2002/10/16 京都部落問題研究資料センター メールマガジン vol.013

□テレビ番組レビュー□
 NHKアーカイブス「張本勲―巨人軍への道のり―」(1976年作品)
    (NHK総合、10月6日午後11時55分〜1時05分放映番組の後半)

 張本勲といえば、1956年生まれの私にとっては、王貞治、長嶋茂雄とならぶ野球界の輝くヒーローである。私の幼かったころ、関西でいう「ベッタン」(よそではメンコともいう)の人気番付では、たぶん王・長嶋・張本の印刷されたものあたりが、ベスト3ではなかったかと思う。
 その張本(歴史上の人物なので、以下敬称略)が在日韓国人であることを知ったのは、高校時代に反差別運動に手を染めてからである。わかっている人からすると、張本は張(チャン)、金村が金(キム)などという朝鮮名をもじったものであることは、常識以前の知識なのだそうだが、当時の私にはそんな知識もなかった。
 張本勲。本名=張勲(チャン・フン)1940年広島生まれ。張本は4歳のとき、バックしてくる軽三輪自動車に当たられて、焚き火の中に右手を突っ込んでしまい、大やけどを負った。親指と人差し指をのぞいて、原形をとどめないほどの重症で、右利きだった張本が、野球で左うちなのは、やけどの後遺症が原因である。張本は、小学校4年生のとき、ひっついた中指と薬指と小指を切り離し、そこへ太ももの肉を移植するという手術を受ける。
 また、彼は1945年8月6日には、原爆にあい、母、姉とともに爆風で家の外に吹き飛ばされ、そのあとに家が倒壊してくるという九死に一生を得る体験をしている(広島には、多くの朝鮮人が出稼ぎに来ていたり、強制的・半強制的に労働力として動員されていたので、被爆者の1割ほどは朝鮮人である)。後に、彼は被爆者手帳を持ち、健康管理には人一倍気を使いつづけた。
 近所の同じ在日朝鮮人の友だちが、「朝鮮人は犬畜生と同じだ」という理由で、スリッパを口にくわえさせられて、四つんばいにさせられているのを見て、大喧嘩をした。それが、張本の民族意識に目覚めるはじめである。その後、中学校で野球の才能を見いだされ、波乱万丈の人生を経て、3000本安打という不滅の記録をはじめ、数々の偉業をなしとげて、名球会入りしていることは、周知のとおりである。
 ここで紹介する番組は、その張本が1976年に助っ人のため日本ハムから巨人へ移籍するときに、作成されたものである。張本の伝記としては、山本徹美『誇り―人間 張本勲』が詳しく興味深いが、映像には映像の価値がある。特に、私の関心を引いたことは、張本のお母さんの朴順分さん(在日一世)が、ほとんど日本語を解さず、テレビ局の人のインタビューには、張本の兄の世治さんの通訳を介して朝鮮語で答えていた場面だ。在日一世の女性と面識のある人には、あたりまえのことだし、私自身よく考えてみれば、やはりあたりまえのことなのだが、一世の「オモニ」(朝鮮語でお母さん)とは、こういう存在だったのかと、1956年生まれの日本人にはあらためて受けるショックだった。差別とは別の次元でさぞや暮らしにくかっただろうとか、孫たちとの意思疎通に不自由だろうとか、いろいろな思いがよぎる。
 また、張本選手自体へのインタビューも興味深かった。彼は、この番組に限らず、「張本さんは、民族の誇りをお持ちでしょう」という月並みな質問に、「はい」と答えることがない。私の知る限り、他のテレビやラジオの番組でも、「はい」と答えたことがない。いつも、「韓国人であるとか、日本人であるとかということではなく、ただ坦々と信念を持って行動すればいいんだと思います。」というような、誘導尋問した側にとっては期待はずれの答なのである。張本にすれば、たかが××人であるだけで誇りなんて、ちゃんちゃらおかしい。自分の誇りは、バットでもぎ取ったもんだといいたいのではなかろうか。民族の誇りだの、部落民の誇りだのというちゃち臭い神話がいまだに大手を振って闊歩している反差別業界に身を置いていると、こうした張本の坦坦たる答が頼もしく、すがすがしい。(灘本昌久)

《参考データ》
・山本徹美『誇り―人間 張本勲』講談社、1995年刊。張本の伝記。
・NHKアーカイブス
   <http://www.nhk.or.jp/archives/program/back0210.htm#prg1006>
・山本集(極道にして画家、張本の親友。浪商高校時代の思い出話など。)
   <http://www.interq.or.jp/japan/atsumu/>

 「人権関係テレビ番組情報」は、以下をご覧ください。
<http://www.asahi-net.or.jp/~qm8m-ndmt/tv/contents.htm>