いにしえの国際人・鳩摩羅什
1996年7月25日 山上證道
0 はじめに
日本において鳩摩羅什の名は、阿弥陀経の訳者として浄土教の関係者には古来
より夙に知れ渡っている。極楽浄土の詳細な記述を持つその内容や、また、日常
的に使用するのに手頃な分量ということも、阿弥陀経をポピュラーなものにした
原因であろうが、何よりもこの経典を大乗経典中最もポピュラーなものにしたの
は、鳩摩羅什の名訳に負うところが大きいと言わねばなるまい。インド人を父と
し、亀茲(クッチャ)国の王女を母とした彼は、その天才的才能故に被った数奇
な運命のため、梵語、クッチャ語、漢語の3言語に精通し、まさに仏典翻訳のた
めにこの世に生を受けてきたかのごとくである。4世紀から5世紀初頭にかけて
活躍した国際人・鳩摩羅什の生涯を概観し、彼の翻訳作業の一端を紹介する。
中国の初期仏教を調査する資料として、(1)僧祐「出三蔵記集」、(2)少
し遅れて、慧皎(南北朝時代・梁)「高僧伝」(後漢の67年から梁の519年
まで)が有益である。これらは、著名な高僧について詳細に記述しており、他に
資料がないために頼らざるをえないが、しかし、同時に、これらは、一つの伝説
であることも忘れてはならない。例えば、鳩摩羅什の没年などの決定に関しては、
これらの資料にも異論が多い。*1)
1 鳩摩羅什以前の仏典翻訳の概略
中国に仏教が伝来したのは、前漢末のBC2年と言われる。当然、そのときす
でに、中国は、それ自体の独自の文化・思想を持っていた。そのために、例えば、
nirvana (涅槃)の語に対して、老荘思想の単語である「無為」「無為寂滅」の
語を当てたり、bodhi (菩提)には、「道」を、karuna (慈悲)には、墨子の
概念である、兼利、博愛の語を訳語として使用するなどの状況であった。*2)
中国での仏典翻訳は、2世紀後半から始まるが、それ以後250年に渡って、
文章の美しさを重要視するか、内容の充実を図るかという「文質論争」が続い
た。これに決着を付けたのが、鳩摩羅什であると言われる。*3) 国家的事業と
して、国家の援助があったことも鳩摩羅什には大きな助けであったが、何より、
本人の能力や、優秀な弟子達・多くの学僧たちの勝れた共同作業の結果であっ
たといえる。
高僧伝によると、鳩摩羅什以前に仏典翻訳を行った僧は、36名を数えるが、
主なものは、次の6人であろう。後漢の安世高(安息国、小乗経典を翻訳する)、
ほぼ、同時代の支婁迦讖(月氏、大乗経典を翻訳する)にはじまり、呉の支謙、
西晋の無羅叉、更に、同じ西晋の竺法護である。鳩摩羅什以前のこれらの訳は古
訳と言われている。鳩摩羅什が訳出した経典には、竺法護がすでに訳していたも
のが多かったにも関わらず、鳩摩羅什が再訳しているところを見ると、人々は、
それ以前の訳に満足していなかったと思われる。後述するが、鳩摩羅什は、彼以
前の訳者とは異なり、中観・空の思想に通じており、大乗の論書の翻訳は、鳩摩
羅什によってはじめてなされたのである。はたせるかな、彼の訳が出るに及んで、
人々は以前の古訳にかわって、専ら、鳩摩羅什訳を使うようになる。小乗仏教経
典の翻訳中心であった当時の中国に、もし、彼の訳がなかったら、中国仏教は異
なった展開を見せたかもしれない。鳩摩羅什は、自らの訳に対して、「新法華経」
というごとくに、「新」の語を付していたが、ここらに、鳩摩羅什の自信が窺え
よう、尤も、後世の人が、この「新」の語を取り去りはしたが。*4) なお、後述
の玄奘の訳を、一般に新訳といい、それ以前、つまり、鳩摩羅什の訳を旧訳(く
やく)と言っている。
鳩摩羅什との関わりで、もう一人重要な人物がいる。それは、釈道安である。
出三蔵記集題5巻中の釈道安伝には、道安は鳩摩羅什が西域にいると聞き、共に
研究したいと思い、彼を呼び寄せようと国王苻堅に働きかけた、とある。*5) こ
のことが皮肉な結果を招くことになる。このとき道安は長安に、羅什は亀茲国に
いた。苻堅は亀茲国を滅ぼして羅什を連れてこようとして、将軍呂光を送った。
呂光は亀茲国を滅ぼすが、その時すでに、苻堅は殺されており、呂光は長安に戻
れず、そのために鳩摩羅什は十余年の辛酸をなめることになる。それに関しては、
後に触れるであろう。
鳩摩羅什は道安を大いに敬っていたという。道安没後二十余年にして彼は長安
に入る。鳩摩羅什と道安とは、あいまみえることはなかったが、長安で訳経を
始めた鳩摩羅什に道安の弟子たちは、協力を惜しまず、そのことは、道安が鳩摩
羅什の招聘を進言したことを裏付けている。さらに、後には、道安の弟子廬山の
慧遠、僧叡が鳩摩羅什と深い関係を持つようになり、それが中国仏教の進路に大
きな転機をもたらすことになる。このように、鳩摩羅什にとって、釈道安はあら
ゆる意味で大きな存在であった。
ちなみに、道安は、訳経に当たり、五失本三不易の説*6)(本の形を失っても
ゆるされる限度の5項目と、経文に改易を加えてはならない理由の3項目)を提
