「マンガと差別」
現代風俗研究会『現代風俗 93』1993年1月

 

はじめに

  現代風俗研究会の今年度のメインテーマは「マンガ」。マンガとゲンプーケン。よくわかる組み合わせだ。クリープとコーヒーのようによくわかる。しかし、私にいただいたテーマである「マンガと差別」となると読者諸氏にはわかりにくいかもしれない。私も二十年前ならまったくわからなかっただろう。しかし、今はよくわかる。本書の編集者には、現在の「差別!」という観点からなされるマンガへの異議申し立てに違和感があったのだ。

 私は、マンガに対して「差別だ!」という異議申し立てがなされることを全面否定しようとは思わないが、最近反差別運動の立場からなされるさまざまな表現への「差別!」という抗議の内容には少なからぬ違和感をいだいている[(1)]。その違和感というものは、こんなことだ。いまどきの人で、差別と聞いて良いことだと思う人は少ない。たいていは、「差別=いけないこと」と反応する。そして、「差別!」という指摘がもっともだと感じたときは、当然「いけないことだ!」と思う。しかし、やっかいなのは、その「差別!」という指摘があまり腑に落ちなかったときだ。差別問題を心にとめていない人は、当然「そんな馬鹿な!」と頭から否定するだろう。ところが、差別問題を心にとめている人は、一瞬「そうかな?」と疑問に思いつつ、結局は少し無理をして飲み込んでしまう。多少異物感はあるものの、「差別!」を完全に否定できないまま、その指摘を拒否する心地悪さに比べればまだましだと、グイと飲み込んでしまうのだ。しかし、飲み込むものが少ない間は、それでいいが、最近では「差別!」の申し立てが引きも切らずの状態なので、そうそう飲み込んでばかりもいられなくなる。

 

手塚治虫『ブラック・ジャック』

 

 一九八八年に日本の児童文学界をゆるがした『ちびくろサンボ』絶版問題は、そうした異物飲み込みの典型的な例だ。原書の出されたイギリスや、サンボ問題の発祥の地であるアメリカでさえ『サンボ』が絶版になってはいないのに、日本では大手の出版社がすべて絶版にしてしまったのだから、『サンボ』に素朴な親近感をもって接してきた読者の居心地の悪さといったらない。「黒人が嫌がっているのだから」と自分にいいきかせたぐらいでは到底取り除けない違和感で、みんなお腹をグルグルいわせている。しかし、このことについては既に意見を述べたし[(2)]、また機会をあらためて論じるつもりなので、ここでは置こう。

 マンガが差別であるという指摘を受けた例をそれほど多く知っているわけではないが、その少ない知識の中で、社会的にも注目され、影響も大きかったと思われる、しかも上記の異物感を残した例が、手塚治虫の代表作である『ブラック・ジャック』への抗議事件だろう。

 『ブラック・ジャック』は、秋田書店発行「少年チャンピオン」の一九七三年一月一九日号から一九七八年九月一九日号にかけて掲載された手塚治虫の代表作のひとつである。その一五三話に「ある監督の記録」(一九七七年一月一日号。実際の発売は七六年一一月下旬)という話がある。

 「ある監督の記録」のあらすじは、こうである。――日本映画界の巨匠で、かずかずのヒット作を生みだし続けてきた映画監督である野崎舞利(のざきまいり)には、十五、六歳になる脳性マヒの子どもがあった。彼は、この子どもの成長記録をフィルムに記録し続けてきたが、その最後のシーンを子どもの脳性マヒの治療でしめくくり、記録映画として世に出したいという夢があった。そして、すでに二人の脳性マヒ者を治療した実績のある無免許の天才外科医ブラック・ジャックに治療をたのむ。ブラック・ジャックは、脳性マヒは運動中枢の異常が原因だとして、頭蓋骨を開いて脳に電極を差し込み、電流を通して治療を行なう(これを、手塚治虫は「ロボトミー」と呼んでいる)。手術は成功して映画ができた。しかし、ブラック・ジャックを快く思わない日本医師連盟の会長が、映画にクレームをつけた。無免許の医師が執刀する映画を後援するわけにはいかないというのだ。そこへ、ブラック・ジャックが現われて、別のフィルムを出す。こういうこともあろうかと、親友である医師を助手として立ち会わせ、この親友が手術をしているように手術場面をはめ込んだ別の記録フィルムをつくっていたのだ。こうして、医師会会長のもくろみは崩れさる。――

