「差別語」といかに向きあうか

京都部落史研究所月報『こぺる』137号,1989年5月(『部落の過去・現在・そして…』、阿吽社、1991年所収)

 

「新平民」という呼称

 

 「新平民」という言葉は、一八七一年(明治四)の解放令により「穢多」の呼称が廃されたため、新たに被差別部落をさす言葉として発生したものである。そして、よく知られているように、部落を差別するために非常に頻繁に用いられた。たとえば、「来ル二一、二二日の両日は座摩神社の祭礼に付渡辺村の新【・】平【・】ホイ人民が、第一番より第七番までの太鼓を担出すに付、同村だけでは人員が不足するので隣村の人を雇ひに行しも、其頼に応ずるもの絶えてなしといふ。左【さ】もありなんイヤ違ッた、そんなことはなき筈」(『朝日新聞』明治一三年七月七日)などというまったく部落民を侮辱した記事が公然とまかりとおっていた(明治期の弱小新聞が、政治新聞にとってかわり、商業新聞に成長していく過程で、いかに部落差別をあおり、民衆の差別意識を扇動しつつ膨張したかは、長尾真砂子「被差別部落をめぐる初期ジャーナリズムの動向」『京都部落史研究所紀要』一号を参照されたい。なお、本稿は、この論文に負うところが多い。ここに記して謝意を表する)。

 こうした「新平民」という言葉による差別表現の用例には枚挙にいとまがなく、「新平民」はあたかも、生まれながらの「差別語」のようである。現に、井ヶ田良治氏は、「本来、『新』という語には、本在家に対する新在家、本座に対する新座のように、旧習維持の伝統社会では、一定の蔑視や忌避の感情がこめられていた」(「新平民」『部落史用語辞典』)と述べて、そうした可能性を示唆している。しかし、同じ時期、「御一新」などという言い方もあるわけで、「新」の一字がいかなる意味を持つかは、しょせん、文脈の問題である。そこで、時代をやや戻して、解放令以前からの「賎称」について順次、資料を見ていくことにする。

 幕末、戊辰戦争の勃発直後の一八六八年(慶応四)一月一三日、幕府は弾左衛門を平民身分に引き上げた。むろん、軍事的に穢多の力を利用しようとしたわけであるが、弾は、この期に乗じてさらに家来数十人の身分引き上げを願いでた。幕府は、二月五日、配下の者の賎称廃止を認める旨、申し渡した。ただし、名称の変更だけで、彼らの実際の取り扱いは、従来どおりというものであった(『部落の歴史と解放運動(近・現代篇)』、一九八六年刊)。明治になると、賎民身分廃止の要求は江戸以外からも出てくる。たとえば、京都では、蓮台野村(現在の千本部落)の年寄元右衛門が、「汚名廃止請願書」を出し、「旧弊御一洗の折柄、私共類村に至りてまで、素より神州の生民にて候処、却て穢多の名これあり候は何共嘆かわ敷く存じ奉り候。……何卒往古の如く穢【・】多【・】の【・】名【・】分【・】を【・】省【・】き【・】、士民同様に御取扱ひ下せられ度く、伏して歎願奉り候。」(『明治之光』二巻七号)と賎称の廃止と平等の扱いを府に対しておこなっている。越えて、一八七一年(明治四)八月二八日、太政官は「穢多非人等之称廃され候条、自今、身分・職業共、平民同様たるべき事」とする「解放令」を発布した。「穢多非人」名称を廃し、取り扱いを平等にせよというのである。これにたいし、一般の村々では反対が強く、解放令発布直後から二年以上にわたって「解放令反対一揆」が続発する。

 この時期、部落は部落外の村からどう呼ばれていただろうか。同年九月、篠山県(兵庫)奥畑村など数村では解放令に抵抗して部落民を排除する取り決めをしているが、その条文では「一、穢【・】多【・】男女共、日雇の義は、一切あい雇い申すまじきこと。……一、穢【・】多【・】難渋のもの村内へ立ち入りそうろうとも、何事に限らずいささかにても施し致すまじきこと。」など、端的に「穢多」と旧来の呼称を使っている。また、一八七三年(明治六)京都府何鹿郡で維新政府の新政に反対して、徴兵・小学校建設費用負担・裸体禁止の撤回を求めて一揆が起こっているが、その要求の一項に「新平民を穢多に改める」という要求があった。このように、解放令直後の一般民の意識は、部落民を新平民と呼ぶことさえ拒否し、旧来どおり「穢多」と呼ぶことが多かった。

 これに対し、県レベルの行政では、解放令直後は、「旧穢多」という言い方が多い。たとえば、駅や旅館で部落民に対する差別待遇がなくならないことに業を煮やして、一八七三年(明治六)三月に静岡県は県下に次のような布告を下ろした。

 元【・】穢【・】多【・】非【・】人【・】の儀は、かねて民籍へ編入の上は平民同様に候ところ、とかく固陋の弊風にて、在駅とも百事取り扱いを異にし、旅篭屋は一泊の宿も致さずやにあい聞こえ、もってのほかの儀にて、向後右体の儀これある上は、急度相糾し、厳重の御処置これあるべく候条、小前末々までもれなく触示すべきものなり。(『近代部落史資料集成』二巻一九九頁。以下単に『集成』略す)

 また、「新民」・「新平民」・「新古平民」というのも出てくる。次に掲げるのは、解放令反対一揆勢が部落に対して無理に書かせたわび状が無効であるとする、一八七三年(明治六)六月五日の北条県(岡山)の告示である。

 今般、国内騒擾の原由は、願いのかどかどこれある趣あい聞こえ候えども、目前の姿新【・】民【・】を嫌忌候の甚だしきより、放火・乱妨の及ぶ所業、朝憲をはばからず不届き至極につき、巨魁の者追々捕縛、至当の可及処断はもちろんに候えども、差し向き新【・】古【・】平【・】民【・】不和合にては、去る辛未年御布告にあいなり候朝旨にもとり、暴挙に関係無き者といえども、違令の罪のがれ難く候条、新【・】平【・】民【・】より差し出し候一札はいっさい取り消し、双方心得ちがいこれなく、一際親睦候様、きっとあい守り申すべき事。(『集成』二巻四五九頁)

 さらに、「旧穢多」「新古平民」という混用も見られる。維新政府は、神道イデオロギーによる統合を上から協力にすすめるため、府県を通じて、部落民を郷社や村社の氏子にすることを各村々へ通達させたが、地元では旧来の慣習から部落を氏子と認めず、また、部落も真宗への帰依により神社に無関心であったため、神社の氏子化がすすまなかった。以下の資料は、一八七二年(明治五)六月二八日、豊岡県(京都)が部落民の氏子編入を強力にすすめるよう福知山出張所に厳命した通知である。

