■特集 差別を考える ■We夏期フォーラム分科会記録                           
 
   ちびくろサンボよ 
   すこやかによみがえれ      

   灘本 昌久さん

昨年の六月、本屋に平積みになっていた灘本昌久さんの『ちびくろサンボよ すこやかによみがえれ』(径書房)を読んでシャープな問題提起と中味の濃密さに非常なインパクトを受けた。今夏の京都のWeフォーラムに是非と思い、分科会の講師をお願いすることができた。本稿はその時の記録である。

 はじめに

「京都部落史研究所」で十二年間、主に部落問題の歴史研究をしてきました。どうしてこのような研究機関ができたかというと、京都府では同和地区が一四九あるのですが、京都市が主体となって何十巻もある本が編纂されたとき、その中の通史の部分に部落問題がところどころ出てきていたのを、この話はちょっとややこしいからやめておこうということになって、部落問題が全部消えてしまいました。部落解放同盟がそれに対して、それはおかしい、部落問題というものをそれなりに的確な形で書いてあったのに話がややこしいからといって全部削ってしまうというのはおかしい、と話をしていったのです。
よその地方の県史を作るときも、似たような話がありました。そういう対応になるのが一般的です。部落問題の歴史について書くというのはデリケートな部分があって、ただ書けばみんなが喜ぶかというと、書かれた同和地区の人たちから、そんなものは書いてほしくないと言われる場合もある。実際もめたりすることもあるので、運動団体からつつかれても、地元から突き上げられてもたまらないから、なるべく避けておこうということになる。それで、専門の機関を作ろうということになってできた研究所で部落問題の研究をしてきて、僕自身、運動との関わりもあります。
どうしてそれが『ちびくろサンボ』絶版問題に繋がるかということなのですが、もともとこの本はイギリスで出版されて、アメリカでは2種類出ているのですが、今から十年前に人種差別という批判を浴びて日本の店頭から一斉に消えました。
僕は『ちびくろサンボ』を一番愛読していた世代ではないかと思います。今でこそ絵本を子どもに与えるということは非常に大事な仕事だということが共通認識になっていますが、当時は子どもの絵本など、ステイタスのある出版社が本気で手がけるものではないと思われていた。それを当時の岩波書店の編集者の石井桃子さんたちが、絵本は価値がある仕事だということで頑張って、いいものを出そうということで出た第一号が『ちびくろサンボ』で、これは岩波という大きな出版社が絵本というものを手掛けて社会的に認知させたという、一つの大きな転換点になった出来事でした。楽しい絵本が今ほど出回っていない時代にあって、物語の楽しさを教えてくれると共に未知の世界への好奇心をかき立ててくれる魔法の入り口みたいな作品だったのです。 
今から十年前には十一の出版社から十三種類出ていて、教科書にも載っていたらしく、岩波書店でもこの本は一三〇万部ぐらい出て、三〇何年間も売り続けられてきた。それが人種差別だという批判が起きていきなり消えてしまったのです。
そのときにこれはおかしいんじゃないか、自分が『ちびくろサンボ』を読んだときの記憶をいくら辿ってみても、この本を読んだことで黒人に対して何か悪いイメージや偏見を抱いたという記憶がない。自分の子どもの頃には憧れの的だったホットケーキを焼いてたくさん食べるというシーンが羨ましかったのと、トラが溶けてバターになるというのが日本の絵本ではなかなかない奇想天外な展開であるというのが印象的だった。それが差別というレッテルを貼られると、たちまちのうちに無くなってしまう。これは納得がいかないなあという気がしていたわけです。
