インド仏教文化と日本

                             山上證道  はじめに  日本は、古来から、多様な思想・文化を受容し咀嚼して、多彩色の布地のよう にそれらを織り込み一つの文化としてきた。仏教もそのような色彩豊かな日本文 化を綾なしてきた一つの重要な要素であったことはいうまでもない。  そもそも仏教は6世紀に日本に伝来し、その後、国家鎮護のための国家仏教と して、また、現世の栄華を来世までもと願う貴族たちの仏教として日本文化に重 要な足跡を残してきた。しかし、なんといっても日本に仏教が根づいたのは、鎌 倉期以後大衆の間に深く浸透して民衆の仏教となりえたからであろう。このこと は後述するように日本の仏教を考える上できわめて重要である。  永年にわたる日本での活動の結果、現在日本国内には多種多様な仏教が存在し ている。ところが、そのほとんどが若干の例外を除けばすべて大乗仏教といわれ る仏教である。そこで本章では、大乗仏教とはそもそもインドにおいてどのよう な思想・文化を持ったものであったのか、それは初期仏教の思想・文化とどのよ うに異なるものであったか、また、日本に定着した仏教が、どのような点で真に 大乗仏教の本質を備えているといえるか。このような問題を最近の仏教学の成果 を踏まえながら紙面の許す限りで考察してみたい。 1 初期仏教文化=聖なる出家の文化 (1)仏陀の「目覚め」  仏教は、紀元前5,6世紀にインドで仏陀(シャーキャムニ・ブッダ=釈迦牟 尼仏陀---以下では単に仏陀と表記する---)により興され、その後アジア各地に 伝わったことはよく知られている。そこでまず、そもそも、仏陀の「目覚め」 (「覚り」)とはどのようなものであったかを見ておきたい。  仏陀は、「この世は苦にみちている」・「苦の原因は渇愛である」・「苦の滅 した状態がある」・「その状態に至る方法がある」という四真実の存在に目覚め、 その方法の最終段階である瞑想によって、後述する「縁起」などの真理を不動の ものとして体得し、苦よりの解放を自ら宣言した。この意味で仏陀の「目覚め」 はきわめてインド的であり、ウパニシャッドの聖人がヨーガの実習によって「私 というこの個体と宇宙との完全な一体性」(梵我一如)の認識を得て解脱、すな わち、輪廻からの脱出を達成したのと基本的には異ならない。  初期経典に、梵天勧請という有名なエピソードが残っている。仏陀は、ブッダ (「目覚めたもの」---以後カナ表記の場合はこの意味である---)となった後自 分が目覚めた真理の内容を他人に語ることを一旦は拒否している。彼は、欲望に まみれた世俗の人々にはこの微妙な真理は到底理解できないと考えたのである。 神・梵天があわてて仏陀に説法を勧めにくる、「この世界には様々な人がいて、 仏陀の目覚めた真理を理解できるレベルの人もいるのであるから、是非、説法を するように」と。その梵天の勧めに従って仏陀は説法を始めた、と経典は述べて いる。  このエピソードからまず一つのことが明らかであろう。それは、仏陀の「目覚 め」の内容を理解することは、世俗的な一般の人々には到底不可能であると彼自 身が考えており、説法の相手として自分と同レベルの人を想定していたというこ とである。また、仏陀の「目覚め」は、いわば自己のみで完結しており、そこに は他者に対する意識はない。つまり、そこには他者の救いという思いは影が薄く、 まして、世俗たる一切衆生(生きとし生けるもの)を救うという考えは見られな い。少なくとも初期経典からはこのようなことが明らかであることを、まず、最 初におさえておかなければならない。 (2)サンガ・僧院の文化  仏陀当時のインドは、バラモンによる呪術的祭儀中心主義に対する反発から、 人間個人が高い精神力により自ら真理に目覚め解脱を得ようとしてとして世俗を 離れて修行生活をする風潮があった。そのような出家遊行生活をする人をサマナ (沙門)とよび、仏陀はそのようなサマナの一人であったのである。  