京都部落問題研究資料センター通信『Memento』10号(2002年10月25日発刊)

部落史研究の現在と学校教科書
                                       灘本昌久
はじめに

 最近の部落史研究の動向を反映して、小中学校社会科教科書の部落史の叙述も大きく変わってきた。ひとことで言うと、近世政治起源説をすてて中世起源説をとるようになり、賤民と称された人たちがいかに差別迫害されてきたかという陰の部分に焦点をあてる傾向から、いかにプラスの社会的役割を果たしてきたかという光の部分に焦点をあてる叙述に変わってきている。
 旧来の「暗黒の部落史」は、同和事業を獲得するときのアジテーションではありえても、部落差別意識にメスを入れ解消するという点では、逆効果の面が多いので、こうした見直しは歓迎すべきことと考える。ただ、新しく出てきた教科書をいくつか見てみると、史実誤認や不十分なところ、また古い枠組みをひきずっている点が散見されるので、本編では部落史研究の立場からそうした問題点を指摘することにする。なお、教科書は研究の定説をもとに叙述するものであり、研究の最前線を追いかけまわす性質のものではない。ここで指摘する意味は、教科書の書き換えや授業内容の改善を直接要求するものではなく、あくまで、参考に供するというふうにご了解いただきたい。

部落史学習の位置付け

 ところで、本論に入る前に、果たして小中学校で部落史学習は必要かという根本問題を考えておかなくてはならない。部落史学習に限らないが、不用意な人権学習というものは、差別の解消どころか拡大再生産に手を貸すことになりかねないので、注意が必要である。たとえば、最近、私の友人からこんな経験談を聞いた。家に帰ってきた小学3年生の子どもがいうことには、「お母さん、ぼく42という数字嫌いや…」。お母さんが理由を問いただしてみると、小学校で和太鼓演奏の実演があった。そして、それに関連して、太鼓には部落産業という背景があり、穢れにたいする差別につがなる問題がある。またそれらは現代でも「4」や「9」という数字を忌避する日本の迷信ともかかわり…という説明を先生がした。それを聞いて帰ってきた子どもが、上記の感想をもらしたというのである。何も触れなければ、素直に和太鼓の演奏を聞けたものが、先生の説明によって、いらぬマイナスイメージを付け加えたことになったかもしれない。もちろん、この一例をもって、人権学習の必要を否定するものではないが、子どもがどの年齢までは感覚的な理解をし、どの年齢以上であれば理屈で理解するのかは、考慮すべきことだろう。やればいいというものではない。大学生くらいになると、そういう気遣いは比較的無用で、徹底的に中身を深めていけばいいのだけれど、年齢が低い場合はそうもいかない。私の素朴な実感からいくと、小学生に中世起源の部落史学習が可能かどうか、あるいは必要があるかどうかは疑問で、中学生でも、ちょっとむつかしい感じを受ける。このあたりは、今後議論していきたいところである。

