日本、中国、インドにみる「極楽浄土」思想の展開
 
山上 證道
 
*はじめに
 日本において「極楽浄土」という概念は、一般的に言えば、人が現世での生涯を閉じた後、阿弥陀仏の願力によってあらたに往き生まれていく世界とみなされてきた。「極楽浄土」に往生する方法論としては、阿弥陀仏及び「極楽浄土」を観想することや阿弥陀仏の名を称えること、いわゆる、口称念仏によるなど種々説かれるが、方法は何であれ、阿弥陀仏の「極楽浄土」に往生し成仏することを説く教えを「浄土教」と呼んでいる。
 最澄により開かれた叡山仏教は、弟子円仁などの努力により日本仏教の核心ともいえる地位を築き、以来、数々の卓抜した出家者が叡山で仏教を学び、その多くが「極楽浄土」往生を人々に説いて日本における浄土教の流布に大いなる貢献をなした。その叡山の膝元にあった京都においては、時代を経るに従って次第に多くの寺院が建立され、その多くにおいて「極楽浄土」への救いが説かれ、貴族、庶民を問わず、多くの人々が極楽往生を期待したことは、諸文献や今に残る伝統諸行事などから明らかである。「極楽浄土」の有様を経典より再現せしめて浄土曼荼羅として極楽絵図を作成したり、宇治・平等院に見られるように寺院建築によって現世にそれと近い姿を実現せしめたり、また、源氏物語や平家物語など数々の文学作品にも強い影響を与えたことなど、「極楽浄土」思想は、華麗にして、かつ、優雅で繊細な京都文化の形成に大いなる役割を果たしたことには多言を要すまい。
 
 現在、京都を中心として存在する寺院の正確な数は専門的資料によるほかはないが、一般的には京都市内に約1600の寺院があると言われている。このうち、阿弥陀仏(如来)の「極楽浄土」を信仰の中心にすえている寺院の割合がどのくらいであるか興味を持ちインターネットで調べてみた。
 「京都通(京都観光・京都検定)百科事典Encyclopedia of KYOTO」の「京都の寺院(じいん)Temples of KYOTO」(http://www.111networks.jp/Kyoto/Contents/Temple.html)に、「京都の主な寺院」として233寺院が掲載されている。京都の近郊にある有名寺院の一部も掲載されており、また、なにをもって「主な寺院」とするかその根拠は明らかでないが、このページの性格上、何らかの観光資源のある寺院ということであろうと推察できる。
 総数233のうち、別名でも掲載されているものもあり(金閣寺と鹿苑寺など)それらの数を差し引くと実数は217寺院となる。この中に寺院自らのHPにリンクが貼られているところが160寺院あった。試みにこれらの160寺院のHPを参照して、各寺院にはどのような本尊が安置されているかを調べたが、結果は次の通りである。
  (1)阿弥陀如来--- 41寺院(25.5%) (2)各種観音菩薩--- 29寺院(18.1%) (3)釈迦如   来--- 27寺院(16.8%) (4)薬師如来--- 15寺院(9.3%) (5)地蔵菩薩--- 12寺院(7.5%)   (6)大日如来、不動尊、曼荼羅、それぞれ各4寺院の他合計14種(不明も1,2あり)---   36寺院(22.5%)
 このページの事情で挙げられた寺院であるから、これで京都にある寺院の傾向を語ることには躊躇せざるをえないが、たまたま京都市内にある寺院数1600の丁度10%にあたることにも若干の意味があるかもしれない。
 実に様々な本尊が安置されていることを知ったが、阿弥陀仏を本尊とする寺院数が約1/4という結果は予測より低い数字であった。京都にある寺院の約7割は密教寺院であるとも言われているので(*1)これは当然の数字かもしれないが、観光資源の少ない浄土教系の末寺が多いと思われることから、実際にはパーセンテージはもう少し上かと思われる。また、阿弥陀仏以外を本尊としていても浄土教の寺院であるケースもあり、先述の通り叡山仏教・天台宗系統では特に阿弥陀仏が重視されていること、さらに、観音菩薩は阿弥陀仏の脇侍であることも考慮する必要があろう。やはり京都の町でも古来より浄土教が人々に親しまれてきたといってもよさそうである。
 
 ここでは以上見てきたように、宗教都市京都において古来より様々な形で京都文化の形成に関わりを持ってきた「極楽浄土」という概念を、中国、そして、インドへとそのルーツを辿って調査してみようと思う。考古学や民俗学の視点からの研究も不可欠であることは言うまでもない。しかし、文献学以外の方法論を学ぶことのなかった筆者は、考古学や民俗学の成果の若干を参考にしつつ、結局は文献学的方法論に頼るほかはなく、先学の諸研究を頼りに、この問題の整理に努めた。日頃からあまり詳細な点を気に留めることもなく、漠然と「極楽浄土」と呼んではいるものの、そのルーツの確定や発展の詳細を解明することは甚だ困難である。
 
1. 日本の一般的「極楽浄土」観---『往生要集』
(1) 厭離穢土・欣求浄土
 死後に往生すべきところとしての「極楽浄土」という概念が、日本において広く社会に流布するにいたるには、前段階として古代より土着的に根付いていた日本特有の他界観が基盤にあり、そこに新たな宗教としての浄土教的他界観が付加されて日本人に馴染みやすいものとなっていった過程が当然のことながら考えられよう(*2)。しかしそれでも、先に触れた最澄、円仁など幾人かの学僧や、空也のような聖(ひじり)僧の活躍などは、乱世という社会的要因などとともに特筆されるべきであろう。「極楽浄土」思想の流布が上記の諸要素の総合的帰結であることに首肯しつつも、あえて諸々の要因のなかで最初に人々に「極楽浄土」を強く意識させるに大きな貢献をなしたものを求めるなら、それはおそらく源信(942~1017)の『往生要集』であろうと思われる。
 『往生要集』といえば誰の頭にも即座に地獄絵図が浮かぶほど、専らその側面のみが強調される傾向にあるが、それは、源信がこの著書の劈頭、「厭離穢土」の思いを壮絶な地獄描写によって徹底的に印象づけたことによる。彼は、その直後に「欣求浄土」の章をおいて「極楽浄土」における無限の楽を讃えていることからも理解できるように、元来、この書は「往生極楽」を説く書であった。日本仏教のセクトそれぞれの専門的見地からは種々議論があると思われるが、源信の意図するところは、念仏のみによっても「極楽浄土」往生がかなうことを明らかにすることによって浄土教が人々に流布することにあったと思われる。(*3)
 源信はこの書において往生極楽の手段として表面上は「観想念仏」が重要であることを説いている(*4)。ここでいう「観想念仏」は中国天台宗の開祖・天台智(538~597)以来の伝統であり、円仁(794-864)によって叡山にもたらされ常行三昧という形で実践されたといわれる(*5)。したがって、叡山で修行に励んでいた源信もこの伝統を引き継いで往生極楽の方法論を展開したのであるが(*6)、日本においては、後に中国の善導(613-681)の強い影響のもとに「称名念仏」を重視して「観想念仏」を否定した法然(1133-1212)の出現により、一般的には源信の影が薄れた印象がある。しかしながら源信は漫然と叡山の伝統を引き継いでいたのではなかった。念仏に関する彼独自の思いが『往生要集』には明らかに読み取れる。彼はその序文において(*7)、「観想念仏」は極めて厳しい修行であり、彼自身にとってもそれは容易いものではないことを告白している。源信のごとく卓越した人格の持ち主にとってもいかに厳しい修行であったかがうかがわれよう。彼の意図は、このような難行をさらに一層行い難いであろう一般庶民も「称名念仏」のみにすがることで阿弥陀仏の救いにあずかれるという希望の明かりを見いだせることを示唆することにある。その意味では、彼源信は、叡山伝統の「観想念仏」と後に法然などにより易行道・他力思想として大衆化していく「称名念仏」との橋渡しの役をはたしたと言える。
 ここでは「極楽浄土」往生が一般に流布するに当たって源信が果たした功績の明確な実例を二、三示しつつ、日本における「極楽浄土」往生観の一典型をそこに見ることとする。
(2) 「臨終の行儀」と聖衆来迎
 先述の通り、源信は「厭離穢土」において人々に地獄のすざましい様相を徹底的に知らしめた後、次章「欣求浄土」の劈頭に極楽における十種の楽(*8)を列挙して、恐れおののく人たちの目を安楽に満ちた「極楽浄土」へと向けさせ、救われていくべき帰依所の存在を示して人々の心を安堵させるのである。中でも、最初に挙げられている「聖衆来迎の楽」は、人々に特に強い印象を与えたと思われ、それ以後、浄土曼荼羅の絵図として不可欠な要素となった。今日でも多数の寺院に来迎場面を描いた浄土曼荼羅が見られるのみならず、聖衆来迎の儀式が永年に渡り修業されてきたとの文献も多く残されている。(*9)
 さらに、『往生要集』巻中には「別時念仏」の項目のもとに「臨終の行儀」を詳論し(*10)、人々が臨終に際してなさるべき行事を述べ、病人に臨終に際して聖衆来迎を信じさせんと心をくだいていることが注目される。
 『往生要集』が完成した翌年、源信を含め25人により叡山横川で「二十五三昧会」という念仏結社が始められる。「横川首楞厳院二十五三昧式」にみられる申し合わせの内容は、『往生要集』の「臨終の行儀」にほぼ沿った形になっている。すなわち、この結社に参加した者は、毎月15日の夜は不断念仏を実践することをはじめ、お互いに念仏の友として臨終まで助けあうこと、病人が出れば皆が順を決めて互いに病人の看護、見舞いなど行うこと、特別に「往生院」をたて重病人を移すこと、病状がいよいよ重くなれば『往生要集』にあるよう、阿弥陀仏の右手から出ている五色の布を病人の左手に握らせ、念仏を推奨すること、死後は「安養廟」に葬り追善供養を行うこと、などである(*11)。このように、源信たちの「二十五三昧会」が『往生要集』の記述に則ってお互い念仏による浄土往生を願いお互いの死を看取りあう結社であったことが理解できる(*12)。『日本往生極楽記』をはじめとして、実際に、『往生要集』の臨終行儀に従って往生をとげたものの名が載っている「往生記」がいくつか知られている。(*13)
 
