筒井康隆断筆事件から『蘭学事始』まで 「被差別者への配慮」を考える
関西大学『人権問題研究室紀要』29号、1994年4月
はじめに
一九九三年九月、人気作家であった筒井康隆氏は作家活動をやめるとして、「断筆宣言」をし現在に至っている。ことの起こりは、同年七月八日、日本てんかん協会が角川書店発行の『高校国語T』に収録されている筒井作「無人警察」がてんかんに対する差別を助長するとして削除を要求したことに端を発する。筒井氏が著名なSF作家であったことやその筒井氏が断筆に至ったこともあり、この事件は新聞や雑誌でたびたびとりあげられ、さらにこの事件を扱った単行本も数種刊行されるなど、差別と表現をめぐる問題としては『ちびくろサンボ』絶版[(1)]以来の多くの人を巻き込んだ論争になっている[(2)]。この事件の一連の経過は、月刊『創』一九九三年一二月号の特集「差別表現とマスコミタブー」において詳しく整理されており、日本てんかん協会の抗議文、角川書店の回答書、筒井康隆氏の「断筆宣言」などが網羅されているので、そちらを参照されたい。本稿では、この事件のなかでなされた論争のメインテーマであった「表現の自由と差別」および「無人警察は差別小説か」の二点について若干論じた後、そうした議論の中で見落とされていると考える「既に存在する差別をつつき出すことの是非」について論じる。
筒井康隆断筆事件をめぐっての二つの論点
事件をめぐってなされた論争の論点は、第一に一般論として「小説を書くという表現の自由」と「差別をなくすという反差別」のどちらが上位にあるかということである。つまり表現において差別する自由があるのかないのかということだ。しかし、私は差別と表現の問題を「言論の自由」を軸に議論するのは不毛であると考えている。このことについては、すでに他のメディアで述べているので詳しくはそちらを参照していただくとして[(3)]、簡単にいえば私は次のように考えている。積極的に差別を振りまくことが自由の名に値するかは別にして、差別だと指摘されてその内容に納得がいかなければ、自分の表現を通す自由は第一義的に尊重されなくてはならない(いいかえれば、消極的な意味で差別する自由がある)。もちろん、それに不満があれば、そのことを批判するのもまた自由であるし、その本なりを不買運動するのもまた合法的抗議の範囲ではある。今回の筒井事件においては、そうした表現の自由が侵された訳ではない。筒井氏も角川書店も自己の表現行為を意に反して制限されたわけではないし、日本てんかん協会も抗議すること自体を禁じられたわけではない。むしろこの種の事件としては双方が比較的紳士的にふるまっているようにみうけられる。しかし、「お互いに批判する自由がある」という言い方で差別と表現の問題を語ったとしても、あまりにも一般論でしかなく、生産的とはいいがたい。
次に論争のなかで問題にされてきている論点の第二は、果たして「無人警察」は、てんかんにたいする差別表現にあたるかどうかということである。本当は、「無人警察」を全部読んで考えていただきたいが、ここではとりあえず粗筋を記すにとどめる[(4)]。
この「無人警察」は、近未来を描いたもので、主人公が出勤の途上巡査ロボットに出会うことから事件は始まる。巡査ロボットは「小型の電子頭脳のほかに、速度検査機、アルコール摂取量探知機、脳波測定機なども内蔵している。歩行者がほとんどないから、この巡査ロボットは、車の交通違反を発見する機能だけを備えている。速度検査機は速度違反、アルコール摂取量探知機は飲酒運転を取り締まるための装置だ。また、てんかんを起こすおそれのある者が運転していると危険だから、脳波測定機で運転者の脳波を検査する。異常波を出している者は、発作を起こす前に病院へ収容されるのである」。そして、その巡査ロボットがきしんだ金属音をたてて主人公の方へ頭をむける。気持ちの悪くなった主人公は、考える。「わたしはてんかんではないはずだし、もちろん酒も飲んでいない。何も悪いことをした覚えもないのだ」。
