「鎖国」日本の国際交流



京都産業大学生涯学習教育センター1998年度前期教養講座概要 『あふひ(京都産業大学日本文化研究所報)』第4号、掲載


{Japanese Page Only}



 お鈴「ここでは、若松先生が、京都産業大学生涯学習教育センター主催     1998年度前期教養講座でお話しした「『鎖国』日本の国際交     流」の概要を紹介します。これは、『あふひ(京都産大学日本文     化研究所報)』第4号に掲載されたものを、少し手直ししたもの     です。先生、当日の雰囲気はどうでしたか?」  若松「みなさん、熱心に聴いてくださって、よかったよ。私自身につい     ていえば、自分の専門の話なので、あれも話したい、これも話し     たいということで、ちょっと内容をつめこみすぎたかなと思って     ます」  お鈴「そうですか。難しかったと感じた人も、これで確認してくだされ     ば、いいですね」  若松「そうだね」  お鈴「あれっ? 授業で話した内容も結構ありますね」  若松「さすが、お鈴ちゃん。よく気づいたね(^^)」

  [平成10年度 前期教養講座要旨]

「鎖国」日本の国際交流

                 若 松 正 志


 昨年の教養講座で話した「賀茂川の流れに映る京都の歴史」(要旨は、 本誌『あふひ』第3号に掲載)が好評だったからかは定かでないが、今年 も京都産業大学生涯学習教育センターの教養講座で話をすることになった。 今年は前期の全4回(1回、90分)を担当するということで、私の専門 である「『鎖国』日本の国際交流」を全体テーマとし、各回のテーマを、   第1回「東アジアのなかの『鎖国』」(5月16日)   第2回「貿易都市長崎の秘密」(5月23日)   第3回「『鎖国』時代の文化交流」(5月30日)   第4回「開国と近代化」(6月6日) とした。以下では、この教養講座で行った話の概要について、一部構成を 変更して、記すことにする。

   1 はじめに

 最初に自己紹介を交え、次のことがらを述べた。  歴史学とは、歴史的な視点・方法によって、社会や人間を研究する学問 である。歴史学の目的は、天下・国家を論じることであると、かつてよく 言われたが、歴史事象を多面的に見ること、まずは身近な視点から考える ことが重要ではないかと、現在私は考えている。  今回の教養講座では、国際化が進む現代社会を意識しつつ、「鎖国」と いわれる江戸時代の日本の対外関係の実像を見ること、また長崎研究のお もしろさを提供することをねらいとしたい。

   2 「鎖国」について

 ここでは、加藤榮一「鎖国論の現段階」(同『幕藩制国家の形成と外国 貿易』校倉書房)などを参考に、「鎖国」という言葉と、「鎖国」の研究 動向について述べた。  (1)「鎖国」という言葉は、1630年代の「鎖国」成立期の言葉では なく、17世紀末に日本を訪れたケンペルの『日本誌』のなかの言葉を、 ロシアの蝦夷地接近など1800年頃の日本の対外的危機を背景に、志筑 忠雄が翻訳したもので、いわば「開国」の対概念として登場し、この頃幕 府の「鎖国祖法観」(「鎖国」を祖法とする考え方)も作られていった。  (2)「『鎖国』研究の潮流」では、「鎖国」に関する代表的な研究を、 (a)「鎖国得失論」・(b)「鎖国原因論」・(c)「鎖国」に関する総合的 研究に分けて紹介し、歴史研究のなかで「得失」が論じられるのは珍しい こと、近年の日本の国際化のなかで、東アジア世界への注目をふくめ、あ らためてこのあたりの研究が活発になってきていることを述べた。

