解放から融和へ
              灘本昌久

   はじめに

 部落解放運動の第三期が叫ばれて久しい。私も、同和事業の獲得に重点を置いた、第二期の運動からの転換をかなり熱心に主張してきたつもりである。たとえば、一九八八年に書いた「部落差別を根拠とする権利の合理性」(『こぺる』一二六号、一九八八年六月)では、従来、同和事業を実施する根拠としてあげられてきたオールロマンス事件を検討した。そこでの結論は、問題となった小説「特殊部落」は、実際には同和地区ではなく朝鮮人部落の実態を描いたものであり、低位な生活実態を改善すべき対象は、同和地区のみではなく、さまざまな社会的ハンディを負った人々を広範に含むべきであり、「部落のみに対する特別措置という枠を突破していく必要がある」ことを訴えた。また、同時に「要求内容の妥当性を脇において要求の量的拡大を自己目的化した場合、部落大衆にとって良い指導者とは、部落により多くの施策を引き出してくる人」になってしまい、同和事業をめぐる利権・腐敗の問題の解決が困難になってしまう、と指摘した。
 座談会「部落青年のアイデンティティー―その現在・過去・未来―」(『こぺる』一三〇号、一九八八年一〇月)では、従来その存在・再生産が自明視されていた「部落民意識」(=部落民のアイデンティティ)が今後希薄化していくことはさけられず、運動の担い手の問題をよく考えていかなくてはならないと提起した。
 そして、「解放運動の解放」(『思想の科学』一四八号、一九九二年一月)では、運動の目標は的を得たものでなくてはならず、差別行為に対する糾弾闘争、差別の土壌となっている低位な生活実態を改善するための行政闘争を経て、次の段階へ踏み出す解放運動は新たな課題を設定しなおさなくてはならないとした。
 さらに、「第三期の部落解放運動とイメージ戦略―差別反対キャンペーンの得失」(『こぺる』再刊五号、一九九三年八月)では、差別の実態の強調は同和事業獲得運動の時には運動に有利に作用するが、具体的な人間関係の改善・修復(=真の意味での差別の克服)にはマイナスに作用すると主張した。
 こうした問題提起は、発表当時はかなり過激な内容と受けとめられたかもしれないが、今から振り返ってみて、おおむね妥当だったと思っている。本稿では、問題提起を始めて一〇年あまり経った今日的観点から、さらにもう一段前進するための、新たな提起を行いたい。

