2003/4/10
■■■■ 京都部落問題研究資料センター メールマガジン vol.025 ■■■■

□コラム□
    黒人の顔を検閲? 入試問題に「穢多・非人」


 『朝日新聞』2003年4月8日付によれば、文部科学省が、英語教科書の挿絵 に描かれた黒人の顔の描き方にクレームをつけ、修正を求めたという。指摘を 受けた東京書籍は5枚の絵について、黒人の唇を薄くしたり、体形をやせ型に したり、背を高くするなどの修正をほどこした。写真で見ると、ご丁寧に色ま で白くしてある。
 これは、本末転倒ではあるまいか。民族的・人種的特徴というものは多かれ 少なかれあるもので、黒人を黒人らしく描けば、色は黒く、唇は厚く、髪の毛 はちぢれていて不思議はないだろう。文科省は「アフリカ系アメリカ人の民族 的特徴として唇が厚いことを誇張して描くことは、読者の誤解を招く」(『朝 日新聞』)、「すべてのアフリカ系アメリカ人の唇が厚いと誤解を与える」 (『毎日新聞』)と指摘しているようであるが、見ただけでアジア系、黒人、 白人であるとわかる絵は、当然誇張してあるからそれとわかるのである。問題 は、色が黒いこと、唇が厚いこと、髪の毛が縮れていることが、マイナスの価 値付けを受けていることが問題なのだ。そして、もし色が黒いこと、唇が厚い こと、髪の毛が縮れていることが恥ずかしいと思う黒人がいたとすると、それ は差別的価値観に汚染された自己の価値観に克服すべき課題があるといわなく てはならない。
 この点=「被差別者の痛み」の問題性について、拙著『ちびくろサンボよ  すこやかによみがえれ』でくどいほど論じているので参照願いたいが、なかな か理解されにくいようで、表面的な言葉狩り表現狩りがあとを絶たないのは残 念なことである。
 上記の問題性は、部落問題でも同様である。伝え聞くところによれば、先般、 松山大学の入試問題で、士農工商の更に下に政策的に作られた身分として「え た、ひにん」を答えさせる問題が出題され、一部の人が差別であると指摘して いるとのことであるが、問題にすること自体が問題である。江戸時代に「穢多 ・非人」という身分があったことぐらい、受験生の常識として知っておいても らわないと困る。もちろん、その身分がどのように現在の同和問題につながっ てきているかを理解する必要があるが、それは入学してからの教育上の課題だ ろう。また、入試問題に「穢多・非人」の字がおどっているのを見て、ショッ クを受ける部落出身の受験生がいるかもしれないが、そういう理由で、「穢多 ・非人」を答えさせてはいけないと考える人がいるなら、それは過保護という ものだ。現在の同和地区の多くが江戸時代の穢多村であり、差別されて現在に 至っているということを避けてとおっては、何ごとも前に進まない。  1980年代の中期から10年間ほどの間、被差別者の痛みをかかげては、表面的 な差別撤廃運動をしたがる傾向が強かったため、その後遺症が深刻であるが、 新しい反差別運動は、そうした旧弊を脱却すべきである。(灘本昌久)


《参考データ》
・「黒人の横顔さし絵修正 文部省が『唇が厚すぎる』と修正意見」
   (『朝日新聞』2003年4月8日付)修正前後の写真あり
   <http://www.asahi.com/edu/news/TKY200304080184.html>
・「『厚い唇』は誤解を与える? 出版社が修正」
   (『毎日新聞』2003年4月9日付)紙版には写真がある    <http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030409-00000036-mai-soci>
・灘本昌久『ちびくろサンボよ すこやかによみがえれ』(径書房、1999年)    <http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4770501714/>
・灘本昌久「『差別語』といかに向きあうか」
   <http://www.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/198905.htm>
・灘本昌久「わらべ歌と差別」
   <http://www.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/199301.htm>
・灘本昌久「筒井康隆断筆事件から『蘭学事始』まで    『被差別者への配慮』を考える」
   <http://www.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/199404.htm>

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