第三期の部落解放運動とイメージ戦略 ―差別反対キャンペーンの得失―

こぺる刊行会『こぺる』5号、1993年8月

                  灘本昌久

 

部落差別の「壁」

 

 部落差別は今どうなっているのだろうか。一方に解消論あり、他方に拡大再生産論あり、諸説分かれているようだが、実際はどうなっているのだろうか。高校進学率が全国平均より一〇パーセント低いとか、大学進学率が半分だとか、収入に格差があるとか、広義での部落差別と見なされてきた「実態的差別」に、統計上の差異は見いだせる。しかし、以前のように一般の人に忌避感をいだかせるような状況はほぼ一掃されたという点に大方の同意はえられるだろう。では、狭義での部落差別である「心理的差別」はどうだろうか。この点は、住んでいる地域やおかれている状況によって大きく違うだろう。とくに旧来的な村落秩序や慣習のなごりが濃厚な農村部と、契約的で匿名性の強い都市部で違いは大きい。しかし、京都府下で一〇数年来聞き取り調査などをしてきた経験からいうと、農村部であれ都市部であれ、たいがいのお年寄りは昔と今では天と地の差だといって差別の解消を喜んでいる。運動的・行政的「偏見」をとりさってみれば、部落差別の心理的な面での改善も疑問の余地がないように思える。

 しかし、一九六九年以来の同和対策事業特別措置法下で行政闘争が破竹の勢いで進展していた一九七〇年代に、部落の低位な実態が改善されたら達成されるだろうと我々が期待していたほどには差別感情が一掃されていないのもまた事実である。部落と部落外との間にある見えない壁の存在が否定できない。昔のような、牢固とした障壁というほどでは決してないのだが、確かにそこにあるという感じがするのだ。

 私は、現在大学の専任教員で同和教育・人権教育を担当している。非常勤時代を含めると七年間に五大学で教え、のべ五〇〇〇人くらいの学生を相手にしてきた。そして、何人かの学生から直接部落差別に関する相談(主に自分の結婚問題)を受けたし、また、レポートの1割から2割ぐらいは、部落問題か朝鮮人問題で自分自身の体験を語る。以下に引用するのは、そうした学生のレポートのなかで、「壁」の存在に触れたものである(なお、ややつながりの悪い個所があるが、原文のままとした)。

 ひとつは、男子学生による次のような文章だ。

「私は、高校2年生の時に、部落出身の人と初めて友達になりました。私の席の横にその人がすわることになって、それで私とその人は友達になりました。ある日、その友達に「オレの家に遊びにくるか?」と聞かれて、私は、すぐ「うん、いくわ」とこたえました。学校がおわり、帰り道の途中で、私は「家は、どこらへんにあるん?」と聞くと、その人は少し言いにくそうに答えました。私はその時、「その辺て、部落出身の人が住んでるとことちゃうん?」といってしまい、少し沈黙があり、その人は「そうやねん、オレ、部落出身やねん」と、スッパリ言い切って、その人は少し笑いました。私は、ドキッとしました。なぜ、私は驚いたのでしょう。たぶん、こう思います。心では、部落差別は悪いものなんだ、絶対してはいけないんだと思いつつも、心のどこかでは差別している部分も、自分には少しあるような気がしました。自分自身がすこし悲しくなりました。私は「ほんま、知らんかったわ」とかるく答えると、その人も何か気がはれたような顔でいろいろと話かけてきました。家につくと、その人のお母さんが歓迎してくれました。それから、私とその人は、昔以上に仲良くなれました。」