唱したと言われる。すなわち、(1)五失本とは、
*語順が原典と漢文で逆になること。
*原典は質を重要視しているが、漢文には美しさが必要であること。
*原典では称讃のため何度も繰り返すが訳文ではそうしないこと。
*内容がしっかり把握されておれば、原典の長い語句は削ってもよいこと。
*原典では一つから次に移るとき再度述べてから移るがその必要なし。
また、(2)三不易とは、
*凡夫が経文の雅古なところを今風に勝手に変えぬこと。
*仏と凡夫は本来全く異なるから、微妙な教説を凡夫に会わせないこと。
*第一結集時ですら聞き間違いを検討した、ましてや今仏説を取捨しないこと。
インド、中国という言語・文化の異なる国で経典を直ちに漢訳するという困難
な作業は、2世紀半ば以来始まり、それから2世紀余りたった5世紀初頭以後の
半世紀は、経典翻訳の最盛期を迎える。その代表は、北の長安の鳩摩羅什(般若
経、維摩経、法華経、阿弥陀経等を翻訳する)、南の建康の仏陀跋陀羅(華厳経
を訳する)、西の涼州の曇無讖(涅槃経、金光明経等を訳する)の3人である。
彼らは、いずれも、中国仏教界で核心的地位を得たといえるが、後述するように、
鳩摩羅什には他にない特色があった。
2 鳩摩羅什の生涯と彼の仏典翻訳作業
(1)亀茲国(クッチャ)に生まれる。
鳩摩羅什の父鳩摩羅炎(Kumarajvara)は、インドの大臣の家に生まれる。大
臣の跡を継ぐべきであったが出家し、亀茲国にきたる。なぜ亀茲国へ来たかは、
諸説があり、明らかでない。この国の国王の妹、耆婆にみそめられて還俗・
結婚して、鳩摩羅什(Kumarajiva 意訳、童寿)が生まれる。
「鳩摩羅什伝」に、耆婆は、積極的で意志強固にして、きわめて聡明、たちま
ちにしてインドの原語である梵語に通じたとある。クッチャ語(印欧語のトカラ
語に属する)と梵語を自由に使ったとある。インドの出家者がインド中国を結ぶ
シルクロード亀茲国へきて、そこで知り合った聡明な女性との間に生まれたのが
鳩摩羅什である、という事実からみても、彼は、はじめから経典翻訳を担う運命
にあったのかもしれない。
かくして、鳩摩羅什の母国語は、クッチャ語である。従って、彼の漢訳にクッ
チャ語の影響を考える必要を説く学者がいる。例えば、「出家」と訳される梵語
pravajya は、「前進」の意味であるが、それに対応するクッチャ語は、「出家」
を意味する語である。また、「外道」と訳される梵語 mithyadrsti は、「謬見」
を意味するが、それに対応するクッチャ語は、「外見」を意味している。*7) さ
らに、阿弥陀経に登場する佛・maharciskandha(大いなる焔のかたまりの意味、
玄奘訳は大光蘊如来)を、鳩摩羅什が大焔肩佛と訳したのは、亀茲国にいた時、
おそらく肩から焔の出ている仏像を見ていたためであろうともいわれる。*8)
鳩摩羅什の母は2番目の男子を生んで後、鳩摩羅什5歳の時、出家する。兄国
王も、夫鳩摩羅炎も反対したが、意志は固く、その後夫は僧侶にも戻れず、国王
の庇護もうけられず姿を消す。鳩摩羅什自らも7歳で出家する。当時、クッチャ
の仏教の学問はアビダルマであったが、鳩摩羅什はたちまちアビダルマをそらん
ずるほどの天才であったという。9歳の時(358年)、母は鳩摩羅什を連れ
ケイ賓(インド・カシミールのスリナガル?あるいは、ガンダーラ地方のカーピ
シーか?)へ向かう。*9)
ケイ賓へのルートは不明であるが、法顕が通ったルートを考えると、ホー
タンからカシュガルへ、パミール高原を越えてスリナガルへ入っているが、これ
と似たコースと思われ大変な難路であったと思われる。
(2)大乗・空の思想に会う。
鳩摩羅什は、その後カシミールで学んだ後、12歳の時母と共に亀茲国へかえ
る。帰路、沙勒(カシュガル)で、大乗の空の思想を教えていた須利耶蘇摩
(Suryasoma)に学ぶ。カシミールでアビダルマを学んできた鳩摩羅什は、今ま
で学んできた教えを否定する大乗空の思想に驚嘆する。「高僧伝」によると、そ
のとき鳩摩羅什が須利耶蘇摩に学んだのは、中論(ナーガールジュナ作)、百論
(ダイバ作)、十二門論(ナーガールジュナ作)であったといわれる。「今まで
の自分は、金を知らずに銅が一番と考えていたのと同じである」といったとも伝
えられる。鳩摩羅什は20歳の時放光経(般若経)を見いだした。当初は、空を
単に無物と解していたが、のちに無物ではなく分別して固執しないことであるこ
とであることに気づくようになり、空の思想を体得し、開眼したといわれるが、
その基礎は、須利耶蘇摩から既に学んでいたのである。*10) この影響で後に鳩
摩羅什は大乗の立場に立つことになる。長安で般若経等の大乗経典に明確な翻訳
をなし、その般若経を龍樹が解釈したと言われる大智度論を訳し、中国学会に大
きな感動を呼び、大乗を中国へ定着させる基礎となった。
鳩摩羅什20歳の時、母はインドへ再び旅立つ。母は子に「この東土に仏教を