   3 ヨーロッパ人の渡来とその対応

 (1)「はじめに」では、16世紀中期は日本とヨーロッパとの直接の出 会いという点で大きな意味を持つが、これについてもアジアの枠組で考え ることが重要であるとした。  (2)「鉄砲の伝来とその後の展開」では、宇田川武久『鉄炮伝来』(中 公新書)・葉山禎作「鉄砲の伝来とその波紋」(同編『生産の技術』<日 本の近世4>中央公論社)などを参考に、(a)鉄砲研究については不明な 点が多く残されていること、(b)鉄砲伝来研究の現状(「倭寇」への着目)、 (c)鉄砲普及の状況、(d)江戸時代における鉄砲の諸問題(幕府による統 制、村に多くの鉄砲が存在した事実、花火)などについて、西山松之助 『江戸文化の現代性』(放送大学ビデオ)も使い、述べた。  (3)「キリスト教をめぐる諸問題」では、布教・信仰・迫害・殉教など キリスト教の聖(正)の部分を追究する従来の研究に対して、近年では、 高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』(岩波書店)のような、当時のイエ ズス会の財政問題・貿易への関与・軍事征服計画など、その俗(負)の部 分も追究する研究が進められていることを紹介した。また、『日匍辞書』 やフロイス『日欧文化比較』など、イエズス会が作成したもののなかには、 当時の日本社会を知るうえで重要な資料があるとして、化粧の記述を紹介 した。

   4 長崎開港をめぐる諸問題

 (1)「古代・中世の長崎」では、古代・中世にも長崎は存在したが、そ れがクローズアップされてくるのはやはり1570年の長崎開港以降であ ることを述べた。  (2)「長崎開港」では、安野眞幸『港市論』(日本エディタースクール 出版部)などを参考に、初期の日本とポルトガルの貿易ルートは日明貿易 や倭寇のルートと関係があったこと、ポルトガル船来航地の変化は戦国大 名のキリスト教対策と大きく関係していたこと、平戸の貿易取引において 倭寇のボス王直・イエズス会・大友氏の影響が大きかったこと、大村氏の 受洗と大村領の港の開港など、長崎開港までの経緯をあとづけた。  (3)「長崎におけるイエズス会の活動」では、前掲安野著書・同『バテ レン追放令』(日本エディタースクール出版部)などを参考に、大村領時 代、龍造寺氏勢力台頭のもとでの大村氏によるイエズス会への長崎寄進 (1580年)、「教会の平和」侵害事件(1581年)を経てのイエズ ス会による長崎支配の確立・「キリシタンの町」化、秀吉による長崎直轄 化(1587年)、家康のその後の継承という、長崎支配の変遷と、イエ ズス会の活動について見た。

