月刊『思想の科学』一九九二年一月号

   解 放 運 動 の 解 放

灘 本 昌 久

   はじめに

 

 部落解放運動は、今後部落大衆にとって、とりわけ今の一〇代、二〇代の若い部落の人たちにとって、精神的なささえでありつづけられるだろうか? そもそも、今の部落の若い人たちにとって、現在の部落解放運動は魅力あるものだろうか? もし魅力に欠けているとしたらそれは既に部落解放運動が歴史的役割を終えたためしかたのないことなのか、それとも運動が新しい方向をみいだせていない結果なのだろうか。この見極めはけっこうむつかしい。前者であれば部落解放運動は悪あがきせずに自然死すべく身をつつしまねばならないし、後者であればいま一度奮起して新しい道をさぐらなくてはならない。私自身の日頃の実感からいえば、部落解放の歩みは七割がたかたがつき、多くの部落民にとってその生死を左右するほどのものではなくなっているが、運動の店をたたむには今すこしゴールに手がとどきかねているところではなかろうか。すくなくとも大多数の部落の若い人が、心安んじて人生を送ることができるような状態ではないように思う。

 

   「糾弾」の快感

 

 およそ社会運動というものは、そのもっとも光輝いている時には人を引きつけてやまない魅力がある。たとえば、はじめての部落民自身による自主的な大衆運動とされる水平社運動の発足当時がそうである。一九二二年(大正一一)に全国水平社が創立された当初のこの運動の魅力は、今の我々からは想像のつかないものであった。私の母方の祖父は水平社の創立当初自分の部落に水平社運動を起こし、短い期間運動に参加していたが、その祖父が水平社の演説会にでかけるときは、あまりのうれしさにピョンピョンと半分宙を飛ぶように小躍りして歩き、文字どおり足が地に着かない風情であったという。私の知っている祖父は、威厳に満ちて喜怒哀楽を外には出さない人だったので、その祖父の体から天にも昇るような快感が溢れていたと聞くと、ちょっとばかり苦笑を禁じ得ないが、水平社運動というものはよくよく参加者の心を引きつけてやまない魅力があったのだろう。

 この水平社ができる以前、けっして運動がなかったわけではなく、むしろ古いタイプの部落解放運動が表面上はピークを迎えていた。その運動とは、現在では同情融和運動といわれるもので、ひとことでいうと劣った部落民たちへの心優しき優者の気遣いの運動であった。古い改善運動家たちはそうした運動にまだ命があると思っていたのだ。しかし、当時の先進的な若い部落青年たちは、古い同情融和運動には辟易し、なんとか「解放」の感覚が表現できる、体感できる運動を望んでいた。そうしたとき、登場したのが全国水平社であった。水平社の思想は、水平社宣言に凝縮されている。

 

    宣   言

 全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。

 長い間虐められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによつてなされた吾等の為めの運動が、何等の有難い効果を齎(もた)らさなかつた事実は、夫等のすべてが吾々によつて、又他の人々によつて毎(つね)に人間を冒涜(ぼうとく)されてゐた罰であつたのだ。そしてこれ等の人間を勦(いたわ)るかの如き運動は、かえつて多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、寧(むし)ろ必然である。

 兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であつた。陋劣なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖い人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあつた。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。

 吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。

 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦(きょうだ)なる行為によつて、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦はる事が何であるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求礼讃するものである。

 水平社は、かくして生れた。

 人の世に熱あれ、人間に光あれ。

   大正十一年三月三日                 全国水平社

 

 ここにみられる「エタである事を誇りうる時が来た」というフレーズは、今でこそ聞くほうも語るほうも強い違和感のあるものではないが、当時の人は「穢多」と「誇る」という言葉のとんでもない組み合せに度肝を抜かれたに違いない。ひどい貧困が集中し、家はあばら屋、子どもは学校にいけず、税金の滞納で粗末なタンスまで差し押え、そして、それに輪をかけて致命的なことにはなんと「穢多の末裔」ときた。当時、部落民であることが恥ずかしいことであり触れるべきでないというのが部落の内外を問わず本音であったはずで、「穢多」のうしろに「誇り」という言葉を据えた思想の力には驚嘆せずにはおられない。古い改善運動家にとってこの新しい思想は理解し難いものであった。水平社の綱領から「特殊部落」という賎称語をとりのぞこうとした改善運動家と、あくまで「『特殊部落』を誇りある名にまで向上せしめん」とした水平社の若者のあいだでかわされた激論はその断絶をよく物語っている。

