『時の法令』12 反権力人権主義の功罪 灘本昌久

 現代の人権・差別問題を特徴づけるもののひとつに、「反権力人権主義」がある(もっとも、これは私の造語だが)。差別というものは、国家権力などの強い権力から派生してくるものなので、反差別とはすべからく反権力でなければならないというような発想である。
 確かに、ヨーロッパにおける人権の概念は、王権の市民階級にたいする抑圧に対抗して出てきている。また、現在にあっても人権に対する抑圧は、公権力の発動によるところが多々あるので、人権が反権力的性格を帯びることには、一定の根拠が認ある。
 また、日本が後発資本主義国家であり、帝国主義の時代に鎖国を解いて急激な近代化をなしとげなければならなかった経緯から、下からの自生的な社会の発展より、上からの近代化が先行し、そのことが、表面的には抑圧的な権力発動につながった点もある。(もっとも、日本の近代を通じて、共産党員など政治的反対派の大量処刑といったものがまったくなかったということなどをみると、日本の政治は、相当程度民主的であったことは明らかであるが)。
 さらに、戦前の日本が、広範な地主制度の存在などにみられるように、極めて階級性の強い社会であったことも、日本の社会の仕組みが前近代的な差別を温存する土壌になっていた。
 そんなこともあって、同和問題の入門書の多くは、部落解放の道のりが国家権力との綿々たる対抗の道であったかのような記述になっている場合が多いが、実態はそうではない。
 差別問題の種類にもよるのだが、社会の少数派が多数派によってなされる差別に対抗するためには、数を頼んではなかなか目的を達成できない面がある。民主主義の制度のうち多数決の仕組みは、多数派によってなされる少数派に対する差別行為をチェックすることがむずかしいのだ。したがって、少数派のとりうる戦略のひとつとして、多数派と少数派の上にある超越的な権力を後ろ盾にして対抗するということが考えられる。その権力の最たるものが、天皇であった。
 一九二二年に創立された部落解放運動の先駆けである全国水平社は、旧身分の全廃を宣言した太政官布告(解放令、明治四年)を「明治天皇の聖旨」として全面に押しだし、差別言動を糾弾していった。西欧でいう「神の前の平等」ではないが、天皇の赤子としての平等である。現代にあっては、人間が平等であるという価値観は、過剰気味といっていいほどに普及しているので、今さら説明する必要性は薄いのだが、当時は、天皇の下での平等という主張は、非常に強力で説得力のあるものだったのである。これ以外にも、同和地区の家には、明治天皇の写真が飾られていることが多かったことなど、地区住民が自分たちを庇護してくれる存在として、天皇に親近感をいだいていた例は無数にある。36
 そこに、反天皇をもちこんだのが、国際共産主義運動の総本山たるコミンテルンの三二テーゼであった。これは、満州事変の勃発におどろいたコミンテルンが、ロシアの防衛上、日本での革命運動を強化しようと急遽作成したものであるが、日本の天皇制をロシアの皇帝とだぶらせるなど、日本の権力の実態とはまったくかけ離れたものであり、社会運動に混乱をもたらした。そして、部落解放運動にもはじめて、しかも唐突に反天皇主義が持ち込まれることになった。
 このテーゼ自体の影響は、当時は小さいものであったが、その反天皇主義が戦後の運動に受け継がれ、反権力的スローガンの象徴になってしまっている。それが、運動なり差別の現実から得られた結論ならばいいのだが、そうではなくて、悪くいえばひからびた教条として、ひいきめにいってもファッションとして継承されてしまっているところに問題がある。
 本連載で述べてきたように、今後の同和問題や人権問題は、旧来的な物質的欠乏による階級問題的性格を薄め、個別的で心理的な様相を深めていくだろう。その時に、反権力と反差別運動が無条件に調和するものだと考えていると、人権問題の解決や相互理解のつまづきの石になる危険性が強い。。