 以上、源信の『往生要集』によって日本における「極楽浄土」という一般的概念が、阿弥陀仏の願力により人々が死後に往生できるところ、救われていくところであることを示した(*14)。この限りにおいて、「極楽浄土」であっても、「極楽」であっても「浄土」であっても意味には変わりない。往生への道に難易を問わねば、また、自力・他力を問題にしなければ、一般的にいえば、このような浄土観は、いわば、「往く浄土」と表現されてよかろう(*15)。ただし、日本に定着した「往く浄土」観は、源信もすでに先に見据えていたように他力思想的傾向が極めて強いことは注目しておかねばならない。
 
2. 中国とインドの「極楽浄土」観
 それではこのような「極楽浄土」観、すなわち、「往く浄土」観はどこから来たのであろうか。先述の通り日本の土着的な他界観の上に成り立っていることは否定できないであろうが、浄土教の「極楽浄土」の招来に伴って、それまでの日本土着の他界観が深く影響を受け大きく広がっていったこともまちがいない。その意味でも浄土教のもたらした「極楽浄土」観の源を探求することは有意義であると思われる。
 「極楽浄土」という語が漢字であるから当然中国仏教が関わりを持つことが容易に想像されるであろうし、また、仏教思想である以上、その源泉はインドに求められると予測される。そこで、漢訳経典とそれに対応するインド原典との対比により、「極楽浄土」に関するインド及び中国における思想の展開を調査する必要があろう。
(1) 「極楽浄土」
 まず、「極楽浄土」という語についてであるが、この用法は漢訳経典にはあまり見いだせない。日本においてもこのような用語は文献上それほど多くない。『往生要集』に一度使用されているが、それ以外は源信の師・良源の『極楽浄土九品往生義』という著作の題名にみられるくらいである(*16)。法然、親鸞(1173-1262)の主な著書にもこの用法は見られない(*17)。おそらくは、このような表現は、いつの間にか誰いうとなく広まった用法と思われる。この場合は、先述の通り「極楽」=「浄土」(正しくは、「極楽という浄土」)(*18)と理解され、同義語を重ねて使用されていると考えてよかろう。
(2) 「極楽」
* 羅什訳『阿弥陀経』
 では、「極楽」と「浄土」とに分けてそれぞれの用法を調べてみよう。つまり、「極楽」と「浄土」とは元来は別の用語・概念であったとの予想のもとにである。
 漢訳「極楽」の原語にあたるサンスクリットはスカーヴァティー(sukhavati=楽[sukha]+あるところ[vati]、「楽あるところ」の意)である。それを「極楽」と訳したのは後秦時代の鳩摩羅什(350-409? 以後、羅什という)訳『阿弥陀経』からである。仏教以外の中国文献には羅什以前にこの語がすでにあったことが確かめられているので、羅什が考案した訳語とは言えないが(*19)、浄土教典の訳語として使用したのは羅什が最初と考えてよかろう。
 sukhavatiは、漢訳が始まった当初は音訳されていたと思われる。須呵摩提(『慧印三昧経』、呉の支謙訳)、または、須訶摩持(『菩薩受斎経』、西晋時代だが訳者不明)という訳語がみられる。最初期に『般舟三昧経』を訳した後漢の支婁迦讖は須摩提と訳しているが、これは省略形であろう(*20)。他にもこれに似た訳語がいくつかみられるが、誤訳か省略の結果と思われ、上記の二訳語に集約できる。これらの漢語を専門家はガンダーラ語もしくはそれに近い俗語の音訳と見ている。(*21)
 その次には、意味を取って「安楽」と「安養」という訳語がみられる。『無量寿経』では「安楽」と「安養」が数回ずつ使用されている。唐代に入って玄奘(602-664)が「極楽」の訳語をよく使用して以来この語が訳経上で優勢になったと考えられている。(*22)
 一方、浄土三部経の一である『観無量寿経』(以後、『観経』という)においては「極楽」が専ら使用されている。この経典については、漢訳者キョウ良耶舎(383?-442?)(*23)の名前のみが知られており、インド語の原典もなくインド成立がほぼ否定されている(*24)ので、原語を確認することが現段階では不可能である。ただ、「極楽」の語が使用されている意味は大きく、この経典については次に触れるであろう。
* インドの他土観念と極楽
 インドでは釈迦入滅後、時代を経るに従って仏教徒の間で釈迦信仰が盛んとなり釈迦仏の永遠視が進行すると、それが過去仏思想を生み、過去七仏思想(*25)の誕生をもたらした。さらに、過去仏の誕生は、当然の結果として、未来仏・弥勒信仰をもたらし、さらには、無仏の現在にあっても他土には阿弥陀仏をはじめ多数の仏がおり、それぞれの仏の世界が存在するという思想の展開がみられる。(*26)
 したがって、sukhavati(「極楽」)は他土であり死後に往く世界であって、当時インドの諸思想、バラモン教・ヒンドゥー教の生天思想と基本的には軌を一にするものであるといえる。インドにおいては古来から生天思想が根付いており、すでに、BC10世紀頃のリグ・ヴェーダでは、人は死後はヤマ(閻魔)王が治める天の楽土に往き永遠の楽を得ると言われている(*27)。その後、BC7~6世紀頃、輪廻思想の登場とともに新たな発展をみたバラモン教、および、その伝統を引き継ぎつつも変質をとげたヒンドゥー教において、後述する苦行者たちの解脱論が展開される中、輪廻の苦から逃れるためには、神への帰依や神の恩寵により死後生天してブラフマー神(梵天)などの諸天の楽土で永遠の楽を享受することが再び宗教的理想となっていく。原始仏教の文献にみられる「転輪聖王」(cakravartin)神話や、やはり仏典に登場する「北クル州」神話は特に極楽の描写に近いものがあり、それらヒンドゥー教や仏教相互間の影響が考えられる。(*28)
 ちなみに『阿弥陀経』に述べられる極楽の特徴をサンスクリット原典より順にあげてみよう。(*29)
 (1)極楽は西方にある。
 (2)地獄・畜生の世界の名がない。つまり、心身の苦がない。
 (3)七重の欄楯があり、ターラ樹の並木、鈴のついた綱などあり、それらが風にふかれると快い音を出す。
 (4)七宝の蓮池があり、とくにすぐれた水、様々な大きな蓮華の花があり、周囲に四つの階段と七本の宝樹がある。
 (5)天に音楽がある。
 (6)大地は黄金色である。
 (7)天から花の雨が降る。
 (8)鳥が法声を発す。
「転輪聖王」神話では、上記(1)以外は(*30)ほとんど同じ様相が述べられる。また、ウパニシャッド文献ではカウシータキ・ウパニシャッド(Kausitaki-upanishad)のブラフマー神(梵天)の天界描写もこれに似たものを持つ。(*31)
 このように、「極楽」(sukhavati)という仏国土は、インドの土地に古来から根付いている生天思想を基盤としており、輪廻の苦からの解放として、仏の恩寵により、死後往生できる安楽の地として人々に受け入れられていったと思われる。
 しかしながら、注意を要することは、『無量寿経』や『阿弥陀経』などにおける記述からは、極楽往生が適うためには衆生側に善行・徳行や不断に仏を念ずることなどが随所に説かれている。例えば、『無量寿経』には「世尊よ。もしもわたくしが覚りを得た後に、他の諸々の世界にいる生けるものどもが<この上ない正しい覚り>を得たいという心をおこし、わたくしの名を聞いてきよく澄んだ心を以てわたくしを念いつづけたとしよう。・・・わたくしの名を聞き、その仏国土に生まれたいという心をおこし、いろいろな善根がそのために熟するようふり向けたとして・・・」(*32)とあり、『阿弥陀経』には「・・・シャーリプトラよ。生ける者どもは僅かばかりの善行によって無量寿如来の仏国土に生まれることはできない。・・・」(*33)と述べられる。これはほんの一例にすぎないが、後述する曇鸞たち中国浄土教家の解釈を援用しない限り、インドの経典からは、修業体系に無関係な一般庶民・凡夫の極楽往生が容易いとは言い難い。(*34)
 