 この水平社運動の最大の売りは「徹底的糾弾」であった。糾弾とは、差別事件の報告をうけた水平社が中心となって差別者に反省を求める行動である。水平社のメンバーが差別した人をお寺や集会所に呼び出し、大衆の前でその非を明らかにするのだ。「畏れ多くも先帝陛下におかせられましては、四民平等の詔勅を・・・」、と明治四年の部落解放令をもちだして、相手に反省を求めるのだ。当時としてはまったく新しい試みであった。それまで、日常生活の中で差別を受けても、運命だと思ってあきらめるか、訳もわからず暴力に訴えるしかなかったのが、組織的に差別に抗議する方法を与えられたわけだ。そして、その抗議の方法には「糾弾」という名前までついている。水平社宣言が部落民自身をささえる思想的ベースであれば、この「糾弾」はそれを物質化する方策であった。それまで部落民にとって不快ではあるが、どう手をつけたらいいかわからなかった風景としての差別を、「糾弾」は手の届くところへ引き寄せる力があった。「今度水平社という組織ができて、糾弾とかいうことを始めたらしい。なんかあったら、水平社に言うていけば差別するやつらをやっつけてくれるそうな。」水平社の思想と糾弾闘争は、部落民の口から口へと伝えられ、糾弾闘争をとおして文字どおり燎原の火のごとく広がっていった。賎民たる自己の存在の重みに耐えきれなかった部落民の心は、今や部落民に包囲され自分の前で縮みあがっている憎むべき差別者のひ弱な姿の前で解放されていく。

 

   行政闘争の快感

 

 しかし、ほどなく徹底的糾弾闘争はその絶大な歴史的意義にもかかわらず行きづまる。たしかに糾弾闘争によりそれまでのような露骨で公然たる差別発言はそれなりになくなっていったが、本当の意味での差別意識は強く温存されていた。部落の惨めな生活を放置しておいて、いくら人間の平等をといても、大多数の部落大衆にとっては、飽きのくる美辞麗句と感じられただろう。同じ人間だと胸をはるにはあまりにも貧相だ。こうして、徹底的糾弾闘争は、一九二〇年代後半から数年の低迷を経たのち、一九三〇年代から行政当局にさまざまな施策を要求し部落の生活の向上をめざす行政闘争へと方向転換していく。そして、戦後一九五〇年代から行政闘争が大衆闘争として闘われるようになる。

 闘いの対象は、水平社時代の直接的差別者から行政当局者へとかわったが、この新しい行政闘争もまた部落民の心を引きつける快感があった。それまで部落の貧乏は部落民個人の責任で、貧乏だから差別されると部落民に全責任が転嫁されていたのが、一八〇度転倒し貧乏は部落差別の結果で、部落差別と貧困の循環をなくすために行政は部落の生活を向上させる責任があるとされた。こうして、部落の生活を実際に向上させるきっかけができた。

 この時期を回想してある部落の婦人は語る。小さい掘ったて小屋のような家から2Kの同和住宅に移ったときには、電気がまぶしくて昼間のようで、御殿にでもいくような気分だったと。また、使い古された感のあるエピソードであるが、次のような識字学級で字を覚えた老婦人の作文は、やはり自分自身が解放されていく確かな実感を表現しているだろう。「わたくしはうちがびんぼうであったので/がっこうへいっておりません。/だからじをぜんぜんしりませんでした。/いましきじがっきゅうでべんきょうして/かなはだいたいおぼえました/いままで、おいしゃへいってもうけつけでなまえをかいてもらっていましたがためしにじぶんでかいてためしてみました。/かんごふさんが北代さんとよんでくれたので/大へんうれしかった。/夕やけを見てもあまりうつくしいと/思はなかったけれど じをおぼえて/ほんとうにうつくしいと思うようになりました(下略)」

 要求の実現、生活向上の一歩一歩が部落解放への確かな足どりを感じさせ、部落差別を堀り崩していく快感にあふれていたに違いない。学校の友達を呼んでくるにもあまりに悲惨な生活、字を書く場面に遭遇するたびに「老眼で字が見えない、云々」とあらぬ言い訳をして身を縮めなくてはならない惨めさ。そうした生活ともオサラバだ。そして、子どもや孫たちの代にはそんな生活はしなくてもすむのだ・・・。

 

  同対審闘争勝利、そしてどうする?