これが『ちびくろサンボ』だけの問題だったらいいんですけれど、この手のことはけっこう多い。ほんとにひどい差別のものもあるけれども、これが差別かなと首をかしげている間に本がなくなってしまうことがある。本屋では「うちの出版社から出したかくかくしかじかの本はちょっと問題があったので回収します」と紙が回ってくることが年に何回もある。昔はのらくらとやっていた回収が最近は早くて、『ちびくろサンボ』絶版のときも、急いで本屋に走ったら、もう一種類しかなかった。
このことは他のことにもつながる問題で、これはひとつ、調べてみないといけないと感じて、知り合いの市民運動家のアメリカ人に、「日本で『ちびくろサンボ』絶版を推進している人たちが言うには、人種差別だということで世界中で絶版になっていて、残るのは日本だけだという話なんだけれども、アメリカでもそうなんですか?」と聞いたのです。その人は非常に怪訝な顔をして、「いやそんなことは聞いたことがない。自分は『ちびくろサンボ』が好きで、アメリカでも多分人気があって読まれているに違いない」と言うんですね。日本では絶版にしろと言う人たちが「けしからん。これを売っているような野蛮国は日本だけだ」と言って騒ぎ立てているのにアメリカでは出版されているという。注文してみたら確かに本が届く。
これはますますおかしいと、もう少し調べてみると、今も売られているばかりではなく、一時期(一九三五年から少なくとも四〇年半ばまでは)、子どもたちに人種問題を正しく教えて黒人に対するプラスイメージを持つような本をまとめたアメリカの黒人向けの推薦図書のリスト(これには黒人運動団体の人や黒人もたくさん加わっていたのですが)にも載っていたのです。
ある絵本が出てきたときに、最初は推薦されていて途中でひっくり返って批判されるということは少ない。本当に最初から著者の意図からして人種差別的である場合はもっと初期の段階で批判が出てくるはずなんです。そうではなくて作品そのものに問題はないんだけれども、周りの社会環境によって問題が起こって来るときは、だいぶ反応が遅れて出るわけです。 
たとえば部落問題を扱った島崎藤村の『破戒』という小説があります。これは日本における自然主義文学の代表作で、今読んでみてもなかなかよく書けていると僕は思います。あれが出たのが一九〇六年、日露戦争の直後です。この小説が出たときに、ある部落のお年寄りが島崎藤村を訪ねて、「あんたは部落差別の厳しさをよく分かって、部落民の心情を理解してくれて、こんないい小説を書いてくれてありがたい」と礼を言い、「世間ではこんなひどい差別があるのにあまり問題にもなっていない。小説にここまで書いてくれているのは、もしかしたらあんたも部落出身ではないか」と言ったぐらいの小説だった。
けれど、この小説が一九〇六年に出たあと、一九二四、五年頃、この小説は差別小説だといって糾弾されて絶版になっています。戦後、一九五三年になってやっと元通りに出版されるようになったわけです。僕に言わせれば島崎藤村の『破戒』が差別小説だというのはまったくの言いがかり、的外れの批判だと思うんだけれども、時として周りの社会の風潮によって誤って批判されることもある。『ちびくろサンボ』もかなりそれに近いものだと僕は思っています。
 