 さらに、少し視点を変えてみると、上記のような視覚的「極楽」は、他の類型的な神話と同様、本来インドにおけるヨーガ・瞑想による宗教体験を源としていると考えざるを得ない(*35)。ヒンドゥー教の瞑想などによる神秘主義、「神の姿を見る」という体験は文献にしばしば登場するが(*36)、大乗仏教でも瞑想による「見仏」体験が重視されるようになる。初期大乗経典に『般舟三昧経』があるが、これは『現在諸仏(pratyutpanna-buddha)の面前に立つひと(行者)(sammukha-avasthita)の三昧(samadhi)』もしくは『現在諸仏が(行者の)面前に立つ三昧』という経名が示すとおり(*37)、瞑想しつつ仏を念ずることにより現前に仏の姿を見ることを目的とする。この見仏体験の思想は中央アジアをへて中国に入り、観仏思想として(*38)大いに発展を遂げる。実は、上記の『観経』はこれら一連の観仏経典類の一とみなされている。
 『観経』では、初観の日想からはじまり、水想などをへて仏の観想や極楽世界の観想など十三種の観想を説き、観仏のみでなく、極楽浄土をも含め体系的に観想法を説いている(*39)。極楽の語がよく使用されるこの経典は、『無量寿経』や『阿弥陀経』を前提にしていること、大身の仏像に言及していること、さらに、弥陀三尊の確立も見られる(*40)など、『無量寿経』の成立よりも遅いことが知られ、インドの文献に見られる「極楽」の有様を図像的に描写したものといえる。
 一方、『観経』には、これに続いて有名な九品段といわれる行者自らが往生する様子を観想する部分が存在する。この部分は『無量寿経』との関連性が指摘されており、後に増補された部分であろうと推定されているが(*41)、九品の最後である下品下生の輩の往生に関しては、悪事を為したものの往生、いわば、悪人往生ともいうべき記述が称名念仏思想を伴って見られる。これなどは観仏思想や称名思想の展開、あるいは、悪業凡夫の罪滅法の発展などを視野に入れて考察さるべきであり、(*42)西域、あるいは、中国における浄土教の大衆化を示していて興味深い。
 
 以上、「極楽」という概念をインド文献についてみた場合、浄土教の経典、特に、『無量寿経』『阿弥陀経』にみられる「極楽」(sukhavati)という世界は、日本で一般的に考えられている死後往生するべきところとしての「極楽浄土」「往く浄土」の概念にマッチするものではあるが、庶民・凡夫往生に焦点を当てて他力往生を説く日本浄土教家たちの往生観と必ずしも一致しないことにも注意しなければならない。ただし、これら二経に比して成立が遅く、インド撰述ではないと見られる『観経』においては、当然のことながら、中国浄土教的色彩を強めている。
(3) 「浄土」
* 浄仏国土---大乗菩薩道
 一方、「浄土」という語そのものに関しては、どうであろうか。
 実は、漢訳浄土経典の「浄土」に対応するサンスクリットの原語が一定していないことが知られている。「仏国土」を意味する語(buddha-ksetra)であったり、単に、「国土」の意味(ksetra)であったり、場合によっては相当する原語がないことすらある。(*43)
 そこで、『阿弥陀経』において「浄土」の訳語を使用しなかった羅什に注目してみよう。というのは、実際には、羅什は浄土教の経典ではないが他の大乗経典においては「浄土」という訳語を用いているからである。
 羅什が意味した「浄土」の意味が明確である典型的な例を、羅什訳『維摩詰所法経』からみてみよう。
 「・・・是故寶積。若菩薩欲得淨土當淨其心。隨其心淨則佛土淨。」(*44)
 次に、この部分に相当するテベット語の日本語訳を引用すると次の通りである。
  「それ故、若者よ、仏国土の清浄を欲する菩薩は、自己の心を治め浄めることにつと  めるべきである。なんとなれば、どのように菩薩の心が浄らかであるかに従って仏国  土が清浄となるからである。」(*45)
 ここにみられる「浄土」に対応するティベット語はサンスクリットのbuddhaksetra-parisuddhiまたはbuddhaksetra-parisodhanaに相当し、意味するところは「仏国土を完全に浄めること」である。(*46)
 そのほか、般若経をはじめとする大乗経典にはしばしば「仏国土の浄化」(buddhaksetra-parisuddhiあるいはbuddhaksetra-parisodhana)、「国土を浄化する」(ksetram parisodhayatiあるいはksetram visodhayati)、「浄化された国土」(ksetram visuddhamあるいはparisuddha-ksetraやparisuddham buddhaksetram)といった語句が「仏国土を浄める」という意味で登場するのが知られている。(*47)
 これらから判断すると、「浄土」とは「浄められた土」もしくは「土を浄める」ことであり、本来は「浄仏国土」の思想を表していることがわかる(*48)。それは大乗菩薩が未来に仏になるとき、自己の建立すべき仏国土を清浄化することをいう。換言すれば、菩薩個人の成仏のみでなく、現実社会の浄土化をも意味しており、例えば、『十住毘婆沙論』には、社会事業などによって社会を浄めることにも言及されている(*49)。まさに、利他行を説く大乗仏教の根本精神そのものといえよう。このように「浄仏国土」という思想がインド大乗仏教において成立していたことは間違いなく、「浄仏国土」の訳語を短縮して「浄土」とされたことも容易に理解できよう。このように大乗菩薩道においては、仏国土を菩薩自らが浄め浄土を建立することが説かれており、この意味での浄土は、先述の「往く浄土」と対比して、「成る浄土」(菩薩が自らの国土を浄めることにより浄土を建立すると同時に自らも仏と成ること)と表現されよう。(*50)
 羅什の念頭にあった「浄土」の語は大乗菩薩道の「成る浄土」の意味であり、「往く浄土」の訳語としては不適と考えて『阿弥陀経』においてはsukhavatiに対して「極楽」の語を使用したと思われる。
 一方、羅什の約200年後に『阿弥陀経』を漢訳した玄奘は、「極楽世界浄佛土」という語を多用するが(*51)、玄奘の訳語に対応する語はサンスクリット原典になく、これは玄奘の付加ではないか、と考えられる(*52)。ちなみに、玄奘訳の『阿弥陀経』の経題(本来は、「極楽の荘厳」<sukhavativyuha>の意)は『称讃浄土佛攝受経』とされている。これらのことからみても、玄奘の時代には「極楽」と同じ意味で「浄土」という訳語はごく普通に使用されたことがわかる。
 上記のことから、そもそも「浄土」という語は中国で成語化され術語化されたこと(*53)、さらに、羅什と玄奘との間の約200年間に中国仏教界に何らの変化があって、「極楽」に対しても「浄土」という訳語が当てられることになったことが看取される。
* 他土としての浄土---曇鸞
 つぎに、中国において「極楽」=「浄土」ということが何時どのようにして起こったかを解明しなければならないが、残念ながら文献も少なく現在では確答を得ることは困難である。しかし、以下に述べる諸点は問題の解明にいささかなりとも有用であると思われる。
 中国浄土教で常に問題になる重要文献に、インドの唯識論師・世親(Vasubandhu、4世紀頃)---天親もしくは婆藪槃豆とも訳される---の著作とされる『無量寿経優婆提舎』(*54)がある(*55)。そこには、「安楽世界」「安楽国土」という語が多用されており、サンスクリット原典は存在しないものの「極楽」の原語であるsukhavatiが対応語として想定され、世親がその安楽国土への願生者であることがこの文献より明白である(*56)。しかしその一方で、大乗菩薩道の議論に熱心な唯識論師である世親は、明らかに安楽国土の清浄化を強調しており、そのために五念門行という実践行を重視し、詳論している(*57)。「安楽国土」という語にもかかわらず、世親の意図は、いわゆる浄仏国土、「成る浄土」系の仏国土であるといえよう。この五念門行は修行者のためのものであり、一般庶民がこれにより極楽に往生することは極めて困難な、いわば、自力的実践行であった。
 世親のこの著書にたいして中国で註釈を著した人物に曇鸞(476-542)がいる。彼の注釈書『無量寿経優婆提舎願生偈註』をみると、「浄土」とは「極楽」そのものであり、世親の「安楽国土」は全て阿弥陀仏の「安楽浄土」となっている(*58)。曇鸞が「浄土」を「往く浄土」として最初に使用したとは言えないまでも、少なくとも、曇鸞の時代には中国においてこのような意味での「浄土」の思想並びに用語が定着していたことを窺わせる。曇鸞の功績は「往く浄土」に凡夫がいかにして往生できるかという難題に対して、世親の五念門行を解釈し直して他力思想を説き、庶民にも可能な念仏往生への道を開いたことであろう(*59)。これに関して彼は『観経』にみられる「称南無阿弥陀仏」をふくむ長文を引用して独自の解釈を示している。曇鸞のような思想傾向については、当時の中国の社会状況も無関係ではないことは前稿で示したところである(*60)。中国において「浄土」という語が成語化して、死後往くべき他土としての「極楽」にもこの「浄土」の語が当てられるようになっているのをみることができる。
 