 元【・】穢【・】多【・】氏神の義につき、かねてあい達しおき候趣もこれあり候ところ、今般、氏神取り極め申さざる趣あい聞こへ、当今、期限に差し迫り候戸籍帳の義、いまだに上納せざるの段、甚だもって閑等(なおざり)の至り、右は畢竟元【・】穢【・】多【・】氏神結方の義に付き、其方共始め御趣意に背き、心得違いまかりあり候より、小前末々まで御趣意にあい背き候姿相当り、もっての外の事に候条、新【・】古【・】平【・】民【・】同一氏神取り極め、七月十一日限り差し出すべく候。もし向後右日限り等閑に及び候ては、厳重の沙汰におよぶべく候なり。(『京都の部落史E』五三八頁)

 このように、行政は、客観・中立的な意味において「元穢多」と呼び、かつ、部落外との対比において、「新民」「新平民」と呼んだ。

 新聞記事に見られる「新平民」の用例の早いものとしては、一八七二年(明治五)一一月の『京都新聞』五〇号に次のような記事が見られる。

 或人の曰、新平民旧天部の某なる者、頃日靴を製造するに工夫を凝らし、ミシンを以て〔ミシンは西洋縫工の機械なり〕縫うことを発明せる由。成功の可否は未だ知らずと雖も、各職業に勉励する。賞すべし。亦鍛冶職工の者は其ミシンを工夫せば、国家の利益大ひならん。

 これなどは、部落に対してなんら悪意はなく、むしろ、新時代に踏み出した部落民の姿を好意的に描いている。しかし、一方で、積極的消極的の両義で使われた「新平民」も多くの人がマイナスイメージで使うことが繰り返される中で、徐々に差別の手垢に染まっていき、部落民の側からは「新平民」という音声を聞くだけで拒否反応する傾向も出てくる。一八八四年(明治一七)には、京都府下一千人の部落民が、「新平民」という呼称の取締りを府に願い出る動きがみられたのは、そのことを示している。

 京都府下各村の新平民一千余名が共議し、我々社会は曩きに平民籍に編入せられ旧【・】平【・】民【・】、否、普【・】通【・】平【・】民【・】と同等同権にして一歩も譲る所なきに、世間往々我々社会を目して新平民と称し、普通平民と区別を立つるものあるは、如何にも我々を軽蔑することなれば、必らず此旧慣を洗滌して以来新【・】平【・】民【・】な【・】ど【・】と【・】称【・】呼【・】す【・】る【・】も【・】の【・】な【・】き【・】や【・】う【・】、取り締まられんことを其筋へ出願せんとて、目下相談中なる由、実に尤も千万。(『自由新聞』明治一七年三月三〇日)

 ただ注意すべきは、「新平民」という言葉が差別的語感を強めてはいくが、一方で、解放令直後には、特定の言葉で自称することの比較的少なかった部落民が、自由民権期には「新平民」と自称することが見られることである。たとえば、部落差別撤廃を掲げた団体としては最も早いものに属する福岡県の復権同盟は、一八八一年(明治一四)一一月に作成した「復権同盟結合規則」において次のように述べている。

 新【・】平【・】民【・】な【・】る【・】私【・】共【・】儀【・】、往古より世に穢多と称せられ、人界の外に擯斥せられ、四民と雑居する能はず、事を共にする。能はず、……我国内に於て穢多の蹤跡絶てこれ無きに至らしめんと存じ奉り候……。(『集成』三巻三八五頁)

 さらに、この時期の部落解放に関する論説の多くは、部落を「新平民」と称していることが多い(この点については、井ヶ田氏が前掲稿で指摘している)。一八八七年(明治一〇)から一八九一年(明治一四)まで自由民権期を代表する政治新聞であった『東雲新聞』は、部落民の政治的動向にしばしば紙面をさいているが、そのうちの一つ、同紙主筆中江兆民の「新民世界」は余りにも有名である。兆民は、大阪渡辺村を拠点として政治活動を行い、自ら新平民と名乗って次のように、徳富蘇峰の「平民主義」を喝破した。

 余は社会の最下層の更に其の下層に居る種族にして、印【イン】度【ド】の「バリヤー」、希【ギリ】臘【シャ】の「イロット」と同僚なる新平民にして昔日公等の穢多と呼び做したる人物なり。……公等記者達は平民的の旨義を執りて貴族的の旨義を攻撃する者なり。……公等何ぞ平民的の「平」の字を去り易【か】ふるに「新」の字を以てして「新民的」と称するの勇気無きや。……公等今に於て先非を悔ひ往過を改め狭隘なる平民世界を去りて濶大なる新民世界に進み来たらば余輩もとよりこれが仲間入りを許容せんのみ。……十九世紀の今日は地球上至るところ皆新民ならざるなし。至るところ卑屈の旧殻を蝉脱することを求めざるなし。公等はなほ「平民」の称号を足れりとし、自ら区域を狭め、自ら眼界を低くし、早くすでに「一新」たる我輩と軽侮して我れと我れから旧染の汚れを暴け出して自ら恥ぢざるとは、近頃笑止の極なるかな。(『東雲新聞』明治二一年二月一四日)

 また、兆民の弟子であり、「自主的な部落解放の団結と組織化をはじめて、しかも執拗に唱えつづけた」(天野卓郎「前田三遊の言論活動について」)前田三遊も、部落民を「新平民」と呼んでいる。

 旧平民の一人たる前田三遊、茲に檄して天下の新平民諸君に警告す。云く、「卿等は其新なることを恥ずること勿れ、卿等は、其真ならざるを恥ぢよ」と。余輩の卿等に望む所唯此の外に出ざるなり。……卿等の同族にして、徒らに其新なるを恥ぢ、士族の株を購ひ来りて其准養子となり済しつゝ士族としての偽なる者、平民としての真ならざるものとなり、以て自ら侮り自ら蔑む者あり。余輩は其心事を卑陋なりとし、窃【ひそか】に彼等の醜状を嗤【あざわら】ふ者なり。……顧みれば、明治第一の革新は主として士族の手に成り、旧平民のために新紀元を画したり。第二の革新は旧平民之が主力たるべくして未だ能はず、余輩は心窃に新平民諸君に恥づ。卿等希【こいねが】はくばそれ自尊自重して革新の急先鋒たらんことを、敢て望む、敢て望む。(「天下の新平民諸君に檄す」『中央公論』明治三六年二月)

 そして、さらに「再び天下の新平民諸君に檄す」(『中央公論』)、「再び県下の新平民諸君に告ぐ」(『広島公論』)などを次々に発表して、こうも言う。

 新平民、即ち旧来の穢多非人……多くは唯徒らに自から新平民族なりと称するを厭い、己れの素性を包みて敢て自ら欺き、且人に媚びんとするが如き卑屈心を懐ける、余は先づ之を打破せんと欲する者なり。(前田三遊「新平民に就いて」『扶桑新聞』明治四〇年八月三一日、『愛知部落史研究会会報』五号所収)