 もうひとつは、以下のような、同じく男子学生によるものである。

「高校生の時、僕の友達には、かなり、部落の友達がいました。その子達は、別に外国人でもないし、ただの日本人、僕たちと同じなのに、何故か避けられていた。正直言って、最初僕には何故彼らが避けられていたのか、全く分からなかった。それで、僕は、彼らを避けている友達に何故避けるのかと聞いたら、彼らは部落の人間だ、と言った。僕は、高校に入って、始めて部落というものを知り、ただ単に部落の人と聞けば、何か避けるようになってしまった。しかし、ある日、部落出身である友達と話をしていて僕は思った。何故、彼、彼女達を避けなければいけないのか。僕は、僕自身、周りに流されることなく、避ける必要なんかないと、思った。何故なら、僕の友達はなりたくてそんなんになったんじゃない。世間で、あの人は部落の人間だと、そういうふうな世間を作った社会が悪いと思った。それから、ちょっとしてから、けっこう親しくしていた友達が自殺をしてしまった。そのお母さんから、電話があり、僕は友達のお母さんに、何故あいつが自殺なんかって聞くと、その友達のお母さんは、ちょっと前から、その友達の所へ電話があり、「お前は、部落の人間なんや早く死ね」などの電話があり、その上その子の所に変な手紙が来ていたらしいのです。僕は、その子が、部落の人間とは全く知らなかったのです。その夜、僕は泣きました。何故、その友達が僕に一言相談ぐらいしてくれなかったのだろうと。けど、理由ははっきりとは分かりませんが、何となくわかるような気がした。たぶんその子が一言自分が部落の人間と言うと、かなりその子とは仲がよかったので、避けられると思ったんじゃないかなと。今でもそう思います。僕は1年間、この授業を受けて、かなりまた知識が増えたと思います。これから先、差別問題はなくなることはないだろうと思う。本当に、差別の問題をなくすには、差別される人がいなくなるか、差別する人に本当にそれが正しい事か、差別について納得させるしかないと思います。僕は差別で友達を失くしたので、差別する人は、ダメな人間だと思います。これから先、何年、何十年たつか分かりませんが、差別をなくす運動を、一人でもやっていきたいと思います。」

 

第三期の解放運動の課題

 

 引用した高校生時代のふたつの経験は、それほどめずらしいことではなく、どこにでもある話である。私が問題にしたいのは、こうした事態にたいして、今までの解放運動は有効な営みをなしえてきたかということである。部落解放運動にかかわりの薄い人には意外に聞こえるかもしれないが、今までの部落解放運動は、日常生活の人間関係の改善とはあまり切り結べていないというのが私の印象である。

 一九七六年に大学に入学して以降、京都市内のある部落で解放運動にかかわったときの私の経験では、集会への動員やさまざまな学習はするが、職場・地域での対人関係や結婚問題など私的性格の強いことがらに関連して起こっている部落問題は、意外なほど運動ではとりあげられれない。むしろ、善意からそっとしておくというのが常であった。あるいは、何かできればとの思いがあっても、有効な回路がもてないままうやむやになるというのがより妥当かもしれない。読者は、日常生活における差別事象について解放運動はいっしょうけんめい取り組んでいるとの印象をもたれているかもしれないが、それは事後的に対処しているのがほとんどだと思う。職場でいたたまれなくなって、運動に訴える。結婚が邪魔されて破綻し、運動に訴える。しかも、それらは氷山の一角で、大部分は問題化することもなく、本人の心の傷として残るだけで人々に忘れ去られていく。

 私がここでいいたいのは、そうした課題が取り組まれてこなかったことについて、過去の運動を否定的に評価しようとしているのでもなければ、欠陥としてあげつらおうとしているわけでもない。そういった考えはないものねだりであり、むしろ、今述べたことは部落問題が解決にむけて着実に歩んできた結果、新たな課題として浮上してきたととらえたい。

 現在、部落解放運動は第三期といわれている(戦前の水平社時代を第一期、戦後の行政闘争時代を第二期、そして現在を第三期と規定。詳しくは、大賀正行著『第三期の部落解放運動 その理論と創造』(人権ブックレット三〇)、解放出版社)。

 第一期の解放運動のめざしたものは、個人糾弾闘争により差別してあたりまえ、されてあたりまえの状態の克服であった。

 全国水平社(1992年創立)によって始められたの差別糾弾闘争が、いかに部落民を勇気づけたかは、次のような老人の思い出によくあらわれている。「水平社ができた時分、うれしかったわ。もうこれで、軽蔑しられへんようになんねんわと思うて。うちの畑でお茶つんでたところへ、水平社が来はって演説しはったとき、『あー、こんで軽蔑しられんようになる』いうて、うれしかったわ。水平社の人らの言わはったこと覚えてるで。『あのなぁ、ちょっとでもな、エッタとかなんやかんやいうてなぁ、軽蔑されたらな、申し込んでくれ。誰なりでも、くそでもひっくり返したるさかい。私ら行ったるさかい』いうて。一所懸命になってくれはった。それからやわ、よう言わへんねんわ。水平社がこっちに顔出してから。面と向かって言うたら、台ぐちひっくり返されるわ(笑)。ほんでな、骨折ってくれる人があるさかいな。私の年いかん時分とえらい違いやわ、ほんまに。(明治40年生まれの婦人)」(京都部落史研究所編『井手の部落史 くらしとしごと』)