 しかし、「成る浄土」の基盤となっている般若思想の立場に立てば、当然のことながら、他土たる「往く浄土」を考える余地はないのではなかろうか。二種の浄土がどのように関連づけられるのであろうか。この点を中国の浄土願生者たちはどのように考えていたのであろうか。次の事例は一つのヒントになるかもしれない。
 仏教が中国に入った当初、仏教の中核をなす輪廻思想に人々は違和感を持った。形が滅すれば心も滅するはずであるのに、死後も輪廻を繰り返すという考えでは、心が不滅であることになり、これは信じがたかったに違いない。例えば、曇鸞にしても、一時は、長生を願い神仙術の大家陶弘景に秘術を乞うたことなどは、彼も心の不滅を信じがたかったのでのはないか。彼は後に菩提流支から『観経』を授かることで生死を超える仏道に出会った、と伝説は続く。神仙思想は中国人の心を根強く支配していたといえる。
 このように、現世における長生を求める神仙説と輪廻及び輪廻からの解放・涅槃を求める仏教説とには自ずとギャップがあり、それがために中国で神滅・神不滅論争が巻き起こったことはよく知られている。(*61)
 東晋(317-420)時代に在俗の仏教者にチ超という人物がいたことが知られている(*62)。彼は、仏道の実践を纏めて言う。人として十善五戒により天に生まれ、天で禅定を修行して天上を究め、さらに、四聖諦を悟り阿羅漢にいたり、その後さらに全く執着のない境地・空を悟って仏の涅槃を得る、と。つまり、これは、輪廻しながら人と天とのあいだでの修道を意味する一方で、天界で絶対的涅槃に至ることを示している。仏教の根本である輪廻と万有は無に帰すという老荘思想に基づく中国禅とが混在した願生者が存在したことがわかる。
チ超の師であった支道林にも同様の思想がみられる。かれは、「阿弥陀経を誦して浄土に往生することを願う者がおり、命終して彼国に化往し、仏の神悟にまみえて悟りを得ている。自分もそのように心を悟りの世界に馳せたいと思う」という。この後半からは、浄土往生というより心を悟りに遊ばせることが主であることが理解できる。やはり、仏教によりつつも天との一体化により無の境地を享受したい傾向が見て取れる。
 ここに中国の伝統思想と仏教の極楽・浄土思想との融合過程の一部が透けて見えるように思われるが如何であろうか。
 