この二カ所の「てんかん」に関する表現にたいして、日本てんかん協会は、一九九三年七月一〇日付けの抗議文のなかで五点にわたって問題点を指摘している[(5)]。一つは、「異常波を出している者は、発作をおこす前に病院へ収容されるのである」という表現は、てんかんをもつ人々の人権を無視した表現であり、てんかんを医学や福祉の対象としてではなく、取り締まりの対象としてのみあつかっている。第二に、「てんかんではないはずだし、……悪いことをした覚えもないのだ」のくだりが、てんかんを悪者扱いするものである。第三に、てんかんをもつ人が運転することを危険視するのは時代おくれの考えであり、症状によっては免許をとれるようにしようとしている自分たちの運動を妨害するものである。第四に、発作はてんかんの症状の一部であり、症状はもっと多様である。またてんかんと脳波に関して医学的に誤っており、てんかんでも脳波に異常のない人がいるいっぽうで健常者でも数パーセントは脳波に異常がある。第五に、この教科書を使用した場合、てんかんをもつ高校生や近親者にてんかんをもつ人がいる高校生が授業で辛い思いをする。以上が、抗議内容の私なりの要約である。
この抗議内容について、角川書店や筒井氏が反論を試みているが、それと別に私は次のように考えている。第一の取り締まりの対象として描いているということについて。ここでは第三の免許の問題ともかかわるが、てんかんをもつ人が車の運転をすべきでないという前提にたてば、やむを得ないことだろう。確かに現行の日本の法律は、自動車免許以外にも調理師・通訳案内業・薬剤師その他あまりにも広範囲な業種に関しててんかん患者の参加を機械的に排除しており、それを改善しようというてんかん協会の運動には同感であるが、いっぽう運転中発作によって重大事故につながる可能性のあるてんかん患者が運転を禁じられるのは当然のことである。このことにつき、てんかん協会の機関誌上でも私見であるとのことわりがつきながら、弁護士吉田勧氏の意見として「服薬による発作の抑制が未だ短期間に止どまるときは、服薬による発作の抑制を信じることは許されるべきでなく、自動車の運転を開始しても構わないという判断に刑事責任の根拠を認めるべき」であり、そういうケースで運転中に発作を起こして人を死傷させた場合には「業務上過失致死罪あるいは業務上過失傷害罪として、五年以下の懲役ないしは禁錮、または二〇万円以下の罰金に処せられる」ことも止むを得ないとしている[(6)]。筒井氏の小説の該当場面も、発作により事故を起こす恐れのあることを故意に隠して運転している場合を想定しているようなので、取り締まりの対象とすること自体は、非難するにはあたらないだろう(もっとも、感情の問題を抜きにした場合だが)。ただし、小説の文脈で明かなことだが、速度違反や飲酒運転、てんかん患者の運転などはよくないことだが、高性能のロボットで片っ端からひっつかまえて病院や刑務所に送り込むようなことは、超管理警察国家であり、とんでもないことであるというのがこの小説の主題なのであり、てんかん患者への不当な取り締まりを肯定したり称揚したりしているとは読めない。
第二の、てんかん患者を悪者扱いしているというのは、誤読であると思う。小説の文脈にそって読めば、てんかん患者は脳波の異常で、飲酒運転はアルコール探知機で、悪いことをした人は「自分の罪を気にしていると、その思考波が乱れるから」、巡査ロボットに捕まってしまうのであって、てんかんを悪者扱いしているとの批判はあたらない。
第三のてんかんと自動車免許の問題は、やはり的はずれの感が否めない。あくまで筒井氏は、発作で事故を起こす恐れのあるてんかん患者を念頭においての表現であり、運転に危険のない人にも規制を加えるべきであるとまで、踏み込んで主張しているわけではない。むしろ、てんかん協会が六カ月から三年程度発作が抑制されているだけで運転が認められる国の例をあげて筒井氏を批判することで、てんかん患者の権利のためには健常者の安全が多少おびやかされてもかまわないという考えをもっているかのごとき誤解をいだかせる結果となっている。むろん、てんかん協会がそんなことをいっているわけではなく、自他の安全を第一に、運転を第二に考えているだけに、残念な立論というほかない。
第四の点も、同様である。脳波異常とてんかんを結びつけるのはおかしいということだが、この場面で科学的に正しい取り締まり方法をもってきても、小説としてはなんの変わりもない。むしろ、原作にあるように脳波を測定しててんかんであることを探索するようないかがわしい方法の方が、超管理国家を風刺するにはふさわしいわけである。また、「てんかん」という病名が差別につながるので病名を変更したいという議論のなかで、「てんかん」に代えて「発作症」という病名で呼ぶことを実行している医者もおられるくらいなので[(7)]、てんかんと発作、てんかんと脳波異常を結びつけること自体を差別の助長拡大に結びつけるのは、あまりにも小説に科学的厳密さを要求するものだと思う。
