そのみちのコラム 1 人権・差別問題を考える道筋 サヨウ心得よからの転換 灘本昌久
財務省印刷局編集・発行『時の法令』 1640号、2001年4月30日

 私は、大学で人権関連科目(同和問題、人種問題など)をいくつか教えているが、いつも悩まされる問題がある。それは、ある種の学生が、受講登録はするが講義にでてこず、学期末のレポートは提出してくるのだが、非常にワンパターンな文章を書いてくるということだ。どんな内容かというと、「さまざまな社会の問題の中から、自分が関心をもっているテーマを選びなさい」といっているにもかかわらず、部落問題(同和問題)を選択してきて、「人間は平等で、差別はいけないことです」と、差別を道徳的に断罪する文章がひとしきり続き、「自分は、差別をしない・させない・許さないりっぱな人間になります!」というような、決意表明を披瀝する。そして、出席カードの提出状況からして、あまり授業に出てきていないにもかかわらず、「一年間講義を受けて、たいへんためになりました」、というような謝辞で締めくくるのだ。こうしたレポートが、ひとつふたつならいいのだが、相当数にのぼる。そして、徐々にわかったことだが、こうした学生は、人権教育に熱心な小・中・高校を卒業しており、学校の授業で、人権啓発映画などをみせられて、差別は犯罪行為であり決して許してはいけないと、繰り返し教え込まれていることが多い。
 同和地区の多い関西では、運動団体の強力な働きかけで、学校の授業として同和問題を教えているところが多く、教育委員会もそれを奨励している。それは、それとして悪いことではないが、中身が問題である。上記のような、二面的、二枚舌的生徒を作ることは、真の人権尊重からはかけ離れたことではなかろうか。なぜなら差別問題は、差別する人が多数派で、差別される人は少数派という構図をとることが多い。当然、そうした状況で、差別はいけないと主張することは、多数の意見に逆らい、少数に組みすることになる。教育現場の先生たちも、そうした精神的強さを育む教育をしているつもりではあるはずなのだが、結果として、本音と建前を使い分ける「賢い」生徒を量産してしまっているのは、悲劇というべきか喜劇というべきか、いずれにしろ、目的からはずれた結果であることだけは確かである。
 こうした問題を生み出す人権教育の根底には、「啓蒙主義」もしくは「正解注入主義」が根深く存在する。差別の原因は、無知や偏見に基づくものであるから、正確な知識を与え、誤った知識を正せばなくなるという考え方である。確かに、そういう面もある。たとえば、エイズはくしゃみでも感染するのではないかという誤った知識が災いして、エイズ患者への不当な排除が行なわれる場合などである。しかし、それは問題の一部であり、啓蒙・啓発ですべて片がつくわけではない。では、どう考えればいいかということをひとことでいうのはむずかしいが、例えていうなら、人権教育というものは、強迫神経症の治療と似たところがある。ある心理学者にこんな事例を聞いた。ひとりの主婦が、水の入ったバケツにスリッパを突っ込む行為をやめられなくなってしまった。治療を頼まれた精神分析医が、さまざまなカウンセリングを続けた。その結果、次のようなことがわかったというのだ。この主婦には同居している姑との確執があり、生活上さまざまな不満をかかえていたのだが、夫の母親に反抗的な態度をとることができず、自分の感情を無理やり理性で押さえ込んでいたのだ。それが原因で、強迫神経症を発症した。スリッパは、じつは姑の身代わりだったのである。主婦は、治療の過程でこのことを指摘され、自分の異常行動の原因を深く了解できたとたん、憑き物がとれるようになおってしまったというのである。つまり、スリッパを水に突っ込んでしまうことをどれだけ否定しても、とめられないが、原因がわかればする気がなくなってしまう。差別問題もそうで、「人間は平等で差別は悪です!」と百万回唱えても、あまり効果はない。しかし、差別が人間にとってどういう存在なのかをよく理解し、なぜ人間は差別をせずにはおられないかを深く考えることができれば、人権や差別問題解決への大きなステップとなる。