 以上をまとめると、インドにおいては元来sukhavatiのごとき「往く浄土」と大乗菩薩道の浄仏国土の「成る浄土」とが並立しており、初期漢訳の段階では前者を「須呵摩提」「極楽」「安楽」、後者を「浄土」と訳すことで本来区別していたと思われる。しかし、仏教を受け入れた側の中国も、土着的な思想、例えば、神仙思想や天との一体化を目指す中国特有の生天思想と仏教との融和・融合が図られつつ、また、宗教的自覚の熟成に伴って「往く浄土」の思想が定着していったこと、さらに、一般庶民・凡夫が往きやすい方法論が導入されたことで、ますます「極楽」と「浄土」との区別がなくなり、「極楽」「浄土」と並列的に並べられるようになったと考えられる。
 この間の事情の一端を我々に示してくれるのが天台智の浄土観である。彼は程度の高低により四種の浄土観を立てているが、それらを簡潔に纏めると、程度の低い順に、1.いわゆる「極楽世界」にあたる凡聖同居土・方便有余土、2.「浄仏国土」にあたる実報無障礙土、3.往生・来世をこえた「絶対浄土」である常寂光土の三になる。この最後の浄土は、先述の「往く浄土」「成る浄土」にならって表現すれば「在る浄土」ともいえよう(*63)。もちろん、智は、最後の常寂光土が最高の境地、究極的浄土であるとしている。しかし、それは思想的には高度に洗練された浄土観ではあるが、絶対的にして無相の浄土であって、ある意味では観念的な浄土といえる。その智自身も、臨終に際しては来世の「極楽浄土」への往生を念じたと言われていることは興味深い(*64)。有形の浄土、「往く浄土」に対する人間の憧憬を凡庸ならざる智からも感じとることができ、「極楽」=「浄土」という図式が中国においていつの間にかできあがったことはむしろ自然の流れと思わせるに十分である。
(4) 「解脱」と「楽」---ヒンドゥー教易行道的救済論との関わり
 sukhavati「極楽」という世界が、何時何処で成立したかは現段階では確定できないが、インド思想界全体を見渡した場合、このような仏国土が出現したことは諸思想との関わりからして先述の通り当然と考えられる。この点をさらにインド思想・宗教の最重要課題である解脱論との関係で論じておきたい。
 古来、インドの思想・宗教の文献においては、sukha「楽」は常にduhkha「苦」との対比で述べられるが、基本的スタンスは、積極的に「楽」が主張されるよりもむしろ「苦の滅」が重視される点にある。輪廻思想がインドに定着したBC6~5世紀以来のインドの思想・宗教の究極的問題は、常に「解脱」(輪廻からの解放)であり、解脱を得る方法論や解脱の境地について多様な議論がみられる。
 その中で「解脱」に「楽」の要素を強調した思想・宗教文献は比較的新しく、古いものは、「解脱」を「苦の滅」と定義している。例えば、ヒンドゥー思想の一つであり、論証学的側面を持つニヤーヤ(正理)学は、その根本文献にあたるニヤーヤ・スートラ(AD2~3世紀)において「苦、生存、活動、人間的欠陥、誤った認識、という五つのものが、その最後から順々に生滅するとき、その直前のものが生滅し、最後に解脱がある」と「苦の滅」が解脱であることが明言されている(*65)。これは四聖諦などに代表されるように初期仏教においても同様であり、釈迦の涅槃観もこのような側面を持っており(*66)、ある意味ではウパニシャッド時代からの苦行主義の伝統といえるであろう(*67)。
 ところがニヤーヤ学(近接の学問領域であるヴァイシェーシカ学をも含む)の中にも、すでに4~5世紀頃から一部に「解脱」を「苦の滅」ではなく「楽」であると解釈するものがおり、伝統を重んじる正統派から批判の対象となっていたことが最近明らかになってきた(*68)。ニヤーヤ学の伝統としては「解脱」は「苦の滅」以外にはありえず「楽」の概念は容認されないという厳しい解脱論が展開されている一方で、「解脱」=「楽」という思想も台頭してきたのである。これは、紀元前後の北インドにおいて、ウパニシャッド以来の厳格な苦行主義の反動から神への信愛(バクティ)を捧げることにより、神の恩寵が得られて輪廻を脱することができるという易行道的救済論(*69)が台頭してきたことと無関係ではないと考えられる。
 古代インドにおいては、思想家・哲学者たちは、独自の伝統に則った宇宙論を展開する一方で、何らかの宗教的信念・信仰を保持していたことが随所に窺われる。いわゆる諸哲学派に所属する思想家達がブラフマー神、シヴァ神、ヴィシュヌ神などへの信仰を持っていたことも以前から知られていた。ニヤーヤ学の学匠たちが、パーシュパタと呼ばれるシヴァ派の一派に所属していたことはその好例であろう(*70)。ヒンドゥー教が説く安楽な天の楽土への救済思想が弘がっていくに従ってそれと連動する形でヒンドゥー教のシヴァ信仰を持つニヤーヤ学者たちの解脱論にも変化がみられ、解脱とは、神の恩寵により天の楽土に生まれることであり(*71)、「解脱」=「苦の滅」にいつまでもこだわり続ける解脱論の無意味さを指摘しはじめたといえる(*72)。
大乗仏教の運動も当然この流れの中にあったものと思われる。ただ、紀元前後のこの時期のインドでは苦行主義の伝統から完全に脱し切れておらず、極楽への願生者に善行・徳行を要求している。例えば、先に引用した『無量寿経』などからもそれが窺い知ることができたし、また、世親の場合、極楽への願生者ではあったが、実践行との結びつきにより善行・徳行を必要とした点などインドにおける極楽願生者の一典型といえよう。
 少々粗い議論ではあったが、上に見たように、解脱に「楽」の要素が付加され、時代と共に「解脱」=「楽」という構造に発展していったヒンドゥー解脱論と大乗仏教に「極楽」(sukhavati)という仏国土が登場したこととの間には少なからぬ関連性が認められる。しかし、今後、次第に解明されていくであろうヒンドゥー教の発展段階の詳細や仏教各分野におけるさらなる研究を俟って考察を重ねる必要があろう。
 
*おわりに
 以上、日本に定着した「極楽浄土」観および「浄土往生」思想に関連して、中国、インドにおける事情を見てきた。
 インドにおいては、釈迦入滅後、時間の経過とともに釈迦仏信仰が進み、当時インドに台頭しつつあった易行道的救済論や死後往くべき他土として「sukha=楽」志向の楽土思想の影響も受けつつ、大乗仏教の隆盛とともに他土の楽土の一としてsukhavati「極楽」への信仰が生じたと考えられる。しかし、インドでは「往くべき他土」ではあっても、願生者には何らかの善行などが必要とされており、易行道への方向性は示されているものの、大衆庶民・凡夫往生の論理である他力思想は明確ではない。その一方で、次第に大乗菩薩道思想の理論化が進み、精緻な菩薩の修行体系ができあがってくると、その流れに沿って、現実に菩薩が建立する仏国土は、浄化さるべきものとして、浄仏国土思想が優勢となっていった。
 このような中で、教典の翻訳事業が本格化してくる中国において、羅什が「阿弥陀経」を翻訳したときには、他土としての仏国土であるsukhavatiと菩薩の建立する浄仏国土とを区別し、「極楽」と「浄土」とに訳し分けていた。しかし、その200年後の玄奘は、この両者を区別せず、「極楽浄土」と並べて記述することには何の躊躇もしていない。おそらく、この間に、曇鸞をはじめとする中国浄土教家たちによって、浄仏国土たる「浄土」と他土仏国土たる「極楽」の同一視の傾向が強まったにちがいない。
 しかし、そこに至るには様々な過程が考えられよう。まず、仏教受容以来、老荘思想や、土着的な神仙思想、さらには、生命とその根源である天との一体化をのぞむ思想などと仏教思想との融合が徐々に進んでいったと思われる。しかし、仏教が、一般大衆に弘がるには、乱世という時代的背景からも、修行体系に関わりをもたない一般庶民も阿弥陀仏の願力・他力により楽土・浄土に往き生まれることができる、という凡夫往生の論理が有効であったと思われる。中国におけるこのような流れを受けて、法然をはじめとする日本浄土教家たちが他力による「浄土往生」を日本において大衆化し、日本独自の浄土教を確立するに至ったのである。
 かくして、元来、ある種の苦行主義から脱しきれずに善行・徳行により死後の楽土へ生まれたいというインド特有の生天思想が色濃く見られた「極楽」も、また、大乗菩薩たちが現に浄化に努めている「浄仏国土」も共に、罪深い凡夫が仏の願力・他力により往生できうる他力浄土門として中国で新たな息吹を与えられて日本の浄土教の基盤となった、と考えられる。
 京都の数多い浄土教系の寺院にみられる仏像をはじめとする仏教文化財、ならびに、仏教の伝統諸行事を見るとき、かつてこの地に熱心に阿弥陀仏を信じ、死後の「極楽浄土」往生を願う人々が多数存在したことが思い起こされるが、彼らの「極楽浄土」観は、以上見てきたように、インド・中国を経て様々な変遷を辿り日本にもたらされ、以来日本の土着的要素とみごとに融合して定着したのである。
 