 以上みてきたように、あの生まれついての「差別語」に思える「新平民」も、明治期には様々に使われていたことがわかる。確かに、解放令によりズバリ差別がなくなっていれば、「旧穢多」が事実を正確に、客観的に現しているわけで他の言葉はまったく不要であったが、実際には部落民に対する忌避・排除が進行した。その過程で、「新平民」を「差別」で染めあげようとする力と「『新平民』の三字を世に価値あるの名詞たらしめん」(『関西日報』明治二二年八月三〇日、京都柳原町進取会創立を報じる記事)とするせめぎあいがなされ、しかも、言葉を取り締まるよりも差別待遇の内実を変えようという論調が部落解放の論説をリードしたことの意味は大きい。

 なお、蛇足ながら、ここで明治維新の諸改革のひとつである「壬申戸籍」に関する誤解を解いておかなくてはならない。現在、広く信じられている俗説に、壬申戸籍は、政府が差別を目的として作ったもので、解放令を無に帰すため、部落民にはほとんどすべてに「穢多」「新平民」という記載があり、現在でも壬申戸籍を見れば、たちどころに部落民か否かが判明するかのごとき誤解がある。たとえば、馬原鉄男は「かりに戸籍簿に賎称がつけられていなくても、一見して部落民であるかどうか判別できるところに壬申戸籍の問題があります」とのべておられる(「壬申戸籍と部落問題」『部落』二二九号、一九六八年四月)。しかし、実際に壬申戸籍を見ればわかるが、確かに役場の戸籍係が様式に違反して、古い戸籍を引き写し「新平民」「穢多」などと記してある場合があるにはあるが、それは、例外的であって、九九%は「平民」と記載されている。部落の職業は「雑業」となっていることが多いのと、所属の寺院が部落民のみを檀家とする「部落寺院」であった場合、部落民であることがわかるが、それとて、「雑業」即部落民ではないし、寺にしても、部落寺院であることをあらかじめ予備知識としてもっていなくてはならない(この点に関する通説への批判は、渡辺広『未解放部落の形成と展開』を参照されたい)。直接的に部落問題との関係を述べたものではないが、福島正夫氏は、壬申戸籍の特徴の一つとしてとして「族属別方式の廃棄と住所地主義の採用」をあげ、「自己の戸籍を持つことは、特権階級の表示方法であり、帳外しになるのは賎民べっ視の手段であった。それが廃棄され、すべてが一つの戸籍に入ったのは、『皇親ヲ除クノ外天下ノ人員都テ地方官ノ貫属』という絶対主義的・集中的な統治原理のあらわれかたである。このことは、身分制の封建社会では全く考えられない事柄に属する。」「たとえ他の面で制度上また社会生活上いろいろの差別があったにせよ、明治のはじめ戸籍という公けの帳簿ではこれら(禄高などの家産や農村における庄屋・被官などの身分記載―灘本)が姿を消したことは、一つの平等感を人民大衆に与えたと思われる」と評価されている(『日本資本主義と「家」制度』)。

「特殊部落」という呼称

 

 これまで見てきたように、「新平民」という言葉が自然発生的に、いわば生まれるべくして生まれてきたのにくらべ、「特種部落」「特殊部落」の語は、人為的に作られたことはよく知られている。

 「特種部落」という言葉の最も早い用例は、一九〇五年(明治三八)四月、河野忠三奈良県知事が奈良県教育会に対して行なった教育に関する諮問の中にみられる(八箇亮仁「地方改良期の教育状況」)。河野知事は、諮問事項四つの内、最後の項に「特【・】種【・】部【・】落【・】に於ける生活の状態の改進を教育上より計るの方法」をあげ、「特【・】種【・】部【・】落【・】生活の状態は概して低く、衛生風儀経済状態等速に改善の道を講ずべきもの少からず。依て之が適良なる改良法案を諮ふ所以なり。」と理由を説明している(『奈良の部落史 史料編』。以下の記述は同書による)。翌月、県教育会は「特【・】種【・】部【・】落【・】の貧困児童に対しては県費の補助を仰ぎ、其の他に在りては、各市町村学事奨励費を以て之に充つること」などと答申を行なった。さらに、翌年二月、県教育会は「特種部落改良」について報告し、九月、県は「特種部落改善委員会」を制定した。当時、県の呼称に準じ、新聞においても「特種部落」は使用され始めたらしく、『大阪朝日新聞』は、一九〇五年六月八日および七月二八日の犯罪記事中、「特種部落」の語を用いている。

 また、奈良県とほぼ時を同じくして、三重県も部落改善事業に乗り出していく。一九〇一年(明治三四)以来、私的に改善運動に着手しつつあった竹葉寅一郎が、三重県知事有松英義のもとへ来て、改善事業を始めたのは一九〇五年(明治三八)一月であった(留岡幸助「新平民の改善」)。そして、竹葉は同年六月より一九〇六年三月にかけて三重県下の実態調査を行ない、一九〇七年三月、『特種部落改善ノ梗概』をまとめた。

 こうした三重県などの部落改善事業の進展に影響されつつ、内務省も本格的に部落対策を考え、一九〇七年に全国的に部落の調査を行なっている。調査の結果自体は公表しないことになっていたので不明であるが、『広島県被差別部落の歴史』によれば、同年一月二八日づけで賀茂郡役所から竹原町役場に「特【・】種【・】部【・】落【・】民【・】調ノ件照会」とする文書が残っており、他の地方への照会も同じ表題であろうと思われる。

 このように全国的に上からの部落改善事業が展開されていき、その時の名称は、まず「特【・】種【・】部【・】落【・】」「特【・】殊【・】部【・】落【・】」とされたことがわかる。ただ、従来いわれてきたような権力側の悪意によりこの名前が選ばれたわけではない。日露戦争後の上からの改善運動の動きは、突然始まったわけではなく、一九〇〇年(明治三三)内務省の官僚グループにより結成された「貧民研究会」の中で萌芽的に準備され、この中には前述の有松英義、内務省で部落問題を担当する留岡幸助や小河滋次郎、相田良雄などそうそうたるメンバーがそろっていた。彼らの問題意識は、急速な資本主義化の中で発生する社会問題に対して、従来の警察による単純な取締りから社会政策による予防・解決をはかろうとするものである。むろん、そこには治安問題としての部落問題という発想が抜き難くあるわけだが、決して差別を強化・拡大しようなどとは夢にも思っていないのである。従来行政は、「旧穢多」というのを使ってきており、それは、行政上は「平民」以外の何物でもないという原則的立場にのっとったものであった。たとえば、解放令その他、部落解放の面でさまざまな役割を果たした京都府にあっても、松方デフレ政策下の部落の経済的窮乏を把握するために一八八六年(明治一九)に行なった実態調査は、『旧穢多非人調書』の表題が付されている。しかし、そうした原則論も、頑強な社会的差別の存続の前には、実効性のあるものではなくなり、部落を対象化するためのなんらかの呼称が必要となり、「穢多」「新平民」にかわる行政用語として「特殊部落」の用語を用い出した。今流にいえば、「同和地区」というのと目的は変わらないのである。のちに、部落の改善家中野三憲のいうところによれば、「従来、特種部落の名称を附せられしは遺憾に付、小生、其の原因を調査せし処、内務省は種々苦心の結果特種の二字を附したる旨、三重県竹葉氏より承知」(「美挙を祝す」『明治之光』一号)とあるのはそのことを裏付けている。