   5 江戸時代初期の貿易と「鎖国」の枠組

 (1)「主な貿易商人とその形態」では、この時期のポルトガル人・スペ イン人・オランダ人・イギリス人・中国人・日本人の貿易参加の状況を述 べ、日本人の場合は朱印船貿易家として角倉了以・茶屋四郎次郎など江戸 幕府と関係の深い者が優遇されたこと、末次平蔵のように幅広い人的結合 で商業活動を行っている事例があること、また近世初期の貿易品について 紹介した。  (2)「『鎖国』の成立」では、山本博文「幕藩権力の編成と東アジア」 (同『幕藩制の成立と近世の国制』校倉書房)などを参考に、「鎖国」の 主因はキリスト教の禁止であり(最終的な直接のきっかけが「島原の乱」)、 副因として貿易の問題(貿易品の確保)があったこと、将軍朱印状の権威 を守る動きがあったこと、オランダ人が貿易利潤確保のため幕府への忠節 をアピールする動きを見せていることを述べた。また太田勝也『鎖国時代 長崎貿易史の研究』(思文閣出版)などの説を支持し、「鎖国」は江戸幕 府による貿易独占としばしば言われるがこれは不正確であるとして、幕府 は藩の直接的貿易を禁止したが、幕府自身も直接的貿易を行ってはいない こと、「鎖国」成立当初において幕府が長崎貿易から利潤を得ていたわけ でもないこと、貿易は都市長崎を通した間接的な管理・統制が行われたに すぎないことを述べた。  (3)「『鎖国』時代の対外関係の枠組」では、荒野泰典『近世日本と東 アジア』(東京大学出版会)・田代和生『江戸時代の日朝交流1 鎖国の なかの日朝関係』(放送大学ビデオ)などを参考に、話を進めた。  「鎖国」時代の日本は、長崎(唐人屋敷・出島)を通して中国・オラン ダとの通商関係が、対馬(および釜山の倭館)を通して朝鮮との外交関係 が、薩摩を通して琉球を従属させる関係が(琉球は中国にも従属)、松前 を通してアイヌを従属させる関係がとられたこと、オランダ商館長の江戸 参府・朝鮮通信使・慶賀使(琉球)などの使節往来は民衆に、外国文化の 一端とともに、将軍権威を視覚的に伝える機会でもあったとした。  次に、主要な長崎貿易品と課題の時期的変化について説明した。近世前 期の長崎貿易は、生糸・絹織物を輸入し、金・銀(・銅)を輸出する、中 後期のそれは、薬種・砂糖を輸入し、銅・海産物を輸出するというのが、 主要な形態である。そして、近世前期においては輸入品の確保が、中後期 には、金銀の流失抑制、そのためそれらに代わる輸出品の選定および確保、 それから輸入品の国産化が、それぞれ課題であった。なお、近世中期以降、 長崎貿易の年間貿易額は徐々に縮小されるが、輸出入品双方低価格での取 引が行われ、見かけほど貿易量は減っていないことが、近年の研究(中村 質『近世長崎貿易史の研究』吉川弘文館)で、明らかにされている。

   6 貿易都市長崎の「成り立ち」

 ここでは、前述の「鎖国」の成立によって進められた、長崎を軸とする 貿易管理・統制の結果、長崎は貿易で「成り立つ」都市となり、長崎町人 (家持〜借屋・日雇)がさまざまな形でこれに関与していたことを、具体 的に見た。  (1)「長崎の『町』と人口」では、『長崎県史』対外交渉編(吉川弘文 館)などを参考に、「町」(基礎的な単位)、支配・行政組織(地役人の 多さ)、人口(貿易の盛衰と大きく関連)、階層構成(早い時期から借屋 層が多い)など、貿易都市長崎の概要を述べた。  (2)「長崎貿易の変遷と利潤の生成・配分」では、前掲太田著書・前掲 中村著書などを参考に、(a)糸割符仕法→(b)相対貿易仕法→(c)市法貨 物商法→(d)定高貿易制度→(e)長崎会所貿易→(f)正徳新例と変遷した、 近世前期の長崎貿易制度の概略を述べた。  次に、長崎会所設立後の貿易利銀は、輸入品について品目ごとに決めら れた率の関税(これを「掛り物」という)を国内商人に負担させることに よって、生成されたものが中心であることを述べた。そしてこの貿易利銀 は、幕府への運上金、地役人の役料、長崎の家持層へ給付される箇所銀、 同じく借屋層に給付される竈銀、諸役所の運営経費、中国船の船宿として 世話を行った「町」へ配分される宿町・付町銀、寺社礼銀などにあてられ たことを述べ、その多くが長崎で配分されたことを指摘した。  (3)「利潤獲得・増加を求める動き」では、前掲中村著書・拙稿「近世 前期における長崎町人と貿易」(渡辺信夫編『近世日本の都市と交通』河 出書房新社)を参考に、長崎に多く貿易利潤が配分されたことの背景となっ た、長崎町人たちの積極的な運動について、具体的に見た。  慶安元(1648)年の「乍恐謹而言上」、寛文3(1663)年の長 崎大火時の復興策を求める訴状には、長崎の家持町人を中心とする貿易へ の参加・利潤の平等化を求める要望があり、幕府はこの時期は彼らを中心 とする対策をとっている。その後、寛文(1661〜73)末年には、借 屋層も積極的に運動を行うようになり、幕府は、市法貨物商法における市 法貨物商人の選定・貿易品の入札・代銀支払いにおける優遇措置など、借 屋層も対象とする対策をとっていくようになった。なお、この時期の対策 は、あくまで彼ら長崎町人が様々な形で貿易に参加(日雇として荷物の積 みおろしに従事することなどもふくむ)することを支援する形をとってい る。  市法貨物商法廃止後、長崎の特権は否定されたが、その後、長崎町人の 特権回復運動があり、長崎奉行からも江戸幕府に嘆願が出され、結局「先 例」としてそれまで個々に授受されてきた貿易利銀のいくつかが「掛り物」 として再編成された(拙稿「長崎唐人貿易に関する貿易利銀の基礎的考察」 (『東北大学附属図書館研究年報』23)参照)、これが前述の貿易利銀 の中心になったのである。ただし、この段階以後の貿易利銀は、長崎会所 など上級機関で一括生成されたものの配分を受けるという形に変わった点 に注意すべきである。  ともあれ、長崎貿易の利潤は、当初一部の人に限られていたが、「鎖国」 の成立を契機に、貿易への関与・利潤獲得を求める長崎町人の運動が起こ り、それが長崎家持層全体へ、さらに借屋層もふくむ長崎全体へと広がっ ていった。そして、長崎奉行もそれを認めるような方向で対策をとった点 が注目される。長崎奉行は幕府から派遣された役人ではあるが、長崎の 「成り立ち」・長崎町人の生活にも配慮しているのである。