 
注釈
 
*1 頼富本宏「京都文化と仏教」pp.88-89.
*2五来重『日本人の地獄と極楽』人文書院 1991年pp12-16.
*3石田瑞麿『源信著「往生要集」下』p.287(解説)。
*4源信の念仏、良源の念仏に関しては種々議論がある。Cf.梯信暁「良源『九品往生義』の念仏思想」、印度学仏教学研究、49巻、1号、2000年pp.156~160:石田瑞麿訳注『源信著「往生要集 下」』p.288f.の解説。
*5湯浅泰雄「浄土の瞑想の心理学」p.25
*6源信の師である良源にやはり観想念仏に関する著書『極楽浄土九品往生義』がある。石田瑞麿『源信著「往生要集」下』解説、p.286.
*7石田瑞麿『源信著「往生要集」上』pp.10-11.
*8石田瑞麿『源信著「往生要集」下』p.90(解説)。聖衆来迎の楽、蓮華初開の楽、身相神通の楽、五妙境界の楽、快楽無退の楽、引接結縁の楽、聖衆倶会の楽、見仏聞法の楽、随心供仏の楽、増進仏道の楽)
*9大串純夫「来迎芸術論」p.429ff.
*10石田瑞麿『源信著「往生要集」下』p.29ff.
*11石田瑞麿『源信著「往生要集」下』p.30の注釈にあるように、「五色の布」とあるが実際には「糸」を使ったようで、黒谷の金戒光明寺の山越聖衆来迎図の阿弥陀図には糸が残っている。
*12西口順子「浄土願生者の苦悩」p.204ff.、石田瑞麿『源信著「往生要集」下』p.292ff.(解説)。
*13『日本往生極楽記』(延暦寺の僧)『続本朝往生伝』(源信)『拾遺往生伝』『後拾遺往生伝』『三外往生記』『本朝新修往生伝』など。Cf.西口順子「浄土願生者の苦悩」pp.204-205.
*14浄土教内においても、セクトによって浄土観は当然異なる。各宗派による教学的議論や解釈には今は立ち入らない。あくまでも日本における一般的浄土観をここでは取り上げている。
*15田村芳朗「三種の浄土観」p.17.
*16藤田宏達「極楽浄土の観念」p.57,『原始浄土思想の研究』p.431.
*17法然、親鸞がともに「極楽」という用語を用いなかった理由には、浄土の非神話化の傾向など色々考えられるが、ここでは詳論しない。梶山雄一『菩薩ということ』pp.94-99.
*18大乗仏教では、多くの仏が登場し、その各々が自らの仏国土たる浄土をもつから多数の浄土が出現する。例えば、阿弥陀仏の「極楽」という浄土以外にも、阿しゅく仏の浄土は「妙喜」とよばれ、薬師如来の浄土は「浄瑠璃」と呼ばれるなど。望月仏教大辞典、p.2700参照。
*19藤田宏達「極楽浄土の観念」p.59,『原始浄土思想の研究』p.433-434.
*20 藤田宏達「極楽浄土の観念」pp.58-59,『原始浄土思想の研究』p.432-433.
*21藤田宏達「極楽浄土の観念」pp.58-59,『原始浄土思想の研究』pp.432-433.
*22藤田宏達「極楽浄土の観念」p.60.
*23藤田宏達『原始浄土思想の研究』p.116.
*24 末木文美士「観無量寿経」pp.29-38.
*25 *24梶山雄一『般舟三昧経』pp.200-204.
*26田村芳朗「三種の浄土」p.22.
*27辻直四郎『リグ・ヴェーダ讃歌』岩波文庫pp.229-232.
*28藤田宏達『原始浄土思想の研究』pp.487-493.
*29中村元他『浄土三部経(下)』岩波文庫pp.122-125;阿弥陀経梵本(浄土宗全書二十三、梵蔵和英合壁浄土三部経、山喜房佛書林、昭和47年)p.196,l.1-p.200,l.14;仏説阿弥陀経(鳩摩羅什訳、大正蔵経第十二巻p.346下〜p.347上):「・・・爾時佛告長老舍利弗。從是西方過十萬億佛土。有世界名曰極樂。其土有佛號阿彌陀。今現在?法。舍利弗。彼土何故名為極樂。其國?生無有?苦。但受諸樂故名極樂。又舍利弗。極樂國土。七重欄楯七重羅網七重行樹。皆是四寶周匝圍繞。是故彼國名曰極樂。又舍利弗。極樂國土有七寶池。八功コ水充滿其中。池底純以金沙布地。四邊階道。金銀琉璃頗梨合成。上有樓閣。亦以金銀琉璃頗梨車?赤珠馬瑙而嚴飾之。池中蓮花大如車輪。青色青光。??光。赤色赤光。白色白光微妙香潔。舍利弗。極樂國土成就如是功コ莊嚴。又舍利弗。彼佛國土常作天樂。?金為地。晝夜六時天雨曼陀羅華。其國?生常以清旦各以衣[袖-由+戒]盛?妙華。供養他方十萬億佛。即以食時還到本國。飯食經行。舍利弗。極樂國土成就如是功コ莊嚴。復次舍利弗。彼國常有種種奇妙雜色之鳥。白鵠孔雀鸚鵡舍利迦陵頻伽共命之鳥。是諸?鳥。晝夜六時出和雅音。其音演暢五根五力七菩提分八聖道分如是等法。其土?生聞是音已。皆悉念佛念法念僧。舍利弗。汝勿謂此鳥實是罪報所生。所以者何。彼佛國土無三惡趣。舍利弗。其佛國土尚無三惡道之名。何況有實。是諸?鳥。皆是阿彌陀佛。欲令法音宣流變化所作。舍利弗。彼佛國土。微風吹動諸寶行樹及寶羅網出微妙音。譬如百千種樂同時?作。聞是音者皆自然生念佛念法念僧之心。舍利弗。其佛國土成就如是功コ莊嚴。・・・」
 なお、テキスト引用に関しては、電子仏典協会CBETA=Chinese Buddhist Electronic Text Association作成のCDを使用した。以下、大正蔵経の引用に関して同様である。
藤田宏達「極楽浄土の観念」pp.76-79参照。また、藤田宏達『原始浄土思想の研究』pp.442-463には、『阿弥陀経』のみならず『無量寿経』の極楽の描写が精査されている。
*30極楽が西方にあり光明との関わりが深いことによって、阿弥陀信仰がゾロアスター教の強い影響のもとに成立したとの説が多くの学者によって提唱されている。岩本裕「浄土教の起源とその本質」、梶山雄一『「さとり」と「廻向」』、伊藤義教『ゾロアスター研究』、杉山二郎『極楽浄土の起源』など参照。Cf.拙稿「阿弥陀信仰---インド、中国、日本」(掲載予定)
*31藤田宏達『原始浄土思想の研究』pp.495-496に中村元訳のカウシータキ・ウパニシャッド引用がある。他に、The Upanisads, translated by F.Max Muller, part 1, Dover Publications,1962, pp.275-277参照。
*32 中村元他『浄土三部経』(上)pp.37-38.
*33 中村元他『浄土三部経』(下)pp.126-127.
*34 曇鸞を始め日本の親鸞にいたるまで『無量寿経』の解釈は種々なされており日本浄土教の解釈はそれなりに一貫性があることも諸先輩の論考に述べられているところである。例えば、藤田宏達「無量寿経」pp.124-125.
*35湯浅泰雄「浄土の瞑想の心理学」pp.22-23.
*36例えば、『バガヴァッド・ギーター』第11章において、アルジュナがヴィシュヌ神の威力により神眼を与えられて神の姿を見る場面などは有名である。Cf.上村勝彦、『バガヴァッド・ギーター』岩波文庫pp.93-103。また、ヨーガ・スートラには、ヨーガが完成することによる種々の超常現象についての記述がみられる。Cf.「ヨーガ根本聖典」『世界の名著1バラモン教典、原始仏典』pp228-238.
*37サンスクリット原典は存在しないがティベット訳より次のサンスクリットが経題として容易に推察される。pratyutpanna-buddha-sammukha-avasthita-samadhi-sutra。ちなみに、この劈頭にみられるサンスクリットpratyutpannaのパーリー語paccupannaの音訳「般舟槃」を省略したのが「般舟」である。梶山雄一『般舟三昧経』pp.239-240.
*38湯浅泰雄「浄土の瞑想の心理学」pp.24-27.観仏思想については、末木文美士「観無量寿経」pp.134-147参照。
*39末木文美士「観無量寿経」pp.146-147.
*40藤田宏達『原始浄土思想の研究』p.126.
*41末木文美士「観無量寿経」pp.34-37.
*42末木文美士「観無量寿経」pp.175-178.
*43藤田宏達「極楽浄土の観念」p.81,『原始浄土思想の研究』p.507:平川彰「浄土の用語について」p.1:田村芳明「三種の浄土観」pp.17-18.
*44大正蔵経第十四巻p.538下。
*45大乗仏典、中公文庫p.24.
*46 藤田宏達「極楽浄土の観念」pp.83-84,『原始浄土思想の研究』pp.509-510.
*47藤田宏達「極楽浄土の観念」p.83,『原始浄土思想の研究』p.509.
*48藤田は、無量寿経に出る浄土も浄仏国土の有形化として同類におくが、田村は、初期無量寿経と後期無量寿経とでは内容的に差異があり、後期になって浄仏国土の菩薩思想を取り込んだものと見る。Cf.藤田宏達「極楽浄土の観念」p.81-84,『原始浄土思想の研究』p.:田村芳明「三種の浄土観」p.21.
