以下の報告は、京都産業大学世界問題研究所所報「世界の窓」第14号・第15号
   合併号に記載されたものである。


          共同研究「新世紀への期待と逡巡ーアジアの国際的課題」
     <個別テーマ:「反目と融和ーインドにおけるヒンドゥー
     教とイスラーム教の交流ー> 第1回海外調査報告


日程(1998年2月22日〜3月3日)
 2月22日(日)関空発、深夜インド・デリー着
 2月23日(月)日本情報センター(Japan Information Center)訪問。
 2月24日(火)国立イスラーム大学(Jamia Millia Islamia=National
          University of Islam) 訪問、ニザームッディーン・
          ダルガーー(Nizamuddin Dargah)調査、デリー大学・仏教学科
          (University of Delhi,Department of Buddhism)訪問。
 2月25日(水)ヒンドゥー教祭日、国立博物館(National Museum)見学。
 2月26日(木)国立イスラーム大学再訪、ジャママスジッド(Jama Masjid)調査、
                    アンサリ教授(Prof. Ansari)と対談。
 2月27日(金)デリー大学・哲学科訪問、モティラル書店にて書籍調査。
 2月28日(土)サフダルジャン(Safdarjang)廟調査。
 3月 1日(日)デリー出発、列車にてアリーガル(Aligarh)着。
          アリーガル・ムスリム大学見学、ラフマン教授(Prof. Hakim Syed
                    Zillur Rahman)宅を訪問・対談。
             セミナー(アンサリ教授宅にて)、出席者=ハビブ博士(Prof.
                    Irfan Habib of Department of History, Aligarh Muslim Univ.)、
                    アンサリ教授、サルマ教授(Prof.S.R.Sarma of Department of
                    Sanskrit, Aligarh Muslim Univ.)、榊女史(Miss Sakaki,
                    a candidate for Ph.D., Aligarh Muslim Univ.)、山上の五名。
 3月 2日(月)アリーガル出発、車にてデリー着。
            インディラ・ガンディー・センター(Indira Gandhi National
                    Centre for the Arts)にてランジャン女史(Neena Ranjan)と対談、
                    同センターにてマヌスクリプト調査。
            深夜デリー発、3月3日夕方関空着。

 今回の調査の目的は、インドのイスラーム遺跡や施設を訪問し、とにかくムスリムに
会うことであった。長年サンスクリット文献学一筋に研究を進めてきた私が、『アジア
の国際的課題』として「反目と融和ーーヒンドゥー教とイスラーム教の交流ーー」を選
んだ限りは、まずムスリム(ことにインドに住むムスリム)についての知識を蓄えるこ
とから始めなければならないからである。1971〜73年の二年間におよぶ私のイン
ド留学時代に佛教関係、ヒンドゥー教関係の遺跡や寺院とともに、イスラムの遺跡など
もよく訪れたが、ムスリムの人々と会話をした記憶は多くない。1971年の第三次印
パ戦争を現地で体験してはじめてイスラームとヒンドゥーの対立抗争が実感できたが、
それでもなお、自分の研究に気を取られてムスリムの歴史や彼らの心情を理解しようと
いう気持ちに欠けていたことが今となっては悔やまれる。

 そのようなわけで、国際言語学研究所の矢野道雄教授の知人であり科学史の教授であ
るアリーガル・ムスリム大学のアンサリ教授を頼りに、インドのムスリムの人々と会う
ことが第一の目的であった。

 デリーに到着してすぐに電話でアンサリ教授と予定の打ち合わせをしたところ、3月
1日に教授宅で数人の学者を集めて討論したいとのことなので、それまでにデリーにあ
る大学やイスラム寺院、施設などをできる限り訪れてイスラーム文化に触れておこうと
計画を立てた。以下そのうちの主なものの印象などをまとめておく。

 まず、二度にわたって訪問したニューデリー南端にある国立イスラム大学(Jamia
Millia Islamia=National University of Islam)。この大学は印パ分離独立後にできた
ムスリム大学で、学生は六対四でムスリムがやや多いと言うことであった。しかし学生
達だれに聞いても、ヒンドゥーもムスリムも別に違和感は全くないと胸を張っていう姿
が印象的であった。ここの歴史学部長であるジャマルッディーン(Prof. Jamaluddin)か
ら有益な話を聞くことができた。その場にちょうど居合わせたスーフィーを研究してい
る若い学者であるシャルマ(Sharma)女史を紹介してもらい彼女からも引き続いて教示を
受けることができた。ニザームッディーン・聖廟(ダルガー)を訪問することを勧めて
くれたのも彼女であった。また図書館も見学させてもらったが、インドの大学はどこも
資金不足であるため図書が少ないが、狭い読書室で多くの学生が熱心に勉強している姿
は印象的でった。大学が大衆化した日本と比べるとインドはまだまだ大学生はエリート
で、勉強しなければならないという気概を持っているようである。後日訪れたアリーガ
ル・ムスリム大学は、イスラームも西洋文化を受容すべしとの思想の基に、1878年
にアフマド・カーン(Syed Ahmal Khan)が創設したもので、インド一伝統のあるイスラム
大学という名に恥じず、建物といい図書館の設備といいデリーのイスラム大学より遙か
に充実しているようであった。