   基本法闘争の是非

 従来の問題提起が、運動の中にどの程度影響力をもち、実践に生かされたかというと、自分の非力を感じざるを得ないのが正直なところである。とりわけ、現在の解放運動のメインスローガンが部落解放基本法の獲得であることには、まったく失望するしかない。
 あらたな運動の方向性をさぐるにあたり、ここで、明確にしておきたいのだが、私は部落解放基本法にはまったく反対だということである。
 その理由はいくつもあるのだが、第一に、部落解放基本法は、宣言・啓発・事業・差別禁止の四つの部分からなるとはいえ、基本的には同和対策審議会答申・同和対策事業特別特措法の延長上にあり、事業法的部分が重点をなしていることは明らかである。同法案は、一九八五年に成案を見たが、この時期は部落解放運動第三期論が部落解放同盟全国大会で採択される一九八九年のはるか以前で、行政闘争全盛期の産物である。まだまだ部落解放運動の重点が、同和事業の量的拡大におかれており、同和事業の部分的見直し(たとえば家賃の値上げ)さえ口にするのは憚られ、運動の外の人間がそれを主張すれば、差別者の烙印さえ押されかねないような時代の産物である。第二期の必要から出てきた部落解放基本法が、同和事業一辺倒からの転換をめざす第三期の部落解放運動にそぐわないのは、理の当然といわねばならない。
 第二に、部落解放基本法の基礎となっている当時の差別の現状認識は、まだまだ低位性の強調に力点が置かれており、部落の生活が、国民一般のレベルから、いかに隔絶して低位かということが強調されていた時代である。しかし、その後の調査や多くの人の議論でも明らかなように、同和地区の生活レベルの改善は、相当程度のレベルにまで達している。統計的に部落の平均値が低い点があるとはいえ、多くは直接的な部落差別の結果とはみなしがたい。たとえば、数値が過去の差別の痕跡である場合である。部落と部落外の通婚率を考えた場合、今の若者が一〇〇パーセントに達していても、高齢者の数字を過去にさかのぼって改善することは不可能なので、部落全体でトータルすると、数字的には格差として表現されるが、現実の差別実態よりかなり強調された数値となる。また、学歴の場合のように、高学歴者ほど仕事の都合で同和地区外に流出せざるを得ないので、実際の改善より、数値が低く出てしまう場合もある。
 さらに、家庭の貧困や子どもの学力不振などが、部落全体に普遍的に見られた状態から、母子家庭や不安定就労層に偏って現われているのも、最近の部落の実態の特徴である。これらは、部落出身であることが露見して、職を奪われたり、学校を辞めざるを得ないなど、部落差別に直接起因する貧困化とは性質をことにする現象であり、むしろ現代社会全体に共通する課題である。
 部落総体の低位性が克服され、かつ残された低位性と部落差別の関連性が薄くなれば、部落の中に住んでいるという理由で、部落外の生活困難層と段違いの保護政策、優遇政策を継続する理由は、見出し難いし、また理屈としてなりたっても、普通の市民感覚からは受け入れ難いものがあるだろう。
 反対の第三は、第一とも関係するのだが、同和事業の旧来的手法の継続は、結果的に部落―非部落の線引きの過度の強調をもたらすということである。同和事業には、環境改善など地域全体に行われる事業と、奨学金などのように個人給付事業がある。地域全体に対する事業は、公民館(隣保館・解放会館)の共同利用などで部落内外を結びつける契機にできなくはない事業もあるが、個人給付の場合は、誰が部落民であり誰が部落民でないかを区別する必要が生じ(もし、区別しないのであれば、部落差別の結果生じた、もしくは生じる、差別と貧困の悪循環を断ち切るという、同和事業目的から逸脱することになる)、本稿の後半でもうすこし詳しく述べる、融和(=部落内外の線引きの廃絶)の障害となる。
 基本法反対の理由を詳しく述べるのが本稿のテーマではないので、このくらいにしておくが、もし部落解放基本法が一九八〇年代の半ばに成立していたとすると、同和事業の適切な見直しがなされただろうか。いま、政府・官僚との綱引きの中で、部落解放同盟が劣勢を余儀なくされた状態でやっと、同和事業の適正化(不要な事業の廃止など)が行われているが、基本法が成立していたら、「おいしいことはいいことだ」という同和事業依存運動が際限なく続いていたことは、少なくとも私の目には明らかである。それを思うと、いまだに第二期の遺物たる基本法要求闘争が膨大な労力と資金を費やして繰り返されているのは、徒労もはなはだしい。基本法集会の壇上に列席している、解放同盟、企業、労組、宗教団体、国会議員の人々を見ていると、本気で部落問題解決に役に立つと考えているのかと、首をかしげてしまうのである。

反差別国際連帯の是非

 基本法が第二期の延長にあるとするならば、第三期の中身として有力なのは、「反差別国際連帯」であろうか。私は、これも大いに疑問のまなざしで見ている。本業があって他との連帯を唱えるのならいいのだが、部落問題だけを唱えていては持たなくなってきた結果、人権・多文化・国際連帯などで厚化粧しているように感じてしまうのである。もちろん、それらの課題を扱うべきでないというわけではないのだが、やはり本業あっての余業である。また、本業が不要なのであれば、店をたたんで、それぞれの本店を新規開店したほうがすっきりしていいのではないだろうか。この、世界の水平運動についても、第三期の本筋の課題ではないと考える。

