そのみちのコラム 7 無菌社会の陥穽 灘本昌久
財務省印刷局編集・発行『時の法令』1652号、2001年10月30日

 病気を防ごうとした場合、人々は二つの行動をとるだろう。ひとつは、衛生状態を高めることである。飲料用の水を消毒する、伝染病の元になる害虫を駆除する、外から家に帰ったら手を洗う,等々。そして、もう一つはまったく逆のベクトルともいうべき行動で、身体に抵抗力をつけることである。スポーツで体に負荷をかけて、寒さや暑さへの耐性を高める、予防接種のように、わざと病原菌を体に入れて免疫力を高める、等々。これのバランスがくずれて、衛生状態だけを高めようとすると、清潔過剰になって、新たな問題を生みだす。『笑うカイチュウ』などを著して、日本人の過剰な潔癖症に警鐘を鳴らしてきた藤田紘一郎氏は、近著『日本人の清潔がアブナイ』で、興味深い指摘を行なっている。氏によれば、最近の若い世代に人たちが、体を洗いすぎる「アライグマ症候群」にかかって、それがかえって健康を害しているというのだ。たとえば、おしり洗浄器(ウォッシュレットなど)を使いすぎて、本来体の表面に生息して外敵から体を守ってくれている細菌を絶滅させ、逆におしりに有害な細菌を繁殖させてしまっているような事例が急増しているそうだ。つまり、洗いすぎて汚くなっている、という皮肉な結果に陥ってしまっている。
 これは、健康をめぐる問題だが、同じような現象が差別問題・人権問題をめぐっても生じているように思う。以前に述べた「欠乏の時代」の反差別運動は、衣食住の具体的な解決と表裏一体の関係を保ちながら進んでいたのだが、今は生活上の問題が大きく解決してきた結果、不快の除去(=衛生状態の向上)に偏りつつあるように見える。そして、そのことは不快表現撲滅運動にも連なっていく。昔のようにひどい差別表現が大手を振ってまかりとおっていたことが是正されること自体を全否定するつもりは毛頭ないのだが、「被差別者を傷つけてはいけない」という一言で、差別表現だとする指摘する声がフリーパスで通っていくような状況は考えものである。
 例えば、部落問題に多少知識のある人は、「穢多」という言葉を、文脈の如何を問わず極力排除しようとする傾向がある。「穢れ多し」という文字を嫌って、「エタ」と片仮名書きに改竄するのはまだ生ぬるいほうで(むろんこれ自身も、注釈でことわるならまだしも、黙って漢字を書き換えるのは歴史の偽造であるが)、たとえば、さまざまな歴史史料集の作成過程で、「穢多」の二文字を見たら、掲載対象からはずしていくようなことが日常的に行なわれているのが、知られざる現状なのである。
 さらにこうした傾向が高じると、部落問題を連想させるようなものはすべて、タブー視されるようになる。たとえば、村の中の小さな共同体をさして「部落」という言葉を使うことがあるが、これは被差別部落の意味とは関係のない用語で、むしろ本来的な用法である。ところが、ここ何十年かかかって、この言葉は、一種の差別用語として葬られつつあり、マスコミの中では「集落」と言い換えられることが多い。一度、私の大学時代の恩師が書いた書評が新聞に掲載されたときに、「部落委員会活動」という歴史用語が「集落委員会活動」と機械的に書き換えられていて、びっくりした記憶がある。
 また、部落問題以外でも、たとえば、図書館の出納カウンターでは、「めくら」などの身体障害者に不快な言葉を使っているという理由で、その絵本を貸し出さないように忠告する善意の人が相当数にのぼるそうである。
 このように、文脈から離れて、読む人の快・不快というものさしで、攻撃する単語のターゲットを次々に増やしていこうとする現状は、はじめに述べたような、過剰な洗浄により体を傷めている現状とどこか似てはいまいか。
 不快な言葉に出会った人にたいし、ひたすら我慢することだけを要求するわけではないが、積極的に差別を奨励しているような文脈でない限り、言葉の不快にはつきあっていけるような社会のほうが、健康な気がするのである。差別問題をめぐる昨今の風潮は、差別問題をどこまでも殲滅せずには置かないような空気が感じられるけれども、人間社会にとって、差別の不快は洗浄し尽くすべきものではなく、向き合い、付き合い、飼い慣らすようなスタンスが必要だと思う。