広めるのはおまえの役割だが、自分にはなにの役にも立たない、どうするか」と
問いかけている。これに対して、鳩摩羅什は「菩薩道の利他の気持ちであり、自
分はどうなってもよい」と答えたという。この会話は、子の破戒を知った母が、
自分なりとも正しい悟りの道に至りたいとしてインド行きを決意し、子の鳩摩羅
什は、たとい自分は破戒僧であっても、他人を救うことができれば、自分はどう
なってもかまわない、との決意を述べたものといわれる。後に、鳩摩羅什の破戒
問題が論議の的になるが、この母子の会話は、それに対する一つの見方ともみら
れる。*10)
一方、道安は、般若経の研究に全力を傾けていたが、インドからきた大乗の沙
門から教えを受けられず、ほとんどはアビダルマの学者が訳経に従事していた。
彼は、大乗の学者の教えを仰ぎたかったがそれを果たせず、鳩摩羅什の長安入り
(401年)*11)に先立つこと16年の385年に世を去っている。
かくして、カシミールでアビダルマ、のちに大乗に転じた鳩摩羅什は中国の仏
教界で希な第一人者という地位を得ることが出来たのである。
(3)運命の悪戯
当時の中国は、いわゆる、五胡十六国の時代(304-439)である。前秦の苻堅
(338-385、 在位357-385)は、長安一帯をかため、376 年に北西の前涼を倒し、
その勢いで華北統一に成功する。さらに、東晋を倒し、中国全土の統一を目指す
ことになる。
その当時、亀茲の鳩摩羅什と東晋の襄陽にいる釈道安とは天下にその名が轟い
ていた。苻堅は、378 年襄陽を攻め、道安を長安に迎える。道安は、苻堅に鳩摩
羅什の招聘を勧め、苻堅も次第にその心を固めたと思われる。
384 年、亀茲国は苻堅が派遣した将軍呂光により滅ぼされる。鳩摩羅什は呂光
に捕らわれるが、呂光は、苻堅の命令で拘束しただけで鳩摩羅什に尊敬の念を
持っていたわけではない。呂光の性格粗暴にして、若輩の鳩摩羅什をもてあそ
び、国王の娘を妻とさせ、飲酒の上で密室に閉じこめ鳩摩羅什に破壊をさせた、
といわれる。*12)
しかし、この時すでに苻堅は殺されていたが、呂光はそれを知らず、ただ、本
国の様子がただ事でないことを知り、本国目指して、鳩摩羅什を引き連れ亀茲国
を出発する。385 年、涼州の姑蔵(今の武威)に到着、翌年ここで苻堅の死を知
り、これよりこの地で後涼を建てる。399 年、呂光は死に、呂纂が王位につく。
鳩摩羅什はその後も、国家の占い師のような役割で、呂纂と親しく交わったと言
われ、結局16年間姑蔵にいた。
この16年の間、鳩摩羅什は、漢語の習得と中国古典をよく学んだと言われる。
中論などは、姑蔵で訳していたのではと思われる。僧肇が姑蔵に来て鳩摩羅什の
もとで学んだと言われ、鳩摩羅什も彼から中国古典を学んだことであろう。この
ように、この16年は鳩摩羅什にとってつらい期間であったが、漢語などその後の
仏典翻訳に必要な知識が多いに養われた、重要な時期でもあった。
後秦の姚興は、後涼討伐を決め、401 年、姑蔵から鳩摩羅什を長安に迎える。
父、姚萇の時(386)から願っていた鳩摩羅什の招致が叶う。後秦の後涼討伐は、
西域遠征よりむしろ鳩摩羅什の招致が目的であり、今で言う文化政策の一環であっ
た。401年12月20日鳩摩羅什は長安にはいる。
鳩摩羅什が長安へ向かう途中、姑蔵に滞在したが、そのとき姑蔵の近くを西に
向かう法顕の姿があった。もしこのとき、法顕が、姑蔵に鳩摩羅什が滞在してい
る噂を耳にしたなら、姑蔵に向かって鳩摩羅什にあったはずである。法顕の求め
ていた戒律に鳩摩羅什はよく通じていたからである。そして、法顕のインドへの
旅も中止されたかもしれない。*13)
(4)訳経作業
鳩摩羅什を迎えた姚興は、国立仏典翻訳研究所ともいうべき場所を長安の逍遥
園に設ける。*14) 所長・鳩摩羅什は、所員に優秀な学僧をそろえた。常時500
人はいたと言われ、この場所が時として講経の場となったこともあり、時によっ
ては2、3000人にもなったという。
当時、経典の翻訳には、西方から経典をそらんじた人がきて、それを梵漢に通
じた人が訳していく方法と、文書となったものを外国人と中国人が訳していく方
法との2方法があったと言われる。いずれにしろ、協力的な多くの学僧達が、議
論を重ねつつ翻訳が進んでいったものと思われる。
ちなみに、竺法護の翻訳過程は次の7過程と言われる。すなわち、(1)執本、
(2)宣出、(3)筆受、(4)勧助、(5)参校、(6)重覆、(7)写素である。一方、宋代の
翻経院の制度は、次の9過程である。(1)まず、訳主は、正面に座して梵本を読
み上げる。(2)証義は、その左に座して、訳主と梵本の意味を検討する。(3)証文
は、その右に座して、訳主の梵本を聞き梵本として誤りないか検討する。(4)書
字は梵本を音写する。(5)筆受は、音写した漢字の単語を漢語に翻訳する。(6)綴
文は、翻訳した漢語を綴って漢文にする。(7)参訳は、原文の梵文と翻訳した漢