   7 近世中期の貿易都市長崎における社会問題と対応

 (1)「長崎の日雇問題」では、拙稿「近世中期における貿易都市長崎の 特質」(『日本史研究』415)を参考に、荷役(貿易品の積みおろし) などに従事し、貿易都市長崎において不可欠な存在であった、日雇の問題 をとりあげた。彼らは、18世紀中後期に、荷役中の盗みや、作業が乱暴 で薬種・砂糖などをこぼすということで、オランダ人・中国人からクレー ムがつき、長崎奉行は「日本人の面目を失ひ候」などと嘆いている。日雇 問題は、国家の威信に関わるものと意識されていたのである。日雇は主に 長崎の下層町人で、年間貿易高の制限が強まり、また薬種のような重い貿 易品が増え実質的な労働量が大きくなるなか、時に上記のような不正行為 を行った。長崎奉行はこれに対して、「町」を媒介とした対策をとった。 町乙名に、人柄のよい日雇を選定するよう、また不要な日雇は減らすよう 指示するなど、取り締まりを強化する一方、日雇賃の中間搾取の阻止・ 「盈物」(こぼれもの)の制度化(一定の取り分を確保・給付)・「外稼」 の奨励など、日雇の生活助成策もとっている。「町」も日雇の生活助成に 配慮しているようである。  (2)「長崎のゴミ問題」では、拙稿「貿易都市長崎における塵芥処理と 浚」(丸山雍成編『日本近世の地域社会論』文献出版、近刊)を参考に、 同じく近世中期の長崎で大きな社会問題となっていた、ゴミ問題をとりあ げた。長崎のゴミは、17世紀段階では埋め立ての材料などとしてうまく 活用されていたようだが、18世紀半ばには、投棄されたゴミが上流から の土砂とともに河口・港に流れ込み、船の通行に支障が出るなど、社会問 題化した。長崎奉行はこれに対して、町乙名2名に加役として川浚芥捨掛 を命じ、また「町」を通して啓蒙運動や取り締まりを行い、さらに明和3 (1766)年からは長崎来航国内船から石銭(入港税)を取り港浚の費 用とした。また安永9(1780)年には、「町」を基本単位としつつも、 長崎全体としての対策が構想されたことが、ゴミ処理の費用負担や制度の 体系化からうかがえる。  以上、「『鎖国』の窓」といわれる貿易都市長崎について、その具体的 な様子を明らかにしてきた。貿易利潤の問題・長崎町人の努力・長崎奉行 の姿勢・「町」の重要性などを主要な論点としたが、このような長崎の繁 栄のかげにある一部の人々の犠牲については、後述したい。
長崎の眼鏡橋(重要文化財)と中島川 (筆者撮影)   この川が海に注ぐあたりに新地唐人蔵があり(現在は中華街)、  18世紀中期に、船の通行に支障が出、ゴミ問題が社会問題化した。