どうして人種差別なのか
 
『ちびくろサンボ』がどうして人種差別にあたるかという話ですが、ひとつはこれは日本の運動を進めている人が言っていることなのですが、アメリカでは「サンボ」というのは黒人に対する差別語である。黒人の人たちは「サンボ」と聞くと非常に嫌な感じがするんだということです。それと岩波版の絵(原作のとは違う)が顔が真っ黒で唇を赤く描いている、典型的な黒人に対するよくない描き方だという見方で批判されています。
そういう批判は、昔だったらパーンとはねつけられたかもしれないけれど、最近は差別問題に比較的世の中の理解が進んで「ああ、そうかな」と思う人が増えている。昔みたいに「差別が何だ、うるさい」といってはねのけられるよりは世の中が進歩したのかもしれない。でも、だからといって、差別でないものまで差別だといって塗り込められてしまうことに無頓着であるのは問題です。
まずサンボが差別語であるということが成り立つかどうか。日本で「サンボ」という言葉が黒人に対する差別語として使われているなら分かるんだけれども、それはアメリカのまったくローカルな話です。アメリカの南部で黒人を指して悪く言う言葉として「サンボ」というのがあったのは事実ですが、イギリスで出た『ちびくろサンボ』の「サンボ」というのはそれとは別系統の言葉で、途中でそれが混同されていったことは絵本の責任ではない。