第五の、てんかんに関わりのある高校生が辛いではないか、ということについて。この点こそが、今回の事件に対するてんかん協会の最も危惧するところではなかろうか[(8)]。その危惧を私も大いに共有するものである。この小説が教室で読み上げられたら、その場にいあわせたてんかんの高校生は、さぞ辛かろう。しかし、……。
現にある差別をつつき出すこと
「無人警察」を教科書として使った場合、教室の中で起こるであろう否定的反応を心配する気持ちはよくわかる。その場合、私が頭に描いている教室の様子は次のようなものだ。ある高校のあるクラスに一人のてんかんを持つ男子生徒がいる。彼は授業中や体育、登下校時に時として意識喪失の発作を起こす(最近は、薬で発作を抑止し、うまくいけば完治することができるわけだが、今は端的なケースを想定する)。したがって、彼がてんかん患者であることは生徒の間では衆知である。さて、この教室で「無人警察」が教科書の中に出てきたとする。教室の様子はどんなことになるだろうか(私は、自分の体験としててんかん患者の発作に出会ったことがない。てんかんであるという友人はいたが、薬で症状を抑止していた。したがって、以下はまったくの推測である)。おそらく良くも悪くも生徒の中に何らかの反応を引き起こすことは避け難いように思う。すでに、そのクラスで彼がてんかんを持っていることに、一定の整理がついていれば、すなわち症状が起こったときどうするか、そしててんかんを持っていることを嘲ったり、嫌がらせをしてはならないことが生徒の中で了解されていれば、「無人警察」を読むことでその雰囲気が逆転するとは考えにくい。多少ばつの悪い思いをするかもしれないが、てんかんの生徒が学校に出てこれないほどの否定的状況が生み出されるとは思えない。反対に、てんかんに対する無理解が支配しているクラスではどうなるか。おそらく、教科書で使われたとたん、てんかんの生徒に対して嘲笑が起こったり、てんかんの生徒が後から鉛筆でつつかれるようなことが起こってくるかもしれない。しかし、そうしたクラスでは、保健の教科書でてんかんの説明があっても、おそらく同じ現象がみられるに違いない。つまり、現にある差別関係が表につつき出されるわけである。
教室の中のサンボ
文学作品の中で、文章自体がかなり明示的に差別的メッセージを発している場合(その判定はむつかしいが)と、差別的メッセージを発しているわけではないが、差別的関係をつつき出してしまう場合は、明確に区別しておかなければいけないだろう。「無人警察」以外の筒井氏のてんかんに対する認識をさぐれば、てんかん患者に同情的でないかもしれないが、しかし「無人警察」を読んだ人に差別的メッセージを発しているとはいえないと思う。これと似たようなケースに、『ちびくろサンボ』がある。『ちびくろサンボ』は一八九九年イギリスで出版され、名作絵本として世界中で愛読者を持っていたが、人種差別的な関係の中に投げ込まれたら、作品はどこまでも歪んで読まれる可能性がある。たとえば、次のような黒人女性の記憶はそのことをしめしている。「私はむかし学校で先生がその話〔『ちびくろサンボ』―灘本注〕を私たちに読み聞かせた時のたいへん辛い経験を思いだしました。そのころの学校の中で〔一九四六−四七、コネチカット州ウェストポート―灘本注〕私は唯一の黒人の生徒でした。その話を聞いたあと何人かのクラスメートが私のことをきまってサンボと呼んだことを覚えています(彼らはソフィスティケートされていたので、ニガーとは呼ばなかった)。そして初めてもう学校になどいくもんかと思いました。今日まで私は母にサンボが無害であるといった教師と校長を憎んでいます。唯一『ちびくろサンボ』で学んだのは、それ以後学校生活で用心深くなったということだけでした。いえ、いかに一人の子どもをだめにするかを示す実例になっただけなのです」[(9)]。しかし、『ちびくろサンボ』が人種差別的に読まれてばかりいたわけではなかった。たとえば、黒人運動団体が監修し一九三五年に出版された『ニグロ――学校図書館のためのアフリカ、アメリカ系ニグロを扱った本のリスト』には『ちびくろサンボ』が推薦図書としてあがっているし、児童文学者の渡辺茂男氏が一九五五年から二年間ニューヨークの公共図書館に留学していた時も、指導にあたっていた黒人の図書館員が『ちびくろサンボ』をすすめ、子どもたちにいっしょに読み聞かせていた体験を記している。また、『ちびくろサンボ絶版を考える』の中で、在日の黒人音楽家ハイ・タイド・ハリス氏は「私はずっとこの本が好きでした。今でも好きです」と証言している[(10)]。