 この「ある監督の記録」に、脳性マヒの人たちでつくる「全国青い芝の会」、「ロボトミーを糾弾しAさんを支援する会」などが抗議をした。まず、七六年末に出版元の秋田書店に抗議文が送られ、二回の話し合いがもたれた。抗議の内容は報道によれば次のようなものだ。

 

 「このマンガが問題なのは、まずロボトミーを美化、正当化していること。ロボトミーは主として精神障害者に行われる手術で、『興奮性』などを抑えるのがねらいといわれる。しかし人間の意志や感受性、喜怒哀楽など『人間らしさ』が失われる後遺症があり、各地で悲惨な結果が相次いだため、強い批判がでている。日本精神神経学会は昨年五月の総会で「医療としてなされるべきではない」と決議までした。

「支援する会」の佐久間茂夫さんは「このマンガは、こうした野蛮な生体実験を、あたかも障害者にとって福音であるかのように美化しており、障害者差別を助長するものだ」と批判する。

 指摘に対して、手塚氏側は「不勉強のため、ロボトミーにそれほど問題があるとは知らなかった。障害者に迷惑をかけ、申しわけない」と謝罪し、秋田書店側も「作品の内容は手塚さんにまかせていたが、こちらにも責任がある」と非を認めた。そして、二月一〇日付けの全国紙に関係者による次のような謝罪文が掲載される。[(3)]

 

 おわび

 秋田書店発行の週刊少年チャンピオン(一月一日号)に掲載された、手塚治虫作『ブラック・ジャック』第一五三話「ある監督の記録」で描かれたロボトミー手術は、人格を破壊する危険な手術であり、日本精神神経学会で禁止された手術です。このような脳性マヒ者、精神障害者に有害、かつ無益な同手術を肯定したこと。いわば人体実験として行われてきたロボトミー手術を美化し、脳性マヒ者等障害者(精神障害者、身体障害者)を健全者に同化すべきものとして描き、障害者差別を助長したこと。ひいては保安処分を導入する刑法改正を肯定したこと。

 右内容により、脳性マヒ者を含む障害者の方々、及び、ご抗議を受けた「青い芝の会」等関係団体各位に、ご迷惑をおかけしたことを深く反省し、おわび申しあげます。尚今後、障害者差別をなくしていく立場で行動していく所存でございます。

     一九七七年二月一〇日

 

                         株式会社 秋田書店

                         手塚プロ 手塚治虫

 

 

 

ブラック・ジャックの思想

 

 青い芝の会が問題としている点の第一は、この話がロボトミーを美化しているということにある。確かに、『ブラック・ジャック』の中で、脳外科手術をさしてロボトミーと呼んでいるのは確かだが、それは、用語法が不正確なだけだと思う。一五三話の中に、精神障害者は登場しないし、まして彼らを害悪視してなされる厳密な意味でのロボトミー手術を奨励しているような部分はない。むしろ、『ブラック・ジャック』全編をつうじて流れているのは、近代的医療の技術万能主義に対する懐疑であり、強い批判である。たとえば、それはブラック・ジャックの師匠である本間丈太郎がいった「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね」[(4)]というセリフの中に手塚の思想として疑問の余地なく表現されている。ともすれば障害者切り捨てが平然となされる世の中で、手塚の作品は群を抜いて障害者解放的であるように思えるのだ。