文を比べて原意に沿った訳文とする。(8)刊定は訳文を添削する。(9)潤文は、教
義上、漢文上の総仕上げをする。
しかし、鳩摩羅什は、梵本を手に直ちに漢語に口訳した様子である。筆受の役
がいて、鳩摩羅什の口訳を筆録した。鳩摩羅什は、筆受した訳文を旧漢訳文を対
比して講経を行う。更にこれに対論も加える。このように、講経・対論により、
訳文に磨きがかけられていった。*15)
道安の弟子僧叡は、前出の五失本三不易の戒めに従いながら、訳業に従事した
ことを記し、般若経の前の訳が良くなかったこと、鳩摩羅什により定本ができあ
がったことなど述べている。古い訳語を新しく変えたり、漢文で十分意味をあら
わし得ないのは音訳としたことなども記されており、僧叡の協力は鳩摩羅什には
大きな助けであった。
大正蔵経に鳩摩羅什訳としているものは全部で54部あるが、そのうち明らかに
鳩摩羅什訳でないものも多い。阿弥陀経は、弘始4年(402年)2月8日と、「出三
蔵記集」の目録にあり、坐禅三昧経に続いて2番目に訳されている。僧祐の精査・
厳選の結果、鳩摩羅什訳と判定されている。
3 仏説阿弥陀経・鳩摩羅什訳の検討
(1)仏説阿弥陀経の概略
ある時、師・世尊・釈迦牟尼は、1250人もの修行僧とともに、シュラーヴァ
スティのジェータヴァナの給孤独園に滞在していた。その1250人の人々は、
すべて、偉大な求道者・尊者であった。(section 1)
そこで師は、その内の一人シャーリプトラに次のように言われた。
「これより西方百億仏土を過ぎたところに、極楽と言う名の世界がある。そこ
には、無量寿(阿弥陀)という名の如来がおられる。この国土を極楽というのは、
そこには苦がなく、無量の安楽があるからである。かの国土は、きらびやかで美
しく、金・銀・宝石で飾られ、美しい樹々・美しい蓮池もあり、また美しい花び
らも舞っていて、珍しい鳥もおり、涼風が吹けば妙なる音が響きわたり、そこに
いると、仏・法・僧を念ずる心が起こってくるのである。(sections 2〜7)
その如来が、無量寿(阿弥陀)と名づけられる理由は、その如来もその国土の
人々も寿命が無量であるからである。また、その如来が無量光と呼ばれるのは、
その如来の光は、限りなく何にも妨げられないからである。(sections 8〜9)
いきとし生けるものは、かの仏国土に生まれたいという願いを起こすべきであ
る。かの国土では、善き人々と一処に会することが出来るからである。善き男女
がこの無量寿(阿弥陀)如来の名を聞き、心を散乱させず心の中で念ずるならば、
その人々が臨終の時には、かの如来が眼前に立たれるから、その姿を見て心乱れ
ずに死ぬことが出来、死んで後、かの無量寿(阿弥陀)如来の国に生まれるであ
ろう。それ故、善き男女よ、かの仏国土に生まれたいという願。それ故、かの国
土に生まれたいという願いを起こしなさい。(sections 11〜17)
私(釈迦牟尼)が今諸仏を讃えているように、諸仏も『釈迦牟尼は、なしがた
いことをなされた。この濁った世で、悟りを開き、信じがたい法を説かれた』と
私を讃えている。かくのごとく、私は悟りを得て、この濁った世にあって、人々
に信じがたい法を説いている、このことは実に難しいことである。」(sections
18〜19)
このように、師はシャーリプトラに説かれた。それを聞いて、そこにいた多く
の尊者は歓喜した。(section 20)
(2)鳩摩羅什訳と玄奘訳の対比
(i) 鳩摩羅什訳と玄奘訳とは、別の原本サンスクリットを使用
鳩摩羅什訳「阿弥陀経」と玄奘訳「称讃浄土佛摂受経」とを比較すると、両者
が使用したサンスクリット・テクストは、おそらく異なっていたに違いない。次
に考察するように、多くの場合、鳩摩羅什よりも玄奘の方が、原文に忠実に訳そ
うとする努力の後が見られるが、その一方で、玄奘の方が、解説、もしくは、注
釈的記述とも見られる大規模な増広拡大が見られる。両者が同一のテキストを使
用していたとみなすには、あまりにも補訳の規模が大きすぎると思われる。
#1 Skt.text section 7, ll.7-8 (p.200)
...buddhanusmrtih kaye samtisthati dharmanusmrtih kaye
samtisthati sanghanusmrtih kaye samtisthati/ evamrupaih
sariputra buddhaksetragunavyuhaih samalamkrtam tadbuddha-
ksetram/
(身に佛を念ずる心が起こり、身に法を念ずる心が起こり、身に僧(衆会)を
念ずる心が起こる。舎利弗よ、かの佛国土は、このような佛国土のみごとな光
景で飾られているのである。)
什:皆自然生、念仏念法念僧之心、舎利弗、其佛国土成就如是功徳荘厳。
玄:起佛法僧念作意等無量功徳、舎利子、彼佛土中有如是等衆妙綺飾、功徳荘
厳甚可愛楽是故名為極楽世界、・・・この後6行に渡って浄土の荘厳が無