 この時期の部落側の本心は、糾弾対象との関係を改善しようとの意識は比較的薄かったのではなかろうか。水平社の創立者たちは、部落と部落外の融和を展望していたのかもしれないが、個々の部落民の生活の現場では、当時の力関係からして相手を黙らせることで精いっぱいだっただろうと思われる。彼我の人間関係は、まだまだ大きく隔てられている状態であったし、この時期の部落民にとっての人間関係は、主に部落民同士であった。

 第二期(行政闘争)でめざされたものは、差別意識の土壌である部落の低位な生活の克服であった。この時期、個人による差別事件は、部落の低位な生活実態の反映であるとして、直接の克服はめざされず、生活の低位性の克服により、おのずと解消されるものと認識されていた。したがって、第一期が差別事象に直接働きかけたのとは反対に、第二期では差別事件は同和事業の必要性を明らかにする証拠物件の役割にとどまった。

 しかし、そうした生活の物的諸条件を改善する運動は、大成功の内にその役割をおえつつある。さきにのべたように、全国のほとんどの部落で、人に嫌悪の情をもよおさせるような劣悪な生活実態は一掃された。第三期には、こうした成果のうえにたって、部落民をとりまく地域・職場の人間関係を部落差別で揺るがないような確かなものにする、という課題が浮上してきたのである。(なお、付言すれば、藤田敬一氏が『同和はこわい考』で提起した問題の一つは、こうした第三期にあって、部落の側からする立場の絶対化や部落外からの被差別という立場への無批判な随伴が、差別を固定化する大きな原因であるとする問題提起であった。その点、どちらかというと運動の内部か周辺の人に力点のある問題提起だが、本稿はもう少し運動と疎遠な人を念頭においている)。

 

第三期にみられる差別関係の特徴

 

 第三期の差別関係の大きな特徴は、ひとつには、その克服が極めて個的・私的にしかなされないということである。

 さきに引用した二つのレポートにあらわれたケースは、結果において天と地ほどの差が生じたが、二つのケースをとりまく地域住民の差別意識や、物的な意味での生活条件についてそれほど大きな違いがあったとは思えない。この二人の運命を分けてものは、本人の主体的条件とまわりの人間関係であったと思う。けっして家が貧しかったり、学歴がなかったりしたからではない。

 前者の部落出身学生は自分自身で踏ん切りをつけて、前に一歩踏みだし、自分自身、そして相手に対し、部落問題にどう向き合うかを問いかけた。そして、その結果部落外との安定した人間関係を作ることに成功している。このケースで部落の高校生が、自分の友達を自宅に招いた行動は、行政闘争期には特別の位置づけを与えられなかったかもしれないが、第三期にあっては糾弾闘争以上に積極的行為である。

 それにたいし、後者の部落出身生徒は敢えてひどい言葉を使えば、闘えずして敗北してしまったとの感を深くする。もちろん、そこに至った原因は、死んだ男の子一人の責任に帰せられるべきものでないことはいうまでもないが。学生の回想にもあるように、後者のケースで高校生に死をもたらした大きな原因は、少年自身が部落民ということにあくまで手を触れずに問題に対処し、孤立を深めたことに大きな原因があったような感じを受ける。また、母親も自分たちが部落民であることをどう受けとめていいか、充分には自分の中で整理をつけられずにいるような状況を想像させる。たしかに、そうした孤立を強いたまわりに問題があることはもちろんであるが、部落民の行く先々を、あらかじめ安全圏に整備しておくことは、当分不可能なことを思えば、それへの対処が第一義的には本人の責任において、そして、第二にはそれを支える運動や周囲の人の責任においてなされなくてはならないことは当然である。また、事態がこじれて、集団的運動が事後的に処理することはできても、本人の主体的行動をぬきにして運動による解決がありえないことは明白である。第三期の解放運動は、第一期の糾弾闘争のように公然たる差別行為・差別待遇を抑止するだけでは不十分であり、歪んだ関係を編みなおした翌日からの正常な人間関係を保障できなくては無意味なのである。