 月刊「障害者問題」編集部の本間康二氏も、『ブラック・ジャック』を次のように評価し、障害者問題の立場から、肯定的にとらえていた。「このブラック・ジャックの出現は僕を大いに驚かせ、いたく感激させた。いろいろな身障者が初めて、それも前向きの形で漫画の世界に取り上げられたからである。血友病の少女が恋をしたり(サブタイトルは「血がとまらない」)、人間社会に絶望した女性が鳥になって空へ飛び去ったり(「人間鳥」)、サリドマイドの少年が舌を使って珠算大会で優勝したり(「何という舌」)する。僕は車イスや松葉杖が登場するたびにうれしくなってしまった。」「ドラマの中に障害者が何げなく登場するのも、今までに障害者たちが望んでいた事なのだ。『ブラック・ジャック』の登場はその意味で、僕にとっては待ちに待っていた快挙であったのだ。」「それにも増して素晴らしいのは、『ブラック・ジャック』に流れている安楽死否定思想である。「植物人間」では、誰もが見放してしまった患者の母親と、母親と話がしたいと希望する息子の意識をつなぎ、植物人間が生ける屍でない事を証明する。また、物語の中でしばしばドクターキリコと名乗る人物を登場させ、安楽死を遂行しようとする彼と対決させて生命の尊さを訴えている。」と評価されている[(5)]。

 また、人類学者の山口昌男氏も、「患者が医者に魂の救済を求めた時に、現行の近代の医学の制度で育った医者は、それに対応する術を知らない、というのは大きな問題ですよね。制度化された医学の限界というものを、『ブラック・ジャック』で徹底的に突いている」と評価されている[(6)]。

 このほか、今でこそ実験用動物の命の問題がとりざたされているが、手塚は、『ブラック・ジャック』の中でとうの昔にその人間中心主義にたいする批判、問題提起を行なっている。

 こうしてみてくると、ロボトミーを美化しているというのは、作品に即した批判とはいえないのではないだろうか。むしろ、青い芝の会の人たちの指摘する第二の点、すなわち手塚が「障害者を健全者に同化すべき者として描」いたということが、問題の指摘としては重要である。つまり、『ブラック・ジャック』の筋書きが、障害者はかわいそうな存在で、治療することでその境遇から抜けでられると考えているというのだ。障害者問題になじみのない読者には、障害を治療することのどこがいけないかわからないかもしれないが、青い芝の会の会の存立を支える重要な思想が、この「障害」をどうとらえるかということにある。従来の障害者運動は障害を健常な状態からの欠損とみなし、治療を当然のこととしてきたが、青い芝の会は、一九七〇年以来の、親による重症身体障害者殺しに対する告発運動などを通じて、脳性マヒ者を「本来あってはならない存在」として見る見方に重大な異議申し立てをしてきた。この内容には、私自身は異論がないわけではないが、ここでは立ち入るのをやめよう。しかし、この障害者はあってはならない存在なのかという問いかけは、十分に尊重するに値すると思う[(7)]。

 

差別問題を閉じこめる糾弾

 

 手塚の本心はこんな感じではなかっただろうか。――ロボトミーが精神障害者の「興奮性」を除去するために、本人の意志に反して強制されるようなものであったなら私は反対だし、『ブラック・ジャック』で描こうとしている近代医学に対する批判の内容とも違背するので、「ロボトミー」という言葉の使用には今後気をつけよう。また、脳性マヒ者を治療すること自体は差別とは思わないが、一五三話では、子どもが脳性マヒであることをかわいそうな存在としてのみ扱ったことは確かだ。しかし、脳性マヒ者自身の話を聞いてみれば、「あってはならない存在」としてしか位置づけられないということがどれほど彼らの生きる上での重荷になっているか、少しはわかるようになってきたし、そうした価値観で塗り固められている今の社会にも問題が多いかもしれない。。そのことをよく心にとめて、今後、自分の作品の中で、新しい障害者像をさぐっていきたい。――

