ヒンドゥー教の聖と俗 ーー古代インド人の人生の目的(purusartha)とはーー
   山上證道 0 序論  インドという国は、古代より高度に発達した哲学、就中、観念論や、ヨーガの 瞑想といった超越的手法などによって、きわめて精神的要素を重視する神秘主義 的傾向を持つ国として一般に知られる。しかし、それではインドの人々は、古来 より聖なるものを尊び俗なるものを敬遠する傾向が強く、物質に対しても否定的 であったのかというと、勿論そうではない。マハラジャに代表されるごとく、限 りなく富を求める裕福な人々も存在しており、その一端を現代世界で活躍中の印 僑にみることができる。さらに、インドといえば、性的な彫像や神像の存在は有 名であり、密かに知られるカーマ・スートラなる性書は、好事家たちをしてイン ドの人々はすべて好色漢であるかのごとき錯覚に陥らせる。しかしながら、一言 にして「得体の知れぬ国」と片づけられがちなインドの持つこのような特質も、 実はよく考えてみれば、なにもインドに限られたものでなく、世界の国々の人々 がいずれも内部に持っているものであり、特別にインドについて強調されるべき 筋合いのものではないことがわかる。それにもかかわらず、ことインドに関して 特別に語られるには、それなりの理由が当然考えられる。それを解き明かす鍵は、 インド文化とほぼ同義で用いられるヒンドゥー教にある。古代から聖と俗を呑み 込んだこのヒンドゥー教には、インドの人々のしたたかさが満載されていると 言っても過言ではない。 1 人生の目的・トリヴァルガ(trivarga 三つ巴)とは (1)理想の人生  古代よりインドでは人生の目的(purusartha 人間の目的)として明確に三者・ 三つ巴(trivarga)を掲げ、その三者の各々を、均衡のとれた形で追求すること を、人間の最高の生き方であると規定し、そのために、その三者を特に学問的対 象として子細に研究し、論書として伝承する伝統が存在する。その三者とは、1. 法・ダルマ(dharma)、2. 財・アルタ(artha)、3. 愛・カーマ(kama)で ある。その三者の学問は、それぞれ、ダルマ・シャーストラ(dharmasastra)、 アルタ・シャーストラ(arthasastra)、カーマ・シャーストラ(kamasastra) と呼ばれ、膨大な文献群がそれらの項目を微に入り細に入り探求しており、明ら かに一種の学問体系として伝承されているものである。先述のカーマ・スートラ にしても、諸哲学派の論書と同様に注釈の付随した論書形式の文献であることか らも理解できるように、決して興味半分の好事家たちに供するものではなく、ま じめに人生の目的にかなったものとしてカーマの追求を促すものである。  すでにMahabharata(以後MBhと略する。AD300頃には成立、部分的にはもっと 早い成立のものもあり、BhagavadgitaはBC100頃の成立といわれる)において随 所にこの三者の重要性が詳述されていることはつとに知られている。その中でも 第12巻161章は、もっとも整った形でそれが示されており、当時インドの人々 の理想とする人生のあり方に関して、次の5人の主張がそれぞれの人格を重ねる かたちで語られている。   a. ヴィドラ(5王子の叔父)=ダルマを重視すべし。   b. アルジュナ = アルタを重視すべし。   c. ビーマセーナ = カーマを重視すべし。   d. ナクラ、サハデーヴァ = アルタを重視するもダルマと矛盾しない範                  囲で。   e. ユデシュティラ = 二元的対立を超越する第四の価値あるものとして               解脱の重要性を説きつつも、運命論を展開。 (2)ダルマとは?  そもそもダルマの意味するところはきわめて広範囲である。因みに、Sir Monier-Williams : Sanskrit-English Dictionaryからその主なものを挙げてみ ると次の通りに分類できる。   a. 確固たるべきこと、法律、義務、正義 ・・・ 社会的意味 b. 徳、宗教的善、功徳、仏法 ・・・・・・宗教的道徳的意味 c. 