そのみちのコラム 9 不幸とつきあう 灘本昌久
財務省印刷局編集・発行『時の法令』1644号、2001年12月30日

 山崎正和氏の著した『柔らかい個人主義の誕生』(一九八四年、中央公論社刊)を、出版当時すぐに読み、たいへん啓発された記憶がある。同書は、欲望と禁欲、消費と生産に関する鋭い洞察に満ちている。一九六〇年代の高度経済成長を経て、日本は一挙に産業社会(工業化社会)の完成の域に達した。その産業社会が爛熟し、次の時代にむかって揺れ動いた七十年代を、直近の八十年代初頭からみた観察記録である。山崎氏の考察は、二十年近く前に書かれたにもかかわらず、今もまったく古くなっておらず、むしろその正しさが日々確かめられている感じがする。
 ところで、同書の中で論じられていることは多岐にわたるが、私がとくにその慧眼にうなったのは、不幸に関する考察である。
 山崎氏によれば、一九七〇年代以降の現代は「普遍的な不幸」が少なくなり、「不幸の原因は目に見えて偶然的で個別的なものが多くなった」という。たとえば、同じ病気といっても、戦前の日本で代表的な疾患であった結核は、過酷で劣悪な労働環境が原因となって明治以降に蔓延した病気で、紡績工場の女工たちなどがかかる階級性の強い病気であった。一方、現在、代表的な病気である癌を考えると、これは賃金の高低や社会的ステータスにはあまり関係のない病気で、遺伝や食の好みなど偶然的、個人的要因が強い。結核が、国民健康保険制度の完備や集団検診、国民的レベルでの栄養状態の改善など、集団的対処が可能であったのに対して、癌は、空から降ってわいてくるような突然の不幸である、というわけだ。
 病気の階級性。いわれてみれば、そのとおりで、目から鱗が落ちるとはこのことだが、さらに私なりに考えをめぐらせてみれば、差別問題・人権問題でもほぼ同時期に同様の変化が起こっていた。日本社会の古典的な社会問題・差別問題であった同和問題は、「特定の地域・集団が社会的排除・賎視を受けていることは、近代合理主義・能力主義のものさしに照らして問題である」ということで、それを心理的面にまで掘り下げて解決するのは多少の困難があるにしても、部落差別の不当性や解決の方向については、それほど意見が分裂するわけではない。物量作戦による同和事業や啓蒙活動で、かなり解決が図られてきており、大きな成功をおさめた。それは、まるで経済成長が結核を一掃したがごとくである。
 しかし、八〇年代にはいって噴出した様々な人権・差別問題は、こうした「結核的」社会問題とは様相を異にしている。とりわけ、生命倫理や性・家族をめぐる人権・権利の問題は、個々人の権利の増大が、社会全体の福利の増進に直結するといった「人権予定調和説」というべき従来の人権観に決定的な変更を迫る。様々な人の幸福への欲望が、極めて個別的事情に依存するようになり、またその解決方法もしばしばトレード・オフ関係(あちらが立てば、こちらが立たず)が成立する。
 たとえば、やや極端な例であるが、同性愛の問題を考えてみよう(以下の例は、NHK放映「地球法廷・生命操作」による)。アメリカは、日本にくらべて同性愛者の権利要求闘争が華々しい。同性愛者は同性同士の結婚を合法化するよう運動しているが、さらにすすんで、自分の細胞でクローン人間をつくり、実子として育てたいと考える人も少なからずいるようである。しかし、クローンがどういう生命体であるかは不明の点が多く、この同性愛者の「権利」の行使は生まれてくる「子ども」の犠牲の上に成り立つ可能性が高い。
 また、妊娠中絶についてカトリックは厳格に禁止している一方で、アメリカでは極端な妊娠中絶合法化論がある。たとえば、胎児の脳細胞を父親の難病治療に使うために、あらかじめ中絶することを予定して、胎児の脳細胞欲しさに意図的に妊娠することなどが、現に起きている。
 こうした「人権」問題は、幸福・欲望への飽くなき追求を繰り返していては解決不可能な問題であり、結局は不幸とのつきあいかたの問題に帰結するのではなかろうか。それは、成人病(生活習慣病)の根絶が困難で、いずれはつきあわざるをえないのと同様である。(京都産業大学一般教育研究センター助教授=差別論)