そのみちのコラム 6 欠乏の時代から欲望の時代へ 灘本昌久
財務省印刷局編集・発行『時の法令』1650号、2001年9月30日

 敗戦から一九五〇年代にかけての日本が「欠乏の社会」だとすれば、一九六〇年代の高度経済成長以後は「欲望の社会」である。これは、社会学者日高六郎氏が一九八二年に行った指摘で、なかなか本質を突いた言葉だと感心した記憶がある。(もっとも、日高氏の場合は、大衆は「独占資本」によってつくられた欲望で操られる存在とみなす点で、古い階級闘争理論をひきずっていたが)。そして現代社会を論じる多くの人たちが、こうした高度消費社会への転換点を一九八〇年代初頭においている。例えば、吉本隆明氏は、八十年代初頭のペットボトル入りの水の出現に、単なる必要性ではなく付加価値を買うという時代を見いだしている。また、文芸評論家の加藤典洋氏もやはり、一九八〇年代初頭に時代の大きな変わり目を見いだしている。多くの論者は、それぞれにその節目の意味合いを論じているが、私も差別問題研究の立場から、一九八〇年代節目論に一票を投じようと思う。
 部落問題の歴史の中でも、一九八〇年代は大きな転換点であった。一九六九年の同和対策事業特別措置法の成立で本格化した同和事業(環境改善や住宅建設などを実施)が一九七〇年代を通じて実施され、長年の懸案であった地域の貧困や低い生活実態が大きく改善した。私が直接聞いた体験談でも、一九五〇年代には、昼の弁当を持っていけない同和地区の子どもが、学校の中庭で水を飲んで飢えをしのぐようなことも、決してめずらしいことではなかったのだが、一九七〇年代になると、生活の改善にともなって、同和地区の子どもたちの栄養状態は画期的に改善され、むしろ肥満率が平均をはるかに超してしまうという、逆転現象さえ生じた(例えば、小学生の肥満に関する一九八五年調査では京都市全体に比べ、同和地区児童の肥満率は三倍にものぼっている)。また、地域の不良家屋も一掃されて公営住宅の建設が進み、一九八〇年代初頭には一人当たりの居住面積で比べると、同和地区が平均にほぼ肩をならべ、あるいは地域によっては平均を上回るようになった。こうして、部落の生活改善が進むにつれて、同和事業費は一九八四年度の年間八〇〇〇億円(国と地方自治体をあわせ)をピークに減少していく。こうして、一九七〇年代までの部落解放運動は、生活の改善という闘争目標を実現させたことにより、「欠乏の時代」時代から「欲望の時代」へ突き進むのである。
 また、部落問題だけではなく、在日朝鮮人問題も一九八〇年代に入って、大きく変わっていく。一九六〇年代後半から一九七〇年代にかけて、在日朝鮮人の権利として要求されてきたもの(例えば、国民健康保険への加入や公営住宅への入居など)が一九八〇年代初頭の一連の改革で、ほぼ実現したからである。ここでも、「欠乏の時代」の運動が終焉していったことが見て取れる。
 こういった差別反対運動は、「欠乏の時代」の克服と表裏一体に進められたといえる。同和地区や在日朝鮮人の生活に、貧困というものがなければ、まったく違った運動になっていただろう。あるいは、運動として成立していたかどうかも疑わしい。
 では、高度経済成長を原動力とした貧困問題の解決がなされたあとの、「欲望の時代」の反差別運動というのは、どうなるのだろうか。
 ひとことでそれをいいあてるのはむつかしいが、私が思うには、「快不快」「自己承認」の二つがキーワードになるのではなかろうか。つまり、差別が生活上の具体的な不都合=欠乏を生みだすから差別をなくそう、というのではなくなり、差別を世の中からなくすこと自体を自己目的化するような運動。例えば、生活上の困難が大きい時代だと、あまりトイレの中の差別落書きなどはあっても問題にならなかったのだが、最近は、そうした落書きをなくすことに意味を見いだして、熱心に取り組む人が増えてきている。また、在日朝鮮人の指紋押捺問題なども、以前のような生活上の困難とは別次元の、「自己承認」をめぐる闘いのようである。