民衆史の一部として

 部落問題を日本史授業の中でとりあげる場合、二つのアプローチがあると思う。ひとつは、今までなされてきた部落問題学習の一環としての部落史学習である。つまり、今に残る部落差別がどうして成立して、どのように現在に至るかを学習し、部落差別解消に役立てようという立場である。この場合は、古代賤民制の崩壊から説き起こして、中世賤民集団の成立と室町文化とのかかわり、江戸時代における身分制の確立と、幕末の身分統制政策、解放令という順序でその移り変わりを説明することになる。
 もうひとつは、民衆史的アプローチである。これは、歴史を動かしてきたのは、ひとにぎりの権力者ではなく、名も無き民衆であるという考えだ。先生「大阪城を造ったのは?」生徒「大工さん!」というのは冗談にしても、その時々の歴史を作ってきたのは、指導的な立場、権力の立場にいた人の貢献もさることながら、現場の職人芸が大きな役割を果たしているのは、決して昔だけのことではない。さきごろノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊東大名誉教授の仕事にも、無数の部品メーカーの職人芸が生きているのは、同じことである。
 この二つのアプローチのどちらをとるかで、部落史学習の語り口は相当変わってくる。前者の場合は、概略以下のような流れの話となる。古代末から中世にかけて、一般農民の共同体からはじき出され、あるいは脱落・流出し、中世非人(社会外の社会)となった人びとが、宿・声聞師・河原者などの賤民集団を形成し、河原者はケガレの処理を中心とする職能集団として、さまざまな仕事を担う。そして、動物の死骸などケガレの処理は、本来、河原などに埋めてしまえばこと足りるのだが、病弱になって働けなくなった耕作用の牛馬は、単に飼い置くわけにもいかず、その屠殺も河原者の仕事である。こうしてできた動物の死骸から様々な物を作る化製業系の仕事が発生する。皮革の製造はいうに及ばず、接着剤としての膠や漢方薬である牛黄など、さまざまなものを工夫して製造した。戦国大名が、城下町築造の際に、自分の出身地から皮多を引き連れて来て優遇したのは、こうした特殊技能を重視してのことである。また、犯罪の取り締まりや処罰も、ケガレの処理の一形態で、古くから河原者もたずさわっていた。近代になっても、各地の部落に十手や御用提灯が保存されていたのは、そうしたことに由来する。また、ケガレの処理から発展したものに、権門の住居のトータルコーディネーターという役割もある。本来は、庭を清浄に保つのがケガレ処理の本義であろうが、徐々に土木技術や作庭技術・理論を発展させていった。また、警察業務との関連もあるが、庭者の陰の任務として、諜報活動も重要な仕事であった。こうしたケガレ処理関連の仕事とは別に、河原者たちは営々と農地の開墾・耕作に努力し、江戸時代に入ってからは、一般の百姓とかなり近い存在となっている。江戸時代の中期以降は、町人文化の発展に連動して、製造業、とりわけ雪踏の裏張りの原料である皮革を独占的に製造していた関係で、履物関連産業が一挙に開花・発展して、皮多村の経済が飛躍的発展をとげる。また、動物の屠殺や化製業に関する知識、および処刑などの刑吏役から来る人体に関する知識が発展して、医療技術にたけた穢多身分の人が輩出される。1777年(安永6)、武州榛沢郡新戒村の穢多が「医道巧者」なので、もっと活躍してもらおうとの世論が高まり、村や近郷の人々あげての身分引き上げ嘆願運動があったことは、あまりに有名である。また、1771年(明和8)の小塚原で杉田玄白らに人体解剖をしてみせたのが、刑場で働く穢多の虎松のお祖父さんであった(平成14年度版の小学校6年生用教科書 東京書籍)。また、京都府蓮台野村の益井元右衛門は眼病院を設立して、相当高度の外科手術をし、果ては部落の子どもたちにドイツ語まで教えていた(灘本昌久「明治期京都における被差別部落の義務教育について」『京都部落史研究所紀要』3,1983年)。他にも多くの地域で被差別部落から名医が多く出ているが、これらは斃牛馬処理や刑吏役と強い結びつきを想起させる。
 以上は、部落問題の理解をはかるという意味からの部落史の骨組みであるが、もうひとつの民衆史的アプローチから被差別部落の歴史を位置付ければどうなるだろうか。この場合は、部落問題の系譜的、系統的理解にこだわらなくても、時々の下層民、賤民、被差別民の社会に対する貢献として、様々なエピソードをとりあげればいいことである。「時々の生活の改善や、文化の発展には、さまざまな階層の人々が努力し、貢献しました」と。そして、室町文化における庭造りや、『解体新書』のための人体解剖など、比較的プラス・イメージの強い上澄みのところを積極的にとりあげていけばいいわけである。この場合、特にキヨメ→河原者→皮多→穢多→同和地区民の系譜的連続性にこだわる必要はなく、他の職人や賤民の貢献と並列してとりあげることができる。
 もちろん部落史がこの二種類にすっきりと色分けされるわけではないし、またどちらが好ましいと結論付けるつもりもない。ただ、冒頭述べた例でわかるように、小学生にあまり前者の系統的部落史を教えると、どんな誤解をしたり否定的イメージが刷り込まれるかわからないので、注意を喚起しておきたい。教える側の力量を相当問われるし、ある種の気迫もいる。中途半端には教えにくいのである。ただ、逆に部落差別の理解という点では、民衆史的アプローチでばらばらのエピソードを教えたぐらいでは、なかなか差別の問題が心の底からわかったという具合にはなりにくいという欠点もある。