 しかしながら、「特殊部落」という用語が部落側からの反発に遭遇するのも事実である。前述の奈良県では、一九〇九年(明治四二)五月、「特種部落改善委員規定」を廃し、「矯風委員会規定」と改めた。そして、同年七月に青木県知事は、各郡市長に部落改善の方針をしめし、その中で、「特殊部落なる名称は、同人民別種の人類なるかの如き感を起さしむるを以て、之を用ゐざること」と述べている(ただし、この方針書自身の中でも、また以後の行政文書中でも「特種部落」「特殊部落」の文字はしばしば見ることができる)。

 ただ、「種」だからけしからん、部落を人種とみるのは差別だと言うのは瑣末な議論であり、当時の人が反発するのはともかく、今の我々の語感から是非を云々するのは無意味である。一九〇二年(明治三五)創立された部落の自主的改善団体である「備作平民会」のもとの名は「備作同族廓清会」で、「設立の趣旨」のなかで部落民を総称するのに「我徒」「同族」などの字句を用いているし、この時期の自主的改善団体の力をかなり結集した大日本同胞融和大会(一九〇三年)の「趣意書」は、「若し夫れ乙【・】種【・】の甲【・】族【・】に接応するの思想、態度に至りては専ら遜譲、卑屈を分とするが如き、……階級制度の弊、之をして然らしむるものと云べし。」と述べ、また、この大会の模様を好意的に伝える新聞報道も「日本に新平民なる一【・】種【・】族【・】あり、同族相婚し、尚且他族との交際を疎隔せらる、均しく同一の性情を具し、相倶に平等の権利を有するものにして、何が故に斯くも互ひに疎隔せるや、積年の陋習頑として、相嫌忌し、相侮辱するの結果なりとは云へ斯くの如きは人生相互の不幸非理なるは云ふまでもなく」としている。居住、職業、婚姻が厳しく制限され、お互いの交流が阻害されている中にあっては、当時、部落を一種のエスニシティーと見ても不思議はないのである。

 むしろ、「特殊部落」にたいする反発がある一方で、この言葉は、「穢多」「新平民」に代わる中立的、行政的用語として、部落大衆のなかにも定着していくことは重要である。以下に引用する論説は、部落民自身が「特殊部落」と自称することがみられたことを裏面から物語っている。

 彼等が常に穢多なる称呼に対して憤慨するは詢【まこと】に当然なり。然るに彼等が自ら特殊部落と称して毫も憚【はばか】らざるは何ぞ、特殊なる語は新平民なる語と共に表面に於ては事実的呼称に過ぎざる如きも、一面に於て多少軽侮の意を含まざるに非ず、否動もすれば現に軽侮的に転用されつゝあるを見る。(『京都日出新聞』明治四二年一月一七日)

 ところで、部落民は「平民」以外にありえない、強いていうとすれば「旧穢多」であるとする原則が、「特殊部落」という用語を作ったことにより失われてしまったことは、言葉主義への限りない転落の第一歩であった。なぜなら、いったん部落民の感情を配慮して新しい行政用語をつくっても、旧来の「差別語」の使用を圧迫された一般民は、差別的感情を保持したまま次の部落呼称を使うため、短時間の内にそれが「差別語」と化してしまうからである。以下、駆け足で、用語に関するさまざまな意見の噴出、新行政用語の登場を見てみる。

 「特殊部落」が差別的であるとして、次に出てきたのが、「細民部落」である。これが、正式に採用されたのは一九一二年(大正一)一一月に開かれた「細民部落全国協議会」である。これに先だって一九一一年六月五日に内務省地方局が「細民部落調査会」を開いているが、ここでいう「細民」は都市貧民地区のことであり、翌七月二〇日には「特殊部落研究会」を開いていることから、部落の行政上の呼称はあいかわらず「特殊部落」であったことが知れる。したがって、翌年に開かれた部落問題の会合が「特殊部落改善協議会」であって不思議はなかったわけだが、前述のように、中野三憲が「大々的不平を唱へ其筋へ交渉方依頼せし所、今回内務省も大に悟り、細民部落と称するに至」ったのであった。しかし、「細民」といいかえると一般的都市貧民との区別がつかなくなるという別の問題が起こる。留岡幸助がのちに指摘したように、「普通細民部落」「特別細民部落」などという区分が必要になってくるわけである(『細民部落改善の概要』)。

 もうすこし時代が下ると、「部落」という文字自体が差別的だという意見が現れる。一九二一年(大正一〇)三月、広島市の筒井鉄蔵は、第四四議会に「特殊部落または部落なる称呼廃止の請願書」を提出し、衆議院本会議で採択され、一九二三年(大正一二)以降は「部落改善」が「地方改善」に改められた。

 この時期の部落をしめす言葉に関する議論で、その混乱ぶりをしめしてあまりあるのが、一九二一年(大正一〇)七月五日に内務省の社会事業打ち合わせ会でなされた議論である。「部落改善に関する件」で大阪府の早崎嘱託は、緊急動議を出し、「今日差別撤廃の世の中に、縦【たと】ひ後進の人達なるにもせよ、『部落』『部落民』などの語を用ふるが如きは甚だ当を得ざることにして、此等の人達に対して気の毒に堪へず。……何とか耳障りにならざる新名称を議定し、今日只今の打合会よりして、其新名称を用ひられ、全国に範を示されんことを希望す」と提案した。これに対し、大阪府は「隣保地」「隣保地の人」という名称を使い、「部落」「部落民」は使用しないことにしたいが、セッツルメントと混同するので、ほかによい名称はないかと問うた。徳島県からは、「人」そのものに対するよい名称は見つからないが、「部落改善」は「地方改善」に改め、「改善」の字により「地方改良」(これは一般村への対策)と区別して、部落民から好感をもって迎えられたという「経験談」の披露があった。結局、この会議では重要な問題だとして委員会を設けて検討したが、容易に決定できないままに時間切れとなり、他日を期すこととなった(『社会事業』五巻四号)。こののち、「細民部落」の名称以外に、「後進部落」「要改善地区」などが登場し、部落の呼称は非常なぶれをみせる。実際、日露戦後とりわけ一九一四年(大正三)以後の官製融和運動は、部落・非部落を問わず、部落を直接さす言葉を非常に嫌っているという印象をぬぐえない。帝国公道会の設立趣意書をはじめとして、部落をさすのに「同胞」「一部同胞」などのあいまいな表現がおおくなり、米騒動後つくられた各府県レベルの団体では、それさえ避けて、「四海同胞」「四民平等」などの抽象的理念を掲げることでしか部落問題であることを表現できなくなるに至る。

 このような閉塞状況を根本から覆したのが、全国水平社の結成であった。全水は、その「創立宣言」で「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。……吾々がエタである事を誇る時が来たのだ。」と高らかに宣言し、大会終了時には「エタ万歳!」を二度、三度高唱した。しかも、一方で、決議には「吾々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糾弾をなす」とある。従来の改善家からは考えられなかった発想の転換であり、この点をめぐって創立大会に参加した改善家と水平社の創立メンバーとの間で厳しい議論が闘わされた。

