京都部落問題研究資料センター通信『Memento』8号(2002年4月25日発刊)
知りたいあなたのための京都の部落史(超コンパクト版)その1
―膨大な史料と研究を前にして途方に暮れないために―
                                   灘本昌久
はじめに

長い間、部落差別・同和地区の起源は、次のように語られてきた。―江戸幕府によって「士農工商」の下に「穢多・非人」身分が作られ、武士階級は農民たちの反抗を下にそらせて民衆を支配した―と。ピラミッド型の図を描いて、それを5つにスライスした最底辺が賤民だというわけだ。しかし、この「近世政治起源説」といわれる説明は、もはやまったく過去のものとなり、被差別部落の起源をもっと古い時代に遡らせる「中世起源説」が研究者の間では主流になっている。

近世政治起源説が力をもった背景には、政治権力によって作られた差別・貧困は、政治の力によって=同和事業を強力にすすめることによって解決すべきだという、1950年代以来の部落解放運動の路線と整合的であったという事情があった(この事情については、師岡佑行『戦後部落解放論争史』第2巻を参照のこと)。そしてその箱物中心の同和事業が歴史的役割を終え、地域社会における人と人との関わりという社会関係に部落解放運動の課題が移っていこうとしている時にあたり、民衆の生活の中からどのように被差別集団が生み出されてきたかを注視する中世起源説が台頭してきたのは、偶然ではない。
しかし、従来の近世政治起源説から中世起源説に見方を変えるということは、単に成立年を何百年か遡らせるということだけにとどまらず、「差別迫害=暗黒の部落史」像からの大きなイメージチェンジを伴うことなので、旧来の部落史になじんでいる多くの人々をとまどわせ、路頭に迷わせている観なきにしもあらずである。特に当資料センターの前身である京都部落史研究所は、近世政治起源説からの転換を早くから追求してきており、多くの専門家が膨大な研究を蓄積してきている分、旧説とのギャップが大きく、なかなかよりつきがたいものがあった。
そこで、本稿ではその橋渡しをすべく、ごく簡略に京都の部落史を紹介したいと思う。もっとも、中世起源説とはいっても、いまだまとまった体系になっているわけではなく、諸説紛紛たる状況なので、以下のべることは末尾の文献などをつぎはぎしての不十分なスケッチに過ぎないことをお断りしておく。

古代賤民制の崩壊と中世「非人」の登場


古代律令制のもとでは、最下層の身分として「五色の賤」が定められていた。部落史研究がほとんどなされていない時代には、この古代の賤民が現代の部落差別の淵源ではないかという考えもないではなかったが、現在はそうした説はとられていない。古代国家の衰退とともに、良民と賤民の間の通婚が増え、また逃亡する奴婢もあとを絶たなくなって、907年の延喜格(律令の補助法)で「奴婢の停止」が定められたことにより、制度的に消滅した(『京都の部落史』[3-93],[10-533]に奴婢に関する多数の項目あり)。
それにかわって登場するのが、中世の「非人」である(江戸時代の非人とは別の概念)。古代の奴婢は計帳(税金台帳)に記載されていることからもわかるように、社会内の最底辺であるのにたいして、中世非人は、一般の人が円の中に入っているとすると、その円の外側にはじき出された人たちである。「非人」の語は古くは罪人をさしていたようであるが、中世には不具(身体障害者)や癩者(ハンセン病者)が村から追放されて非人に身を落とし、また役務に徴発され病気などで故郷に帰れなくなった人、領主の苛斂誅求で村を立ち去った人など、多くの人が社会外に流出した。想像をたくましくすれば、官庁のリストラで職を失った官人(盗賊には官人の子弟が多くみられたという。山本尚友『被差別部落史の研究』22頁)、あるいは度重なる戦で敗れ傷ついた侍なども、行き場を失えば、非人に身を落とすしかなかっただろう。要は、後の江戸時代のように平和で安定した時代とちがい、古代国家の解体期から戦国時代にかけては、一般社会の枠組みから離脱して非人に身を落とす人が、膨大な数にのぼったのである。