ケガレ論の時代錯誤

 最近注目されている、解放理論の一つとして「ケガレ論」がある。部落差別の根幹には、古くからの「ケガレ意識」があり、それが部落民排除の原因となっているというものである。一九九七年に改正された部落解放同盟綱領からは従来の階級闘争主義が一掃され、それに代わってこの「ケガレ論」が重きをなすかたちで採用されている。しかし、装いは新ただが、三周遅れのトップランナーではなかろうか。京都部落史研究所の二三年の研究活動を見ていただければ明らかなように、部落差別が封建遺制(武士階級の優越性が明治以後の士族に継承されたようなこと。ただし、社会学的調査によれば、その優位性は一九三〇年代で消滅する)ではなく、古代・中世以来の触穢思想に大きく起因するのは、とうの昔から自明のことである。一九六二年に著された横井清氏の「日本中世における卑賤観の展開とその条件」はその先駆的研究である。問題は、そうした一般庶民の心の中で差別を支えてきたものの要因を究明した研究があったにもかかわらず、行政から施策を獲得するためには利用価値がなかったので、省みられなかったり、黙殺されたり、時として政治的抑圧をうけたことにある。
 冷戦終結に伴う、五五年体制と階級闘争理論の全面崩壊の中で、部落解放理論の土俵が過剰な政治を離れて地に着いた展開をみせるならば、それは好ましいことだろう。しかし、であるならば、運動として注目すべきは、むしろ、部落差別を支えてきた多くの要素が、一九六〇年代から一九八〇年代にかけて、劇的に変化したことではなかろうか。高度経済成長の時代を通じて、農村共同体は解体した。それは、工業化による農業人口自体の減少、専業農家から兼業農家へのシフト、機械化による共同作業の解消などによってもたらされた。
 また、ケガレ意識も、大きく変貌したといわなくてはならない。たとえば、死のケガレは、散骨や水葬、風葬などの流行や、臓器移植の進展により、忌避される度合いが低まっている。ラマーズ法や臍帯血利用の浸透などでわかるように、お産への穢れ意識も弱くなってきている。また、女性の生理も、生理用ナプキンのコマーシャルの多さでわかるように、ケガレの原因とはみなされなくなってきているのである。このように従来、ケガレの発生源とみなされてきたものが、次々と無罪放免となっている。
 部落民の払うお金が穢れているとして、一般の人が硬貨を直には受け取らず、ひしゃくで受け取って水がめに入れていた時代、あるいは部落外へ嫁に行った部落の女性が、直接、ご飯を茶碗にいれてもらえなかった時代、そして、部落の小作人には、便所の棚においてある欠けた茶碗で湯茶が出されていた時代、差別事件を起こし、糾弾された人が、差別をしていない証拠として、「自分は部落民と同じ風呂にはいっても平気である」といっていた時代なら、ケガレ意識を問題にしても意味があったかもしれないが、そんな感覚は、今の若い人たち(少なくとも、私が教えている学生)からは、急速に薄くなりつつある。現在の部落差別意識は、穢れているといった感覚よりも、はるかに「近代化」をとげているのではなかろうか。

第三期の解放運動

 そんなわけで、今の解放運動のメインスローガンたる部落解放基本法の獲得、あるいは世界の水平運動(反差別国際連帯)、そして最近出てきたケガレ意識の克服、どれをとっても、第三期の部落解放運動の内実たりえず、悲しいかな運動のパワーは落ちる一方である。一九五〇年代から六〇年代にかけては、部落の生活問題は深刻で、なんとか雨漏りのしない家に暮らしたい、なんとか高校へは子どもを行かせたい、なんとか安定した仕事につきたい、そのためには、同和事業は必要であった。そして、特措法の切れる一九七〇年代後半から一九八〇年代前半までは、まだその要求にも切実なものがあり、法が切れたら昔に逆戻りしてしまうのではないかという危機感があった。しかし、特措法の一三年に続く地域改善対策特別措置法(一九八二〜一九八七年)の時期から、目に見えて大衆のエネルギーが薄らいだ。同和事業の打ち切り反対を唱えて行われるさまざまな行動も、集会などに参加していて感じるのはその切実さが、昔とは格段の違いなのである。各部落に網の目行進隊を組織して要求を掘り起こそうにも、これといった経済的要求もない。けっしてそれは悪いことではなく、部落の生活が向上・安定したのである。あとは、運動の惰性と自己保存本能で法の継続を叫んでいるわけだ。そして、部落大衆の動員力に頼れなくなった運動は、企業関係者や宗教関係者に頼ることになる。左翼的労働運動や学生運動だけに頼っていたときより、保守的・体制内的人々との常識的付き合いができるようになり、外部とのパイプが多様化した点で進歩もあったが、やはり、部落大衆の生活実感から離れた目標を部落外の力を借りて獲得しようというのは無理な相談といわなくてはならない。反差別国際連帯にしてもそうで、部落に生まれただけで、どうして世間一般の人がやってもいないことに、地域を挙げて取り組まねばならないのかというのが部落大衆の正直なところだろう。
 以上、現在の運動に対する疑問を述べてきたが、これは前々から言ってきたことだし、もっと早くから気づいている人も多くいたので目新しい話ではない。
 ところが、ここ数年の動きの中で、部落解放同盟と政府・官僚とのせめぎあいは、人権擁護施策推進法成立の一九九六年時点で、概ね同和事業終結の方向で決着をみ、以後、運動がその力関係・方向性を変更できないまま、現在にいたっている。それは、今まで述べてきた理由からして、当然といえば当然なのだが、二〇〇二年三月の同和事業体制の終結が目の前に迫ってきた現在、解放運動の新しい展望をなんらかの形で出しておかなくてはならないだろう。でないと、法の終結にともなってあまりにも急激に運動が瓦解すると、無用の混乱と犠牲を生むことになる。