ニューデリーにある国立イスラーム大学図書館の閲覧室にて

ジャミー大学
 次に、ニザームッディーン・聖廟(ダルガー)。デリーの三大スーフィーの中でもと
りわけ重要なこのスーフィー・ニザームッディーンは13世紀、民衆の圧倒的支持を受
けたのみならず、権力者側からも最も注目されたスーフィーであった。彼の死後、彼の
活動の場であった現在のニザームッディーン・ウエスト地区にダルガー(聖廟)が建造
され、その後多くの権力者がそのダルガーの整備に力を入れ、著名な人物の墓石をダル
ガー内に設置したといわれている。今日でもこのダルガーにはインド各地から参拝に来
る人々が後を絶たない。

 イスラーム居住地区であるこのニザームッディーン・ウエスト地区のゴミゴミした中
にあるこのダルガーに、一人で入るには少し勇気を要した。タクシーの運転手は入り口
まで案内してくれたが、そこから先は、狭くて暗い回廊をうねうねと歩いていかねばな
らず、その両側には貧しい人々や病気の人々が救いの手をさしのべている。このような
場面には少しは慣れているつもりでいたがはやり少し足のすくむ思いがした。その回廊
を通り抜けると聖廟が広がっている。広がっていると言っても、ジャママスジットのよ
うな広々としたものではなく、狭い空き地という程度である。後代に与えた影響やその
高名から判断してもそのダルガーの規模は小さいという感じは否めない。内部が非常に
複雑で一人でここを調査するには困難を感じ、再度訪れる必要を感じた。

 聖廟の前である女性が涙を流しながら礼拝をしている姿が目に付いた。熱心に廟を拝
む姿は、偶像を否定するイスラームには相応しくない姿である。さらに廟内ではヒンド
ゥーの様式を思わせる献花も行われ、全くヒンドゥーのプージャーと異ならない雰囲気
である。さらに、音楽的なものとしてはコーラン朗読しか認めないイスラームとしては
珍しいカッワーリーといわれる宗教歌謡がこの前で演奏されるという。(この時は聞く
ことができず残念であったが。)ここはイスラームの聖地であるというものの、ヒンド
ゥーの聖地とそれほど変わらない雰囲気である。民衆の教化にどこまでも拘り、民衆の
支持を得るには何が重要であるかを、このインド生まれのスーフィーは十分に心得てい
たにちがいない。イスラームがインドに定着した理由の一つが理解できたように思えた。

ニザームッディーン廟の正面

ニザムッディーン

 アンサリ教授宅で開かれたセミナーは私にとってとても有益であった。参加者はアン
サリ教授の他に、ヒンドゥー学者のサルマ教授、日本人学生の榊女史、それにイスラム
史の大家イルファン・ハビブ博士、と私の5名であった。しかし、実際には、私の質問
に対してハビブ先生が答え、その答えが延々と続くという形式で進行した。スーフィー
の起源に関する私の疑問に対し、ハビブ先生は神秘主義的傾向はどの宗教もその内部に
持っているもので、スーフィズムもイスラーム内部から自然発生したものであるとの自
説を展開された。もちろん、発展の過程で他の宗教との接触はあったにせよ、本質的に
はイスラーム内部からといわれるのである。従ってスーフィーの苦行と仏教やヒンドゥ
ーの苦行が似通っているからそれはヒンドゥーの影響であるとか、「汝はそれなり」と
いう定型句が両方に見られるからヒンドゥーの影響であるなどと短絡的に云々するべき
でない、という説は傾聴に値した。この問題に取り組み始めたとき、どうしてもヒンド
ゥー側の眼でイスラームを見ることになったため話題性という点からもヒンドゥーや仏
教のイスラームへの影響を考えてしまったことを反省させられた。