 綱領の中に『特殊部落』と自ら名乗れるに対して、岡山の岡崎(熊吉)氏より、吾々自身が、特殊部落の文字をあらはすのは、自らを卑下するものであるからとて、抹殺説が出たが、『特殊部落』を誇りある名にまで向上せしめんと念願する青年輩は、いっかな聞き入れず、為に議論に花が咲いた。

「明治四年の布令によって解放された吾々の頭上には、今度は新平民の名称を附され、尚近頃は少数同胞などの名称に代っている。実質が変化しなければ名称は問題ではない。歴史は絶対に消されぬ。エタが華族になり、華族がエタの名称に代っても、吾等に対する賎視観念が除かれねば、華族のエタが卑しめられ、エタの華族が尊敬せられる、寧ろ吾々は、明らかに穢多であると標榜して、堂々と社会を濶歩し得る輝きの名にしたい。」と主張する者が多数を占め、結局、名称によって吾々が解放せられるものではない。今の世の中に賎称とされている「特殊部落」の名称を、反対に尊称たらしむるまでに、不断の努力をすることで喝采の中に綱領通り保存されることになった。この間殆んど一時間有余、口角泡を飛ばして議論を闘はした。(『水平』一号)

 むろん、「特殊部落」の字句を糾弾する傾向も個々の水平社員には当然あったわけで、創立者たちは繰り返し警告している。たとえば、差別と言葉の問題を西光万吉はこう解説する。

 百の穢多及び特殊部落の言葉が発せられても其処に何等の差別的侮辱的の意味が含まれない場合は確に差別されたとは云へぬ。これに反して仮令【たとえ】些々たる指四本の行為に対しても侮辱的の意志が表示されたと認めた場合は明かにこれを差別的の行為と見做すことが出来得る。帝大の喜田博士が特殊部落の歴史に関する論文を堂々と書いてもそれは部落民を差別し侮辱してゐると考える者は一人もない。奈良県の争闘事件(水国争闘事件)は一人のお爺さんが嫁入の荷物を観て指を四本出したと云ふに始まるが、誰一人としてそれは指位の問題だから差別行為でないと信ずる者はゐない。そこで賎視観念は形の上や言葉の中に現はれるものではなく、形や言葉は単に心の反映に過ぎないと云ふことが判【わか】る。だから特殊部落と云ふ言葉が出たから差別するとも決まってゐなければ、その反対に指四本や顔の表情一つにも差別の意志が表されないとも限らぬ。

 茲【ここ】に物を蓄へる鑵がある。空の時何を容れるものだか判らないが其処へ何か這入ると始めて何の鑵であったと云ふ事が判然する。それと同じく要するにこの問題は言葉や形そのものに侮辱的な意味が含まれてゐるか否かを穿鑿した上で決定されるべき問題である。

 徹底的の糾弾はこの事実を確かめた上で始めて効力を生じる。偏狭な考へから文字や言葉に囮【とら】はれて其真相を極めることを怠り徒らに軽挙妄動に走って問題をはき違へたりすることは吾々青年の執るべき態度ではない。それは水平運動を益々意義づけるものではなくて反って反動化せしむるものである。そこで吾々は一切の偏狭なる情より独立して公正な批判の上に立つ正しき常識の涵養に努めねばならぬ。(奈良赤坊主生「徹底的糾弾に就て」『選民』三号)

 また、戦前における部落史研究の第一人者であった喜田貞吉も同様の考えを共有していた。

 第一に彼等(部落民)から受ける注文は、願はくば特殊部落の名称を以て、世間と区別する事をやめて貰ひたいといふのである。洵【まこと】に尤もな注文で、真実同情に堪へぬ。……併しながら、特殊部落の名を以て世間から区別せられる事をやめしめるには、先づ以て区別するの必要なきに至らしめるを要とする。既に何等かの区別をなす必要がある以上、よしや「特殊部落」の名をかへて、之を貴族部落と改めても、「模範部落」と改めても、苟も区別すべき或る者の存在する間は、到底彼等の希望に副ふ事は出来ぬ。其の失敗の実例は近く朝鮮に存する(賎民を白丁(=平民)と呼ばせたが、世人は彼らを「新白丁」といい、国にこれを禁じられるや自分が白丁と称することをやめたため、もとの賎民のみが「白丁」を名のることになってしまった例をあげ)……繰り返して言ふ。「特殊部落」といふ名称に就いては、何等侮辱軽侮の意味はない。若し其の意味があるとすれば、それは其の語にあるにあらずして、其の実質に於て存するのである。(「『特殊部落』と云ふ名称に就いて」『民族と歴史』二巻一号)

 自由民権期に優位を占めた、賎称をして価値あらしめるという思想性が水平社の創立により再び登場したのである。この思想が理解できなかった前述の岡崎は二度と水平社へは結集しなかった。また、岡崎だけでなく、融和団体は「差別語」それ自体への闘いを自己目的化し、「差別言動取締法制定運動」へと流れ込んで行く。そこには、「同胞差別の根因は、昔と違い、今日では一つにかゝって差別の言動にあり」「賎視観念や、被差別体の幻影、錯覚は差別言動の滅亡と共に消散する」(姫井労堂「差別言動取締法令問題に就て」『融和事業研究』一七輯)というまったく転倒した差別認識があった(藤野豊「『差別言動取締法令』制定運動史」『京都部落史研究所紀要』五号参照)。

 

特殊部落から被圧迫部落へ

 

 中江兆民、前田三遊など自由民権の先進的部落解放論が、「新平民」を差別語として抑圧するのではなく、「新平民」の三字をして価値あらしめんと主張したことはすでに見たとおりである。これをささえていたものは、幕末から明治中期まで存続した部落上層の経済的実力ではなかったろうか。西浜(大阪)、堀口村(福岡)、蓮台野村(京都)などにおける学制頒布直後のデラックスな学校建設をみればわかるように、彼らの経済力は、一般社会を凌駕するほどであった。にもかかわらず、彼らの前に立ちはだかるのは、ひたすら一般社会の差別的待遇であった。しかし、松方デフレから日露戦争に至る過程で、この部落の経済は徹底的に破壊され、有産階級はその影をひそめた。そして、圧倒的多数の部落大衆が貧困化するなかで、部落問題が貧民問題(当時流にいえば「貧民窟」)に還元され、部落差別の責任は、貧しく、粗末な家に住み、子どもを学校にやらず、仕事もまともにしない、部落大衆の責任に転嫁されて行くのであった。日露戦後の部落改善運動はひたすら部落に対し差別されないような生活に改めよと説教を繰り返す。そして、このように部落差別の責任が部落民に全面転嫁される時に、部落の呼称が次々と生み出され、「そんな言葉を使ってはあの人達に気の毒」として、言葉に過剰に敏感になっていくのは興味深い。日露戦後の部落改善運動は、「穢多」「新平民」など部落を端的にさす呼称を「差別語」として回避し、次々と別の言葉にいいかえるイタチごっこをはじめる。再度、差別とは言葉ではない、部落民に対する待遇が平等であるか否かであるといいきったのが水平社であることはすでにみた通りである。