 アメリカでの批判の変遷

もうちょっと調べていきますと、アメリカで黒人のNAACPという「全国黒人向上協会」という老舗の運動団体があって、そこの資料の中に『ちびくろサンボ』が批判されはじめたときの資料が含まれています。一昨年、一年間アメリカに僕は在外研究ということで行って、その資料を調べてみました。アメリカというのはたいへん情報公開の進んだところで、黒人団体の持っている古い文書に関しても国会図書館が集めていて、マイクロフィルムに取ったものがいろいろな研究機関に所蔵されている。
それを一読して驚いたことが二つあります。ひとつは、『ちびくろサンボ』批判は各地で自然発生的に起こったのではなく、一九四五年十二月頃、NAACPが「反人種差別表現キャンペーン」として、『ちびくろサンボ』だけではなくて、黒人にまつわる表現についてかなり広範囲に組織的に批判を開始していたこと。例えば、「風とともに去りぬ」の中でメイド役を演じているハティー・マクダニエルという黒人女優に対して、黒人はいつもメイド役や乳母役ばかりしている、そういうステレオタイプのイメージをふりまくのはけしからんと彼女に対して排斥運動を展開しています。
もう一つは、アメリカで最初に『ちびくろサンボ』批判が起こってきた時点で「サンボが差別語」だというような理由は一切含まれていないということです。
話を戻すと、『ちびくろサンボ』について、一九四五年に批判を始めたときは、「トラが出てくるようなジャングルに黒人が裸同然の風俗で生活していると思われるのが嫌だ」というものでした。もちろんそこまで露骨には書いていなくて、未開だとか伝統的な風俗で、というようなきれいな言葉で書かれてはあるけれども、自分たちをアフリカの土人と一緒にするなということを言っているような内容に等しいわけです。 
当時のアメリカの黒人の心情も、ある程度はわかると言えばわかるので、一概に否定はできないんです。アメリカの黒人は近代的な社会の中で生活していて、アメリカ社会の中に入っていこうとしたら、白人と同等の能力もあるし、同じような生活スタイルだということをアピールしなければならない。それを、「お前らはアフリカの土人だ」という言葉で排除されたくない、というのはわかる。しかし、「『ちびくろサンボ』みたいな本が出回ると黒人は未開の人種であると思われて嫌だ」という言い方の中には、同時に、アメリカの黒人によるアフリカの黒人に対するかなり露骨な差別が含まれている。  
アメリカの黒人は、一九四五年当時でしたらまだ、ブラックという言われ方をすること自体を敵視している時期で、「カラードピープル」という言い方が当時としては比較的妥当な言い方だとされていた。一九五〇、六〇年代は学術的論文のなかでも黒人と書く場合は「ニグロ」と書くのが正しくて、キング牧師が演説をしているときには、自分たちのことを「我々黒人が」というのを「我々ニグロが」と言っているのがこの時代です。六〇年代は「ブラック・イズ・ビューティフル」という運動が起こってきて、今まで白人だけがきれいだと思って、黒人の黒はダメだと思ってきたのが、そうでなくて黒人の黒い肌を別に否定すべきものでないということが黒人に浸透してくると、「ブラック」や「ブラック・ピープル」という言い方になる。最近は「アフリカン・アメリカン」という言い換えられてるみたいですが、ともかく黒人自身の気持の持ち方や社会の状況によって、「カラード・ピープル」、「ニグロ」、「ブラック」というふうに移り変わっていく。そのことが『ちびくろサンボ』絶版問題に影響している面がある。
アメリカの黒人がまだアフリカ文化に対して肯定的でない時代は都会から未開への蔑視を共有していて、白人の子どもが多数でその中にパラパラと黒人の子どもが混じっているクラスで『ちびくろサンボ』を読むと、その後白人の子が黒人の子をからかって「お前の所もトラを飼っているのか」とか「えさもホットケーキか」みたいなことを言うので問題が起きる。 
とにかく、黒人によるちびくろサンボ批判が最初になされたときは、要するに散歩していたらトラが出てくるようなジャングルに黒人が住んでいるというイメージが嫌だというのがそもそもの始まりです。それが、アフリカ文化に対する再評価が五〇年代に進んで黒人の中にも自分たちのルーツであるアフリカの文化にはこういうものがあるんだというのが浸透してくると、「未開だから嫌だ」というのは取れてくるわけです。
そうすると、次に問題になったのは『リトル・ブラック・サンボ』というブラックとサンボです。黒人がまだ「ブラック」という言い方がされるのが嫌な場合だったので、『ちびくろサンボ』のブラックもサンボも問題になってきたわけです。「ブラック」は六〇年代に入って「ブラック・イズ・ビューティフル」の運動で黒人にとってそれほど嫌でなくなってきたのに、最後に「サンボ」が残ったといえる。それが日本に輸入されてきて「サンボ」は差別語だといって大騒ぎになったのが実態です。