 最後に今回の現地調査により、イスラーム独自の文化や歴史を学ぶにつけ今まで気の
つかなかった自分の姿に気づくことになった。それは長年インド研究に従事しているに
もかかわらず、イスラームに関してなぜ自分の知識が不足していたのか、という問題で
ある。関心は持ちつつも、知らず知らずにイスラームを避けてきた自分に気づきつつも
、そのよって来る原因を考えることはなかったように思う。

 それはヒンドゥーとイスラームの交流を調査するに当たり最も困難に感じたヒンドゥ
ー側の資料不足と大いに関係があるように思われる。我々日本のサンスクリット研究者
が学んできた文献学は、ヨーロッパ列強がいち早く手がけて世界をリードしてきたイン
ドロジー(Indology)を手本としたものである。そのIndologyは、1786年カルカッタ
での英人サー・ウイリアム・ジョーンズ(Sir William Jones)の講演に端を発し、リグ
・ヴェーダをはじめとするサンスクリットおよびプラクリット、つまりは欧米人と同族
である印欧語族の言語の研究が中心となってきた。すでにインドはイスラームの支配下
にあったにもかかわらず、である。欧米のIndologyが何故サンスクリットのみに向かい
、イスラームを疎んじたのか。その背景には、ヨーロッパ列強の奉ずるキリスト教とイ
スラーム教との長い争いの歴史があるに違いないと思うようになった。ヨーロッパのイ
スラーム・アレルギーがそうさせたと言っても過言ではあるまい。かくしてそのヨーロ
ッパ的手法のIndologyを一筋に来た自分がどのような立場にいたかということを知らせ
てくれたのが、今回の調査の際に私に語りかけてくれた、あるいは行動で示してくれた
インドムスリムの人たちであった。



         共同研究「新世紀への期待と逡巡ーアジアの国際的課題」
     <個別テーマ:「反目と融和ーインドにおけるヒンドゥー
     教とイスラーム教の交流ー>  第2回海外調査報告 

日程(1999年3月14日〜3月20日)
 3月14日 関西空港発、深夜インド・デリー着。
 3月15日 デリー大学仏教学科にてサトゥヤパラ教授(Prof.Satyapala)と対談。
       モティラル書店にて書籍調査。
 3月16日 アグラ日帰り旅行。マトゥラ博物館(Mathura Museum)見学、タージマハ
       ルとアグラ城見学、シカンドラ(Sikandra)廟調査。
 3月17日 ニザームッディーン・ダルガー調査、クトゥッブ・モスク(Qutab
       Mosque)調査。
 3月18日 シク教寺院 Gurdwara Bangla Sahib 調査。
 3月19日 インディラ・ガンディー・センターにてヴァーツヤーヤン博士(Dr.
       Kapila Vatsyayan)訪問。
       深夜デリー発、3月20日夜関西空港着。

 今回は、前回に引き続きインドムスリムの現状をもう少し詳しく調査したいことと、
ヒンドゥーとイスラームとの折衷的な宗教であるシク教の現状を現地で調べたいという
目的であった。以下に、調査の主な点をまとめてみた。

 3月16日アグラ日帰り。短期間のうちにイスラームとシク教の現状を少しでも詳し
く調査したいとの思いもあり、すでに最高気温が32〜33度となった初夏のデリーと
アグラの間を日帰りで往復することにした。しかしここに手落ちがあり残念な思いをす
ることになった。契約していた業者にアグラ郊外にあるファテプール・スィクリ遺跡の
見学も当初から伝えてあったので安心していたが、タクシーの運転手にそのことが伝わ
っていなかったのである。ファテプールへは時間がないのでいけないとアグラに向かう
途中に運転手が言い出した。インドではごくありがちなトラブルであるのに確認を怠っ
てしまったのである。しかし、マトゥラ博物館、タージマハル、シカンドラバードにあ
るアクバル大帝の廟など収穫はあった。

 まず、マトゥラ博物館。マトゥラは古代クシャン朝時代の中心地であり、最初期の仏
像が作成された地としても有名である。ふくよかでやや荒削りな感じのマトゥラ仏とギ
リシャ彫刻のような端正なガンダーラ仏とは一見してその性質の異なるものであること
が明らかで、学会で問題となっているガンダーラ起源説、マトゥラ起源説等の議論を知
らずとも、ガンダーラとマトゥラでほぼ同時に別々に仏像が作成されたに違いないとい
う思いを抱かせる。