前述の梵天勧請からも明らかなように、仏陀の「目覚め」に至るには世俗生活 をしている限り不可能である。従って、仏陀を慕って弟子となった人々はすべて 家族・財産を棄て出家僧となり集団を形成した。この集団はサンガ(僧伽)と呼 ばれ出家僧たちは自活を禁止され、在家信者たちの布施のみに依存してひたすら 「目覚め」に向けて努力した。出家僧が一日一度行う「托鉢」や衣類として身に まとう「袈裟」といった日本語は今日でもその習慣とともに日本仏教に残ってい る。サンガの僧たちはごく初期には遊行生活をしていたが、後には信者たちが寄 進した僧院に定住するようになった。「祗園精舎」や「竹林精舎」などの名前は 日本でもよく知られている。集団生活であるため当然生活のルール・律が定めら れるようになり、それらが「律蔵」として後代伝えられることとなった。  仏陀入滅後もこのような形でサンガ・僧院が継続されていくが、入滅後100 年頃にサンガ内で律をめぐって見解が対立し、上座部と大衆部とに分裂したとい う記録が残されている。両派はその後も分裂を繰り返し、ともに多くの部派を擁 するようになり、部派仏教と総称される(小乗仏教ともいわれるが、これは大乗 仏教側からの貶称で「劣ったもの」を意味するのでここではこの用語を用いな い)。出家僧たちは、それぞれの部派が保持する律に従い僧院において「目覚め」 を求め続けた。インドにおける初期仏教の姿はおよそこのように考えられている。 後に上座部の一部が、スリランカや東南アジアに伝えられた。南伝仏教と称され、 今日でもスリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジアなどの国では僧院を中心に した出家集団としてのサンガとそれを支える在家信者とが明確に別れている。 2 大乗仏教文化=聖俗不二の文化 (1)大乗仏教の形成  一方、大乗仏教は、西暦紀元前後のインドにおいて一種の宗教改革として起こっ た大乗運動によって生じた革新的仏教と考えられており、右記の南伝仏教とは対 照的に、西域から中国、日本へと伝播したので北伝仏教ともいわれている。その 発生・展開の正確な過程は十分に解明されてはいないが、次のような推察は一般 に容認されるであろう。  前に見たように、インドの出家僧たちはサンガを形成し在家信者たちの寄進に より僧院で生活し修行に励んでいた。しかし、時代とともに僧院の生活も変化を 余儀なくされ、新しい考えを主張して旧態依然とした仏教のあり方に批判的な学 僧も出てきたであろう。サンガの度重なる分裂が伝えられているのも当然である。 その一方で、仏陀の遺骨を安置したストゥーパ(卒塔婆=塔)崇拝が在家信者を 中心としておこり、僧院とは異なった形での仏陀信仰が広まっていったことも知 られている。サンガの外部にいたこのような人々が次第に僧院の仏教を批判的に 見るようになったこともあったであろう。特に、紀元前後の北西インドには多く の民族が興亡し戦乱に明け暮れ、一般民衆は言語を絶する苦しみを味わった時代 であった。そのような時代にあって、自らの「目覚め」のみを目指し修行に没頭 し、苦しみにあえぐ人々の救済に無関心でいる学僧たちを非難する考えが進歩的 学僧や在家信者たちから生まれたとしても不思議ない。このように宗教改革とし ての大乗運動は出家僧たちの守旧的体質や狭量的な「目覚め」を批判し、苦悩す る一般庶民の救済に焦点を当てたものであったと思われている。ただ、この大乗 運動がサンガ・僧院外の在家信者たちから生まれてきたのか、あるいは、サンガ・ 僧院内の学僧たちの議論から発展してきたのかは研究者間で議論のあるところで ある。 (2)大乗仏教のキーワード・菩薩  それでは、大乗仏教における「目覚め」とはどのようなものであろうか。それ は仏陀のそれと様相を異にするものであった。すなわち、大乗仏教では、「目覚 め」の前提に「一切衆生の救済」があるからである。それは、出家者たちの利己 的「目覚め」を批判した大乗運動の当然の帰結であった。