触穢思想と検非違使

非人が広範に登場したときに、人々をとらえて放さなかったものに、穢れを忌む「触穢思想」というものがあった(横井清『中世民衆の生活文化』)。これは、病気や天変地異など世の中の悪いことは、「穢れ」によって生じる。そして、その穢れの発生源は、人や動物の死、お産、女性の生理、および犯罪などであるというものである。重大な犯罪が穢れを生むというのは、現代人からは想像しがたい感覚であるが、人の死はもちろんのこと、お産や女性の生理から穢れが発生するというのは、大正生まれまでくらいの世代にはかなり濃厚にあった感覚である。こうした穢れ感が「穢れ多し」=穢多として部落を差別する感覚に通じているのはいうまでもない。近代になっても、部落民の払う硬貨をじかに受け取らずに、ひしゃくに受けて水がめに入れたり、部落民にだけ特別の茶碗(欠けていて判別できる)を使用したりしたのは、こうした穢れを忌む感情の残存である。
京にあっては、穢れの処理を統括していたのが、検非違使であった(検非違使は、律令体制の規定にない官職=令外の官である)。今の感覚からすると、警察業務と保健衛生業務を兼ね備えているような役職であるが、当時は犯罪の取り締りと公衆衛生が穢れの処理として一体化してイメージされていたようである。検非違使は、犯罪の取り締り、刑の執行、人間や動物の死体の取り片付けを、もっぱら非人を手足に使うことによって実施していった(丹生谷哲一『検非違使』)。

中世非人の集団形成

非人は、生活の術を失った人たちであるので、とりあえずは食を乞う=乞食をして生きるしかなかったのであるが、そこからの脱却をはかった。その方法のひとつが、穢れの処理=「キヨメ」を中心とした仕事の確立および、関連産業の開拓である。ふたつめが、自分たちをばらばらの個人から集団にまとめあげ、同時に公家・寺社・武家といった権門勢家といわれる支配グループの保護下に入ることによって、その権利を守り、伸張するというやりかたである。
中世非人の中で、最も古い集団は、宿(夙)といわれるグループである。宿は、京都から奈良にかけて古くから分布する集団で、後に「清水坂非人」と称される人々が、1010年ころより史料上ちらほら見られるようになる。彼らは、祇園社の境内や洛中を「清める」仕事を獲得する。この場合、清めるといっても、行き倒れの人を取り片付けることから、税金滞納者の取り締りまで、広範な職務を含んでいる。この坂非人を保護しているのは祇園社であるが、その背後には比叡山という強力なバックが控えている(『京都の部落史』[1-66])。坂非人は、寺社勢力の退潮とともに、武家をバックに持つ河原者にとってかわられるが、祇園祭の際にその先導をつとめる姿は、1550年ごろの風景を描いたとされる『洛中洛外図屏風』(上杉本)にもみえている。
この宿に遅れて姿を現すのが、「清め」あるいは「河原者」といわれる集団である。1275年の『名語記』に現れるのが早い例であるが、京都では太閤検地の時に関東で用いられていた「かわた」という呼称が使われ(山本尚友『被差別部落史の研究』113頁)、江戸時代には「穢多」と呼ばれるようになる。
「清め」は、早い時期には検非違使に使われて、行き倒れ人の処理や刑の執行などにあたっていたが、後には斃牛馬の処理を手がけるようになった。その場合、死んだ牛馬を単に河原にでも埋めればいいのであるが、単に廃棄するのではなく、それを原料にさまざまな品物を製造するようになる。代表的なものが、皮革である。これは甲冑を製造するには不可欠のものであり、軍事物資のうちでも重要なものである。また、骨から作る膠は当時としてはもっとも高性能の接着剤で、これも武具の製造には不可欠である。また、牛の胆のうにたまる胆石=「牛黄」は、非常に高価な漢方薬であった。戦国大名が、自分のもとの出身地から移動して城下町を作る場合、しばしば出身地のかわたを呼んで特権を与え、皮革の納入を義務付けたことはよくしられている。この時の、武士とかわたの関係は、防衛庁とミサイル部品納入業者のようなものであって、相当の信頼関係がありこそすれ、悪意や敵意があるわけではない。発生当初は、時々の必要に応じて動員される自由な労働力であった人々も、ここにきて特殊技能集団という点で厚遇されるようになったのである。この他、清掃から派生して、公家・寺社に出入りの「清め」は「庭者」と称され、庭造を営む者も多くでた。将軍足利義政に厚遇された善阿弥や、竜安寺の石庭を築造した庭者がよく知られている(『京都の部落史』[1-161])。
以前、「中世に皮革製造や皮革細工、庭造りなど様々な仕事についていたひとが、近世になって穢多身分に落とされた」と説明をするむきもあったが、それは近世政治起源説的偏見であり、古代末から中世にかけて「清め」とよばれた人たちが様々な仕事をつくりだして、それらが近世に継続したに過ぎないのである。
つづく

参考・引用文献
『京都の部落史』全10巻,京都部落史研究所刊,1984〜1995年 本稿で引用の場合、[3-93]のように巻数と頁を示した。
京都部落史研究所編『中世の民衆と芸能』,阿吽社刊,1986年
丹生谷哲一著『検非違使―中世のけがれと権力』,平凡社刊,1986年
師岡佑行著『戦後部落解放論争史』第2巻,柘植書房刊,1981年

山本尚友著『被差別部落史の研究―移行期を中心にして』,岩田書店刊,1999年
横井清著『中世民衆の生活文化』,東京大学出版会刊,1975年