 

 こうして四〇年近く行政闘争が闘われた。同和施策を要求する行政闘争は、日本の高度経済成長ともあいまって部落の生活を画期的に引き上げた。狭い路地しかない密集不良住宅地区は一変し、高校進学率は急速に向上する、半失業状態があたりまえの就業状態は解消し、若い世代は社会のさまざまな領域に進出を開始する。

 以前、運動の幹部は、要求は目的ではなく手段であると口を酸っぱくしていったものだ。貧乏だから物を要求するのではなく、部落差別をなくすための基礎として必要である。物がとれて運動が終わるのではなく、それからが本当の部落差別をなくす闘いであると。そして、今やその時が訪れたのだ。たしかに、一部地域に生活の向上、環境改善の遅れているところがあるのも事実であり、今後の課題でもあるが、大部分の部落では差別をなくすための外的条件はととのっているとみるのが常識的だろう。家賃の値上げは、差別がなくなってからにしろ、などというたぐいの発言を運動の幹部が行政交渉の場でいうのはどうしたことだ。差別をなくすための下準備であるのだから、一定の生活レベルに達したら同和事業が縮小し始めるのはあたりまえで、そのときに部落差別が残存するのは、初めから予定ずみだ。統計的には、収入や進学率(とりわけ大学進学率は全国平均の半分くらいにとどまっている)の面で格差は残っているのだが、もはやこの格差が部落差別を存続させる主要な要因ではありえなくなっている。たしかに、家が廃屋同然のあばら屋で、雨もりに畳が腐っているような生活は、実感としても差別を助長していただろう。また、義務教育を満足に終えられない子どもたちにそのことは重くのしかかったに違いない。あばら屋から2Kの小さなアパートへの引っ越しは、月面着陸のように大きな一歩だったのはたしかである。しかし、3DKの住宅から4LDKの住宅に住みかえることが同じように部落差別をなくすことにつながると考えるのはばかげたことだ。

 

   部落の三〇代

 

 一九九〇年に実施された大阪府の部落の生活実態調査によると、三〇歳代をみた場合、世帯主の収入が三〇〇万以上五〇〇万円未満の家庭が三八・四パーセント、五〇〇万円を越える家庭は二八・一パーセントにのぼる。実際の収入は妻の収入が数十万円から三〇〇万円程度はこれに合算されるはずだ。すると四〇〇万円以上の家計収入の世帯が三分の二ほどをしめることになる。もちろん地方によってばらつきはあるだろうが、すくなくともこうした裕福でなくとも暮しに困るわけではない階層が、若い世代に着実に増えてきている。彼らは、部落外の青年たちと同様に、自家用車を持ち、人によっては休日にサーフィンにでかけたりもする。楽しみはいくらでもあるのだ。そうした彼らに、行政闘争型の部落解放運動に魅力を感じ主体的に参加せよといっても、無理な話だ。むしろ、人にあなどりを受けない程度の生活レベルに達している人にとっては、要求闘争中心の現在の部落解放運動は、あまりにも物欲しげで貧乏臭い「闘い」だろう。

 部落にいまだ存在する「低位な生活実態」に置かれている人をなんとかしようというのは、課題としては設定できても、そうでない普通の生活の部落民はどうすればいいのだろう。今のところそうした人たちは、手持ち無沙汰でいるしかない。若い人なら、いくらでも楽しいことは他にあるのだから、部落解放などというこむずかしいことにかかずらっていずに、ウィンター・スポーツやマリン・スポーツに打ち込んでいても不思議はないのだ。

今の解放運動でもっとも欠けているのは、この三〇年間で格段に改善された部落の生活の中から生み出されている、ごく普通のレベルの生活をしている部落の人たち、とりわけ若い人たちにとって、自分たちがどう生きることが部落解放への道のりであるのかということをさぐる営みである。この歴史的な転換期に際し、部落解放の道筋に関する議論がなお貧困の克服に比重がおかれすぎているために、一定の力をつけてきた若い層に魅力ある言説が本当にとぼしい。とりわけ、行政闘争の展開にもっとも功績のあった部落解放同盟がいまだに部落の低位性の強調で同和施策のさらなる継続、獲得に力点を置いていることはなげかわしく、「同対審しがみつき路線」と命名するしかない(同対審とは同和対策審議会のことで、一九六五年に現在の同和行政の出発点となる答申を行なった)。

 

   同和施策も啓発も重荷だ!