大乗仏教では、「目覚 め」に向かう人は、まず最初に一切衆生を救済するという誓いを立て、その誓願 が達成されるまで修行を続行する。従って、その修行には、一切衆生を救うこと、 つまり、利他行がきわめて重要視された。「目覚め」に到達しブッダとなるのは、 一切衆生の救済が果たせた時、まさにその時なのである。  このように大乗仏教では、利他行に専念し一切衆生を救うという誓願の実現こ そ真のブッダたるべき存在であり、その実現に向けて努力する人を菩薩と名付け たのである。菩薩とは、「目覚め(に向かう)衆生」の意味で、大乗仏教の特色 はこの菩薩に集約されると言っても過言でない。菩薩が「目覚め」に至るのは自 己のためではなく衆生救済・衆生の「目覚め」のためであり、それが同時に自己 の「目覚め」そのものを意味している。いわば「聖俗不二」の目覚め、これが大 乗仏教の本質であり、一切衆生が救われていく大きな乗り物であるから「大乗」 と自ら称したのである。  ところで、このような大乗仏教の立場からすれば、仏陀といえども自己の「目 覚め」に執着したあり方ということにならないであろうか。否、大乗運動の人た ちは、仏陀にも菩薩の時代があり、無限に近い期間利他行に専念した結果、紀元 前5,6世紀のインドでブッダとなったと考えた。その思想は仏陀の前世物語、 つまり、ジャータカ(本生譚)となって広く親しまれるようになり、それと同時 に多数の菩薩、多数のブッダの出現となる。つまり、仏陀その人を示す固有名詞 が、その語本来の意味である「目覚めたもの」として普遍化し普通名詞化してき たといえる。仏陀入滅後しばらくは仏陀の姿を表現せずに菩提樹などで象徴的に 表現していた人々は、紀元後2世紀頃に仏陀像を製作するようになるが、さらに、 大乗仏教の発展に伴って諸仏・諸菩薩の像や絵画が多く描かれるようになっていっ た。日本でも人気の高い慈悲の象徴である観音菩薩像、やがて次にこの世に現れ る将来仏としての弥勒菩薩像、さらには、日本では特に名の知れた阿弥陀仏像 等々。また、菩薩としての仏陀の姿も、ジャータカ物語に題材を求め、例えば、 「捨身飼虎」などの絵画や彫刻が豊富に見られるようになった。 (3)大乗仏教への架け橋=仏陀の慈悲心と縁起観  このように、初期仏教から大乗仏教へと大きな展開をみた結果、仏教はアジア 各地に広まり、世界宗教として確固たる地位を築きあげ、仏教文化も大きく花開 いたことは間違いない。しかし、すでに見たように、仏陀の「目覚め」と大乗仏 教の「目覚め」との間に広がる大きな隔たりを我々はどのように理解すればいい であろうか。それは大乗運動を興した人々の精神活動に関わる微妙な問題であり、 様々な答えが用意できるであろうが、ここでは大乗運動に関わった人々の心理面 と思想面の二つの視点から考えてみたい。  そもそも、大乗運動の人々は仏陀の「目覚め」を一体どのように考えたのであ ろうか。彼らは思索を凝らしたに違いない、人間は実存レベルで他者と関わるこ となく自己のみで完結できるものなのであろうか、と。時代とともに仏陀が超人 化されたことも手伝って、人々は仏陀の「目覚め」に指導者としての仏陀の人格 を重ね合わせるようになったものと思われる。つまり、仏陀の「目覚め」の裏面 には自ずと他者とのつながりがあるはずであると見て、その他者との関わりは必 然的に他者への慈悲心を顕現させずにはおかないと大乗運動の人たちは考えた。  先述の梵天勧請のエピソードを注意深くみると、この初期経典はわずかながら も仏陀の他者への思いやりに触れている。仏陀が説法を躊躇したのも「(誤解を まねいて)人々を害することを案じた」からであったし、説法の開始に踏み切っ たのも「悲しみにしずみ、生と老とにおしひしがれた人間」を思ってのことであっ た、と。ここに、控えめながらも仏陀の慈悲心が彼の気持ち動かし続けていたこ とが記されている。仏陀の「目覚め」自体には他者という意識はなかったが、彼 の豊かな人格からは慈悲心が自然に溢れ出ていたと考えられた。大乗運動の人々 はそこに仏陀の真の姿を見て、一切衆生を苦しみの淵よりすくいあげること、そ れこそが仏陀の本意であったと解釈した。