性質、事物、特性・・・存在論的意味(諸法無我の場合の法はこの意味)  一方、インド人が生活する上で必要不可欠とされてきたダルマの概念を、例え ば、上記MBh、12巻、161章から見てみると次のように纏められる。  ダルマとは、インド人が義務として、たとい迷信的であったとしても、「なさ ねばならぬこと」と考えていたすべてを含むものである。およそ、「よきこと」 「正しきこと」の実践のプロセスのみでなく、その結果もすべてダルマの語に含 まれる。ダルマを積んでいけば、死後には天国に生まれることを約束するもの、 いわゆる功徳をもそれは含むのである。 (3)アルタとは?  また、アルタの語彙をSkt-English Dic.から拾ってみると次のように分類でき る。   a. 目的、利益、実利   b. 物質、対象、財   c. 意味  trivargaの一としてのアルタを上記MBhの記述に求めると、次のようになろう。  アルタの語によって、ある「目的」を設定して、実現のため、術策を用いる人 間の営み一般が意味される。その目的とは、一般には、名誉、金銭、権力など世 俗的な欲望に基づくもので、その実現のために、懐柔、収賄などの策略(ウパー ヤupaya)をもってなされた。時には目的のために手段を選ばぬこともある。こ のようなアルタに最も関係の深いのは国王であるから、帝王学、君主論がアルタ・ シャーストラにおいて中心的に論じられることになるのは当然であろう。 (4)カーマとは?  カーマの語彙をSkt-English Dic.より整理すると次の三種の意味となろう。   a.意欲   b.愛、愛情   c.性愛  一方、MBhの記述から理解できるカーマとは、ダルマのように、功徳を積んで、 死後天国を約束するものでもなく、アルタのように、現世に利益を生むものでも ない。しかし、人と生まれて必要不可欠な「美しきもの」「優しきもの」「雅な るもの」の価値の基準となり、理想とすべきものである。人間がもっとも人間ら しく生きるためになにをなすべきか、それがカーマの名の下に学ばれたのである。 粋人(ナーガラカ)・芸者(ガニカー)が理想として描かれていることでも理解 できるように、教養・文化の薫り高い人格を備えるに必要なもの、それがカーマ であり、性愛のみを指すものでない。それは、カーマ・スートラの次の記述から も明らかであろう。 「カーマとは、耳・皮膚・眼・舌・鼻が、自我(atman)と結びついた心に導か れて、各々の対象(音など)において、適切に働くことである。しかし、カーマ は主として、〔男女の〕特別の接触に際して、〔男女の〕心に、愛執よりなる (abhimanika)快感に満ちた、実りある対象の知覚が生ずることである。カーマ・ スートラにより、また洗練された市民(nagaraka)との交際によって、それを理 解すべきである。」(上村勝彦訳) 2 ダルマ・シャーストラ(Dharmasastra) (1) ヴェーダの6補助学(アンガAnga)  ダルマ・シャーストラは、元来、ヴェーダの6補助学(anga)---a. 音韻学、 b. 祭式儀礼綱要、c. 文法学、d. 語源学、e. 韻律学、f. 天文学---のうちの祭 式儀礼綱要の中にあった法経(ダルマ・スートラ)に源を発している。法経とは、 簡略な散文で、ヴァルナ(四姓)の権利・義務・生活法をヴェーダに関して規定 したものであったが、後に、対象をヴェーダのみから一般に拡大し、法律的内容 を韻文で整備したものが作成されて、法典(ダルマ・シャーストラ)と呼ばれる 文献ができた、と見られている。 (2) マヌ法典(マーナヴァ・ダルマ・シャーストラ)  そのダルマ・シャーストラ中最も有名なマヌ法典は、AD 3世紀頃に現在の形 に整備されたと見られるが、その中核部分は法経においながらも、王の義務・刑 法・民法の類を韻文で論じたものである。現代的な意味の法律を扱う部分は、全 体の4分の1程度である。これは、先述したように、ダルマ概念が広範囲に及ぶ という特殊性によると思われる。それゆえ、ダルマ・シャーストラは、法律文書 というより、教訓詩というほうが適切である。ビルマ、タイ、ジャワ、バリの法 制思想に影響を及ぼした。  ヤージュニャヴァルキヤ法典の注釈であるミタアクシャラー(11世紀)は、 インド人にはインド法をという原則で、久しく英国支配下のインド法廷で典拠と された。 