限であることを述べたてている。*16)
#2 Skt.text sections 11 - 16
いわゆる六方段と呼ばれる部分で、東・南・西・北・下・上の6方にそれぞ
れ無数におられる諸仏が、阿弥陀仏の国土を称讃し、その信仰を勧めている、
という箇所である。ところが、玄奘訳では、6方の諸仏が終わって後、東南・
西南・西北・東北にそれぞれ1佛づつを割り当て、いわば、十方段になっている。
さらに内容的にも、両訳が異なり、両者が、異なったサンスクリット原本を使
用したと思われる箇所も多い。例えば、
#3 Skt.text section 10, ll.8-16 (p.202)
yah kascic chariputra...manasikarisyati yada sa kulaputro va kula-
duhita va kalam karisyati tasya kalam kurvatah so 'mitayus tathagatah
sravakasamghaparivrto bodhisattvagunapuraskrtah puratah sthasyati so
'viparyastacittah kalam karisyati ca/ sa kalam krtva tasyaivamita-
yusas tathagatasya buddhaksetre sukhavatyam lokadhatav upapatsyate/
(舎利弗よ、、、心乱すことなく阿弥陀仏を念想する善き男女は、臨終の時
に、阿弥陀仏が多くの修行者・求道者に敬われて、前に立たれるであろ
う。[その姿を見て]その人は心乱れることなく死ぬであろう。そして死後
かの阿弥陀仏の国土に生まれるであろう。)
什訳:舎利弗、若有善男子善女子、、、一心不乱、其人臨命終時、阿弥陀仏與
諸聖衆、現在其前、其人終時心不顛倒、即得往生阿弥陀仏極楽国土、
玄奘訳:又舎利子、若有浄信諸善男子或善女人、、、繋念不乱、是善男子或善
女人、臨命終時、無量寿佛與其無量聲聞弟子菩薩衆倶、前後囲繞来住
其前、慈悲加祐令心不乱、既捨命巳随佛衆会、生無量寿極楽世界清浄佛土。
鳩摩羅什訳の阿弥陀経は、臨終見佛で、仏の姿を見ることで、心安らかに死ぬ
ことが出来、死後、極楽浄土に生まれるとなっている。それに対して、玄奘訳で
は、仏が臨終の人の前に来住し、死後、仏の衆会に随って極楽浄土に生まれる、
とあり、明らかに来迎引接の観念がある。*17)
以上のように、両者の使用したテキストが異なっていたことが確実視される中
で、両者の比較が意味を持つのは、おそらく同一の原文であったとみなしうる箇
所に関する両訳の検討のみであろう。次に、阿弥陀経サンスクリット原本、鳩摩
羅什訳、玄奘訳の対比によって、我々の興味を引くいくつかについて考察してみ
たい。*18)
(ii)玄奘訳が原文に忠実であるが、鳩摩羅什訳が簡潔明瞭と思われるもの
#1 Skt.text section 1, l.13 (p.194)
etais canyais ca sambahulair devaputranayutasatasahasraih//
(そのほかにも多くの百千、百万の神々の子たちも、ともに)
什:無量諸天大衆倶
玄:百千倶胝那由多数諸天子衆[及餘・・・坐]
#2 Skt.text section 2, ll.4-5 (p.196)
...etarhi tisthati dhriyate yapayati dharmam ca desayati/
(今現在住んでおり、身を養い、日を送り、法を説いている)
什:今現在説法
玄:今現在彼安隠住持、為諸有情宣説甚深微妙之法、令得殊勝利益安楽。
#3 Skt.text section 2, ll.7-8 (p.196)
...apramanany eva sukhakaranani/
(ただ量り知れない安楽の原因があり)
什:但受諸楽
玄:唯有無量清浄喜楽
#4 Skt.text section 3, ll.1-5 (p.196)
...saptabhir devikabhih saptabhis talapanktibhih kimkinijalais
ca samalamkrta, samamtato 'nupariksipta citra darsaniya caturnam
ratnanam/ tad yatha suvarnasya rupyasya vai duryasya sphatikasya/
evamrupaih sariputra buddhaksetragunavyuhaih samalamkrtam tad-
buddhaksetram//
(七重の石垣、七重のターラ樹の並木、鈴のついた網によって飾られ、あま
ねくめぐらされ、きらびやかで美しく麗しく見える。それらは、金・銀・瑠
璃・水晶の4種の宝石から出来ている。シャーリプトラよ、かの佛国土は、