 第三期の差別関係のふたつめの特徴は、差別がさまざまな外皮を脱いでついにその基層をあらわしている、たとえていうなら細胞膜が剥がれて原形質が露出しているような状態であることではないだろうか。かつての部落差別は、部落のもつさまざまなマイナスを理由に(それは貧困であったり、無秩序であったり、さまざまな劣等性である)その行為をある程度理屈づけしたり正当化することができた。しかし、今やそうした弁解理由はすべてひきはがされて、ついに部落民を差別する理由は、相手が「部落民だから」という同義反復でしか表現できない事態にたちいたっているのである。このことは、運動の成果であって喜ばしいことであると同時に、我々に新たな課題を投げかけているように思う。すなわち、従来の差別と違って、今問題にしているこの差別感のなりたちは極めて根拠薄弱であると同時に、そとからの説得にも決め手を欠いているのである。つまり、「啓発」という手段では動かし難いものなのだ。部落にたいする誤った知識に災いされているので正しい知識を提供する、あるいは社会の責任を突きつけてみたり、さらに被差別者の苦しみを訴えてみたり、そうしたことでは乗り越えられないある種の掴み難さを感じないではいられない。

 

これからの方策

 

 このように、集団運動の介在し得る余地が狭くなり、また啓発が無力化したとき、我々はなにができるだろうか。

 個的あるいは私的解決しかありえないといっても、当事者以外が指を加えて見ていなくてはならないというわけではない。むしろ、孤立しがちな当事者を支えることができてこそ、部落解放運動の存在意義があろうというものだ。その場合、どうやって支えるべきか。これが案外むつかしい。いままで、差別の壁の前でたじろいでいる部落内外の学生の相談にのった経験からいっても、その場で語るべき言葉のもちあわせが意外にすくなく、思い出しても冷や汗の出る思いである。

 若い人が、職場や地域、結婚で差別に直面したときに陥る危険は、自分が被差別者であるというマイナスのアイデンティティーに飲み込まれるという危険である。ここが行政闘争に大衆動員するときのアジテーションとは根本的に違うことなのだ。第二期行政闘争は、さまざまな部落のマイナスを掘り出し、それを部落差別の結果であるとして、行政に施策を要求することが戦略であった。したがって、部落から掘り出されるマイナスは多ければ多いほど資源となるのである。また、差別事件も社会が背負っている部落差別存続に関する責任の証拠物件であるから、ある意味で多いほうがいいことになる。しかし、第三期は、差別と向かい合った部落民が、一人で勇気を奮い立たせなくてはならず、また相手のこころの内部で部落がなんら差別するべき対象でないことを了解させなくてはならないのだから、部落が被差別の存在であるという証拠や事実は少ないほうがよいに決まっている。行政闘争の場合と違って、差別にひとり立ち向かおうとする人には、部落民であることがなんら恥じたり臆すべき事ではないこと、「部落民」などというレッテルが実は意味のないカテゴライズであることを心から納得するような言葉や態度をありあまるほど提供しなくてはならないのだ。

 我々のなし得ることのふたつめは、部落外の人たちの部落にたいするマイナスイメージを払拭することである。これも、被差別の当事者を励ますのとおなじくらいむつかしい。「・・・と考えてはいけません」とか「・・・と考えねばなりません」という禁止によって成し遂げられないことはいうまでもない。そして重要なことは行政闘争自体が部落のマイナスイメージの払拭には障害であることである。行政に同和施策を要求するためには、部落にマイナスが存在することが前提されている。住宅建設にせよ、奨学金の獲得にせよ、子供たちへの補習学級にせよ、それらの獲得には、部落の住宅事情が悪いこと、家が貧しいこと、成績が悪いことをいいたてなくてはならない。第二期の行政闘争期には部落外に比べて、さまざまな低位性が部落に堆積している事実が広くみられたので、部落の側からマイナスを提示しなくても一般社会は部落をマイナスの存在とみなしており、解放運動が行政闘争に集中することが必要でもあり可能でもあった。しかし、今や行政闘争は、部落のマイナスイメージの払拭にとって桎梏と化している。たとえ部分的に低位性が残っており、同和施策が必要であったとしても、それがマイナスイメージの震源地になるということは認識しておく必要があるだろう。マイナスの証拠を積み上げられて、内面に巣くうマイナスイメージを放棄する人を想像することはむつかしい。むしろ、部落にたいするあらゆる特別対策を放棄していく方向でことを進める必要があるだろう。