   基本法闘争の早期終結

 そこで、とりあえず今後の運動の展開の前提として、部落解放同盟には部落解放基本法闘争の早期終結をお願いしたい(ことここに至っては無理な要望だが)。さきに述べたように、部落解放基本法は第二期の運動の延長であって、第三期の運動とはかみ合わないものである。これだけ改善が進んだ部落に対して、さらに部落にだけの特別対策を行うのは、社会的公正の観点から問題があり、また不況と高齢化の進む日本の財政事情からしても、無理な話である。基本法闘争が勝てないのは、解放同盟の闘いが生ぬるいからでもなく、また政府が無理解なのでもないし、援軍が足らないからでもない。要は、社会的妥当性を欠いており、国民の支持が得られないのである。一九八〇年の半ば頃、地域改善対策特別措置法のあとに、もう少し広く薄く社会的公正をめざす法律を国民に提起できていたら、まだしも諸団体との議論や提携の余地はあったかもしれないが(もちろん、成立していなかった可能性も高い気はするが)、二〇〇〇年の今日まで、部落にだけの施策要求一本槍というのは、浅ましい限りである。

   運動主体の再定義

 次に、今後の運動の方向性として提案したいことの第一は、部落民意識、部落民としてのまとまり、部落民の団結を前提にしない運動のありかたを考えたいということである。
 全国水平社の唱えた「解放」は、部落民自身による「自主的」解放を前提とし、部落民以外の参加は原則的に認めていなかった。全国水平社の創立に参加した、米田富氏が語っていたところでは、創立大会の傍聴にきた一般参加者を排除したところ、「差別をなくする運動が一般民を差別するのはけしからん」と抗議されたが、同じ水平社のメンバーであった阪本清一郎氏が、「悪い差別と良い差別があり、これは良い差別だ」と反論したという。また、部落民をかたって水平社運動に参加していた高橋貞樹は、部落民でないことが判明して追放された。このように、全国水平社にとって、「解放」の主体として、部落民であることは絶対的条件であった。
 しかし、ここ三十年の間を見ただけでも、部落差別が弱まるにつれて、部落民意識は非常に希薄化してきている。同和施策との関連で部落民としての「意識付け」がかろうじてなされている状態で、同和事業、とくに個人給付事業が切れ、学校の先生による子どもたちへの働きかけがなくなれば、どこまで希薄化・空洞化するか想像もつかない。はじめに触れた「部落青年のアイデンティティー」で、山城弘敬氏が「一般民が解放運動に参加する場合に、あんたは一般民やのになんで解放運動に参加するんやとずっと問われてきたけれども、今や部落民の側にも、あんたは何故部落解放運動をやるんやというふうに問われなくてはならない状況ができつつある」と指摘したが、まさに二〇〇二年の同和事業終結とともに、その問いがすべての部落民に避け難く突きつけられるのである。その時の答えが「私は部落民だから」であれば、「なぜあなたは部落民なのか」という再度の問いには、答えられないのではなかろうか。私は、そう思う。そして、部落外の人が部落差別の解決のため尽力したいと考えたとき、運動の外部にしかいられない理由ももはや見当たらない。
 すると、こうしたことと連動して起こってくることとして、全国水平社宣言の扱いはどうなるだろうか。「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」「吾々がエタである事を誇り得る時が来た」という叫びは、八〇年前には生々しく心に染み込んだし、今も人によっては感動を呼ぶ内容ではあると思うが(私自身、宣言の果たした思想的役割を高く評価するし、嫌いではない)、逆に歴史的史料として読んでも、あまりぴんとこない人が部落の中、とりわけ若い世代にいても、当然のような気がするのである。まして、部落外の人を対等かつ正式のメンバーとして運動が迎え入れることになると、宣言のいう「吾々」が組織メンバーの「我々」とは、ずいぶんずれることになる。
 そして、何より問題だと思うのは、今さら「エタである事を誇」るということが、ありうるのかということだ。穢多であることの、いったい何を誇るのか。部落民であることを無意味化しようとする観点からは、部落民を差別することが容認し難いのと同様に、エタであることを誇るなどということは認め難い。自分の努力や能力ではなく、生まれを誇るとは。水平社宣言は、部落外も部落民自身も、穢多であることはよくないことだ、恥ずべきことだと思っていた時代でこそ生きた思想なのであって、今、生まれを誇る人が新たに部落内から出てこられたら、こっちが困ってしまう。
 結局、部落民であるかないかを問わない運動をするためには、水平社宣言には引退してもらうしかない。もちろん、歴史的意義のある文書として尊重はするが、今日の綱領的文書としては、役割は終わっていると思うのである。