 

 私は、ここ六年ほど大学の同和教育にたずさわっており、今も四つの大学で部落問題を教えていて、部落内外の学生、夜間部の場合は勤労青年と触れる機会が多い。彼らにとって、既存の同和施策はどんな意味があるだろうか。具体的には、奨学金などの個人給付や同和公営住宅の低家賃政策などだ。京都市の場合、大学に進学した部落の学生には、公立で月額三六、〇〇〇円、私立六四、〇〇〇円程度の奨学金がある(年学費の月割り相当分)。部落の市営住宅は最近「大幅に」値上げされたとはいうもののなお五〇〇〇円前後、例外的に高いところで一万三〇〇〇円である。また、保育料は収入により一〇段階に区分されているが、最高でも五〇〇〇円までである。普通の市民にとっては、教育費は子どもが生まれたとたん考えなくてはならない重大事だ。大学入学時に一〇〇万円を用意しようとして郵便局の学資保険にはいったら、子どもが生まれた月から毎月五〇〇〇円ぐらいを一〇数年間にわたって積み立てなくてはならない。むろん子どもが増えればそれにしたがって負担も増える。家賃も普通の市営住宅で四、五万円、公団住宅なら八万から一〇万円ぐらいは払うことになる。保育料は、所得税が一円でもかかっていたら最低八、四〇〇円、夫婦が二人ともフルタイムで働いたらすぐに最高ランク近い料金になり、三人の子どもをあずけ給食費を払ったら、七万円は軽く突破してしまう。

 同和事業関係の公共料金が低く抑えられてきたのには、もちろん部落の生活実態の極端な低さがあったわけだが、それでもただ安ければいいと考えられていたわけではない。一九五三年に完成した市内同和住宅の家賃は当初八〇〇円であったが、この金額は当時の失業対策事業(いわゆる「ニコヨン」といわれ日当二五四円からこの通称がきている)の日当三日分を基準にしていた。貧乏していても、それぐらいは納めないと人間としての誇りを投げ捨てることになると考えたのだ。現在の物価に換算すれば、普通の人で日当一万円をとっているとすると、三日で三万円だ。ところが、今はそうした精神も忘れられ、安かろう良かろうに堕してしまっている。同和事業の低料金政策の見直しをどうすべきかの具体的な話は、機会をあらためてするとして、ここで確認しておきたいのは、現在運動が維持しようとしているこうした安さ第一の政策は、一定の生活レベルを達成している人にとって、「私は普通の人となんの変わりもないただの一市民ですよ」と語ろうとしたとき、障害になるということだ。かりに部落出身の青年が公務員として勤めていて、同じ給与体系で月給をもらっていたら、一月あたり一〇万円を越えるような公共料金の負担の差は、説明に困るだろう。まして、自家用車でももっていたらなおさらのことだ。どう理屈をつけても、普通に生活している部落の青年がそこまで特別に保護されなくてはいけない理由はみあたらない。正常な金銭感覚、社会常識をもっていたら、過剰な優遇政策・保護政策は、かえって生きる上で精神的重荷になるだろう。

 また学校や地域社会でなされている部落問題の啓発活動は、こうした同和事業を正当化するために、部落の低位性をことさら強調することに力点が置かれていることが多い。同和地区の人たちは、長年の差別のため、かくかくしかじかの低位性を背負っている。たとえ部落の人と部落外の人が、見かけ上同じ境遇にあったとしても、部落民に対しては歴史的経緯の分だけ割り引いて考えるべきだと。もし、そこに普通に暮らしている部落民が同席していたら、顔を上げられないのではないだろうか。親が人に侮られない程度の生活をしている学生が、同じ程度の生活レベルの友達と話をしていて、自分の受けている同和施策の理由付けをさがすのは決して楽しいことではないだろう。差別をなくすのが目的の政策を維持するために、自分の歴史的負性を強調するなどということは、本末転倒というしかない。まして、かりにも「おいしい話」を享受し続けるために部落民をひとくくりにマイナスの存在に描きあげようとするならば、差別を商う行為といわなくてはならない。

 こうした低位性強調型の啓発教育への反発として、部落の誇り型啓発教育もある。部落は貧しいとか低位であるとかばかりいわれるが、そうではない。賎民こそ日本文化をになってきた輝かしい歴史があるのだと。しかし、これもかなり無理のある主張だ。確かに、室町時代に連歌の上手な河原者がいたり、『蘭学事始』を著わした杉田玄白たちに刑場で人体解剖をしながら内臓の説明をしたのは穢多のおじいさんで、けっこう穢多の先祖が活躍していたのも確かなのだが、だからといって、それで今の若い部落の人たちが生きていくうえで、どれほどの支えとなるのかは疑問である。一度聞く分には面白いが、二度、三度聞いていると、文学を解しない無粋なおのれを省みて、かえって辛くなろうというものだ。まぁ、それは冗談としても、誇りある賎民の歴史の強調も、現実の生活にあまりとりえのない時代、過去の一縷の光明にすがってなんとかプライドを持ちこたえさそうという苦肉の策であったというほかない。

 

   次の「快感!」、それはどこからやってくる?

