時の法令11 エスニック・ジレンマ 灘本昌久

 前回は、「複雑さに耐える」ということの重要性を指摘した。確かに、これからの社会は、ますます複雑化していき、そのことへの免疫を持つことは重要なことであるが、私自身社会が複雑化すること自体は、あまりよいことだとは思っておらず、最近流行の多文化主義には、極めて懐疑的である。
 ひとりの人間は、ひとつの系統だった価値観で自分の考えをまとめようとする。今まで自分が抱いていた思想・価値観・美意識の体系と相容れない体験・情報・刺激が加わると、それらと自分の認識の体系が整合性をたもつように努力する。たとえば、愛煙家だった人が「タバコは体に悪い」という情報に触れたときに、その情報を受け入れて禁煙をはじめるか、あるいは「悪いといっても、たいしたことないらしい」とか「嫌煙権派が針小棒大にいっているにすぎない」など、その情報を無視・軽視できる程度の理由を見つけ出して、自分の認識の全体性をたもつ。しかし、そうした努力にも限界があるのであって、自分のもっている価値体系を揺るがす環境の大きな変化に人間が耐えられるかは疑問である。
 よくアメリカが多文化主義的であるのにくらべ、日本が島国的・単一文化的・閉鎖的であると非難するむきもあるが、それは、アメリカ的多文化主義がうまくいっていればいえるのであって、実際にはそれほどうまくいっているわけではない。
 アメリカの人種的民族的多様性をつらぬくうえで、常に問題とされ、いまだに解決不能なものに「エスニック・ジレンマ」という問題がある。一例として、英語を中心とするアメリカ文化に、そうでない、たとえばメキシコ系移民のようにスペイン語を使う人々が混じったときに、その子どもたちは、何語で生活し教育を受けるべきかという問題があげられる。普段、家庭で使っているスペイン語をそのまま使って、学校でもスペイン語で教育するというのが、とりあえず子どもにも家庭にも負担のない方法なのだが、スペイン語しか使えない人がアメリカ社会の中で高等教育を受け、待遇の良い職業につくのは、非常に困難である。そこで、英語で教育することにすると、母国語でない第二言語で教育されるわけだから、学校での成績がふるわなかったり、自分の本来持っている文化への蔑視や軽視につながるなどの問題を引き起こしたりする。このエスニック・ジレンマは、多文化である限り、ひきずっていかなくてはならない困難であろう。
 また、文化的多様性にたいする寛容とか忍耐は、ある程度生活が安定している地域で、限定的にしかなりたたないのではないかというのが、私の悲観的ではあるが率直な感想である。多文化・多様性への許容性を持つことは、階層的に高い人々には比較的容易であっても、苦しい境遇にある人々にとっては、過大な要求になる。慢性的失業状態にあるスラム地区の黒人にとって、アジアから押し寄せる新たな移民に対して、ただ寛容であれというのは酷な話だろう。日本の自動車・鉄鋼業の発展によって仕事を失ったアメリカ北部の重化学工業地帯の黒人労働者が、日本人にたいして反感や敵意を持つことは、ありがたくはないが、人情として理解できないことではない。多様性が成り立っているように見えても、不況や産業構造の変化が深刻になり、経済的利害の対立が人種的・民族的線引きと一致したときには、紛争が人種的・民族的外観をとって、より強く現れてしまうであろうことは、最近のヨーロッパの移民問題などからも容易に察しがつく。
 異文化を受け入れたり多様性を認めるにしても、その量・質・スピードについて、よく考えて実行にうつさないと、大きな反動を招いて、収拾のつかないことになる。なるべく摩擦が少なくなるように、量的制限を加え、また質的にもあまり極端に違った文化が直に接触して軋轢を起こさないように配慮し、取り込むスピードも控え目にというのが、妥当だろうと思う。毎年十万人が千年間入ってくるのと、毎年百万人が百年間入ってくることは、同じ一億人の流入でもまったく別次元の現象である。
 また、コミュニケーションという相互理解の大前提となる条件を確保し、平等の構成員として認め合うためには、言語的同質性がどうしても必要で、日本にやってくる外国人が定住する際に、言語的同化がスムーズになされるかは、開かれた社会の成功の成否を分けることになるだろう。