新しい差別論のための読書案内(2)

河合文化教育研究所編『上野千鶴子著「マザコン少年の末路」の記述をめぐって』

こぺる刊行会『こぺる』20号、1994年11月

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 上野千鶴子が差別問題にからんで何か「やらかした」らしい。ちまたでは、そうした風説が流れている。事実経過はこうである。一九九三年一月の終わり、大阪府立高槻南高校で障害者問題に取り組む冨田幸子教諭より、フェミニズムの旗手上野千鶴子および大手進学塾である河合塾のもとへ、質問・抗議の葉書が寄せられた。一九八六年に河合塾より発刊された上野千鶴子著『マザコン少年の末路―男と女の未来』(河合ブックレット1、河合文化教育研究所発行)の中でなされている、“自閉症は母親の過干渉・過保護によって引き起こされる”という記述は自閉症への誤解にもとづくものであり、差別を助長するのではないかというのである(この『マザコン少年の末路』は、一九八五年に河合塾大阪校で行なわれた講演会をもとに編集されたもので、河合ブックレットの第一冊めである)。

 冨田氏の提起を受けて、二月四日には両者の間で話し合いが行なわれた。河合塾側からは河合文化教育研究所で編集をしている加藤万里と、講演を企画し『末路』の解説を書いた河合塾日本史講師青木和子。抗議側からは、冨田氏および高槻自閉症児親の会関係者である梅田和子・前田昌江、大槻信子各氏が出席した。二月一三日、六月二六日には上野氏を交えての二・三度目の話し合い、一〇月二八日には四度めの話し合いがもたれ、問題提起の冊子編集について実務的話が行なわれた(上野氏は抜き)。

 こうして、四度の話し合いの後、次のような「処理」が行なわれた。『マザコン少年の末路』は絶版とせず、上野氏の筆になる「『マザコン少年の末路』の末路」という反省・総括文を付録として「増補版」を刊行する(増補版は一九九四年二月刊、七〇〇円)。また、すでに『末路』を購入した人には、付録の抜き刷りを希望者に無料で送る。そして、話し合いに参加した七人による、本問題に対する意見表明(上野氏に関しては、「付録」の再録)の冊子を『河合おんぱろす』増刊号「上野千鶴子著『マザコン少年の末路』の記述をめぐって」として刊行する(一九九四年四月、河合文化教育研究所発行、一〇〇〇円)。

 こうした一連の話し合い、「処理」の結果、抗議した側の怒りは晴れただろうか。ノーである。「上野さんは、自閉症が『母親の過干渉過保護という育てかたによって引き起こされる母子密着の病理だ』というのは、『根拠のない偏見』であるということは認められたが、そうした『育て方によって引き起こされるというものではない』ことは、明言されなかった。・・・残念ながら、二度の話し合いの後も、上野さんには、最後まで、『自閉症』が『障害』であるという私たちの主張を理解していただけなかった」(冨田、四八頁)。「上野さんの文章が、大へん綺麗にまとめ上っていて、一般的には、『やっぱり上野さんは頭がいい』とか、『なんとなく納得させられる達者な文章』などというレベルの受け取り方をしてしまい、上野さんにとっては、このことは、『処理済』なのかしら、と疑ってしまうわけです。この半年余り、私にとって、どうだったかと言えば、少し変ったたとえ方をすると、何か沈澱している溶液を撹拌して、その瞬間、何かの変化が起こったかに見えながら、でも、すぐ元の状態に戻ってしまったような、そんな感じです」(梅田、六五頁)といった具合なのである。

 手続き的には、両者の合意によりながら進められた話し合いと事後処理の結果がこれである。第三者から見ても、暗い結果ではある。しかし、ここで紹介しようとしたのは、本事件が差別問題に多くの教訓を与えているという感想をもったからである。少ない字数で、この事件をとうてい語り尽くせないが、私なりに感じたことをいわせていただければ、以下のような点である。