 マトゥラ博物館に入ると、すぐに目につくように置かれている像がある。クシャン帝
国のカニシカ王の像である。起源1世紀に西北インドを征服したクシャン族は、イラン
のゾロアスター教徒であったとされており、カニシカ王による大量の殺戮の記録が仏教
文献にはある。そのカニシカ王による受難が仏教徒に仏像作成の機運をもたらしたと見
る説がある。もしそうであるなら、この博物館の目玉としてカニシカ王の像が置かれて
いることは皮肉としか言いようがない。しかし、そのカニシカ王は後に篤く仏教に帰依
したと言われており、カニシカ像が置かれているのはもちろんこちらの理由による。王
が実際に仏教に帰依したか否かは別として、いずれにせよ、インドがこの時代にも西方
の異民族と接触し、征服を受けながらも、その異文化を呑み込んで自己のものにしてい
く過程に興味を覚える。

 さすがのインドも二十数年間に少しづつ変わってきている。タージマハルの白大理石
が酸性雨のために変色を始めたため、数キロ付近までしか車を入れない規制をしている
こと、かってシャージャハーンがアグラ城の一室から妃の眠るタージマハルを遠望しつ
つ命終えたと言われるムサンマンブルジの中には立入禁止となったこと、タージマハル
入口の門のテラスからしかビデオ撮影は許可されず、ビデオカメラは入口の保管所に置
かされること(もちろん普通のカメラは持ち込み自由)、など久しぶりに訪れたアグラ
の町は以前にもましてせちがらくなっている。尤もそのような中で、以前には気のつか
なかった建造物、アグラ郊外のシカンドラバードにあるムガール朝第三代皇帝であるア
クバルの廟を訪れることができたのは大きな収穫であった。赤砂岩と白大理石を組み合
わせた建造物からなるこの廟はイスラーム風の門にヒンドゥー寺院に見られる建築技法
が用いられている。インドに侵入したイスラーム支配層が、西方の国々では考えられな
かった他宗教に対する寛容性をインドにおいては見せるのであるが、それは建造物にお
いても多く見られ、この廟もその一例である。

 17日にはデリーの南の端にあるクトゥブ・ミナールの遺跡を訪れた。それはそこに
隣接してあるクトゥブ・モスクの遺跡を調査するためである。昨日みたシカンドラのア
クバル大帝の廟に遡ること四百年の1198年デリーに築かれたこのモスクには、すで
にヒンドゥーの神々の像を持つ石柱が使用されている。これは、ヒンドゥー寺院を壊
して石材として利用したのか、建築途中のヒンドゥー寺院をモスクに転用したのかに学
会の意見は分かれているが、いずれにしても、厳しい偶像拒否のイスラームが、モスク
に偶像のある石材を使用したこと自体、異例であり、インドに侵入したイスラーム支配
層の柔軟性が感じられる。

 話は前後するが、17日午前には昨年一度訪れたことのあるニザームッディーン・ダ
ルガーを再度訪れた。今年は昨年に懲りてあらかじめイスラームの青年イドリス君をガ
イドに雇いダルガー内部を案内してもらってアミール・ホスロウの廟や、その他多くの
著名人の墓石などを見せてもらうことができた。庶民達のみならず支配者層もいかにニ
ザームッディーンを慕っていたかが実感できた。また、昨年聞くことができなかったイ
スラームの宗教歌謡カッワーリ−を聞くことができたことも収穫であった。

ニザムッディーン廟の前でカッワーリーを歌う老人と少年

カッワーリー
 しかし昨年と異なったのは、イドリス君が私をダルガーに案内してくれた道が、ダル
ガーの裏側から直接に入れる道であったので、昨年足のすくむ思いをした暗い回廊を通
ることがなかったことである。よくあることであるが、誰しも自国の恥部を見せたくは
ないという思いがあり、彼もそれを考慮して案内してくれたのであろうと思う。このダ
ルガーの位置しているニザームッディーン・ウエスト地区はイスラームの居住地域であ
るが、典型的な低所得者層の地域であることが歴然とした言語を絶するゴミゴミとした
地域である。後述するシク教寺院周辺の環境と大変な違いであり、インドにおけるイス
ラーム教徒達の貧困さを感じずにはいられない。

 18日にはラヴィンドラ・シン君に案内してもらってシク教寺院Gurdwala Bangla
Sahibを訪れた。以前の長いインド生活の間でもシク教寺院を訪れることはなかったので
はじめての経験であった。横に大きなタンクを持つこの寺院の境内は、実に整然として
おり、参拝の人々の列が長々と続いていた。昨日のニザームッディーン・ダルガーとは
対照的であり、シク教の豊かさを感じさせるものがあった。敬虔なシク教徒であるラヴ
ィンドラ君は私に厳格な参拝のルールを守るよう何度も念を押す。堂内の正面に据えら
れているグランド・サーヒブ(シク教の聖典のことで、人間のグルに変わり、教団のグ
ルとしてどのシク教寺院にも安置されている)の前では顔を下げるよう、その四方を回
る間は中をのぞき込まないよう、写真は一枚しか許可されない、等々であった。さらに
帰宅途中に寺院内にある書籍店で、グランド・サーヒブの小冊子を購入したが、それは
聖典であるので粗末にしないよう、日本に帰っても書棚の上段に置いておくよう細々と
指示してくれた。昨日のイドリス君は、自分はイスラームではあるがあまり熱心な教徒
ではないと自ら語っていたが、このラヴィンドラ君はコチコチのシク教徒であるらしく
そのきれいに巻き上げたターバンにもその誇りが感じられた。