 日本での反対運動

日本でどうなったかというと、堺市にある「黒人差別をなくす会」という小さな会が出版社に抗議文を出すと、たちどころに出版社が国際問題になったらえらいことやというんでなくしてしまった。それに対して差別問題をやっている人たちは全般的に同調した。部落解放同盟の人たちが出している雑誌には『ちびくろサンボ』批判の記事がいっぱい出た。「黒人が嫌だと言っているんだから差別だ」という議論です。
これもおかしな話です。黒人が差別だと言ったら差別になるんだったら、何でも黒人にお伺いを立てて決めるしかない。サンボ反対派の人は『ちびくろサンボ』けしからんと言っている黒人たちだけを連れてきて批判させるけれども、もうちょっと広く調べれば『ちびくろサンボ』は良いと言っている黒人もいくらでもいるわけです。そういう場合、黒人がダメだと言っているんだったらダメということだったら、違った反応をする黒人が出てきたらどうするのかということです。
差別問題を考えるときに何を基準に、誰がどういうふうにして考えるのか。日本で『ちびくろサンボ』が絶版になったときのやり方というのは、反差別運動をやっている人が差別だと言えばだいたい差別になる。それでも異議を唱えたら、黒人が嫌だと言っているからだめなんだという論法になってしまっている。
そういう議論の仕方をしていくと、結局、差別問題というのは暗記ものになってしまう。使っちゃいけない言葉リストを作って、みんなが一所懸命それを覚えるということになってしまう。