これこそが大乗菩薩道に向かって道を 開く大きな要因であった。  次に、視点を思想的側面に移して考えてみよう。仏陀が目覚めた重要な真理と して、「縁起」ということがあった。縁起とは「(あるものAに)縁って(ある ものBが)起こる」ということを意味している。この世界はすべて因果の法で成 り立っていて、東・西、親・子といった卑近な例からも理解できるように、すべ ては相互依存的存在であり絶対不変にして独一な存在はありえないと見るこの縁 起観は、まさに、真理そのものである。  大乗運動の人たちは、この縁起を「空(くう)」として解釈し直した。「空」 の原語・シューニャとはゼロという意味で否定的な語ではあるが、存在そのもの を否定するのではなく、ものに存在すると思われている「不変の本性」の否定を 意味する。人はあたかも「親」とか「子」という本性が存在しているかのように 考えてそのことに執着するが、実は、そのような本性は存在していない。  経典に巧みな喩例が述べられる。第1夫人、第2夫人、第1夫人の母親、彼女 らに仕える下女という4人に登場させ、第1夫人を他の3人が見たとき、嫌悪 (第2夫人)、愛情(母親)、無関心(下女)という異なった本質が生じる。し かし、これは対象にそのような本性があるのではなく、見る人の心が対象に本性 を作り出しているのである、と。  つまり、「空」の思想は言葉・思惟の世界が仮構であることを明らかにし、縁 起観の真理に立ち戻ることをあらためて宣言したものである。この「空」思想の 必然的帰着として、人々は、聖も俗もともに固有な本性はなく、人間側の虚構に すぎないという聖俗不二を主張し、それによって、「目覚め」に関して聖(出家 者)と俗(在家者)とを隔てていた壁がのりこえられたのである。修行して「目 覚める」べき聖なる存在・出家者だけが「目覚める」のではない、俗なるもの・ 在家者もそのままで「目覚め」られると主張された。まさにこのことが、世俗た る在家者に救いの道を開き、一切衆生が菩薩により救済されるのと、菩薩が誓願 叶ってブッダとなりえるのとは別々ではないという「聖俗不二」の大乗仏教の基 本構想を生んだといえよう。 3 日本浄土教  日本に受容された仏教は、当然のことながら日本古来の伝統である神道や山岳 信仰といったような日本風土の影響を受けざるを得なかった。特に、空海、最澄 などによりもたらされた密教文化はそのような要素と融合することで民衆に親し みあるものとなり、今日でもその名残が多く見られる。また中国からもたらされ たものではあるが、禅の仏教は、道元をはじめ多くの禅僧を輩出し、禅独特の文 化を創り上げていく。このような様々な日本仏教の一つひとつを取り上げて考察 するべきであるが、今はその余裕はない。ここでは日本に定着した仏教の典型と して浄土教を取り上げて、インド大乗仏教の「聖俗不二」という思想・文化の視 点に立って、日本浄土教がどのような点で大乗仏教の本質を汲んでいるか、要点 だけを論じておきたい。  浄土教の中心である阿弥陀仏は、無量寿経によれば、法蔵という名の菩薩の時 代に、一切衆生救済の誓願を立て、無限に近い間利他行に専念した結果誓願が叶っ て阿弥陀仏となったといわれる。そうであってみれば、菩薩の誓願は既に叶って いるのであるから、一切の衆生、つまり、我々は、阿弥陀仏によってもう既に救 われているのである。そのことに我々は気づいていないだけである。親鸞の絶対 他力の思想はこの信念に基づいている。口から出る念仏さえも阿弥陀仏の力、す なわち、他力によるものであることに彼は気づいている。親鸞の善悪不二という 考えは有名な悪人正機の思想となってこの絶対他力の思想と一体化する。いかな る善業もおぼつかない悪人(親鸞)こそが阿弥陀仏の救いの本来の目当て(正機) であると彼は言う。また、自ら「僧にあらず俗にあらず」と述べて実生活の上で それを実行したのも親鸞であった。彼は敢然として家庭を持ち、日本独特の在家 仏教文化の先駆けとなったといえる。