   解放から融和へ

 そして、運動の目的を、部落民としての「解放」ではなく、部落と非部落の線引きの解消におくとすると、部落解放運動の戦略は「解放」から「融和」に移ることになる。こう書くと、融和運動をはじめるとはけしからん、という声が聞こえてきそうである。確かに、部落解放運動において「融和主義」というのは、部落側が一般社会にあわせるというニュアンスが感じられるので、反発する気持は理解できるが、部落と部落外が自然に溶け合うのが、「融和」の字義からする本来的な意味であり、それは部落大衆の過去から現在にいたるまで、もっとも望んできたことである、と私は思う。
 一九二二年に創立された全国水平社の創立以前、部落の有産階級は一般社会の「名士」を頼って運動したが、その結果は「金さへ貰えれば、ヱタと云はれ非人と侮蔑されても目的のためには結搆」(『水平』二号、四八ページ)という「卑屈なる言葉と怯懦なる行為」を生んだ。そこでは、差別される責任は部落民に帰せられ、警官が部落にやってきては、地区内の清掃を命じたり、強制貯金をさせたりした。部落に対する同情や憐憫はあっても、差別すること自体への批判や抗議はなかったのである。そうした状況に反発した部落の青年たちによってつくられた全国水平社は、旧来の「矯風」「改善」に対立する概念として「解放」を唱えた。のちに融和運動が水平社に対抗するかたちで推し進められたので、現在も「融和」という言葉への拒否感は強いが、一般社会の反省を求める点で、水平社以前の古い考え方である「矯風」や「改善」とは内容を異にする。むしろ、部落と部落外の線引きをなくすという意味では、「融和」はつねに要求されていたはずであって、いつまでも毛嫌いする必要はなく、むしろ現在の運動の目指すところを端的に表わしている点で、崇高なようで内容のわからない「解放」より、的確であると思う。