*49岩本裕「仏教の虚像と実像」p.277:梶山雄一『菩薩ということ』p.97.
*50田村芳明「三種の浄土観」p.17.
*51例えば、次のように何度も繰り返される:「・・・又舍利子。極樂世界淨佛土中。自然常有無量無邊?妙伎樂。・・・是故名為極樂世界・・・又舍利子。極樂世界淨佛土中。周遍大地真金合成。・・・是故名為極樂世界・・・又舍利子。極樂世界淨佛土中。晝夜六時。常雨種種上妙天華。・・・」(称讃浄土佛攝受経、玄奘訳、大正蔵経十二巻、三四九頁上)
*52藤田宏達「極楽浄土の観念」p.82.
*53藤田宏達「極楽浄土の観念」p.82,『原始浄土思想の研究』p.508.平川は、次に述べる曇鸞に注目して、浄土教思想そのものも中国で形成されたと見る。平川彰「浄土教の用語について」p.9f.
*54大正蔵経、第二十六巻(菩提流支訳)、サンスクリット原典、ティベット訳ともになし。
*55このテキストの綜合的研究として次がある。安達俊英、「「浄土三部経」と『往生論』」、仏教大学総合研究所紀要「浄土教の綜合的研究」1999, pp.81-109.
*56 「世尊我一心・歸命盡十方・無礙光如來・願生安樂國 ・・・ ?生所願樂・一切能滿足・故我願往生・阿彌陀佛國・・・我作論?偈・願見彌陀佛・普共諸?生・往生安樂國 」「 無量壽修多羅章句我以偈總?竟。論曰。此願偈明何義。觀安樂世界。見阿彌陀佛。願生彼國土故。・・・」(無量寿経優婆提舎(婆藪槃豆菩薩造)、大正蔵経二十六巻、二百三十頁下〜二百三十一頁上)
*57平川彰「浄土教の用語について」p.7.
「・・・何等五念門。一者禮拜門。二者讚歎門。三者作願門。四者觀察門。五者迴向門。云何禮拜。身業禮拜阿彌陀如來應正遍知。為生彼國意故。云何讚歎。口業讚歎。稱彼如來名。如彼如來光明智相。如彼名義。欲如實修行相應故。云何作願。心常作願。一心專念畢竟往生安樂國土。欲如實修行奢摩他故。云何觀察。智慧觀察。正念觀彼。欲如實修行毘婆舍那故。彼觀察有三種。何等三種。一者觀察彼佛國土功コ莊嚴。二者觀察阿彌陀佛功コ莊嚴。三者觀察彼諸菩薩功コ莊嚴。云何迴向。不捨一切苦惱?生。心常作願迴向為首成就大悲心故。云何觀察彼佛國土功コ莊嚴。彼佛國土功コ莊嚴者成就不可思議力故。如彼摩尼如意寶性。相似相對法故。觀察彼佛國土功コ莊嚴者。有十七種事應知。何者十七。・・・」(無量寿経優婆提舎(婆藪槃豆菩薩造)、大正蔵経二十六巻、二百三十一頁中)
*58平川彰「浄土教の用語について」pp.9-10.
「 ・・・易行道者。謂但以信佛因?願生淨土。乘佛願力便得往生彼清淨土。佛力住持即入大乘正定之聚。正定即是阿毘跋致。譬如水路乘船則樂。此無量壽經優婆提舍蓋上衍之極致不退之風航者也。無量壽是安樂淨土如來別號。・・・優婆提舍是佛論議經名。願是欲樂義。生者天親菩薩願生彼安樂淨土。如來淨華中生。故曰願生。・・・」(無量寿経優婆提舎願生偈註(曇鸞註解)、大正蔵経四十巻、八百二十六頁中〜下)
*59正木晴彦「東アジア仏教思想の展開」pp.146-148.
*60 Cf.拙稿「阿弥陀信仰---インド、中国、日本」(掲載予定)
*61 三桐慈海「中国における浄土観の受容について」pp.178-179;木村清孝『中国仏教思想史』pp.40-52.
*62 三桐慈海「中国における浄土観の受容について」pp.181-183.以下、三桐論文による。
*63田村芳明「三種の浄土観」pp.17,26;「来世浄土と阿弥陀仏」pp.167-168.
「・・・諸佛利物差別之相無量無邊。今略為四。一染淨國凡聖共居。二有餘方便人住。三果報純法身居。即因陀羅網無障礙土也。四常寂光即妙覺所居也。前二是應即應佛所居。第三亦應亦報即報佛所居。後一但是真淨非應非報。即法身所居。・・・」(維摩経略疏(智説、湛然略)(第一巻)、大正蔵経、第三十八巻、五百六十四頁上〜中)
*64田村芳明「三種の浄土観」pp.25,28-29;「来世浄土と阿弥陀仏」pp.168-169.
なお、これらの箇所において田村は次の興味深い点を指摘している。日蓮は三十歳代においては絶対浄土たる常寂光土を、四十歳代においては浄仏国土を、五十歳代においては来世浄土を説いたが、来世浄土に徹した法然の弟子親鸞は、晩年になって阿弥陀仏の無相絶対化を試みている。それは、例えば、『唯信鈔文意』の「尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず」という文章からもうかがわれる。親鸞が有相の浄土を哲理的に高める必要性を感じたのも一因かもしれないが、さらに検討の必要があろう、と。
*65ニヤーヤ・スートラ1.1.2.Cf.服部正明「論証学入門」『世界の名著1バラモン教典、原始仏典』p.342.
*66仏陀が目覚めた有名な四つの真理(四聖諦)---苦・集・滅・道---の思想も出発点は「苦の滅」にある。
*67ウパニシャッド文献においてはじめて登場する輪廻思想には、死後、解脱の道に赴くものと輪廻の道を通るものとが記されており、解脱の道に至る者については次のように述べられている。「・・・(林棲者、遊行者となって)人里離れたところで、信仰とは苦行であるとみなす人々は、・・・」(チャーンドグヤ・ウパニシャッド5.10.1)「ウパニシャッド」『世界の名著1バラモン教典、原始仏典』p.110.
*68ニヤーヤ学では、次に述べるように、「解脱」を「楽」ととらえるのは、従来は10世紀頃のバーサルヴァジュニャからとみられていたが、野沢正信氏により、漢訳仏典中に、早くからヴァイシェーシカの徒が「安楽な解脱」を主張しているとの記述がみられることを、野沢正信氏に未発表の論文「ヴァイシェーシカ学派の輪廻・解脱観」の原稿を見せていただいて知った。
*69バガヴァッド・ギーター第9章26-34にみられるバクティ思想が有名である。Cf.上村勝彦『バガヴァッド・ギーター』岩波文庫pp.83-85.
*70 6世紀頃のウッドヨータカラの著作Nyayavarttikaのコロフォンに「パーシュパタ・アーチャールヤであるウッッドヨータカラ」と記されせていることは有名である。
*71 この点に関しては次を参照。山上證道「Nyayabhusanaの研究(15)」『京都産業大学論集』人文科学系、第32号、2004年、pp.87,90-91,103-104.
*72 この視点からすればヴェーダーンタ思想の場合は、解脱論に「楽」の要素が入り込むことにそれほど抵抗はなかったと思われる。というのも、ウパニシャッド思想を核心として発展してきたヴェーダーンタにとっては、ウパニシャッドにおいてしばしば登場する「解脱は歓喜である」との文は重要であったに違いない。もちろん「歓喜」(ananda)という語は「楽」(sukha)とは別の単語ではあるが。
 ウパニシャッドでは、個人原理・アートマンが世界原理たるブラフマンと合一し、混然一体となった状態こそ解脱であると説かれ、このとき、アートマンはブラフマンの本質である「歓喜」を体験すると述べられるのである。(例えば、『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』(第4章3節)「ウパニシャッド」『世界の名著1バラモン教典、原始仏典』pp.94-96。)しかしながら、ウパニシャッドの場合、前注において触れたように、解脱に至には苦行・修行が要求されており、後代ヒンドゥー教で強調される、神に信愛(バクティ)を捧げることにより、神からの恩寵による救いが与えられる易行道的性格とは次元を異にしたものといわねばならない。とは言え、解脱に付随する「歓喜」の要素をウパニシャッド思想が持っていたことは、後代このウパニシャッド思想を核として成立したヴェーダーンタ思想の解脱論に影響を与えないはずはない。ヴェーダーンタ思想はその根本文献ブラフマ・スートラにおいて解脱を「歓喜」であるとして「楽」の要素を初めから付与しているのである(Cf.中村元『ブラフマスートラの哲学』[初期ヴェーダーンタ哲学史第二巻]岩波書店、1951年。pp.489-491.)。ニヤーヤの文献において批判の対象とされる「究極的に解脱した人は、幸福者(sukhi楽を持てる人)となる」(『ニヤーヤバーシュヤ』(NBh ad NS 1.1.22);服部正明「論証学入門」p.362.)という説がニヤーヤ伝統派の学者たち(例えばジャヤンタバッタ)によりヴェーダーンタの見解であると言われてきた理由でもある。
 