3 アルタ・シャーストラ  カウティリヤ・アルタ・シャーストラ(カウティリヤ実利論 Kautilya:Arthasastra)、 AD3世紀?(1908年に初写本)  カウティリヤ以前に国家論、君主論、政治学、軍事論などの長い伝統があった はずで、それらを集成したものと思われる。カウティリヤは、マウリヤ朝のチャ ンドラグプタ王(BC)317〜293頃在位)の名宰相であったとされている が、実際には、この文献ができたのはAD3世紀頃と思われる。  アルタ・シャーストラの中心は、野心に満ちた王(vijigisu)であるから君主 の心得、国家論、君主論が説かれる。その内容も、国家体制の整備(都城建設、 植民、省庁、官吏登用など)、度量衡制定、出入国管理、税制、官吏の管理、自 己保全(人脈や金脈を操り、諜報機関の活用など)、外交、軍事についての権謀 術数の奥義と兵法、等々に及び、世界の数カ国語に翻訳され、「インドのマキャ ベリ」「インドのビスマルク」などと称せられた。  ダルマ・シャーストラとアルタ・シャーストラとは内容的に重なる部分が少な くないが、前者が理念・原則・義務といういわば原則論であるのに対し、後者は、 治国平天下の方策である点大いに異なる。ダルマ・シャーストラの道徳的徳目は、 アルタ・シャーストラにおいては必ずしも評価されない。王が道徳的であること を旨とすればかならず敵に乗ぜられることになり、少欲知足を理想とすれば進取 の気性を欠くこととなるからである。  このように、倫理道徳のみでなく、宗教もアルタ・シャーストラではダルマ・ シャーストラと異なった扱いを受ける。アルタ・シャーストラは、バラモン教の 伝統に忠実に従ってはいるが、一般庶民の宗教心をアルタ(実利)に利用せよと いう。一般庶民を畏怖させるため、神像にトリックを用いて神との交信を実演し て見せたり、それと知られずにトリックを使って奇蹟を行うことも勧めている。 国の財政困難なときには聖者を装う工作員が巧みに人心を乱して社会不安を起こ し、喜捨の条件をつくって国に浄財として寄付をさせる。工作員が行者を装って 外国に進入し、礼拝堂に特殊装置を設置して要人が参拝中に殺す。人は宗教の名 において心を許すから、これをアルタ(実利)に利用する効果は絶大である。  このように、アルタ・シャーストラの説くのはアルタ(実利)であって、人倫 の道はダルマ・シャーストラに譲っている。後世、アルタ・シャーストラが一連 のニーティ(処世術)文献の基盤となった。 4 カーマ・シャーストラ   ヴァーツヤーヤナ(Mallanaga Vatsyayana):カーマ・スートラ(Kamasutra) (AD5〜6世紀?西インドか?)  現在伝えられているカーマ・スートラは、第1巻総論、第2巻性交、第3巻処 女との交渉と結婚、第4巻妻に関すること、第5巻他人の妻、第6巻遊女につい て、第7巻秘法、という7巻より成っている。インド人特有の分類癖は随所に見 られ、微に入り細に入り男女の性に関わることを詳述する。  アルタ・シャーストラの形式を踏襲していると思われる。また、カウティリヤ と同様に、先学に依っているから長い伝統があったことも窺える。ダルマ・スー トラからダルマ・シャーストラが発展してきたように、ヴェーダ祭式にまつわる 性的な伝承が次第に発展したのであろう。  ナーガラカ(粋人・洗練された市民Nagarakaーー原義は都会人)の生活を中心に 述べていて、都市文化を基盤としていることが窺える。これは、ダルマ・シャー ストラが都会をさけた森林での生活(アーラニャカAranyaka)を基盤にして述べ られているのと対照的である。当時、西インドは、ローマとの交易などで栄えて おり、都市の発展、商人の出現、莫大な富を背景とした華美で豪奢な生活が展開 されていたことが窺える。カーマ・スートラ末尾には、「この書は最高の禁欲と 精神統一により、世人の生活に役立てるべく作られたもので、情欲を目的として 編まれたものではない」と記されている。(「南アジアを知る事典」から) 5 むすびにかえて  古代インドの人々は、人生の価値評価に三視点を明示したが、同時に、この三 者のいづれか一点のみに偏ることを不健全であると戒めている。