 

解放運動の現在

 

 最近、部落解放運動にみられる時代錯誤、すなわち第二期の差別問題のとりあげかたと第三期の差別問題のとりあげかたの違いにたいする無理解から、運動がとんでもない方向に展開されている場合が目につく。

 その一つが結婚差別である。たとえば、一九九一年におこった広島市中学校教師結婚差別事件をめぐっての全国キャンペーンは理解に苦しむ。事件は、中学校時代の副担任であった男性教師が卒業した女生徒と懇意になり、結婚を約束していながら部落出身であることを理由に約束を破り、ついに男性教師の買い与えたと思われる睡眠薬を飲んで女生徒が自殺したという悲惨な事件である。確かに、事件はひどい内容であるし繰り返してはならないが、全国キャンペーンをしてどうしようというのだろうか。結婚差別反対のデモを繰り広げるにいたっては何をかいわんやである。まして、男性教師が共産党系であったという政治的背景が伏在しているとなると、集会の目的自体に疑問をいだく。

 さきに述べたように、この種の問題は、まず当事者である一部落民がどうやって勇気を奮い立たせ、社会から押しつけられるマイナスのレッテルに打ち勝って問題に向き合うかが第一義であり、第二に重要なことは一般社会が部落にいだいているマイナスイメージを建て前上ではなく内面においてぬぐい去ることである。そのふたつの課題にとって、結婚差別反対キャンペーンはどんなプラスになるのだろうか。第二期に特徴的な結婚差別のとりあげかたは、どうしても事後的であり、また、部落民が一方的被害者としてのみ扱われることによって、事件が起こってしまったことのプロセスの検討や反省がなおざりになりがちである。この広島の事件に関する集会にでても、差別があったこと以外はなにも伝わってこない。かりに、結婚差別に直面している若い人をあの集会に連れていったら、問題に取り組む勇気もそがれ、否定的影響しか与えなかっただろう。

 付言すれば、一部で行なわれている結婚における身元調査禁止運動も、第二期的発想の所産である。今我々が問題にしているのは、部落と部落外の生の人間関係が安定して良好であり続けられるかどうかということである。就職差別での身元調査をやりにくくすることはいいことであるかもしれないが、結婚での身元調査の手をしばることは、問題を先送りするだけで、部落民を問題回避の方向に動機づけることになる。仮に身元調査をするような家庭の人と結婚して、その後幸せに暮らせるだろうか。せいぜい部落民であることを隠してひっそりと生きていくような人生を選択することになるのではなかろうか。結婚における部落差別の克服は、正面から直球で解決するほかない。変化球でどうこうなるような半端な問題ではない。

 また、最近とりざたされている差別落書きや職場・学校での差別発言問題への対応も、今の課題を第二期と押さえるか、第三期と押さえるかで大きく分かれてくる。一般社会に部落差別の存在自体を気づかせることに意味のあった第二期には、さまざまな差別事件をひとまとめに証拠物件として提示することに意味がなかったとはいえないだろう。しかし、今は行政施策プラス啓発活動で問題の前進ははかれないのではないか。少なくとも、差別落書きや差別発言のあった空間での部落民と非部落民の人間関係を個々に具体的に扱うのでなければ、差別の事例をあげつらうことは差別にたちむかおうとしている人の意気を消沈させ、相手の心に部落へのマイナスイメージを固着させてしまうだけ逆効果である。

 以上のべてきたことに対し、当然批判が予想される。未だ一般社会は部落問題に無理解であり、部落差別の存在を知らせることに意味があると。また、部落差別をなくす責任は行政や社会一般にあると。それぞれに一分の理があることは認めよう。しかし、しょせんそれらは第二期的行政依存・制度依存の枠から抜けでてこようとしない旧来的問題解決法である。第三期の運動は、部落のある個人がどこそこの誰々と今日その場からどのようにして友好的安定的人間関係を編むことができるかということであり、それができるのは、第一義的には、その当人の努力に負うところが大部分であるという認識が必要であると思う。

 

※ なお、本稿は一九九三年二月二〇日に行なわれた第二四回部落解放研究京都市集会第3分科会「差別事件と差別糾弾闘争」で私が行なった報告のレジュメを原型をとどめないまでに大幅に加筆訂正したものである。ただ、趣旨はまったく変わっていない。当日、議論に参加していただいた方々にお礼を申し上げる。