 差別用語

ちょっと『ちびくろサンボ』から離れてしまうんだけれども、僕が差別問題に関わりだしたのは高校二年、一九七二年からで、当時からこれは差別語だから使っちゃいけないという言葉はあったわけです。まず差別問題の勉強をしはじめると、最初にそういうものがやってきて知識が増えていく。例えば、「きちがい」はいけないんだとか「めくら」はだめなんだとかいうふうに不快な言葉は使っちゃいけないんだという知識はどんどん増える。僕が高校生のときは世間一般の人たちよりはその数をたくさん知っている状態だった。そういうことが差別の問題を知っているバロメータだと思っていた。だんだんそれが増えてきて、本格的に差別問題を研究するようになった一九八〇年代になると膨れあがってくる。それでしまいには自分で納得できないような種類の禁止用語がどんどん出てきて、マスコミの言い換えのリストが作られる。
例えば、「片手落ち」がいけないというのは一九七〇年代にはあまり言っていなかったと思う。それが、だんだん言う人が増えてきて、「片手落ち」は身体障害者差別だということに最近なりつつある。「片手落ち」というのは元来身体障害とは縁もゆかりもない言葉です。「手落ち」というのを強める言葉として「片」というのがついている。「手落ち」というのはするべき処置をしなかったという意味です。だから片手落ちがだめなら手落ちはどうなるんだという話になる。でも大真面目に片手落ちは障害者差別だと言い回っている人がいるものだから、その力に押されてそれは差別語になる、「辛く思う人がいるから使わない」というように、どんどんリストが分厚くなっていく。
去年のNHKの大河ドラマ「元禄撩乱」に、吉良上野介に斬りかかった浅野内匠頭が一方的に処罰されるのは「これは片手落ちの処罰でござる」というべき場面がある。僕は非常に興味を持ってこの番組を見ていましたが、「これは片落ちの処断でござる」というのにはひっくり返りました。結局NHKは片手落ちは差別だということに、まあ、積極的にそう思わないにしろ、そう言われて傷つく人がいるんだったら使うことはできないという態度です。それで、「片落ち」という言葉が何度も出てきて苦笑を禁じ得なかった。
だいたいそういうことを言っているのは世間のみんなが言っているのではなくて、少数なんです。少数の人が強硬に言うので通ってしまう。
だるまというのがありますが、だるまの目を入れるのは目の見えない人に対する差別であるという人がいる。ご存知のようにだるまというのは、達磨大師が壁に向かって九年間修業して手も足も動かなくなってしまったという状況を表していて、最後に悟りを開いてパッと目を開くという話です。最後に目を開くというのは別に目の見えない人が目が見えるようになるということではなくて、悟りを開くということです。手や足がなかったりするのも身体障害ということではなくて、壁に向かって座禅をしている姿です。
それでも選挙事務所でだるまの目入れなどをしていると抗議がきたりすることがある。昔だったらばかげていると思われたことが、最近は世間の方が比較的差別問題に、よく言えば理解が進む、悪く言えば警戒しているので、あまり批判されずに浸透していく。特にマスコミ関係と学校の先生のルートで広がる。学校でどんどん人権教育がなされるようになってくると、先生の中でそういったパターンで教える人が多い。「差別をしてはいけません」ということを「こういう言葉を使ってはいけません」というふうに教える人が多い。
この本の中でも書いたのですけれど、「馬鹿でもチョンでも」という言い方が朝鮮人差別だというのは、これは今の日本の、特に関西方面の教育界では完全な定説と化しています。この前も僕の教えている学生が教育実習に行ったら、まず実習生だけ集めて、本校は人権問題を重視しているとか言って、人権を担当している先生が、「人を傷つけるような言葉は言ってはいけません。例えば『馬鹿でもチョンでも』は駄目です。これは朝鮮人差別です」というふうに教える。そういうことを言う人は僕が高校の頃には反差別業界の人にはバラバラといましたけれども、世間一般ではそういうことを言う人は少なかった。それがいつのまにか「馬鹿でもチョンでも」の「チョン」は朝鮮人を指している言葉だと言いつのる人がいると、それを聞いた人がそんなものかなと思って感染したように広がっていく。
「馬鹿でもチョンでも」という用例としては仮名垣魯文著『西洋道中膝栗毛』(1870年)という戯作文学に「ばかだの、ちょんだの」というのがあった。「ちょん」というのは文章を書くときの読点のことで、「ちょんまげ」というのは髪型が読点の「、」に似ていることからきたもので、決して「朝鮮風の髷」のことではない。「馬鹿でもチョンでも」の「チョン」は、「ちょんまげ」の「ちょん」とだいたい親戚関係にある言葉で、朝鮮人を指しているわけではない。僕の知り合いの朝鮮人の人たちもだいたいみんなそう言う。
僕がこれだけ『ちびくろサンボ』にこだわっているのも、『ちびくろサンボ』が好きだということもあるけれども、それだけだったらその絵本一冊持って抱え込んでいればいいわけです。そうじゃなくてそれをひっくり返そうというのは、差別表現といわれる問題についての考え方が誤っていると思うからです。
差別があるかないかを考えるときの順番として、自分が差別的に使っているかいないかということが大事で、そこから自分で考えずに、「ご神託」のように受け止めるやり方をしていると、そのパターンがどんどん広がってしまう。学校における人権教育もそういうパターンで考えてしまっている。僕はもう一度、自分自身で考えられる方法で差別問題を考えてもらいたいのです。
 
