)
 竹末勤 「日本近代史研究における洞部落移転問題の位置」
                  (『部落問題研究』143、1998年5月)
 竹末勤 「近代天皇制と陵墓問題」(『部落問題研究』149、1999年12月)
 辻本正教『洞部落と強制移転』解放出版社、1990年

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