数学教育学会春季年回シンポジウム      「情報社会における学校・社会・数学」 1998年 名城大学            計算機支援の数学教育と、情報のための数学         八杉満利子(京都産業大学・理学部)         yasugi@cc.kyoto-su.ac.jp *はじめに   情報とういことばはあまりにも広く使われていて、情報化社会をテーマに するときに、その意味は明確でないが、マスコミの繁栄とともに非選択的に情報が あふれてきて、その取捨選択の訓練を受けていない子供たちが混乱し始めたのは、 かなり古いことであろう。実際には大人もそのような訓練は受けていない。 情報の洪水の中をなんとか生き延びて無事大人になった、というべきであろう。  かって学校制度が、知識や技術の情報供給の場として制定されたのは、 画期的なことであった。現代においては、情報の取捨選択の技術も提供しなければ ならなくなっている。しかし教育の基本は、従来とそれほど変わらないと考えている。  数学に限らず、学問の基礎を初等・中等教育できちんと教えることは、 普遍的な知識と知恵を与えるものであり、考える能力を養うことにもなる。 広い教養と様々な経験によって習得される人間としての基礎体力こそ、 どの時代にも対応できる能力の源になる。  しかしここでは、一般論は展開しない。「情報」を、コンピュータを通して 得られる知識や技術、と限定し、そこでの情報教育と数学教育について、 大学教育にたずさわっている経験からの視点で考えていく。また、コンピュータを 通しての情報といっても、インターネットによる社会現象的な問題には重点を おかない。それは別途とりあげるべき大問題だからである。  コンピュータの普及によって広がった可能性は、数え切れないほどある。 それらをこれからの教育において積極的に活用していくことこそ、若い世代を 新しい時代に向けて準備させるもとである。その過程で、あるいはその結果として、 負の側面がでてきた場合に柔軟に対処できる能力を養うためにも、広い範囲の 十分な教育が必要である。  情報教育を誰がどのように担当するか、が議論される際に、論点がはっきり しないことがある。すなわち、情報教育とは何をさすのか、である。 情報科が必修になる、という話しの場合にも、同じようにあいまいなことがある。  中学または高校での「情報教育」の内容としては、 (1)いわゆるコンピュータ・リテラシー、 (2)インターネット、 (3)プログラミング、 (4)概念としてのアルゴリズム、 および (5)コンピュータ支援による諸科目の教育、等が考えられる。  いずれにしても、情報教育の議論においてたいての場合に抜けているのは、 コンピュータ相手の作業は時間がかかる、という点である。教える側としては、 授業に支障のないように、環境を整えなければならないが、ほかの道具とちがって、 つねに不測の故障がつきまとう。また、手計算とちがって思いがけない出力が でることがあるので、必ず事前に試しておかなくてはならない。  教わる側としては、わずかなシンタックスの違いでプログラムが動かなかったり、 目的の作業の前に予備的な知識が必要だったり、と、伝統的な教科のように、 一定の時間内にある程度まとまった学習ができる、とはいかないことが多い。  これらの問題点について、十分検討しておくことが必要である。 *情報教育とは  以下で、上記の各項目について、言及していく。  (1)と(2) (1)は、コンピュータ使用に関するすべての基礎である。 (2)は、インターネットの社会が仮想でなくリアルになりつつある現在では、 避けて通れない。これらは特に数学に限るものではなく、数学の科目に入れる ことでもない。情報科ができれば、当然そこで教えるべきことである。その場合、 教師はいわゆる計算機科学科、あるいは情報科学科などの出身者である必要はない。 情報科の教師の資格条件はどのように設定されているのか私は知らないが、 コンピュータ・リテラシーの技術的な面と、電子社会における規範の両面を 教えられることが望まれる。  (3)と(4) プログラミングとアルゴリズムについては、情報科学の 基礎知識が必要とされるが、プログラミングを教えるべきか、教えるとすれば 言語は何であるべきか、を良く検討すべきである。私の所属する理学部・ 計算機科学科では、一年次にC言語、続いてMathematicaを教えているが、 学生の進歩の度合いは、早期プログラミング学習とは直接関係ないようだ。 むしろコンピュータに親しめるかどうか、のほうが重要な要素になっている。 高校でプログラミングを教える場合には、生徒の進路に応じて、実用的性や アルゴリズムの概念の理解の支援、ということを考慮すべきである。  (5) コンピュータ支援の教育といっても、科目によって必要な基礎は異なる。 