このような、佛国土特有のみごとな光景で立派に飾られているのである。
什:七重欄楯、七重羅網、七重行樹、皆是四宝周匝囲繞、是故彼国名日極楽
玄:七重行列妙宝欄楯、七重行列宝多羅樹、七重妙宝羅網、周匝囲繞四宝荘厳、
金宝・銀宝・吠琉璃・頗胝迦宝、、、彼佛国土中有如是等衆妙綺飾功徳
荘厳甚可愛楽、是故名為極楽世界。
#5 Skt.text section 4, ll.10-15 (p.198)
...nilani nilavarnani nilanirbhasani nilanirdarsanani/ pitani.../
lohitani.../avadatany.../citrani citravarnani citranirbhasani
citranirdarsanani...
(青い[蓮華]は青い色で、青い輝きをしており、青く見えて、、、黄色
い、、、、赤い、、、白い、、、様々な色の[蓮華]は、様々な色で、様々
な輝きをしており、様々に見えて)
什:青色青光、、、微妙香潔(テキストになし)
玄:青形青顕青光青影、、、四(=青・黄・赤・白)形四顕四光四影、、、
(iii) 鳩摩羅什訳と玄奘訳とで訳語が異なっているもの
#1 Skt.text section 1, ll.1-4 (p.194)
bhagavan 什:佛、 玄:薄伽梵
sravasti 什:舎衛国、 玄:室羅筏
jetavana 什:祇樹、 玄:誓多林
bhiksusamgha 什:大比丘衆、 玄奘:大衆
sariputra 什:舎利弗、 玄奘:舎利子
#2 Skt.text section 2, l.7 (p.196)
sattva 什:衆生、 玄奘:有情
これらはいずれも、鳩摩羅什の訳語の方が玄奘のそれより一般的となる。*19)
(iv) 阿弥陀仏と無量寿仏
A. 「阿弥陀経」においては、amitayus に対して鳩摩羅什は、一貫して、「阿
弥陀」の訳を与えている。例えば、
#1 Skt.text section 2, l.3 (p.196): tatramitayurnama
(そこに無量寿という名の如来がおられて)
什:其土有佛号阿弥陀、
玄奘:其中世尊名無量寿及無量光如来応正等覚
原本は、amitayus (無量寿)のみであるが、鳩摩羅什はこれを、「阿弥陀」
と訳して、amitabha (無量光)をも包摂せしめている。一方、玄奘は、原本
が amitayus のみであっても、無量寿、及び、無量光と両方の名を訳出してい
る。
#2 Skt.text section 6, l.9 (p.200): amitayusa tathagatena nirmita
(無量寿如来によって作り出されたもので)
什:阿弥陀仏、、、変化所作。
玄奘:無量寿佛変化所作。
#3 Skt.text sections 8-9 (pp.200-201)
tat kim manyase sariputra kena karanena sa tathagato 'mitayurnama
+ucyate/ tasya khalu punah sariputra tathagatasya tesam ca manusya-
namaparimitam ayuhpramanam/ tena karanena sa tathagato 'mitayurnama
+ucyate/... tat kim manyase sariputra kena karanena sa tathagato
'mitabho-nama+ucyate/ tasya khalu punah sariputra tathagasya+abha
pratihata sarvabuddhaksetresu/ tena karanena sa tathagato 'mitabho
nama+ucyate/
(さて、舎利弗よ、かの如来は、何故、無量寿と呼ばれるのであろうか。
実に、舎利弗、かの如来とかの国の人々の寿命は無量であるから、それ故、
かの如来は無量寿と呼ばれる。・・・何故、無量光と呼ばれるのであろう
か。かの如来の光はすべての佛国土に於いて遮るものはないから、それ故、
かの如来は無量光と呼ばれる。)
什:舎利弗、於汝意云何、彼佛何故号阿弥陀、舎利弗、彼佛光明無量、照十
方国無所障碍、是故号為阿弥陀、又舎利弗、彼佛寿命、及其人民無量無
辺阿僧祇劫、故名阿弥陀。
玄奘:又舎利子、極楽世界浄佛土中、佛有何縁名無量寿、舎利子、由彼如来
及諸有情寿命無量無数大劫、由是縁故、彼土如来名無量寿、舎利子、
無量寿佛證得阿耨多羅三藐三菩提巳来、経十大劫、舎利子、何縁彼
佛名無量光、舎利子、由彼如来恒放無量無辺妙光、遍照一切十方佛
土、施作佛事無有障碍、由是縁故、彼土如来名無量光、、、
#4 Skt.text section 17, ll.7-8 (p.208)
ye kecit sariputra...tasya bhagavato 'mitayusas tathagatasya...