 対抗主義

もう一つ付け加えるとすると、一種の差別表現狩りみたいなことがどこからきたのかということなんですが、これは反差別運動とかかわりが深い。
竹田青嗣氏が「対抗主義」と名付けている差別運動のスタイルがある。だいたい被差別者というのは少数派ということが多い。少数の人が多数の人から圧迫を受けているときに、それを改善していこうと思ったら、少数派は声を大きくするか、荒げて多数派の社会に対していろいろな動きをしていかなければならない。その場合、こういう差別があるじゃないかという証拠物件をいっぱい積み上げて社会を説得し動かしていこうとする。少数派でおとなしくしていると、多数派の社会というのは無視して気がつかないで通り過ぎてしまうので、少数派はいろいろな手を使ってかなり強硬に異議申し立てをして、組織もなるべく大きくしていく。少数派が多数派を相手にものを言って納得してもらおうと思ったときに、ある程度存在感というのがないと困るわけで、なるべくいろいろな機関にくい込んでいって意見を聞いてもらえるポジションにつくとか、いろいろな手を使って強硬な抗議運動をするというのもある。それはそれである時期には有効だが、ある程度世の中が変わってきて、少数派対多数派という対立構図だけでは物事が進まなくなる時期が来る場合がある。部落問題なんかもそうだと思う。
ある程度差別がいけないということが世の中に浸透してきた段階で、なおかつ存在感を持っているということは、一面ではいいんだけれども、それは多数派からすると危機管理の対象みたいになって、この人たちをあまり刺激するとどんな逆襲をしてくるかわからない、あるいはあそこの逆鱗に触れたならどんな攻撃を受けるか分からないと思われるようになる。意見が通るということのマイナス面として、非常に危険視されたり、危機管理の対象として、腫れ物に触るように、なるべくあの人たちは怒らせないようにそっとしておいたほうがいいという意味で意見が通ってしまうことがある。
それは見方を変えると、「礼儀正しい差別」を助長することに近い。行政にものを言って行く場合や要求を通すときには、本当の信頼関係があるというよりは危険視されて恐れられている方がいいと感じる人もいるわけですが。差別表現狩りが過剰に進むことの一つの背景にはそういうことがあります。
本当の差別というのは形にはなりにくい。部落出身であるということで、長い間就職差別があって、特に一九五〇年代、六〇年代はかなり深刻だった。成績がよくても部落出身であるということが分かると企業かららシャットアウトされるということがあったが、しっぽをつかむことが難しくて、企業の方で点数が悪かったと言われればそれまでだった。結婚差別もそうだった。それに対して差別表現とか差別落書というのは形に残って写真にもとれるから、運動のターゲットになりやすいし、手段としても使いやすい。そういうことがあって、この二十年位差別表現狩りは過剰に進んでしまった。
差別表現狩りというのも時として有効である場合もあるけれども、あまりそれが度を過ぎて進んでしまうと、差別問題というのは単に「言葉に気をつけましょう」ということになってしまう。差別問題に対する世間一般の理解が多少そっちに傾いてしまったきらいがある。
それは、部落問題だけでなくて、朝鮮人問題でもそうです。昔みたいに在日朝鮮人の問題で本当に社会的に是正しなければならない問題が山のようにあるときは、あまり細かい言葉の問題はしている暇がなかった。在日朝鮮人はその頃生活保護が受けられないし、公営住宅にも入れないし、国民健康保険にも加入できなかった。一九八一年の法律改正で在日朝鮮人のそういった問題が一掃された。大きな生活上の問題が改善されると、代わりに差別表現問題がワーッと出てくる。
本当に、就職差別があり、生活上の改善しなければならない問題が山積みしているときは数の少ない活動家がそんな細かい言葉上の問題でうろうろしていられない。言葉の問題はそういう制度を改めさせるという手段として使ったが、それ自体を自己目的化してその言葉をなくそう、あの言葉をなくそうということは実際には二次的問題だった。ところが大きな問題が解決してくると、それ自体が自己目的化してくる。
また、差別語を無くすことがいいことだと思い込んでいる人がだんだん増えてきた。別に運動にたのまれもしないのに放送局に電話かけて、あの言葉はけしからんと言う人が増えている。NHKの担当者に聞いたら差別問題で一番抗議してくるのは運動団体ではなくて一般の善意の市民、比較的年配の人が抗議電話をしてくるという。
部落問題だけでなく、在日の問題も障害者の問題もそうです。制度上すべきことがいっぱいあるのに、そっちにエネルギーが向かわずに、ちょうど横滑りに差別表現狩りになっているものがある。一九八九、九〇年頃、いろいろな差別表現をほじくりだして、徹底的にたたきつぶしたら差別表現がなくなると思っていた頃、ちびくろサンボ絶版問題が起きた頃がそのピークで、いっときよりはだいぶ収まってきたという印象を僕は持ってきているんですが。