善悪不二、聖俗不二という「空」思想に基 づき、世俗の世界に属する一切衆生の救済を目的とする大乗菩薩道の思想が親鸞 に継承されていることが知られる。ちなみに、これら親鸞の思想の淵源は、その ほとんどが師・法然に求められる。いわば、法然が種を蒔き親鸞がそれを結実さ せたのであると多くの研究者たちは見ている。  また、浄土教には一遍という孤高の聖人が親鸞とほぼ同時代に出現している。 一生涯遊行生活を送り、東北から南九州まで「南無阿弥陀仏」の念仏札を民衆に 配り歩いた一遍の姿は「一遍聖絵」に示されている通り、間違いなく僧俗不二の 名に相応しい。「捨聖」(すてひじり)と呼ばれてはいたが、もちろん本人は 「聖」たることを拒否し、自らは非僧非俗の立場に立つ資格すらないことを告白 している。妻子と家族を持ちながらそれでも執着せずに往生できるような親鸞や、 妻子は捨てても衣・食・住を持ちながらなお執着せずに往生できる法然を、自分 よりはるかに上質であると一遍は述べている、勝れた両人と比較すれば足元にも 及ばないこの自分は、妻子も家も一切捨てなければ執着をさることができず往生 にあいがたい、と。ここには、一遍の無執着に徹する姿が余すところなく示され ており、まさに「自他の位を打ち棄てて唯一念仏になるべし」の世界である。  聖俗不二という点から見れば、後代日本各地に出現した妙好人と呼ばれる人々 ほどそれに相応しい存在はないであろう。妙好人とは、特に学があるわけでもな く普通の市民でありながら、浄土教の本質を見事に体得していて、阿弥陀仏の慈 悲心を喜びつつ日常生活を自然に生きた人である。鈴木大拙は明治から昭和初期 にかけて生きた浅原才市という妙好人の言葉を多数紹介している。その内の一つ 「わしが阿弥陀になるじゃない、阿弥陀の方からわしになる、なむあみだぶつ」 という言葉は、聖俗不二そのものを端的に言い表している。衆生が菩薩に救われ てはじめて菩薩はブッダたりえる、衆生とブッダとが一体であるという不二の世 界が庶民才市によって見事に体得されているではないか。世俗たる一切衆生にブッ ダへの道を開いた大乗仏教が民衆に深く根づいたことを示すものであると同時に、 大乗仏教の神髄が確かに嘗ての日本に存在していた証でもある。  おわりに  インドにおいて西暦紀元前後頃からいわゆる大乗経典と呼ばれる経典が続々と 出され、部派仏教の狭量な考え方を批判して「聖俗不二」や「空」の論理で古い 仏教を非難する龍樹や世親などの論書も多数残っている。文献から見る限り、紀 元前後から6,7世紀頃までのインドは、まさに、大乗仏教の全盛時代であった かのような観を呈している。  ところが、最近の初期仏教研究で興味深いことが解明されつつある。大乗仏教 は6世紀頃に至るまで、インド国内では教団として受け入れられなかったのでは ないか、3世紀の中国では既に大乗仏教が重要視されていたにもかかわらず、と いう。インド国内では旧態依然とした部派仏教のサンガ・僧院がきわめて強固な 力を持ち、豊かで裕福な組織として社会的に重要な位置を占め人々の要求にも十 分応えており大乗仏教徒たちが入り込む余地が全くなかったという。前述のよう に、大乗経典・論書が多数存在したことは確たる事実であるが、しかし、もっぱ ら「聖俗不二」の理念を謳いあげる経典・論書の存在と、現実の教団の姿とは必 ずしも一致するとは限らない。紀元後数世紀にわたってインドは大乗仏教が支配 的であったとする伝統的見解の再検討が迫られているのである。7世紀に渡印し た玄奘は有名なナーランダー僧院の隆盛ぶりを記録している。しかし、ナーラン ダー僧院の学問を見る限り、大乗仏教は高度に洗練されてはいるが大乗初期の批 判精神を失い民衆を置き去りにした衒学的仏教となっていたことが窺える。その 後のインドにおける大乗仏教の展開は、密教化とともに次第にヒンドゥー教に吸 収されていく方向である。  どうしてインドに仏教が根づかなかったのかという疑問が頭をよぎる。しかし それは、仏教とヒンドゥー教とを対立的にとらえることに起因するのかもしれな い。