(舎利弗よ、かの世尊無量寿如来の[国土に生まれたいと誓願を起こすで
あろう善き男女、、、])
什:欲生阿弥陀佛国者
玄奘:於無量寿極楽世界清浄佛土、功徳荘厳、若巳発願、、、
B. 以上のように、鳩摩羅什は、amitayus もしくは、amitabha に対して、そ
の両方を包摂せしめて、「阿弥陀」の訳語を与えている。しかるに、1箇所のみ
amitayus をそのまま「無量寿佛」と訳しているところがある。
#1 Skt.text section 13, l.1 (p.204)
evam pascimayam disy amitayurnama tathagato ...
(同様に、西の方には、無量寿という名の如来と、)
什:舎利弗、西方世界有無量寿佛、、、
玄奘:又舎利子、如是西方亦有現在無量寿如来、、、
そもそも、「阿弥陀経」の話の流れから、ここに阿弥陀仏=無量寿佛
(amitayurnama tathagata)が置かれていることが不思議でもある。いわゆる
六方段では、六方に住する無数の諸佛が、「この阿弥陀佛(=無量寿佛)の功
徳荘厳を讃歎し、また、信ずべし」と勧めている行である。それは、
(=無量寿如来)の名を聞き、そして心を乱すことなく、心で如来を念ずれ
ば、臨終にはその如来が眼前に立ち、心静かに阿弥陀如来の国に生まれるこ
とが出来る。それ故、善き男女は、かの国に生まれる誓願をたてるべし」と
述べられていることからも明らかである。従って、六方段に入って、一度も
「阿弥陀(=無量寿如来)」の言葉は出されないが、何度も繰り返される
「この法門を信ずべし」という言葉が、阿弥陀如来の法門を指すことは明ら
かである。
とすれば、その六方段の部分の西方世界の諸佛の内に、阿弥陀如来=無量寿如
来の名が挙げられ、その如来が「この法門を信ずべし」と讃歎されるのは不
自然ではないか。この矛盾を鳩摩羅什は感じとって、ここだけ「無量寿佛」
と訳したとも理解できる。
ところが、六方段が終わると、阿弥陀如来の功徳の讃歎は無視され、諸佛・世
尊(=釈迦牟尼)の功徳の讃歎となる。*20)
#2 Skt.text section 17, ll.3-4 (p.208)
...dharmaparyayasya namadheyam srosyanti tesam ca buddhanam bhagava
tam namadheyam dharayisyanti...
(この法門の名号を聞くのみでなく、これら諸佛・世尊の名号をもしっかり
心に置いて忘れない者)
什:聞是経受持者、及聞諸佛名者、
玄奘:訳文一致しないが、此経(=阿弥陀佛の経)に統一されている。後の
時代にテキストが訂正・付加された可能性がある。*21)
#3 Skt.text section 18, ll.1-4 (p.208)
tadyathapi nama sariputra+aham etarhi tesam buddhanam bhagavatam
evam acintyagunan parikirtayami evam eva sariputra mamapi te
buddhabhagavanta evam acintyagunan parikirtayanti/ suduskaram
bhagavata sakyamunina sakyadhirajena krtam/(舎利弗よ、私がこ
のように諸佛・世尊の不思議な功徳を讃歎しているように、彼ら諸佛・
世尊も私の不思議な功徳を讃歎する「シャカ族の聖人、シャカ族の王は、
なしがたいことをなされた。・・・」と。
ところで、菩提流支訳「佛名経」(諸佛の名号を讃歎する経典、大正蔵経14
巻、143頁中)の一部とこの六方段の部分が合致することがすでに知られて
いる。しかも、「佛名経」の西方世界に「無量寿佛(amitayus)」の名が見
られる。このことから、「佛名経」のこの部分がそのまま「阿弥陀経」の後
半について、西方世界のところをうっかりそのままにしたのではないか、と
いう推論が成り立つ。*22)
参考文献
横超慧日・諏訪義純「羅什」、大蔵出版
鎌田茂雄、中国仏教史、第2巻
浄土三部経(下)、中村・早島・紀野訳註、岩波文庫
藤田宏達・桜部建、浄土仏教の思想1、無量寿経・阿弥陀経、講談社、1994、
テキスト
サンスクリット原本、「浄土宗全書」23、梵蔵和英合壁浄土三部経、
山喜房佛書林、昭和47年
鳩摩羅什訳「仏説阿弥陀経」、大正大蔵経、12巻、346頁中〜348頁中