現在を過去に投影する誤り


 次に、部落史学習の中で、陥りやすい誤りについて指摘しておきたい。それは、現在の価値観や経験を過去に投影してしまうということである。次のようなことがあった。20年以上前の話であるが、京都に遠方から修学旅行でやってくるために、先生が下見に来られた。同和教育に熱心な学校だったのか、同和問題学習を取り入れたいというのである。そして、こちらが京都の部落に関する説明をし、キヨメ役の解説をしたところ、「掃除などという人の嫌がる仕事を押し付けられていたのですね」という反応だった。京都の穢多村が担当していた、小法師役(御所のキヨメ)、二条城掃除役などは、決して押し付けられていた訳ではなく、どちらかというと本誌前号で述べたように、他の賤民集団から奪い取ってでもやりたい仕事であって、穢多村の沽券にもかかわる重要なことなのである。昔、学校では「罰掃除」というのがあったので、そうしたことから、「掃除=させられる」という連想が働くのかもしれないが、部落史の理解としてはありがたくない反応である。
 これとは逆に、今の職業ステイタスで高いものを過去の賤民の歴史から拾い出そうという傾向もある。先ほどの医療と穢多身分の関係などが典型的であるが、成績の良い子は医学部に行かせたがる現在の価値観を過去に投影して、「穢多身分の仕事は、人に嫌われることばかりではなく、医学にかかわる仕事にも従事しました」という教え方は、欺瞞的といえよう。前述のように、穢多身分と医学のかかわりは、「皮はぎ」「首切り役人」との密接なかかわりから出てきているものである。そんなことを小さい子どもに教える必要はないが、教える側は踏まえておく必要があるし、大学生くらいなら、理解可能なことである。蛇足かもしれないが、「首切り役人」が医療技術にたけているのは、日本に限ったことではない。阿部謹也氏は『刑吏の社会史』(中央公論社,1978年)の中で中世ドイツにおける刑吏と医学について次のように指摘している。「中世において人体解剖は禁じられていたし宗教的制約が大きかったが、拷問や処刑を実施した刑吏は自ら生体解剖を行ない医学の最先端に立っていたのである。…人々は大学を出た医者よりも刑吏の治療の方を信用していた。…大学を出た医者は人体解剖することを許されていなかったからである」(132頁)。そして、ドイツでも刑吏と「皮剥ぎ」の関連が見出されるそうなのだから、人間のやることはよく似ている訳である。更に、ドイツ語にいう「angstmann」という苗字が「死刑執行人」という意味であることと、穢多の総大将「弾左衛門」という呼び名は「断罪」に由来するものではないかという推測を重ね合わせると、ますますもって興味は尽きないのである。

芸能と賤民

 以上は、大枠の話であるが、以下で、教科書に散見される史実誤認や誤解と思われる点をいくつか列記しておきたい。
 本誌8号に、私はうかつにも「竜安寺石庭を築造した庭者」という表現を使った。また、同様の表現をしている教科書も多くあるが、実は、竜安寺の石庭を河原者(庭者)が作ったという証拠はない。竜安寺石庭の庭石に刻んである名前が河原者ではなかろうかという、希望的観測があるだけである。また、銀閣寺も河原者によって作られたという確たる証拠はなく、善阿弥という庭造りで名を成した河原者を重用した足利義政が、善阿弥の死後、銀閣寺(東山山荘)を造営し、庭木の選定や収集に河原者を使っていたので、ひょっとすると庭のコーディネイト全体を河原者にまかせたのではないかとの推測はなりたつが、史料上確たる証拠はない。善阿弥が生きていたら銀閣寺の庭造りを彼にまかせたことはまず間違いないだろうが、善阿弥の死後作られた銀閣寺の庭園の作者はわからない。河原者が作ったことが確実なのは、むしろ禁裏(御所の内裏)のほうだ。これは、1474年(文明6)あたりから、『言国卿記』などにたびたび出てくる(『京都の部落史』第3巻555頁など)。
 また、室町文化のところで、河原者の庭作りとならんで登場するのが、観阿弥・世阿弥の能であるが、これを賤民芸の一種と見る傾向がある。しかし、芸能史研究家の山路興造氏によれば、能は古代以来の猿楽の系譜を引くプロの芸能集団に属するものであり、室町時代以降声聞師など賤民集団が演じた千秋万歳にみられる祝福芸とは別系統の芸能である(『翁の座』平凡社,1990年 17頁〜、『京都の部落史』第1巻115頁〜)。能と庭造りを並列して、中世賤民の文化への貢献とひとくくりにするわけにはいかない。