 

 「解放」とは解き放たれていく感覚がともなわなければウソだ。水平社による糾弾闘争の話を聞いて、嬉しさのあまり空に舞い上がりそうになる感覚。あばら屋から2Kの同和住宅に移り住んだとき、今では当り前の電灯がシャンデリアのように見え、これからは人にさげすまれなくていいんだと心はずんだあの瞬間。どれも解放の名にふさわしい一歩だったはずだ。運動は、「正しい」以前に参加者個々人が受ける「快感」がなくては成り立たない。一定レベルに達した部落の若い世代は、どんな運動にであれば参加していて心地よい感情をいだくのだろうか。もし、新しい運動がうまくそれにピントがあったら、彼らの生活はより光あるものになるに違いない。実際、これからの部落解放運動は、こうした台頭しつつある、生命力のある若い人たちの支えになるような運動でなくてはならないだろうし、また、そうでなくては運動の拡大どころか、単純再生産でさえおぼつかない。

 最初に私は、今の部落問題の状況が「すくなくとも大多数の部落の若い人が、心安んじて人生を送ることができるような状態ではないように思う」とのべたが、それは部落差別が厳しいのでそうなのだといいたいわけではなく、部落の若い人たちの主体的問題が未解決であるためにそうだと感じている。差別とどうむきあうか、それが問題だ。普通に生活している部落の若い人が部落差別を感じるのは、職場や地域社会での自分の存在について漠然とした不安をもっているからではないだろうか。日本社会、日本文化の中で、自分はマイナスの存在であり、否定的存在であると。それを打ち破るために、いきなり日本社会の部落差別を一掃しようとするのはあまりにもたいへんだし、無理な相談だ。それにたとえひどく差別的な人がいても、その人が会社の人事権をもっていたり地域社会をリードしていなければたいした問題ではない。むしろ、自分をとりまく環境・人間関係を強化し揺るぎないものにしていくほうが、よりよく生きるためには重要だ。

 じゃあ、そのために何が必要だろうか。そこがずばり処方箋として書ければいいのだが、なかなか名案がない。事業でも、啓発でもない新しい運動・・・。参加している人が、それ自体を楽しめるような行動・・・。

 

   ブレークスルーをめざして

 

 最近、経済問題とりわけ技術開発の話題の中で、ブレークスルー(breakthrough) という言葉をよくみかける。これは、技術の発展の中で小さな改良の連鎖の途中、ある種の発見・発明により劇的な進歩がなされることをいう。いちどブレークスルーが達成されると、既存の技術のかなりの部分は捨て去られ、残る技術も新たな技術を核に徹底した再編がなされる。蒸気機関の発明で人力が駆逐されたり、トランジスタが真空管にとってかわったように、いまは遺伝子工学や超伝導技術の実用化が既存の技術体系を根本から変えようとしている。こうした技術の発展とおなじように、社会運動や思想にもブレークスルーというものがある。水平社による糾弾闘争の開始がそうだし、行政闘争の開始もそうだった。事後的にみると、ごく自然な移り変わりのようにみえるが、そのときなされた飛躍はとてつもなく大きなエネルギーを発揮して、過去の思想や運動を陳腐化する。そして、今や第三のブレークスルーをめざすときが来た。同和行政や啓発事業の量的拡大が部落民を解放に導く時代は過ぎ去った。普通の生活をしている普通の部落の若い人たちが参加し、その個々人に安らぎをあたえるような思想と運動の創出がめざされなくてはならない。それが達成されれば、今までの部落解放運動を支えてきた理論は、大部分捨て去られ、残る部分も新しいパラダイムにそって、大きく再編成されるだろう。ブレークスルーというのは、それ自体をやろうとしてできるわけではない。いろいろな悪戦苦闘の中から突如として姿をあらわすものだ。水平社の糾弾も、戦後の同和事業もそれなりの試行錯誤の中から生み出されてきたもので、あらかじめ存在したものを発見したわけではない。しかし、ともかく今度で最後だ。このブレークスルーで、部落解放へむかう最後かつ最大の飛躍が約束されるのだ。

    (1991.11.21)