玄奘訳「称讃浄土佛摂受経」、大正大蔵経、12巻、348頁中〜351頁中
注釈
1) 鎌田茂雄、中国仏教史、第2巻、東京大学出版会、1987、pp.213-226
2) 岩波講座 東洋思想12 東アジアの仏教、「漢訳仏典論」丘山新 p.232
3) Ibid.p.233-239
4) 鎌田、Ibid.p.211
5) 横超慧日・諏訪義純「羅什」、大蔵出版、1991、p.36
6) Ibid. pp.32-34
7) Ibid. p.95
8) 干潟龍祥「阿弥陀経の焔肩佛について」、山口博士還暦記念「印度学仏教学
論叢」、昭和30年
9) しかし、400年頃にカシミールに入った仏陀跋陀羅は「華厳経」「新無量
寿経」を、曇無讖は「大般涅槃経」を訳しており、そのころには新しい大乗
教典がそこに入っていたことが伺われる。
10) 鎌田、前掲書、pp.235-236
11) 鳩摩羅什に関して、この年代だけは、唯一信用できると言われている。鎌田、
前掲書、p.225
12) 「出三蔵記集」「高僧伝」の内容から、鳩摩羅什の破戒年齢35歳、呂光が
鳩摩羅什を捕虜としたのが384年とし、「高僧伝」の彼の没年を正しいとす
ると、鳩摩羅什の生年は、350年、没年は、409年とすることが出来るが、必
ずしもそうとは限らない。
35 才破戒説は、「出三蔵記集」の次の記述による。鳩摩羅什12才の時、
母とともに亀茲国に帰る途中、月氏の北山で一人の羅漢に会う。その羅漢が
母に言う。「この若者は35才までに破戒しなければ、大いに仏法を興し、
多くの人を救うであろう。もし、戒を守ることが出来なければ、勝れた法師
になれるだけである。」これは、鳩摩羅什が35才で破戒したことに基づく
伝説であろう(塚本善隆「仏教史上における肇論の意義」肇論研究、昭和3
0年)。
鎌田博士は、鳩摩羅什はすでに若くして破戒していたのではないかと見て、
そのような立場から、前述の「高僧伝」にみられる母子の会話を解釈してい
る(鎌田、前掲書、pp.221-225)。
13) 町田隆吉、シルクロードの謎、光文社文庫、p.149.
14) 鳩摩羅什の訳経場所として挙げられる、逍遥園、西明閣、草堂寺が、同一の
ものか、否か、現在のどこに当たるかなどは、明らかでない。現在の草堂寺
説は疑わしいというのが最近の定説である。現在の草堂寺は、鳩摩羅什の舎
利を納めた舎利塔があるといわれるが、この草堂寺は唐末の建立で、その時
に、逍遥園と結びつけられたとみられる(鎌田茂雄「唐代仏教と鳩摩羅什」、
印度学仏教学研究、43-1、1994、pp.214-219)。
15) 横超・諏訪、前掲書、pp.224 - 227.
16) 藤田宏達・桜部建、浄土仏教の思想1、無量寿経・阿弥陀経、講談社、1994、
p.269 - 270.
17) Ibid. pp. 286-289.
18) 玄奘訳は、旧訳を駆逐することは出来なかった。大乗経典をはじめとして
代表的経典は、既に鳩摩羅什の訳があったために、玄奘訳の出る幕はなかっ
たといってもよい。桑山正進・袴谷憲昭「玄奘」、大蔵版、pp.307-308.
19) 鳩摩羅什以前にも、 sattva に対して衆生の訳語がある程度用いられていた
が、種々の訳語も存在しており、鳩摩羅什が衆生の語に統一したと見られて
いる。塩入法道「鳩摩羅什における『衆生』観」、印度学仏教学研究、42-2,
1994, pp.588-591.
20) 静谷氏は、この釈迦牟尼の讃辞は、「阿弥陀経」の成立が、そう古いもので
はないことを示しているという。静谷正雄「羅什訳『阿弥陀経』の成立につ
いて」、印度学仏教学研究、25-1, 1976, pp.95-100.
21) 流布本では、「聞是諸佛所説名及経名者」と阿弥陀の名及び、その経と阿弥
陀仏に統一されている。藤田宏達「原始浄土思想の研究」、p.215.
22) Ibid.pp.213-221。なお、静谷氏は、前半がまず成立して、後半が付加され
たと考える必要はなく、両者は同時の製作であった可能性を示唆している。
また、一般に、阿弥陀経の成立が、無量寿経と同時代と見られている(藤田、
前掲書、p.212)が、静谷氏は、鳩摩羅什訳の「阿弥陀経」の成立を、3世紀
〜4世紀前半と、無量寿経のそれより遅いと考えている。静谷、前掲論文参
照。


Last modified: Wed Dec 10 13:38:56 JST 2003