政治利用論

 能のことは、まだ目をつぶるとして、江戸時代初頭の身分制の確立のところで、多くの教科書が、「穢多・非人身分=分裂支配の道具論」を採用していることにはびっくりさせられる。武士に向かう農民の不満を下に向けさせるという論理なのだが、江戸時代の幕藩体制の成立と身分制の確立を罪悪視するところからくる誤解だろう。もうすこし、戦国の動乱を終わらせ、二百数十年の平和と安定をもたらした江戸時代、そしてその基礎をなした身分制を積極的に評価するべきである。下剋上を終わらせた(下剋上自体は、農民の上にのしかかっていた重層的な所領関係を一掃し、領主―領民のシンプルな関係にした点でプラスであるが)ことは、多くの庶民にとっても福音であったはずで、であればこそ、江戸時代にあれだけの経済・教育・文化などさまざまな面での素晴らしい発展があったのである(梅棹忠夫『日本とは何か―近代日本文明の形成と発展』日本放送出版協会,1986年)。江戸時代の初めに、身分制度の確立のため締め付けられたのは、第一には諸大名であったし、武士も身分制度の枠をがっちりとはめられた。マルクス主義的な階級闘争史観を克服するためにという触れ込みで編纂されたはずの扶桑社版の教科書までが「百姓や町人に自分たちとは別の恵まれない者がいると思わせ、不満をそらせることになったといわれる」という具合に、ばりばりの「政治支配の道具論」を採用していることには苦笑させられる。
 こうした誤解と連動して、江戸の後半に起こってくる穢多身分に対する風俗統制にも大きな誤解がある。多くの教科書が「長年差別に苦しんできた穢多身分の人々が、江戸の終わりころについに立ち上がった」、あるいは、「財政難に陥った藩が、倹約を命じ、穢多身分の風俗を統制した」という趣旨のことを書いているが、むしろ、江戸時代の平和と安定の中で、商品経済が発展し、町人向けの履物製造業が繁盛するなどの追い風を受けた穢多身分が、百姓身分を凌駕するまでに成長してきたので、旧体制である幕府や藩は、古い殻に閉じ込めようとして、風俗統制を強化したのである。穢多身分の経済発展と人口の増加があれほどでなければ、風俗統制のために必死になる必要はなかった。

解放令=空手形論

 近代の部落史の部分で気になるところは、多くの教科書が、「解放令=空手形論」を採用していることである。「形式的には平等になったが、それまでの特権(斃牛馬処理、免税)が廃止され、仕事の保証など政府からの援助がなかったので、かえって貧困化した」という書き方である。しかし、江戸時代後半からの穢多村の経済発展は、明治時代に入ってからも続いている。京都の中心的部落である崇仁地区の記録である『柳原町史』によれば、「安政已来漸次隆盛の域に進み、慶応より明治六、七年迄は其極度とも云ふべき有様」であったという。解放令の出された明治四年は、まだピークの前の上り坂である。したがって、成立して間もない貧乏革命政権が、解放された穢多村に経済援助をする理由はまったくなく、またその必要もなかったのである。
 重要なことは、部落の貧困化は差別問題とはまったく別のところからやってきたことにある。それが、松方デフレ政策にほかならない。1877年(明治10)に勃発した西南戦争で、明治政府は最強のプロ戦闘集団である薩摩武士を相手に多額の軍費を使い、不換紙幣を乱発したために、悪性のインフレに見舞われた。その解決のために、松方正義大蔵卿が急激な紙幣整理というハードランディング方式をとったために、一挙にデフレになり、部落の製造業が壊滅的打撃を受けたのである。決して、部落が狙い撃ちされて被害をこうむったわけではなく、また差別されて貧乏になったわけでもない。解放令は、江戸時代の解放論が抜擢解放(行ないが良かったり、社会に功績のあった者から順に身分を引き上げる)とい漸進的方式であったのに対して、明治政府の出した解放令は即時無条件全面解放という画期的なものであり、明治政府が青臭いまでに革命的であったことを物語っている。部落の貧困化は、そうした解放令とはまったく時期も原因もことなることにより引き起こされたのである。

おわりに

 以上、最近の歴史教科書に見られる部落史の問題点を羅列的に指摘したにすぎない。今後、旧来の部落史の全面的見直しと批判をしなければ完結しないのであるが、とても私の能力の及ぶところではない。今後、少しでも勉強を続けて、その一部なりとも責を果たしたいと思っている。