三者の調和のと れた追求こそ人生を全うに生きる道であると説き、名君は「トリヴァルガの本質 を知るもの(trivargajna)」でなければならず、名言は「トリヴァルガに適う もの(trivargayukti)」と言われ、MBhにしばしば言及される。(原実、p.274)  また、アルタ・シャーストラには、王杖(danda 権力、刑罰、武力)を行使 する方法が政治学(dandaniti)であるとされ、王は、王杖を常に振り上げてい るべきかどうかについて次のように述べる。  「・・・過酷なる王杖を用いる王は、生類の恐怖の対象となる。軟弱なる王杖 を用いる王は、軽蔑される。適切に王杖を用いる王が尊敬されるのである。実際、 よく熟慮して用いられた王杖が、臣民にダルマとアルタとカーマとをもたらすの であるから。・・・王が王杖により守護すれば、四姓と四住期とを守る世間〔の 人々〕は、各自の本務(svadharma)なる仕事にいそしみ、それぞれの道に従事 する。」(上村勝彦、p.298)  トリヴァルガが何より人々に重視され、求められていることがわかる。トリヴァ ルガの調和のとれた追求が繰り返し強調されるゆえんである。しかし、最初の MBhの記述からも知られる通り、その三者の内の一を特に重視する思想が存在す るのは当然であろう。実際、当然のことながら、ダルマ・シャーストラはダルマ を、アルタ・シャーストラはアルタを、カーマ・シャーストラはカーマを特に重 視する。つまり、「調和のとれた追求」という表現とは裏腹に、時と場合によっ てはどれかを特に強調することも許可される、という風潮がここに隠れている、 というのは考えすぎであろうか。全体として調和がとれていればいいのであって、 今はアルタを強調すべきであるというときは、徹底的にアルタを追求し、今はダ ルマを追求するときであればダルマをというように、自分の都合により重要なも のを専ら追求することも可能であろう。要は、トータルして均衡のとれた追求で あればよいのであるから。  多くの神々が鎮座まします神聖な国インドは、ネルー以来政治大国として夙に 知られる。冷戦中、東西の綱引きをうまく利用した中立外交もなかなかのもので あったし、昨今の核実験を巡る一連の行動も、先進諸国をあわてさすほど見事な ものであった。このような手腕は一朝一夕に備わるものではないであろう。古来 からトリヴァルガの一としてのアルタの追求が重視されたアルタ・シャーストラ の伝統のなせる技ではないか。 参考文献 岩本裕   『完訳カーマ・スートラ』東洋文庫、平凡社、1998年。 岩本裕   「カーマ・スートラ」『筑摩書房 世界文学大系 インド集』         1959年、pp.361-370。 上村勝彦  「『カウティリヤ実利論』におけるダルマ・アルタ・カーマ」『岩       波講座 東洋思想第七巻 インド思想3』1989年、pp.288-314。 上村勝彦訳 『カウティリヤ実利論』(上)(下)、岩波文庫、1984。 上村勝彦訳 『バガヴァッド・ギーター』岩波文庫、1992年。 原 実   「トリヴァルガ」『岩波講座 東洋思想第七巻 インド思想3』        1989年、pp.264-287。 渡瀬信之  『マヌ法典』中公新書、1990年。 渡瀬信之訳 『マヌ法典』中公文庫、1991年。 渡瀬信之  「法典の成立とその思想」『岩波講座 東洋思想第五巻 インド思       想1』1988年、pp.112-134。 辛島昇他監修 『南アジアを知る事典』平凡社、1992年。 Kane,P.V. History of Dharmasastra(Ancient and Medieval Religions and Civil Law in India),5 Vols. Poona, 1930-62. Winternitz, M. Der Geschite der Indischen Literatur III, Leipzig, 1922. (English Translation : A Historyof Indian Literature, Vol. III, Part2, Translated by Subhadra Jha, Delhi, 1967)

../
/
Last modified: Fri Dec 5 17:29:53 JST 2003