『蘭学事始』と「穢多の虎松」
すでに存在している差別関係をつつき出すことに不安を抱くことは、人情としてやむを得ないことであるけれども、それを防止しようと努力することは、意外につまらない結果を導くことになる。その一例を今まで刊行されてきた『蘭学事始』に見ることができる[(11)]。『蘭学事始』はいうまでもなく杉田玄白が『解体新書』を著わした経緯をしるした著書であるが、その中で「腑分け」をする場面がでてくる。それを緒方富雄氏訳の『現代文 蘭学事始』から引用してみる。
「みなうち連れて、骨が原のふわけを見る予定の場所へ着いた。この日のお仕置の死体は、五十歳ばかりの女で、大罪を犯したものだそうである。京都の生まれで、あだ名を青茶婆と呼ばれたという。さてふわけの仕事は虎松というのが巧みだというので、かねて約束しておいて、この日もこの男にさせることに決めてあったところ、急に病気で、その祖父だという老人で、年は九十歳だという男が代わりに出た。丈夫な老人であった。彼は若いときからふわけはたびたび手がけていて、数人はしたことがあると語った。それまでのふわけというのは、こういう人たちまかせで、そういう人たちがこれは肺臓ですと教え、これは肝臓、これが腎臓ですと、切り開いて見せるのであって、それを見に行った人々は、ただ見ただけで帰り、われわれは直接に内臓を見きわめたといっていたまでのことであったようである。もとより内臓にその名が書きしるしてあるわけでないから、彼らがさし示すものを見て『ああそうか』とがてんするというのが、そのころまでのならわしであったそうである。/この日も、この老人がいろいろあれこれとさし示して、心臓・肝臓・胆嚢・胃、そのほかに、名のついていないものをさして、これの名は知りませんが、自分が若いときから手がけた数人のどの腹の中を見ても、ここにこんなものがあります、あそこにこんなものがありますといって見せた。図と照らし合わせて考えると、あとではっきりわかったのであったが、動脈と静脈との二本の幹や、副腎などであった。老人はまた、今までふわけのたびごとに医者の方にいろいろ見せたけれども、だれ一人それは何、これは何と疑われたお方もありませんといった。……帰り路は、良沢と淳庵とわたしとがいっしょであった。われわれは途中で語り合った。さてさてきょうの実地検分は、いちいちおどろきいった。それをこれまで気がつかなかったことがはずかしい。いやしくも医術でたがいに殿様に仕える身でありながら、そのもとになるわれわれのからだのほんとうの構造も知らずに、いままで一日一日とこの業をつとめてきたのは、面目もないしだいである。なんとかして、きょうの体験に基づいて、おおよそでもからだのほんとうのことをわきまえて医を行なえば、この業で身を立てていることのもうしわけにもなろう。こういって、ともどもにためいきをついた。良沢も実にもっとも千万、同感であるといった[(12)]」。
こう書くと何でもない文章であるが、杉田玄白自身の原文では、「虎松」は「穢多の虎松」、その祖父は「老屠」、「丈夫な老人」は「健やかなる老屠」、「こういう人たちまかせで」は「穢多にまかせ」となっている。老屠とは、年老いた「屠家」で、「屠家」は穢多の異称である。杉田玄白は、単に老人について語っているのではなく、穢多の老人が数々の解剖を手がけ、人体について熟知していることに驚き、敬意を表し、医者として恥入っているのである。部落差別をなくしたいと念願する人が読めば、快哉を叫ぶと同時に、杉田玄白の謙虚な姿勢に真理探求者の真髄をみるところである。では、なぜそうした部落の歴史のキラリと光る一コマを緒方富雄氏は削除してしまったのか。それは、悪意に解釈すれば訳者が面倒なことにかかわりたくなかったのだといえるかもしれないが、そんなにひねくれて解釈しなくても、現に存在する差別をつつき出すことを望まなかったためだろう。仮にこの『蘭学事始』が高校国語の教科書に採用されて教室で使われた時、教室の部落出身生徒が胸を張れる保証などどこにもありはしない。
「被差別者への配慮」のむかうところ