差別にいかに向き合うかというのは、非常に難しいテーマです。被差別者が、自分自身で差別する側の価値観を内面化して、無意識のうちに自分を劣ったものと思っていることでいろいろなことに対して傷つくのだけれど、その「内面化している」ということに気がつかないので、よけいに出口がなくて苦しむことが多い。
だから、「傷つけないように配慮しましょう」というのでは、根本のところで変わっていかないのです。周りから配慮されることによって肝心な所を飛ばしてしまうというか、相互理解の道を閉ざしてしまう。
差別問題に世間一般の関心が薄かった時代であれば、この種の「被差別者への配慮」も一定の積極的意味を持っていたのですが、今日にあっては被差別者を特別扱いにすることで、被差別者が自力で壁を超えることを阻害してしまう。一緒に頑張るというか、ある種の飛躍をするために多少の頑張りも必要なんだけれども、それを全部回避して「配慮」の方にいってしまうのです。■
(二〇〇〇年八月五日We夏期フォーラム/まとめ・稲邑恭子)

   *   *  *  *

灘本さんは一九五六年神戸生まれ。社宅や千里ニュータウンに住み、部落差別から隔離されて育ち、高校生の時に両親の祖父母が同和地区出身であることを聞かされたという。学生時代は部落解放運動に関わり、卒業後は「京都部落史研究所」で研究し、現在は大学で部落問題を教えている。結婚のときにはじめて、相手の親や親戚に反対されるという「被差別体験」に遭うが、それがストレスではあっても突き刺すような「差別される痛み」として自覚することはなかったのは、成長する過程でくりかえし差別に遭いそれを自分に対するマイナスイメージとして取り込んでしまう体験を経ていないせいではないか、と振り返る。
フォーラムの分科会では時間切れでその先の論議にはあまり踏み込むことはできなかったが、部落差別問題の「当事者」でありながら 「当事者」に少し距離を置いた地点からの「被差別の痛み論批判」や「対抗主義」などの分析はシャープな展開を見せる。
いままであまり正面切って取り上げられることがなかった「『被差別者の痛み』は被差別者自身が自分の劣等性を内面化しているがゆえに起きる」ということを俎上に上げた灘本さんは、藤田敬一氏のタブーを打ち破った労作『同和はこわい考』(阿吽社 1987)を引用しながら、「差別される痛みは差別された者にしかわからない」という言葉に象徴されるような、「体験、立場、資格の相違を固定的に考えて相互の対話は不可能だとする」立場に立って被差別者を擁護したり擁護を強要したりする態度がむしろ差別を強化する場合もあると述べる。そして、「差別だ」と言われて、その指摘に異議があるならば、たとえ被差別者から非難されようともきちんと主張し対峙することが、被差別者自身が自らとらわれたマイナスイメージからの脱出を促す真の連帯であると主張する。
「差別された」と主張する人の怒りに共感しつつも巻き込まれることなく対峙する(自分が違うと感じることははっきり違うと言える)には、それなりのタフさが必要とされる。それでつい、その主張に全面的に同調することでそれを回避しようとしがちになる。しかし元々背景や体験が違うので「蜜月」は長続きしない。ある日突然の「全面拝跪」の放棄を相手は裏切りだと思う。当事者と支援者の間で繰り返される悲劇の構図であるが、それは「私はここまではできるが、これから先はできない」という明確な境界線を最初から設定することでしか防ぐことはできないだろうと思う。
また対抗主義的な反差別運動の問題点として、次のようなことが挙げられている。
厳しい差別を受けてきた部落の老人たちは聞き取り調査をすると事実を淡々と語り、差別が緩和された現在を喜ぶことが多いが、対抗主義的な運動に影響された若い人に限って「差別された痛み」を必要以上に持ち出すことが多いことに触れながら、q自分の経験に裏付けられた被差別感情というものは、イメージが具体的なのでそれが無限に膨張するということはない。また、差別問題に対する要望も、学校で、就職のときに、結婚のときに、と具体的な場面における具体的な問題の解決であるrが、q具体的な体験に基づかない反差別感情は抽象的であるがゆえにいくらでも自己増殖してゆくrことに警鐘を鳴らし、q被差別者の具体的な差別体験による具体的な事柄に対する怒りではなくて、「いまの社会によって自分たちは差別されている」という漠然とした「怒り」をかきたてることはよいことであろうか。そうした被差別者の「怒り」を強める反差別運動は、むしろ集団相互の亀裂を深めるrのではないか、と疑問を呈する。
これらの指摘はあらゆる反差別撤廃運動に共通のものであり、フェミニズムもまた、その例外ではないだろう。女性にする差別が露骨な形では見えにくくなっている現在、例えばセクシュアルハラスメントをめぐって既に見られるように、現実の改革は中断のまま「差別表現狩り」に横滑りしていかないように自戒しつつ、「女たちは差別されている」という怒りがかき立てられたまま出口が見つからずに空転する段階から、「より具体的に」回路を見つけて個別の障害を取り除いていく路線への転換を図ることが必要ではないだろうか。
これまでの反差別運動の限界や運動の原動力といわれる「ルサンチマン」の解明を通してさまざまな貴重な気づきがちりばめられている著者の分析は、いわば最後に出てきた反差別運動であるフェミニズムの現地点での混迷を解くためにも貴重な問題提起であり、一読をお薦めしたい。(稲邑)

  なだもと・まさひさ 1956年生まれ。京都大学文学部史学科現代史専攻卒業。大阪教育大学大学院教育学研究科修士課程修了。京都部落史研究所研究員を経て、現在、京都産業大学一般教育研究センター助教授。共著に『「ちびくろサンボ」絶版を考える』(径書房・1990年)、『部落の過去・現在・そして……』(阿吽社・1991年)、朝治武・灘本昌久・畑中敏之編『脱常識の部落問題』(かもがわ出版・1998年)、『ちびくろサンボよ すこやかによみがえれ』(径書房・1999年)ほか。
  インターネット・ホームページ http://www.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/index-j.html