教育内容については、数学では、方程式のビジュアル化や複雑な計算などが 効果的であろう。自然科学のもとが、目に見える、耳に聞こえる、あるいは 手でさわれる現象であったのに対し、数学は数字と文字の世界であった。 しかし計算機支援の数学教育により、方程式などで記述される現象が現実的になり、 学習意欲を促進することが期待される。計算機支援によってグラフを容易に描く ことができ、計算が簡単になることによって、生徒・学生が頭を使わなくなる、 という発言を聞くことがあるが、それは観念で作った否定的観測であるとしか 思えない。  直接生徒に数式処理言語などを使わせるか、教師がデモをするかなどは、 今後の課題であり、各現場の工夫次第でもあるが、少なくとも計算機支援の 教育方法は、能力開発に決定的な役割を果たすであろう。  21世紀に向けて、このような可能性を具体的に研究し提言することは、 急務である。 *数学と情報  数学の教育内容そのものについては、公に審議されていることでもあり、 深入りはしないが、一つだけ意見を書きたい。それは、数学の知識・技術を 教えるにしても、物語り性を与えることが、興味をもたせる動力になるという ことである。教科書などでその工夫をしてほしいものだ。  しかしここでは、情報科学との関連における個人的な考察を主に述べる。  計算機支援の数学教育の重要性についてはすでに触れた。  情報関連の数学の取り扱いについては、具体的な提言をするまでにいたっていない。 とりあえず私の所属している計算機科学科における実状を報告し、高校等の 教科内容を検討する際の参考にしていただこうと思う。  1ー2年次の数学関係の必修科目には、いわゆる微積の基礎項目および 行列と行列式が含まれている。微積の続きおよび線形空間は選択になっている。 これらは卒業研究などの高度に専門化された科目では必ずしも必要ではないが、 多くの科目の基礎にはなっている。直接その知識を使わなくても、諸概念の 例をあげるときに、数学の基礎知識がないと、非常に難しい。  これら以外に、1年次で、「集合と論理」および「離散数学基礎」が半年ずつある。 前者の内容は集合・写像・関係および命題論理である。命題論理との相似性として、 ブール代数と論理回路に触れる。集合といっても、数学科における集合論の 展開とはかなり趣を異にする。高校において集合の記法などは習得している 建て前になっているが、これはもっと徹底して欲しいものだ。離散数学基礎は、 グラフ理論基礎である。いずれにしても計算機科学関係の教育では、離散数学が 重要である。  専門科目では、述語論理および計算論の多くをカバーしている。再帰関数論、 計算量理論、プログラ理論、自動証明、などには、これらの内容は欠かせない。 ここにあげた計算機科学の分野は、数学との境界領域というべきものでる。 未来の数学教育については、何が数学か、という問題も含めて、検討すべき 時代になっている。 *論理的思考力の強化  上で触れた命題論理などは、体系として扱うものであって、一種の代数系と みなすことができる。ここでとりあげる論理的思考とは、数学に限らず社会で 生きていくための手段としての思考形態のことである。職場の会議などにおいても、 日常生活においても、論理のすりかえや取り違えが多い。必要条件と十分条件の 混同などは当たり前のことである。とくに国際化が進んでいる時代にあっては、 論理を駆使して議論することが生き延びる道なのである。その訓練は、 家庭から始まるのが望ましいが、学校では数学だけでなく、国語や社会の中でも できることである。 *ニュー・英語  コンピュータを使う限り、英語を全く避けるわけにいかない。技術用語もあり、 またインターネットによる海外との接触に必要な英語もある。それは従来のような 語学として、あるいは(外国の)国語としての英語でなく、技術的な道具として みなさなければならない。文法がどれだけ分かっているか、ということではなく、 英語を使って自分のしたいことがどれだけできるか、が問題になる。 従来のブロークン・イングリッシュに代わって、ニュー・イングリッシュという 造語があるそうだ。世界中で使われている英語は、実は多様なのである。 要はそれによって生存していけるか、ということである。大まかにいえば、 そのような自由な発想で使う英語がニュー・イングリッシュというものだろう。 数学科や情報科でも、ニュー・イングリッシュの教育には関心をもつべきである。 英語は英語科の役目、というのではなく、互いに協力する体制を作ることが、 望ましい。 *おわりに  社会はカオス状況である。その中で子供たちが健全に育つことに我々が もし何かできるとすれば、それは伝統的な文化の基礎と、時代に即応した 知識・技術を与えることである。後は本人の環境・個性・努力に待つしかない。 多少力になれるためにも、大人が勉強しつづけ、柔軟な心を持ち続けたいものである。