   糾弾から抗議への転換

 水平社がめざす「解放」を実現するための唯一の戦術が「糾弾」であった。当時は、出征軍人の見送りの時に、兵士が部落の者であるという理由で一般の村が参列を拒否したり、学校の教室で一般の生徒の後ろに部落の子どもたちを並ばせるなどの、差別待遇が公然と行われていた時代なので、部落差別の廃絶は、部落民の団結による集団的運動という形態をとらざるを得ず、個人の良心に訴えるような余地は、限られていたのである。したがって、「部落民自身」による「糾弾」を通した「解放」というのは、ひとつの時代の産物であり、かたく結びついたワンセットをなしている。しかし、現在の部落差別のありようは、当時とはかなり根っ子が違うのではないだろうか。確かに、差別はあるにはあるのだが、社会が個人に差別を強要する度合いが、今は格段に弱い。その主たる原因は、農村共同体の崩壊などによるものと思うが、ここでは細かい議論はおいておくとして、差別するかしないかの個人の選択の幅は、以前よりはるかに大きいことに、多くの人は同意するだろう。だとすると、糾弾という戦術も再考の余地があるのではないか。水平社時代は、個人糾弾で差別を押しとどめるのが精一杯だったはずだが、今は、本当の付き合い、人間関係の修復、創出までいかなくては意味がない。そのためには、糾弾というやり方は、あまり効果的でないと思う。私の狭い経験でいっているわけではなく、戦後部落解放運動を担った複数の人から、糾弾で人は変わらなかったという、嘆息とも反省ともつかぬ感想を聞くのだ。黙らせることはできても、心まで変えることはできない。それが、糾弾闘争八〇年の歴史の評価ではないだろうか。
 そして、糾弾が厳しすぎると一般の人の反発や恐怖感を生みやすいということもあるが、より根本的に問題なのは、糾弾という部落問題解決のための行動が、主体を部落民に、対象を一般人に限っているということである。しかし、差別をなくそうとする主体を部落民に、そして、働きかけられるのを必ず一般側と決めてかかる必要は、全国水平社の時代ならいざしらず、現在はないだろう。
 ここで、さきほど述べたように、運動の主体を部落・非部落は問わないことにすると、「糾弾」は部落内外の人々による共同の「抗議行動」にとってかわられ、またその対象は、差別をした一般人だけでなく、差別を助長拡大する行為者すべてにむけられる。もちろん部落民といえども、例外ではありえない。部落にたいする恐怖感を利用したゆすり・たかり等の犯罪行為はもちろんのこと、同和事業をめぐる不正行為や利権あさりはすべて、抗議行動の対象となる。

   運動の規模と中身

 しかし、直接的な差別行為が少なくなった現在、上記の抗議行動はあまり出番はないと思う。では、いったい何をするのかということになる。私が考えるに、活動の中身・形態は、いわゆる差別問題専門でなくていいのではないか。毎日差別事件があるわけでなし、また差別事件を通しての働きかけは、いわば敗戦処理あるいは対症療法みたいなもので、しないですませる方が好ましいに違いない。そうした軋轢が起こらないように、あるいは起こっても、その場その場で解決できるようにするには、日常の接触と交流が肝心だろう。つまり、運動とはいいながら、やることは結局、町内会活動、自治会運動、その他の一般的な地域活動に帰するのではあるまいか。このことは、私が実践してもいないことを説教しなくても、たとえば『こぺる』八九号で中村勉氏が語っていることそのものである。氏は、できあいの解放理論とはまったく別のところから出発し、野球を通して部落内外の子どもをつないでおられる。この他にも、私の知り合いで、部落解放同盟の支部幹部が、運動の中枢を離れて、部落の内外をたばねた少年サッカーチームを運営しているのをしっている。同和事業闘争の時代だったら、解放運動が主でサッカーは趣味の扱いをされていたかもしれないが、これからは解放運動の活動家が、普通の地域活動として自分の町内を切り盛りするべきではなかろうか。その地域活動の適正規模は、地域の実状によってちがうだろうが、町内会から中学区くらいを理想とするという意見を、さる青年幹部から聞いた。

   「小さなことからコツコツと」

 同和事業闘争期の経験の長い人は、こんな提案には懐疑的かもしれない。学校の教師と行政マンは三日に一回尻を叩かねば動かないと。また、部落解放のためには、奨学金をはじめ、さまざまな施策をふんだんに取ってくるのが解放運動だと。私の言ってきたような運動では、差別は解消しない、と。しかし、私の心配するのは、こんなぬるま湯程度の活動にでさえ、同和事業体制終結後にいったい何人結集できるのかということだ。部落解放同盟の指導者で、第三期論の提唱者である大賀正行氏が、一九九三年の名古屋で開催された全国研究集会の壇上から言われたことを私は、今も感動をもって思い出すことができる。大賀氏は、会場を見わたして質問した。「今日、ここにおいでのみなさんは、大部分が公務出張で来ておられることでしょう。私もそうです。しかし、これはバブル運動です。事業が切れたら、このバブルははじけるが、私はこの二万人が二〇〇〇人になっても、自前の運動をやりたい。」全国で、二〇〇〇人残れば上等だ。私もそう思う。運動が、実状に即していれば少人数でも、多くの人を動かせるし、逆に磐石の体制を固めても、それが実状に即さず、自発的行為でなければ、たいした力にはならない。とりわけ、衣食住が一定行き渡った部落が、今一歩飛躍できるかは、運動の量よりも質が問題だ。