 その後、全水創立後一〇年を経た一九三一年(昭和六)一二月の全水第一〇回大会でも、「言論・文章による『字句』の使用に関する件」が可決され、糾弾の対象は言葉ではなく侮辱の意志の如何によるという水平社創立当初の原則が確認された。煩をいとわず、議案を以下に引用しておく。

 主文 吾々は「字句」使用に対して明確なる態度を決定す。

 理由 この「字句」使用の問題に就ては運動の当初よりの懸案であって、一応は決定されてゐたのであった。その後の闘争が該問題取扱上に種々のデリケートな、限界のルーズな事もあって、その初期に決定された「侮辱の意志による言動」が閑却された様な形であった。そこでこの「文句」さへ使へば悪いのだとの認識不足な考へ方が起り、吾々の部落を現はすのに闘争団体の名称である、水平社と呼ぶことが最も安全であるかのごとく心得、平気で代名詞として使用する傾向が現はれて来た。その他に於いても如何に必要な時であっても、ウッカリ文章及言論に表現すると糾弾されるから「アタラズ」「サワラズ」式にとの態度となって、この問題に対する真面目な批判と、発表、通信、研究等を聞くことが出来なかった。吾々は如何なる代名詞を使用されても、その動機や、表現の仕方の上に於いて、侮辱の意志が―身分制的―含まれてゐる時は何等糾弾するのに躊躇しない。

 然れども、その反対に「エタ」「新平民」「特殊部落民」等の言動を敢へてしてもそこに侮辱の意志の含まれてゐない時は絶対に糾弾すべきものではないしまた糾弾しない。この点徹底せしめるべく努力せねばならぬ。

 しかし、水平社創立後一三年目にしてこの「侮辱の意志」で差別かどうかを判断するという原則からの大きな逸脱が始まる。それが、「特殊部落」から「被圧迫部落」への言いかえであった。これは、一九三五年(昭和一〇)五月に開かれた全水第一三回大会で井元麟之、朝田善之助により「規約改正に関する件」として提案されたもので、「『特殊部落』の呼称を投げ返し、吾々は決して特殊な部落、特殊な人民ではなく、被圧迫人民大衆の一部であり、而も支配階級から最も惨虐な歴史を負はされて来た部落であり人民であるから、吾々の現在の政治的地位を最も明瞭に表現する『被圧迫部落』なる呼称を用ひる」というものである。これに対し、全水創立以来の古参幹部として唯一中央常任委員に残っていた泉野利喜蔵は、「しかし斯く改訂したからとて吾々の社会的待遇が夫れによって良くなるものとは思はない」と原則的なところで反対したが、議論らしい議論はされずに、綱領・規約の「特殊部落民」は「被圧迫部落大衆」に言いかえられた。

 従来、この言いかえにはほとんど注目されてこなかったが、私は、思想的な意味では、水平運動史上の大事件であると思う。もし、こんな言いかえが許されるなら、水平社創立総会で、「特殊部落」の字句は削除すべきだという岡崎熊吉と一時間も激論をたたかわせて残す必要はなく、はじめから、「特殊部落」にかわる新しい言葉を見つければよかったのである。水平社の綱領、宣言、決議に「特殊部落」という文字が刻印されていることの重みを知る西光万吉は、この一三回大会当時、三・一五事件で服役後保釈されて、水平運動の第一線からしりぞいていた。もし、この時、西光が現役の活動家であったなら、泉野とともに全力で、「特殊部落」の言いかえに反対したに違いない。

 

未解放部落から被差別部落へ

 

 ただ、この「被圧迫部落」は、全国大会の方針などでは用いられたが、必ずしも運動の中で定着したわけではなかった。戦後も、雑誌『部落問題』(『部落』の前身)の一九四八年一〇月号から一九五〇年一月号までは、ほとんどの場合、部落をさして「特殊部落」と表現している。

 ところが、一九五〇年二月号に北原泰作の「未解放部落の階級構成」が掲載され、部落の呼称として新たに「未解放部落」が加わった。この言葉の起源につき、当事者のひとりである井上清氏は、次のように証言している。一九四九年の夏、井上氏は北原泰作氏の訪問を受け、自伝『屈辱と解放の歴史』の原稿の検討を依頼された。半月後、作業を終えて再会し意見を述べるなかで、井上氏は、「水平社自身が『特殊部落』といいながら、他人がその語を用いるのを徹底的に糾弾するというのは、おかしいではないか」といったところ、北原氏も「そのことは内部でも以前から問題にしていた、何かよい言い方はないものか」という。「二人でいろいろ話しているうちに、部落解放運動があるのは、部落が未だ解放されていないからだ、だから『未解放部落』といったらどうだろう、うん、それはいい、ということに落ちついた」。こうして、特殊部落に代わる言葉として「未解放部落」は急速に普及していった。

 しかし、井上氏はまもなく「未解放部落」も適当ではないと思うようになった。その理由を単純化していえば、「未解放部落」というのは封建遺制からの解放を意味し、それを許している独占資本を免罪することになるというのである。そして、考えたすえ「何から解放されるのかという問題にはふれないで、差別されている部落だから、少々どぎついけれども、そのものずばり「被差別部落」といえばよいではないか」と考えた。そして、雑誌『改造』の一九五四年一〇月号に掲載した論文「八三年目の解放令」の副題を「被差別部落の物語」とした。これが、「被差別部落」という言葉が活字になった最初である(井上清「『未解放』部落と『被差別』部落」『現代の眼』一九八一年一一月、「『被差別部落』という語について」『こぺる』一九八五年八月)。この「被差別部落」は、すぐには普及しなかったが、部落解放同盟機関誌『解放新聞』では、一九六六年新年号で用いられたのを皮切りに、一九六八年の終わりごろよりもっぱらこの「被差別部落」の語が用いられるようになった。

 しかし、「未解放部落」「被差別部落」という言葉が発明されたからといって「特殊部落」の語がすぐに消えたわけではない。たとえば、一九五八年二月号の『婦人公論』には作家由起しげ子のルポルタージュ「特殊部落」が掲載されているし(内容は、奈良で開かれた解放同盟の全国大会に参加したおりの、部落訪問記)、また、一九六六年一一月発刊の平凡社『世界百科大事典』一六巻には井上氏自身の執筆による「特殊部落」という項がある。