 ひとつは、第一回目の話し合いに上野氏が同席していれば、もう少し抗議側を納得させられたのではないかと思う。一回目の話し合いは、かなり激しい糾弾の様相を呈しており、「私(冨田)や母親たちが口々に怒りをぶつけるのを、青木さんや加藤さんは硬い表情で聞いていた」という具合だった。そして、業を煮やした梅田氏が「やっぱり河合塾ですね」と受験産業を冷笑したことにたいし、青木氏が「私も自分の講義が商品だということは承知しています。それでも最低限、これだけは、というところのものは売り渡してはいないつもりです。日本史を教えていても、歴史は差別の歴史だということを、予備校生に語っているつもりです。ただの金儲けだけだったら、こんな講演会はしない。ギリギリのせめぎあいのとこで、やっているんです」と色をなして切り返した。「熱くなっていた話し合いは、青木さんの思わぬ切り返しに、一瞬凍った。しかし、この言葉が不思議にこの場を救った。『ギリギリのせめぎあい』は、そのまま私(冨田)の実感でもある。・・・話し合う中で、風穴が開き、共感が生まれると、言葉はよく響き通る。・・・母親たちも、しみじみと我が子を語り、母親の歴史を語った」という、なかなかグッとくるシーンが展開されたのである。しかし、二度めの話し合いからは、抗議側は「青木さんと加藤さんと私たちのあいだに生まれた共感から、上野さんに対する期待が膨らんでいた。その期待から、上野さんとはいたずらに対立することなく生産的なものを築いていこうとするあまり、腹蔵なく語ることができなかった。どこか言い尽くせない、伝えきれないものを残したまま、あるもどかしさを残して、話し合いを終える結果」となってしまったのである。もっとも、上野氏が一回目に同席したとしても、俗世間の中から「正しい理解」をする人が一人増えるに過ぎない訳ではあるが。

 このことと関係するのだが、感想のふたつめとして、抗議側の問題提起が、「自閉症」の枠内で考えることでしかありえなかったことに(そして、そうでしかありえないとも思うのだが)、差別解消のための行動のある種の限界を感じざるを得なかった。つまり、抗議側の訴えるところに従おうとすれば、自閉症に直接関係のない人も六〇年代から八〇年代にかけての学会における自閉症の原因論の変遷を把握しておらねば話の中で自閉症に触れることはできず(「知らずに語ってほしくない」という気持ちはわかるが)、友だちにかみついたり、学校の植木鉢を残らず割ってしまった自閉症児をあるがまま受けとめねばなない(告発側は「ねばならない」とはいっていないが)。社会における問題が、自閉症児だけなら問題は簡単なのだが、世の中に被差別者の種類は、無数にある。自分が被害者である事案について精通するのは困難ではあっても、不可能ではない。しかし、そこにもうひとつ違う差別問題への理解を加えるのは至難の技である。そのことを私は、筒井康隆氏の断筆に端を発する「てんかん」の問題で痛感した。あの事件における日本てんかん協会の主張を理解するために、私は京都産業大学・関西大学・京都府立総合資料館・志賀町立図書館で二〇冊を越える関係図書のほか、てんかん協会発行の雑誌を読み、それなりの理解に達した。しかし、それは私が差別問題を専業的に研究する大学教員であるから可能だったわけで、一般の人には時間的・物理的に無理である。すると、差別問題を「正しく理解する」ということは不可能ということになる。なるべく努力することは可能でも、誤った理解をなくすことは百年河清を俟つに等しい。このあたりに、従来の啓蒙的差別論が置き去りにしてきた問題があるように思う。科学的に「正しい理解」を世間に期待しないで、なお差別問題を改善する方途はどこにあるのだろうか。

※ この冊子について詳しくは、河合文化教育研究所(〒四六四 名古屋市千種区今池二の一の一〇 電話〇五二−七三五−一七〇六)へ。