 実際、手塚がこんなふうに考え、行動したなら、なされた問題提起も無駄ではなかったろう。しかし、追及する側はそれではあきたらず、自分たちの土俵に引き込んで、全面降伏にもちこんだ。こういうと、抗議した人たちは「いや、自分たちはそんなことはしていない。手塚氏は、我々の指摘を了解して反省したのだ」というかもしれない。しかし、手塚が意図してもいないのに、描いてもいないのに、精神障害者切り捨てとしてのロボトミーを「美化」しただの、「保安処分を導入する刑法改正を肯定した」だのと並べ立てているあの反省文からは、手塚たちが心からそう思ったという実感がとうてい感じとれないのだ。そして、むしろ一連の抗議は、手塚の創作活動に否定的影響を与えたのではないだろうか。

 前述の本間氏が、一九七七年一一月四日に手塚治虫とあって話を聞いたところ、「意識して身障者を書くこと自体まちがっていた。身障者の気持ちは健康体の者には分からないのだから、それだったら書かない方がいい。今までも朝鮮人、アイヌ人、母子家庭など取り上げて来たが、いくらその人たちの気持ちになっているつもりでも、やっぱり違ってきてしまう」「実際に体験していれば生の迫力がある。僕が実際に体験したのは戦争だけ。どんなに描いても、他は揚げ足とりになる。こうであろうと思って描いても逆になったりしてしまう。障害者問題も同和問題も、その立場にある人たちが訴えるのが一番いい事だ」と語ったという[(8)]。確かに、この抗議事件の一件はロボトミー問題にかんする手塚の知識を多少深めたかも知れないが、それ以上のものではなかったのではないだろうか。手塚はむげに撥ねつけるに忍びなく、障害者の抗議を飲みこんだにちがいない。そして、噛み砕けない異物を「被差別者の痛みは被差別者の口からしか語り得ない」という解釈でくるんで体内にとどめていたのだろう。

 

お互いに理解するとは

 

 こうしてある表現が差別であるかないかをめぐる議論をあれこれと考えると、なにかため息さえつきたくなる。いったいどこで差別であるか無いかの線引きをすべきか。いい物差しはないものか。しかし、何が差別であるかは時代によっても変わるし、差別だと感じる感じ方にも個人差がある。結局、指摘する人とされる人の相互了解を求めるしかない。 ある表現者が、自分の表現行為にたいして「差別!」という抗議を受けたとき、話し合いの結果「あー、なるほど、そうだったのか」となれば、問題はない。成果があったわけだ。ところが、「差別!」という抗議に納得がいかなかった場合はどうなるか。まず、「自分は差別とは思わない」と反論する。これに対して、抗議者は、自分の主張の説得性を増すために論理を緻密化し証拠を積み上げると同時に、抗議をより厳しいものにレベルアップする。この結果、表現者が「あーなるほど」と思うか、もしくは逆に表現者の反論にあって抗議者が自分の異議申し立てに非があったことに思いいたれば事態は収束する。この場合、やはり成果はあったわけだ。

 ところが、両者の納得がいかないと、再び表現者から「いや、差別でない」という反批判がおこると同時に、抗議者の論理の緻密化と抗議のレベルアップがおこる。そして、抗議のレベルアップがあるところまで達すると、表現者の側がふたつの反応を示す。ひとつは、抗議を完全に拒絶する場合だ。すると、話し合いはとぎれ、事態は成果なく収束する(もしくは、泥沼化する)。もうひとつ、予想されるのは、表現者が納得しないまま表面上納得した風を装う場合だ。この場合は、抗議者の側に重大な現状への誤認が生じて、事態は収束する。つまり、まわりに反感が残っているのに気づかずに、「あー、納得してくれたのか、成果があった」と誤解するわけだ。ところが、どっこい表現者の腹の中は、例の「異物グルグル」になっている。当然、差別問題への反感もしくは忌避感がのこるというゆゆしき事態がおこる。