   8 輸入品をめぐる交流

 ここでは、真栄平房昭「『鎖国』日本の海外貿易」(朝尾直弘編『世界 史のなかの近世』<日本の近世1>中央公論社)・山脇悌二郎『長崎のオ ランダ商館』(中公新書)・田代和生『江戸時代の日朝交流2 銀の道・ 絹の道』(放送大学ビデオ)などを参考に、話を進めた。  生糸は、近世前期の主要輸入品で、主に、中国→長崎→京都(西陣)と いう形で輸入・流通したが、ベトナム産の生糸や、中国―琉球ルート・朝 鮮―対馬ルートでの輸入も存在した。また、生糸の輸入については、中田 易直『近世対外関係史の研究』(吉川弘文館)が明らかにした糸割符制度 があり、国内商人の統制・利潤配分などがなされた。生糸は、近世中期以 降は、北関東などで国産が進み、幕末は欧米向けの主要輸出品となった。  織物については、絹織物・木綿・更紗・毛織物など多様なものが輸入さ れている。石田千尋「近世における毛織物輸入について」(『日蘭学会会 誌』19−2)によれば、毛織物は、近世初期には陣羽織など武士層主体 の需要であったが、幕府による町人の毛織物着用禁止規定にもかかわらず、 元禄期には井原西鶴の作品にも見られるように、上級町人にまで広がり 「贅と粋」の元禄文化を支え、さらに近世中後期には中下層の町人にまで 広がっていったということである。また石田氏は、文政13(1830) 年の日蘭貿易について、オランダ人がジャワなどで仕入れた価格より安く、 日本(長崎会所)に毛織物を売却している事実を明らかにしている。オラ ンダ人はその代りに、日本から安く銅を購入し、インドなどで高く売って いたと思われる。  鹿皮については、前掲真栄平論文が、武士の鎧細工や装束に使うため、 近世初期に日本に大量に輸入され、東南アジアの鹿が絶滅の危機におちいっ ていたと指摘している。鮫皮・象牙・鼈甲なども多く輸入され、同様の状 況だったという。現代の問題と重なるものがあろう。  薬種については、徳川吉宗が行った、朝鮮人参の国産化・薬種の同定作 業などが注目される(笠谷和比古『徳川吉宗』(ちくま新書)・大石学 『吉宗と享保の改革』(東京堂出版)・拙稿「唐人参座の設立について」 (『京都産業大学日本文化研究所紀要』2)など、参照)。輸入薬種は、 大坂道修町の薬種問屋に運ばれた。道修町は、タケダ製薬など、現在でも 製薬会社が多く並ぶ地域である。また、近世後期の日本で甘味の食文化が 展開した背景には、オランダ植民地下のインドネシア農民に対する過酷な 砂糖の強制栽培があった(前掲真栄平論文)。  このように、江戸時代の日本は「鎖国」といわれるが、アジアの産物が かなり入ってきている。ただし、江戸時代の人々には、それらのモノは見 えていても、そのモノの背景・ヒトは見えていない。この点は、現代の問 題と類似しており、生産・流通・消費をトータルに把握することが重要で ある。