 さらに、文字でなく言葉の世界では、「特殊部落」の用例は、ずっとのちまで続くし、正確には現在も続いている。京都部落史研究所の師岡佑行所長は一九七〇年に行なわれた部落解放国民大行動隊として網の目行進に参加したが、その際、滋賀県日野町の部落に入ったとき、座談会に参加した地元の婦人が「うちら特殊部落では」を連発するので度肝を抜かれたそうである。私も同様の経験をした。私は、大学の卒業論文で高松差別裁判について書いたが、戦前香川県で水平運動、農民運動、労働運動などにたずさわった方数人に聞き取りをするなかで、ある老活動家に聞き取りをした際(彼は部落民ではない)、私が、「労働運動はどうでしたか?」「農民運動はどうでしたか?」「水平運動はどうでしたか?」と当時の無産運動を個々の団体に分解して聞こうとすると、「君は、無産運動をばらばらに理解しているようだが、それは今の感覚であって、当時はそんなもんじゃなかった。現場の活動家は今からみればごく少数で、それが渾然一体となってやっていたんだ。我々にとっては、水平運動も、農民運動もひとかたまりの無産運動なんだ」と答え、「特殊部落民の諸君は……」と続けた。私は、差別語だから使ってはいけないと教えられていた「特殊部落」という言葉が、なんの違和感もなく老活動家の口から飛び出してきたので、正直いってかなりおどろいた。しかし、この「事件」により、「特殊部落」という言葉は、「穢多」に代わる言葉として差別的意味を含めずに使われることもあるのだということに気がついて、のちのちたいへん参考になった。

 

「特殊部落」の「差別語」への純化

 

 ところで、運動が「特殊部落」を捨て、別の語に言いかえた一九六〇年代後半、「特殊部落」の言葉が次々と差別事件として問題にされることになる。一九六六年九月一〇日付の「アサヒグラフ」は、「江田三郎は“特殊部落”の闘士型でなく、市民社会へそのまま通用する」という記事を掲載した。そして、この事件を報じた『解放新聞』一九六六年一〇月五日号は、「支配者は国民を分裂させ支配する政策をうちだし、それをうらづける道具として使われるようになったのが、この『特殊部落』である」として「特殊部落」が語の属性として差別を伴っているというニュアンスの解説をしている。そして、一九六七年二月のTBSテレビ、一九六八年七月の『京都新聞』、同年一〇月の『月刊社会党』、一九六九年三月の『世界』大内兵衛論文の各事件を通して、比喩として「特殊部落」を用いることが徹底的に批判された。少し時代が下って一九七五年の部落解放同盟書記局の出した「差別語問題についてのわれわれの見解」は、「基本的には、差別語問題は、差別を生み出し、継続させている社会・文化が問われねばならない。差別語を追放したりいいかえたりするだけでは、根本的解決にはほど遠いのである」と「言葉狩り」を極力批判しているが、同時に「『特殊部落』が侮辱の意志のふくまない場合のありうることはわれわれも認める。しかし、それは、歴史論文、研究論文などのごく限られた場合のみであることも同時にはっきりさせねばならないだろう」として、「特殊部落」という語の存在を事実上否定した。

 こうして一九六八年ごろ以降、共産党系は「未解放部落」、部落解放同盟系は「被差別部落」、行政関係者は「同和地区」と、組織なり役職によりそれぞれの用語を使うという状態が現れた(もっとも、共産党系の人たちは、最近「未解放部落」の語は使わず、もっぱら「同和地区」に統一しているようであるが、ここでは論じない)。

 私は、「特殊部落」という言葉が、差別的に用いられることが多いことは認めるし、上記の例に上げたさまざまな事件も問題とすることにすべて反対しているわけではない。一九六〇年代後半は、戦後の部落解放運動が劇的に転換していく時代であった。共産党の米日独占反対の統一戦線に大衆運動を従属させようとする傾向にあきたらぬ多くの部落大衆が立ち上がり、部落解放同盟は最終的に共産党と絶縁し、同対審答申を武器に、同和事業の実施を政府・地方行政に強力に要求していった時期である。また、部落問題を等閑視していたマスコミ、教育者、行政担当者など社会のあらゆる方面で、部落問題の存在を認識させ、しかるべき責任を果たさせる闘いにおいて、この「差別語」摘発は、極めて有効な武器であった。

 しかし、そうした当時の運動にとっての一定の役割にもかかわらず、「侮辱の意志の有無」に対する厳密な検討を放棄し、部落の呼称に過剰にこだわる差別認定のありようは、大きな落し穴がともなうものであった。

 

「差別語」の拡散

 

 「侮辱する意志の有無」を問わずに、特定の言葉を差別語として指摘しだすと、差別であるかないかの基準が、「被差別者に痛みを与えるか与えないか」というところに安易に置かれがちとなる。その結果、最近では、水平社時代であれば絶対に糾弾されなかったことまで問題視されるようになってきた。

 例えば、山口県新南陽市では、同和事業の執行に必要なため、従来の市営住宅に関する条例を改正し、入居資格に、従来「寡婦、引揚者、炭坑離職者」という制限があったところへ、「その他の社会的に特殊な条件下にある者」という条項を付け加えた。これが、部落民を特殊な者と差別しているということになり、市当局者は「結果的に同和地区の人々にとって痛みを感じるような表現になったのは遺憾」として陳謝し、条例を改正したという(『朝日新聞』一九八八年六月三日、『解放新聞』一九八八年七月一一日付)。「特殊」という言葉に、これほどこだわるとは驚くほかない。「特殊」の代わりに「特別」とでも書いておけばよかったのだろうか。これを差別事件として麗々しく取り上げた『解放新聞』の記事は、運動史上の汚点のひとつである。

 また、『読売新聞』一九八六年一〇月一三日付によれば、雑誌『旅の手帖』に差別記事が掲載されたとして、島根県が発行元の弘済出版に抗議し、配布したものを回収した。問題になったのは、鳥取・島根県による「山陰観光キャンペーン」の行事を同誌が特集する中で、「ミニ独立国」へ「税金」を払うと特産品が送られてくる企画を紹介し、金額によって「くにびき」「オロチ」などと名付けられた金額別のコースを「平民向け」「富豪向け」「大富豪向け」としたことであるが、これが「『平民』など差別的な表現」ありとされたのである。「平民」が「庶民」とでもいいかえられておれば、問題化しなかったのであろうが、笑止の沙汰である。本来、解放同盟が差別の矮小化として注意を喚起すべきところ、ご丁寧にも『部落解放ひろしま』五号(一九八六年一二月)に論評抜きに肯定的紹介がなされたのは寒心に耐えないところである。

 こうした、「差別語」の拡大解釈はとどまるところをしらず、部落解放運動以外の差別問題でも似たような様相を示している。例えば、障害者差別の言葉として最近になって指摘されることが多くなった「片手落ち」という言葉がある。この指摘を聞いて、始めは悪い冗談だろうと思っていたが、あまりにあちこちで聞くので、かなりの程度、本気で主張する人があることに気がついた。もちろん、片手のない人を罵るのに「この片手落ち野郎!」といえば、明らかに差別であるが(もっともそんな実例は知らない)、それも、相手の差別的意志が言葉を通して表現されているだけで、言葉そのものに差別的本質があるわけではない。だいたい、芝居の上手【かみて】、下手【しもて】という言葉を聞いて五本指のはえた手を思い浮かべる人もめずらしいのではなかろうか。しかし、恐ろしいことに、いったん特定の言葉に差別的意味がそなわっていると思い出したとたん、それが自分自身を金縛りにしていく。私の友人に、足に障害を持つ女性がいる。もともと、彼女は、自分自身平気で「片手落ち」という言葉を使っていたが、「片手落ち」というのは障害者差別の言葉なんだと聞かされてからというもの、「片手落ち」という言葉を聞くたびに「ギクッ、ギクッ」とするようになったそうである。「それは、人間的退化やなぁ」というと、彼女は苦笑いしていたが、これが社会現象となると笑ってばかりもいられない。