 抗議者のほうで真の納得と偽りの納得を判別できればいいのだが、実際には困難である。だいいち感情の点からいっても、多少無理してでも真の納得ありと解釈したいのが人情というものだ。また、真の納得でなくても、相手が「すみません、差別でした」と謝ってしまうと、抗議する側には抗議が受け入れられたという自己満足が生じ、それ以上考えをすすめたり行動したりする動機が失われてしまう。また、残念なことであるが、抗議者はつねに真の納得をめざしているとは限らない。差別によるルサンチマンを振り払うために相手を屈服させること自体が自己目的化されている、あるいは事態の推移の中で自己目的化されてしまうことが往々にしてあるからである。

 そこで、表現者のほうの頑張りが重要になってくる。「差別だ!」という指摘に「差別とは思わない」と反論し、相手の再批判を聞いてみなくてはいけない。そして、いくら議論しても、相互の納得が得られなければ、物別れに終わるしかない。見解の相違というやつだ。抗議者の側に気持ちの悪いものが残るが、とりあえず我慢してもらうしかない。これ以上の展開はありえないのだ。それでもなお、「許せない!」という抗議者が納得を強要するなら、ここではむなしさを承知で「言論の自由」を持ち出すしかない。あるいは、現実問題としては、抗議の強さに押されて、偽りの納得を装わなくてはならないことに陥る場合も多いだろう。個人の努力にも限度があってみれば、それもいたしかたない。

 平凡な結論で恐縮だ。しかし、ようは緊張の中から少しでも果実をつかみとろうとする心の体力が必要なのだろう。とりわけ、マンガというのはメッセージの輪郭が明瞭な論文などとは違って、読者の受け取り方に委ねられる部分が大きい。しかも、それがマンガの生命たるナンセンスの不可避的な結果であるならば、なおさら受け手との相互作用を避けては通れない。

 評論家の佐藤忠男氏は、「低俗文化とは何か」と題する論文の中で、「低俗文化というものは、その社会が偽善的なイメージでおおいつくされていることから生じる錯誤を正すために必要なものである」、「軍国主義者たちがまるで消毒でもするようにして低俗文化を一掃してしまったあとには、反戦感情も育ちにくい」と指摘し、さらに次のように述べている。「愚にもつかない言葉のなかにこそ、硬直した理想主義者やひとりよがりの善意を押しつける指導者、権力者が見落としていた重大な真実が潜んでいるということはよくあることである。……低俗文化が格調高くあることは難しいわけだが、格調高い理想主義的な文化が見落としている一片の真実ぐらいはそこに含まれているのである。しかもその一片は、その一片を欠いたら社会にとっては致命的なことになるというばあいが少なくない、と私は思う。」[(9)]読んでなる程と思うと同時に、この「軍国主義者」や「硬直した理想主義者」を「反差別主義者」に置き換えてもそのまま文意が通ることに苦笑させられる。もっとも、実生活のリアリティから浮き上がってでも正義を振りまわす快感という点では三者は共通している訳だが。

 ともかく、割り箸一本から差別反対まで、小さな正義が沸き立っている現代にあって、これからますますマンガの体力が問われてくるのではないだろうか。

 

 

(1) 部落問題を中心に、最近の「差別語」問題に関する私の違和感は、『部落の過去・現在・そして…』(阿吽社、一九九一年)所収、灘本「『差別語』といかに向きあうか」を参照のこと。

(2) 径書房編集部編『ちびくろサンボ絶版を考える』(径書房、一九九〇年)所収の竹田青嗣・岸田秀・灘本の鼎談。日本図書館協会『図書館雑誌』(一九九一年五月)所収、灘本「『サンボ』を通して差別と言葉を考える」など。

(3) 『ブラック・ジャック』事件については、『朝日新聞』一九七七年一月一七日・二四日付け、および用語と差別を考えるシンポジウム実行委員会編『続・差別用語』(汐文社、一九七八年)によった。