   9 輸出品をめぐる交流

(1)「金・銀・銅」ではまず、鈴木康子「近世銅貿易の数量的考察」 (『中央大学大学院研究年報』15―IV文学研究科篇)・同「近世の小判 貿易について」(『花園史学』16)などを参考に、オランダが日本から 輸出したものは、おおまかに見ると銀→金→銅と変わっているが、それは メキシコ銀の流通、ヨーロッパにおける戦争、ヨーロッパ市場とアジア市 場の相場の差、日本の鉱産物生産量・貨幣改鋳など、多様な要因の結果で あるということを、具体的に述べた。また、質問があった日本と海外の金 銀レートの差については、実際の流通量や権力との関係から説明した。  (2)「海産物―俵物(煎海鼠・干鮑・鱶鰭)・昆布―」では、拙稿「長 崎俵物をめぐる食文化の歴史的展開」(『京都産業大学日本文化研究所紀 要』創刊号)・同「仙台藩領における長崎俵物の生産・集荷」(渡辺信夫 編『近世日本の生活文化と地域社会』河出書房新社)などを参考に、話を 進めた。アワビやナマコは、古代日本においては高級食料であったが、徐々 に消費量・消費者層が拡大した。そのような状況を前提に、長崎貿易を拡 大し運上を取ろうとする勘定奉行荻原重秀の主導で、ナマコ・アワビが中 国へ輸出されるようになった。これが、中国の中華料理における海産物食 文化の隆盛につながった。江戸幕府や長崎俵物請負商人は、法令の伝達・ 生産技術の指導・前貸金の貸与・長崎会所からの補償金の拠出などを行っ たが、漁民の抵抗も見られ、なかなかその生産・集荷は進まなかった。そ の大きな要因は、長崎貿易がバーター貿易で、輸出価格を抑えるため、漁 民からの買い上げ価格が抑えられたためである。  以上、江戸時代の日本は「鎖国」といわれるが、実際にはアジアさらに はヨーロッパの経済・文化と大きくつながり、影響を与えあっていた。ま た、長崎貿易の構造的要因により、輸出品は低価格での調達を強いられて いた。すなわち、貿易都市長崎の繁栄のかげに、銅関係業者・海産物関係 業者などの負担・犠牲があったのである。

   10 海外情報の受容

 ここでは、「鎖国」時代に日本に伝えられた海外情報にどのようなもの があったかについて、述べていった。 最初に、日蘭学会・法政蘭学研究 会編『和蘭風説書集成』上・下(吉川弘文館)を参考に、オランダ船から もたらされた海外情報について見た。オランダ風説書には、アジア・ヨー ロッパのさまざまな状況が記されており、オランダ船→長崎のオランダ通 詞(翻訳)→長崎奉行→江戸幕府(老中)という経路で伝えられたこと、 秘密文書扱いであったが実際には漏洩もあったこと、情報はおおむね正確 だがオランダがフランスに併合された一件についてはオランダに都合のい いように捏造されていること、アヘン戦争情報については「別段風説書」 という形でまとめられたことなどを述べた。次に中国船から伝えられた 「唐船風説書」(『華夷変態』上・中・下(東洋文庫。増補再版、東方書 店)に収録)、朝鮮―対馬ルートで伝えられた明清交代の情報(前掲田代 ビデオ2参照)、琉球―薩摩ルートで伝えられた明清交代・アヘン戦争の 情報(真栄平房昭「近世日本における海外情報と琉球の位置」(『思想』 796)、漂流民のもたらした情報などについて述べた。  「鎖国」時代とはいえ、いや「鎖国」時代だからこそ、幕府は海外情報 の収集に注意をはらっていたのである。