両者には確かに思想的に大きな差異が存在し、実際に両者間に激しい論争が 繰り広げられたが、インドの文化という大局的見地から見た場合、必ずしもお互 いが排斥しあうものではなかったのかもしれない。たとえば、紀元前後のインド では、苦悩する民衆を対象とした救済の思想が仏教以外の文献にもしばしば登場 してくる。叙事詩マハーバーラタには、神へのバクティ(信愛)による救いや大 乗菩薩道を思わせる内容も見られ、当時の北インドにはこのような大きな思潮が あったことを窺わせる。大乗運動もこのような流れの中から起こってきたのでは なかろうか。また、大乗仏教が、7,8世紀に密教化してヒンドゥー教に吸収さ れていくのも、間違いなく当時インド全土に広まったタントリズムの流れに乗っ たものである。そういえば、仏陀も当時北インドの一風潮であったサマナの一人 であった。このように見てくると、仏陀登場、大乗運動、密教化といったインド 仏教の重要な現象がいずれも仏教だけに特殊なものではなく、インドの精神史の 大きな流れに沿ったものであったことが理解できる。その意味では仏教がインド の地に定着せずにヒンドゥー教に吸収されていったのも、ムスリムの進入はあっ たにしても、インド全体の文化から見て当然の流れであったのかもしれない。  再び、目を日本に向けてみよう。北伝という形で日本に入ってきた大乗仏教、 それは発祥地インドにおいては容易に受け入れられず国外に活路を見いだし、西 域、そして中国へと足をのばし、ついには東の端日本にたどり着いた姿であった のかもしれない。しかし、日本がその大乗仏教をしっかりと受け止めて、日本文 化の中に生活としてそれ本来の姿を実現させたといえるのではないか。  親鸞は19歳の時、聖徳太子廟で太子から「日本は大乗相応の地である」との 夢告を受けたという。日蓮も「日本は大乗の国である」という言葉を書き残して いる。日本自ら大乗を選び取っておいて「大乗相応の地」というのは我田引水も 甚だしいとの議論もあるが、日本に定着した仏教文化には、大乗仏教の本質が間 違いなく継承されていることは、浄土教を例にとって右で見てきた通りである。 しかも、鎌倉期以後に民衆に深く浸透した姿は、妙好人の存在で明らかなように、 大乗仏教の核心がただ理念としてだけではなく、生活として文化としてまぎれも なく日本の国土に確固として根づいていたことを示すものであろう---たとえ、 それが形式的には初期仏教からどれほど遠く隔たっていたとしても---。このよ うに考えてくると、日本は「大乗相応の地」という表現は、あながち、いわれな き大乗至上主義の産物として却下されることもないのではないかと思えるが、ど うであろう。  ここでは、大乗仏教の方が勝れているとか初期仏教こそ真の仏教であるとかを 論ずる意図もなければ、日本仏教の現状を云々する考えもない。大乗仏教として、 また、部派仏教として、仏教が2500年も存続してきたという事実を、悩み多き人 間の尊い精神活動の結果として受け止め、人類にとっての仏教の価値に今一度思 いをはせてみるのも無駄ではないと思うものである。 参考文献 この小論を書くにあたり多数の著書・論文より多くの教示をえたが、注記をでき るだけ控える方針のもと、依存度の特に高かったもののみを次に挙げておく。 丘山新   「大乗仏教における他者の発見」印度学仏教学研究50-2, 2002.  pp.879 - 885. 梶山雄一  『菩薩ということ』人文書院、1984. グレゴリー・ショペン 『大乗仏教興起時代・インドの僧院生活』(小谷信千代 訳)春秋社、2000. 佐々木閑  『インド仏教変移論』大蔵出版、2000. 鈴木大拙  『日本的霊性』(岩波文庫) 岩波書店、1972. 柳宗悦   『南無阿弥陀仏』(岩波文庫) 岩波書店、1986.

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Last modified: Mon Apr 12 10:55:15 JST 2004