「傷つく生徒がいる」という基準を上位に置くと、部落問題でいえば部落の歴史を正面から論じることはもちろんのこと、江戸時代の一登場人物として「穢多」が登場することすらむつかしい。しかし、差別を顕在化させないための表現・言葉のデリカシーを要求することで何事かが得られるだろうか。被差別の立場にある子どもに庇護者的に振る舞ってしまう気持ちは分からないではないが、結局その繰り返しの中で育った子どもの将来に私はいちまつの不安をいだかざるを得ない。もちろん、だから現にある差別関係をいくらでもつつきだしていいとは考えていないが。これは、いってみれば差別問題の社会的解決と、個人が差別を避けながら暮らすことの絶対的矛盾に根ざしたことがらである気がする。社会的解決のためには、問題を正面から論じなければならないが、正面から論じると差別をつつき出すことになる。この問題に正解はない。しかし、デリカシーを要求する方向に向かいがちな現今の風潮におおいなる危惧をいだくのである。
(注1) 一九八八年に日本で起こった『ちびくろサンボ』絶版騒動は、筒井事件をうわまわる論争であった。というより、このサンボ事件を契機に差別と表現の問題が公に論じられるようになったということもいえる。この事件を扱った単行本に以下のものがある。まず論争の口火を切ったものとして、径書房編集部編『ちびくろサンボ絶版を考える』(一九九〇年、径書房)があげられる。これはサンボ論争に関する様々な意見を収録したもので、巻末に詳細な文献目録がある。サンボ絶版に反対の立場からの意見表明としては、杉尾敏明・棚橋美代子『ちびくろサンボとピノキオ』(一九九〇年、青木書店)、杉尾敏明・棚橋美代子『焼かれた「ちびくろサンボ」』(一九九二年、青木書店)、『ちびくろサンボ』そのものに批判的な立場からは、ジョン・G・ラッセル『日本人の黒人観―問題はちびくろサンボだけではない』(一九九一年、新評論)がある。また、原作者および原作の絵本を論じたものとして、エリザベス・ヘイ『さよならサンボ―ちびくろサンボの物語とヘレン・バナマン』(一九九三年、平凡社)がある。これは、巻末に『ちびくろサンボ』オリジナル絵本全ページのカラー写真が掲載されている。
(注2) 最近の雑誌上における差別語問題の取り扱われかたを見るために、日外アソシエーツ提供の雑誌記事索引「Magazin 」を「差別語」「差別用語」「差別表現」のキーワードで検索したところ、一九八一年から一九九四年三月四日現在までで一五九件ヒットした。少ない年で一件、一〇件以上の年は一九九〇年の一二件、一九九二年の一〇件であるが、一九九三年は四二件(月刊『創』の筒井断筆事件特集は三九記事を一件とカウントした)と差別語関連記事が突出して多い。このうち筒井問題に関連したものが多いのはいうまでもない。一九九四年もすでに一九件と通常の年より遥かに多い。
(注3) 径書房編集部編『ちびくろサンボ絶版を考える』二五三頁、灘本昌久 「マンガと差別」(現代風俗研究会年報『現代風俗 九三』三六頁、月刊『創』一九九三年一二月号、九六頁。
(注4) 「無人警察」は、はじめ『科学朝日』一九六五年六月号に掲載され、その後、『にぎやかな未来』(角川文庫、一九七二年)、『筒井康隆全集』第一巻(新潮社、一九八三年)に収録されているが、ここでは問題になっている、『高校国語T』(角川書店)から引用した。
(注5) 日本てんかん協会機関誌月刊『波』一九九三年八月号二七九頁。
(注6) 吉田勧「てんかんを隠して免許を取得したらどうなるか」『波』一九九〇年八月号、二六〇頁。
(注7) 『波』一九八二年一一月号、二八六頁。
(注8) 池田清彦氏もこの点を指摘しておられる。「筒井康隆断筆騒動は錯誤である」(『宝島30』一九九三年一〇月号、四三頁)
(注9) Phyllis,J.Yuill,1976,Little Black Sambo:A Closer Look, The Council on Interracial Books for Children,p.22
(注10) このあたりの事情は、灘本「『サンボ』を通して差別と言葉を考える」(日本図書館協会『図書館雑誌』一九九一年五月号、二四八―二五〇頁を参照。
(注11) ここで紹介する問題は、すでに横井清氏が『光あるうちに―中世文化と部落問題を追って』(阿吽社、一九九〇年)の五七―六二頁で指摘されている。
(注12) 杉田玄白著、緒方富雄訳『現代文 蘭学事始』岩波書店、一九八四年、五六―五九頁。