(4) 『ブラック・ジャック』1(「手塚治虫漫画全集」一五一、講談社、一九七七年)九〇頁。

(5) 注(4)所収、本間康二「手塚治虫はなぜ障害者を描かなくなったか―『ブラック・ジャック』抗議事件を考える」。

(6) 山口昌男『のらくろはわれらの同時代人』(立風書房、一九九〇年)二三九頁。(7) 横田弘『炎群れ―障害者殺しの思想―』(しののめ、一九七四年)、津田道夫『障害者教育運動』(三一書房、一九八一年)など。

(8) 注(5)二一九頁。

(9) 『別冊宝島』一三[復刻版] マンガ論争!(JICC出版局、一九七九年)六二頁。この論文の初出は、『潮』一九七七年六月号。

 ※ 講談社から刊行されている『ブラック・ジャック』第一六巻(一九八三年刊、手塚治虫漫画全集一六六)には、該当個所のタイトルが「フィルムはふたつあった」に、そして脳性マヒが他の難病に書き変わっている。しかも、初出一覧には、なんの断わりもなされていない。したがって、もとの『少年チャンピオン』に掲載されたものは、まるで世の中になかったかのようになっている。私が、この原稿を書くにあたっても、あちこち捜したが京都では見つけられず、『現代風俗』編集部にお願いして東京の「現代マンガ図書館」にまで手をのばして手に入れなければならなかった。つまり、いったん葬られると、それをもういちど議論の爼上にのせ、議論しなおすことは、きわめて困難り、読者には差別かどうか検討された「結果」だけが押しつけられることになる。作者が納得して改めたことでしかたのないことではあるが、なにか割り切れない思いがのこる。

 

 ※ なお、前掲の『ブラック・ジャック』を含む「手塚治虫漫画全集」(講談社刊)には、「読者の皆さまへ」と題されたしおりが折り込まれている。内容は左記の通りである。

 

 読者の皆さまへ

 「手塚治虫漫画全集」の作品のいくつかに、アフリカの黒人や、東南アジアの人々をはじめ多くの外国人の姿が出てきます。それらの絵の一部は、いかにも未開発国当時の姿だったり、過去の時代を誇張していて、現在の状況とは大きな違いがあります。最近、このような描き方は黒人や一部の外国人に対する人種差別であるという指摘がなされております。こうした絵に不快感を覚え、侮辱されていると感じる人がいる以上、私たちはその声に真剣に耳を傾けなければならないと思います。

 しかしながら人々の特徴を誇張してパロディー化するということは、漫画のユーモアの最も重要な手法のひとつです。手塚作品では特にそれが顕著で、多くの国の人がパロディー化の対象になっています。また筆者は人間に限らず、動植物の世界から想像の世界のものたちまでもユーモアたっぷりにキャラクター化しています。それは筆者の自画像でさえ例外ではなく、彼の鼻は実際よりも数倍大きく描かれています。また筆者はつねに文明と非文明、先進国と発展途上国、権力者と弱者、金持ちと貧者、健常者と障害者など、すべての増悪と対立は悪であるという信念を持ちつづけた人で、物語の底には強い「人間愛」が流れています。

 私たちが今あえてこの「手塚治虫漫画全集」を刊行しつづけるのは、筆者がすでに故人で作品の改訂が不可能であることと、第三者が故人の作品に手を加えることは、著作者の人格権上の問題もさることながら、当該問題を考えてゆくうえでも、決して適切な処置とは思えないことと、私たちには日本の文化遺産と評価される作品を守ってゆく責務があると考えられるからです。もとより私たちは地球上のあらゆる差別に反対し、差別が無くなるよう努めてまいります。それが出版に携わる者の責任であると考えます。読者の皆さまも、この手塚作品に接するのを機会に、さまざまな差別が存在している事実を認識し、この問題への理解を深めてくださいますようお願いいたします。

                           手塚プロダクション/講談社