   11 開国について

 ここでは、石井孝『日本開国史』(吉川弘文館)・青山忠正『幕末維新 奔流の時代』(文英堂)・藤田覚『幕末の天皇』(講談社)などを参考に、 開国の状況について話を進めた。  (1)「対外的危機の深化と対応」では、ロシア船の日本接近、「鎖国祖 法観」の成立、西洋式軍事技術の導入、イギリス船フェートン号事件など、 18世紀末から19世紀中期の日本をとりまく国際環境について紹介した。 そして、これらいち早く産業革命を達成した西欧列強(欧米資本主義諸国) によるアジア進出の主要目標は中国(市場)であったとし、アヘン戦争に ついて説明した。  (2)「ペリー来航をめぐって」では、岩下哲典「嘉永五年・長崎発『ペ リー来航予告情報』をめぐって」(岩下哲典・真栄平房昭編『近世日本の 海外情報』岩田書院)・加藤祐三『黒船異変』(岩波新書)などを参考に、 ペリー来航情報の伝達について紹介し、ペリー来航は突然のものではなく、 老中・一部の大名などに情報が入っていたが、十分な対応ができなかった こと、その後の老中阿部正弘の朝廷・諸大名への対応(意見の諮問など) が、結果的に幕府の衰退を招いたことを述べた。また、攘夷派の孝明天皇 の日米和親条約に対する評価として、これが漂流民の救助・寄港許可(薪 ・食料供給)に限定し通商は認めていない点で、夷狄への救恤であるとプ ラスの評価をしているという考えを紹介した(前掲青山著書)。  (3)「日米修好通商条約をめぐって」では、まず条約締結の経緯を述べ、 ハリスの老獪さ、大老井伊直弼は条約勅許を取ろうとしたこと、全権であっ た開明派の幕臣二名(岩瀬忠震と井上清直)が当時の国際情勢を考え早々 に条約を締結したことを述べた。そして条約の内容については、治外法権 の認可・関税自主権の欠落など日本に不利な点はあるが、アヘンの輸入禁 止などの条項もあり、それなりに評価できるとした。また、これに対する 孝明天皇の考え(日本の国威を損なう。「天下の一大事」で、先祖に申し わけない)も紹介した。  また、歴史学におけるコンピュータ利用として、東京大学史料編纂所の 「維新史料綱要データベース」などを紹介・実演した(下の写真、参照)。

   12 幕末から近代へ

 (1)「政治情勢」では、前掲藤田著書・前掲青山著書などを参考に、朝廷 の政治勢力としての浮上の背景や、徳川慶喜の自分を中心とした雄藩連合的 な国家構想について述べた。  (2)「経済情勢」では、開国後の物価騰貴・金の流失・国際的分業のなか での国内産業の編成替について述べた。  そして、「万国対峙」という状況のもと、近代国家として、日本が「脱亜 入欧」・「富国強兵」という道を歩んだことを述べた。

   13 おわりに―国際化時代の日本のありかた―

 最後に、米谷均「雨森芳洲の対朝鮮外交」(『朝鮮学報』148)を参考 に、雨森芳洲の「誠信之交」を紹介した。この「誠信」とは、「実意と申す 事にて、互いに欺かず争わず、真実をもって交わり候」ことで、彼はまた、 その際相手の国の事情・慣習などをよく知ることも重要だとしている。これ からの国際交流を考えるうえで、大いに参考になろう。国家レベルでは、自 分の国を愛しつつ、他の国家をも尊重する姿勢が重要だと思う。そしてまた、 これからの国際交流においては、国家の枠組を超えた人と人との結びつきも 重要になってくる。その際も、相手の気持ちや事情を思いやることが大切で あろう。
 (付記)本稿は、私がこれまで個人研究として取り組んできた「長崎貿易と近世社会」     についてひとつの枠組を示すとともに、本研究所の共同研究「京都文化の国際     交流史に関する基礎的研究」を進めるうえでベースとなる要素もふくまれてい     るので、ここに掲載させていただいた。ご意見・ご教示をいただければ幸いで     ある。      なお、教養講座においてお世話いただいた、京都産業大学生涯学習教育セン     ターの方々に、末筆ながら感謝の意を表わしたい。

若松先生のホームページに戻ります。

京都産業大学のホームページに戻ります。