 
参考資料
 
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梶山雄一「般舟三昧経」『浄土仏教の思想 二』講談社 1994年。
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桜部建「阿弥陀経」『浄土仏教の思想 一』講談社 1994年。
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関口忠男「『日本往生極楽記』の浄土往生思想をめぐって」『阿弥陀信仰』雄山閣 1984年 pp.171-186.
田村芳明「三種の浄土観」、『仏教における浄土思想』(日本仏教学会編)平楽寺書店 1997 pp.17-31.
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中村元・早島鏡正・紀野一義『浄土三部経』(上)(下)岩波文庫 1994-1995年。
西口順子「浄土願生者の苦悩」『阿弥陀信仰』雄山閣 1984年 pp.201-217.
藤堂恭俊「曇鸞」『浄土仏教の思想 四』講談社 1995年。
平川彰「浄土教の用語について」、『仏教における浄土思想』(日本仏教学会編)平楽寺書店 1997 pp.1-15.
藤島達明「奈良時代の弥陀信仰」『阿弥陀信仰』雄山閣 1984年 pp.3-29.
藤田宏達「極楽浄土の観念」阪本要編『極楽の世界』北辰堂 1997年 pp.57-97.
藤田宏達『原始浄土思想の研究』岩波書店 1970年。
藤田宏達「無量寿経」『浄土仏教の思想 一』講談社 1994年。
正木晴彦「東アジア仏教思想の展開、5浄土」『岩波講座 東洋思想第十二巻 東アジアの仏教』岩波書店、1988年 pp.137-163.
三桐慈海「中国における浄土観の受容について」『仏教における浄土思想』(日本仏教学会編)平楽寺書店 1997 pp.177-186.
湯浅泰雄「浄土の瞑想の心理学」阪本要編『極楽の世界』北辰堂 1997年pp.15-38.
頼富本宏「京都文化と仏教」『都市研究・京都』18 ---京都創生II--- 京都市 2005年 pp.85-99.
 
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日本、中国、インドにみる「極楽浄土」思想の展開
                                 山上證道
 
要旨
 
 前稿にひきつづき阿弥陀信仰の核心をなす「極楽浄土」思想について、日本、中国、インドにおける展開を調査した。
 まず、日本においては、仏教の強い影響のもとに形成された極楽浄土観は、宗派的、教学的立場の議論を離れて一般的認識からみた場合、一般庶民・凡夫も死後往き生まれる他界の楽土であり、極楽という浄土を意味していて「往く浄土」と表現されてよいであろう。その典型を源信の『往生要集』にみることができる。
 一方、中国においては、羅什の時代までは極楽と浄土とは別の概念として訳し分けられていた。前者はインド伝統の生天思想に根拠を持つ他界楽土としての「楽あるところ」を意味する語(sukhavati)の訳語であり、後者は、インド大乗仏教において菩薩思想の発達に伴い、菩薩が現在活動中の現実社会をも浄化し菩薩自らの浄化とともに覚りの世界の達成を示す語「浄仏国土」(buddhaksetra-parisuddhi等)であったと思われ、いわば、「成る浄土」を意味する。しかし、その後玄奘の時代になると浄土が他土たる極楽と同一視されるが、それにいたるには、中国人の根底にある、神仙思想や生命の根源たる天との一体化への願望などと仏教思想との融合が次第に進み、極楽と浄土とが接近していったと考えられる。さらに、曇鸞に代表される中国浄土教家たちが庶民救済のため他力的往生観を表明したことで一般庶民・凡夫に「往く浄土」観が流布することとなった。中国において形成されたこのような流れを継承したのが日本浄土教であったと考えてよかろう。
 元来、インドにおいては、伝統的には生天思想が主流ではあったが、輪廻思想の定着と共に長年にわたりバラモン支配のもとに解脱論が展開された。しかし、紀元前後に台頭し始めた易行道思想の流れは次第に広がりをみせ、このような雰囲気のなかで展開された大乗仏教においても、極楽という楽土による救済思想が登場した。しかしながら、初期大乗仏教においては易行道への方向性は示されているものの、一般庶民・凡夫往生の論理は明確ではない。この点を考慮するなら、日本浄土教の他力思想に重点を置く「往く浄土」観については、インドによる直接の影響は今のところ考えられず、中国浄土教の強い影響を受けたものと解するべきであろう。 
 
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On the Buddhist "Land-of-Bliss"/"Pureland"(極楽浄土)in Japan, China and India
                             YAMAKAMI, Shodo
 
Summary
  In this paper as continued from my previous one, I tried to examine the problem of "the Land-of-Bliss"(極楽) and "the Pureland"(浄土), the very core of the worship of Amida-buddha.
  In early Japan, people had an aboriginal view of "afterworld" on which the Buddhism, a new comer, gave a deep impact to lead to the establishment of Japanese peculiar view of "the Land-of-Bliss"/"the Pureland." It could be called "the pure and blissful land to go to be born in after death" as we can see in Genshin(源信)'s "Oujou-youshuu"(往生要集).
  In China, until the area of Kumarajiva(鳩摩羅什), "the Land-of-Bliss" and "the Pureland" were regarded as distinct and therefore translated into separate terms. The former "the Land-of-Bliss"(sukahvati) was a kind of "heavenly blissful land to go" based on Indian traditional view of afterworld. The latter "the Pureland" which is also originally seen in Indian Mahayana Buddhism meant Bodhisattva(菩薩)'s purifying his own land as well as himself, which does not necessarily mean to be the land to go, but to be called "the Pureland to build." But centuries later, for example in the area of Genjou(玄奘), "the Pureland" was also considered to mean the same as "the Land-of-Bliss," i.e. "the land to go." One reason is probably due to the Chinese traditional inclination to "Taoist supernatural power" and "unification with one's own source Heaven," but another and more important was that some Chinese Pureland Buddhists such as Donran(曇鸞) laid stress upon "other-power"(=Amida's power他力), thanks to which even the common laypersons(凡夫) were expected to go to be born in "the Land-of-Bliss"/"the Pureland." The Pureland Buddhism, accordingly, prevailed and wide-spread in the general public in China at the time. This trend was brought in Japan to be developed as the Japanese Pureland Buddhism. While, the Indian traditional Heavenly land "the Land-of-Bliss" was not necessarily to be open to the common people having no virtuous deeds. Consequently we can say, so far, with more certainty that Japanese view of "the Pureland" was formed and established in China than that it was directly affected by Indian view of "Land-of-Bliss."