シク教寺院の正面とシク教徒

シク教徒
 ターバンの話が出たところで、昨年より気になっていたことであるが、シク教徒がタ
ーバンを着けなくなっていることに触れておきたい。特にタクシーの運転手など比較的
下層の人にその傾向が目立つように思える。ラヴィンドラ君に尋ねると、やはりインデ
ィラ・ガンディーの暗殺以来、その犯人がシク教徒であったためシク教徒が狙われるよ
うになったのが原因である、とのことであった。しかし家庭でしっかり教育を受けてい
る人は今でもターバンを巻いている、というのが彼の答えであった。

 私はこのことに興味を持ったので乗るタクシーごとに運転手に聞いてみた。(タクシ
ーの運転手は今でもほとんどがシク教徒である。)返ってきたほとんどの答えはガンデ
ィー暗殺が原因であるという。しかし私にはそれだけの原因ではないように思えてなら
ない。そんな時、ある店で十七、八歳の青年が野球帽を被って座っていたが、その横に
はグル・ナーナクの写真が飾ってある。そこでその青年に「君はシク教徒か」と聞くと
、軽く肯きそれから少しはにかんで帽子を取った。その頭にはもちろんターバンはなく
短髪である。そこで「どうしてターバンを巻かないの」と聞くと、困った様子で答えて
くれない。そこで私が常々考えていた答えを口にして聞いてみた。「そっちのキャップ
のほうがターバンよりかっこよいもんね」と。すると青年は素直に肯いて、また帽子を
頭に乗せてニヤッとして鏡に映った自分の姿をちらりと見た。これで昨年来もやもやし
ていた疑問が解けたように思った。やはり、若いシク教徒達は、ニューファッションの
帽子も被ってみたいのである。彼らにはあの暑い鬱陶しいターバンはダサイのである。

 シク教の歴史を調査した際に、この宗教はイスラームとヒンドゥーとの折衷宗教であ
るのか、そのどちらかの一方に軸足をおいているのかが問題となったが、多くの資料を
調査した結果は、シク教は、ヒンドゥーの宗教改革としてとらえるのが妥当と思われる
結論を得た。今回この結論を現地でいろいろなケースにあたって確かめてみたい、とい
う気持ちもあった。

 ラヴィンドラ君の意識の中にもヒンドゥーとは敵対しないという感覚が明らかにあっ
た。しかしイスラームに対しては、彼自身は明確には言わなかったが、あまり好ましい
感情を持っていないことが言葉の端々に感じられた。(尤も、イスラーム側も、同様で
、あまり熱心ではないと言いつつもムスリムのイドリス君は、シク教の勤勉さについて
話が及んだとき、「シクの連中は体がデカイから力仕事ができるからね」と軽くいない
ていたことが印象的でった。)

 驚いたことには、デリーのあるタクシーのフロントグラスにグル・ナーナクとガンガ
ー女神とが仲睦まじく並んだシールが貼ってあった。これはまさにシク教とヒンドゥー
教とが異ならない証ではないか、とさえ思える。宗教的指導者達が自己の宗教を如何に
理論武装しようと、問題は民衆がどう受け止めるかである。シク教の教祖とガンガー女
神とを並べてどこがおかしいのかと民衆が感ずればそれまでである。それがインドの土
地柄であり、ヒンドゥー教なのである。かつて、ヒンドゥーのバラモン学者が、仏陀を
ヴィシュヌの化身とするために、邪悪なものを葬り去るためにヴィシュヌが仏陀に姿を
変え、悪法を説いて邪悪なものを地獄に送った、という話をでっち上げてヒンドゥー教
義の一貫性を貫こうと謀ったが、民衆は、慈悲深い仏陀をヴィシュヌと同一視すること
で十分満足していたのである。いつの時代もいずこの地においても、宗教は民衆のもの
であり、上に立つ宗教的支配層は自己の権力のことしか念頭になく真の宗教からは遠い
存在である。

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Last modified: Fri Apr 13 16:08:41 JST 2001