「正しい書評の書き方―『ちびくろサンボ絶版を考える』への論評を素材にして―」
(『「同和はこわい考」通信』39号(1990年9月20日)
灘本昌久

 自分が関係した本の書評がでるのは心はずむ出来事だ。この8月に径(こみち)書房より発刊された『「ちびくろサンボ」絶版を考える』は、私が関係した本の中でもとりわけ思い入れの深いもので、これに関する書評が、『朝日新聞』、『産経新聞』、『毎日新聞』にそれぞれ掲載されたときは、うきうきと喜んだものだ。その後、『週刊新潮』、『朝日ジャーナル』にも好意的書評が出て、今後もますます多くのメディアで論評されそうである。
 そうした中にあって、わが部落解放運動でも、この本に注目するアンテナの高い人がいたことは、部落解放運動の論壇の水準が捨てたものではないことをしめすものであった。『解放新聞広島県版』8月29日号は、なんと社説にあたる「主張」欄でこの『絶版を考える』を取りあげてくれているのだ。ありがたいことではないか。
 ところが、読みすすむうちに私のいだいた感想はとんだ買いかぶりであることが判明した。まず、私のことを名指しで批判しているのはいいのだが、「京都部落史研究所研究員、灘本昌久・和光大学教授が、きざなことを言って、世人の注目を集めようとしている」ときた。私は、かつて関東の和光大学で教えたことはないし、まして大学教授になるような年齢ではない。
 この執筆者がきざだと批判するのは、「被差別者が外に対して『差別や』と言うと、誰も反論せずに『ああそうか、被差別者がああいってるのやから、やめときまひょ』と、今は社会がとっても優しくなっているがために、自分の持っているコンプレックスは何なのか、それをどう克服し、プラスに転化していくべきかという契機が失われていくんですよね」という座談会からの引用部分なのだが、『絶版を考える』の本の中で下線部分はそれぞれ「やめときましょ」「プラスに転化していくべきかというようなことを考える」となっている。「主張」の引用は誤って引かれているのだ。もちろん、ただ引用が誤っているくらいはよくあることだが、実はこの引用の誤りは、『毎日新聞』8月20日号の誤植と同一なのである。
 そこで、『毎日新聞』の当該号とさらに照合してみると驚くべき事が判明する。「主張」の中には、ある黒人女性が「『サンボ』がアメリカで黒人に対する侮蔑語として使われていることを指摘して、その言葉は『心ない白人のアメリカ人によって、黒人のアメリカ人を見下す物語として、象徴的に誤って使われていた』」と述べているというくだりがあるが、これは下線の記者自身の地の文章まで含めて『毎日新聞』の丸写しなのである。また、各社から出されていた『ちびくろサンボ』が絶版にされた時期は、1988年11月から1989年1月であるのに、「主張」はこれを1988年11月から12月にかけてと誤って書いている。これも『毎日新聞』の記事にある事実誤認をそのまま踏襲したためである。
 ついでに、私の肩書の事実誤認の種あかしをしておこう。『毎日新聞』では対談のメンバーの名前を次のように紹介している。「出席者は在日朝鮮人二世の文芸評論家・竹田青嗣氏、精神分析の岸田秀・和光大教授、京都部落史研究所研究員の灘本昌久氏の三人」。つまり、「主張」の執筆者は、この記事の岸田氏の肩書紹介を早とちりして私の方に勝手にくっつけてしまったのだ。『絶版を考える』の対談の1ページめには、顔写真入りで3人の紹介と経歴がデカデカと書いてある。もし「主張」執筆者がせめて座談会のはじめの1ページなりを開いていたら、この間違いは有り得ないことなのである。
 もちろん、新聞の書評を参考にするのは悪いことではないが、「主張」で触れている事実関係なり素材なりが『毎日新聞』を一歩も出ていないことからしても、単に参考にしただけでなく、『毎日新聞』のみに頼って書いたと断定せざるを得ないのだ。したがって、そこから導かれる批判も全く的はずれなものになる。「主張」は「もしこの論理がそのまま正しいというなら、被差別者の立場からものを言うこと自体が、社会悪ということになってしまう。さきの黒人女性の発言も『言論封じ』になってしまう。やはり、お互いが人びとにわかるような素直な議論を大事にして、甲論乙駁できるようにしなければ、民主主義は存立しないであろう」と結んでいる。しかし、座談会を読んでいただければわかるように、私も竹田氏も岸田氏も、差別は被差別者の側から問題を指摘しなければはじまらないことを明確にした上で、議論をしているのである。ただ、被差別者が問題提起した途端それ以上に議論が進まず、対話が途切れ、拒絶される現在の差別問題の取り扱われ方を問題にしているのだ。この文章のテーマにある「正しい書評の書き方」の第一歩は、自分が書評しようとする本を手にとってよく読むということだ。意見の対立する側の論旨は、自分の中で無意識に拒絶しているので、ただでさえ誤解しやすいのだから。
 もっとも「主張」執筆者が、『絶版を考える』をよく読んだのち論評しても、結論の大枠が変わらなかったであろうことは容易に察しがつく。この執筆者は、差別問題というテーマが与えられた途端、条件反射的に被差別者の被害感情を絶対化し、いかにして一般社会がこれを受け入れ反省するかというテーマでしかものごとが整理できず、またそれでこと足れりとしているのだから。
 それにしても、この「主張」は、批判の論旨から文章のタッチまで小森龍邦県連委員長の日頃の持説となんと酷似していることか。もし、万が一にでも氏の文章でなかったら幸いである。