 朝鮮人問題でも、似たような現象がある。「馬鹿でもチョンでも……」は差別であるという。これも最近いわれだしたことであるが、言葉主義というてんで、こちらの部落問題といい勝負である。私は、京阪神で育っているので、小さいときに朝鮮人に対する蔑視観をかなりうえつけられてきているが、「馬鹿でもチョンでも」という言葉を使うときに、朝鮮人を思い浮かべたことなど一度としてない。むろん、「馬鹿でもチョンでも」という言葉を朝鮮人をさして使う場合が絶対にないとはいわないが、それは、あくまでケース・バイ・ケースである。差別的意図が言葉を通して表現されるだけで、言葉自体に差別的意味がそなわっているわけではない。

 近ごろ、「差別語」にあまりにも過剰といわざるをえない反応をしめしている現象が目につく。確かに、差別と言葉は切っても切れない関係があるし、言葉に過剰反応を示す人がいることは避けられないことであろう。しかし、およそ反差別の運動たるもの、その核心的原理が、被害感情の単純総和であっていいはずがない。残念なことではあるが、現在ほど被差別者のあるがままの被害感情が運動の名において公然とまかりとおっている時代を私は知らない。

 

新しい言葉の発生と差別語への転化

 

 ところで、穢多を「新平民」に言いかえて以来、現在の「被差別部落」に至るまでに、部落の呼称は十指をくだらないだろう。「新平民」が悪いから「特殊部落」に言いかえる、「特殊部落」が悪いから「細民部落」に言いかえる。そして、部落解放運動でも「特殊部落」を「被圧迫部落」「未解放部落」「被差別部落」へと次々に言いかえてきた。しかし、これらはいわばすべて部落問題業界内でのできごとである。一〇年に一度、二〇年に一度、部落の呼称を変えられても、部落問題を日常的に扱っていない人はついてこれるわけがないし、また、ついてくる必要もない。前述の老活動家が「特殊部落」のところでとまっていたとしても誰が非難できようか。要は、部落をさして「穢多」といおうが「特殊部落」といおうが、あくまで「侮蔑の意志」をもって使ったか否かということしか問題にしえないのである。

 差別するためのもっとも手近な表現は、言葉によるものであるが、一旦差別を特定の言葉で表現するようになると、言葉そのものに差別が宿っているような感覚を抱かしめ、それが「差別語」といわれるようになる。そして、「差別語」の追放が叫ばれる。しかし、ある言葉を、「差別語」として使用を圧迫した場合、短期的にはてっとりばやい反差別運動のようにみえても、長期的に考えた場合、正負の両義的につかわれた言葉は、「差別語」に純化し被差別者に襲いかかってくる。「特殊部落」という言葉そのものが最近の部落解放理論を勉強した部落民にとって耐え難いように感じられるとしたらそれは、「被圧迫部落」「未解放部落」「被差別部落」という言葉を発明して「特殊部落」という言葉を圧迫した運動の結果に他ならない。

 

おわりに

 

 あるがままの部落民の意識は、自分の先祖が穢多であることを恥ずかしく思う。したがって、部落を部落として取り出されること自体を不快に感じる。どんな部落の呼称を生み出しても不快であることには変わりない。それを突破して、一人の人間として誇りをもって生きていくには、穢多の末裔であることを公言してはばからない(誇るわけでもなく、卑下するでもなく)強い主体を作ることが不可欠である。水平社が、言葉の言いかえを拒否して、「特殊部落」の語を掲げた根本的意義はその一点にある。これは、水平社に限ったことではなく、自覚ある融和主義者にも共通した課題であった。たとえば、岡本弥は、「新平民」と肩書を入れた名刺を用いていた。その理由を彼は次のように説明する。(一)杉浦重剛氏に、部落民自身は、古い殻を脱ぎ捨てた新しい平民であるという、自尊心を持つようにならねばならぬと教えられ、それはもっともと感じた。(二)部落民と知って変わりなく交際してくれる人こそ、本当の友人である。(三)部落民でありながら、そうでないように振舞う人に反省の機会を与える。(四)新平民という名称を社会から抹殺するまで、差別社会と闘う。(五)新平民なりと名乗ることによって、自分が解放されたものと大乗的に信じた(「新平民という名刺」『融和運動の回顧』)。

 言葉への過剰な反応は、半分以上は当の本人の問題である。この点につき、在日韓国人の(とひとくくりにされることを彼女は問題としているが、ここではこういう言い方をお許しいただきたい)姜信子氏は、自分の言葉への反応を次のように内省的にとらえかえしている。

「私、韓国人なんだよ」

「へえ、そう。ノンコは“チョン”なの。“チョン”だったの。全然わかんなかったわ」“チョン”という言葉に、体が凍りついてしまった。彼女の顔を見ることができない。私は、

「馬鹿にしている」

と、怒ることもせず、大人しく黙っている。顔には自嘲の笑いとも、相手の機嫌を損ねまいとして作った笑いともつかぬものを浮かべている。それが自分でも情けなかった。彼女と私の仲の良い友人関係は、その後も変わりなく続いた。“チョン”という言葉が私の心に起こした波紋に、おそらく彼女は気づいていない。今もきっと…。

私は、差別を連想させる言葉に必要以上に過敏に反応するようになっていた。“チョウセン”という言葉。日本人が何げなく口にするひとつひとつの言葉に、心が波立った。そんなことに反応する自分がイヤだった。

卑屈になりたくない。堂々と自然に振る舞いたい。この気持ちが出発点。本を読みあさり、日韓史を勉強し、一体自分は何者なのかと哲学する。韓国人であること、日本で生きることの意味を模索する。(『ごく普通の在日韓国人』朝日新聞社、一九八七年)

 また、詩人の金時鐘氏は差別と言葉について極めて示唆に富む発言をしている。

 私などの意識からすると、「チョウセンジン」という陰にこもったこの呼び名は、「朝鮮人」という同じひびきのなかでこそ回復されるべき名誉であり、友情であり、愛であると信じている。……糾しようによっては、糾されかたもひんまがってしまう力学は彼我ともにもちあわせているものなのだ(『クレメンタインの歌』文和書房、一九八〇年)。

 まことに至言というほかない。そして、私自身も、「エッタ」という陰にこもったこの呼び名は、「穢多」という同じひびきのなかでこそ回復される名誉であり、友情であり、愛であると信じて疑わないのである。