『あうろーら』第14号(21世紀の関西を考える会、1999)掲載



 貿易都市長崎の成立と構造

                若 松 正 志

    はじめに

 長崎の地図を開いて見れば、出島・唐寺・眼鏡橋など「鎖国」時代の オランダ・中国との交流を示す史跡、大浦天主堂・グラバー園など幕末 開国期の国際交流に関わる史跡、そして原爆資料館・平和記念像など第 二次世界大戦時の原爆投下に関するものなど、それぞれの時期の国際関 係を示すものが多く見られる。龍踊り(じゃおどり)・ちゃんぽん・カ ステラなども、長崎の国際交流の一端を今に伝えるものといえよう。  ここでは、21世紀の平和的な国際交流の進展を祈りつつ、長崎の歴 史をたどり、特に「鎖国」時代の貿易都市長崎の繁栄と、その背景につ いて、見ていくことにしよう。

   1 長崎開港

 最初に、貿易都市長崎の出発点となった、元亀元 (1570)年の長 崎開港前後の状況について、『長崎県史』対外交渉編(吉川弘文館)・ 安野眞幸(あんのまさき)『港市論』(日本エディタースクール出版部) ・同『バテレン追放令』(日本エディタースクール出版部)などを参考 に見ていくことする。この問題の鍵となるのは、イエズス会である。  ヨーロッパ人が日本を知ったのは、13世紀末成立のマルコ・ポーロ 『東方見聞録』あたりからであろうが、実際にヨーロッパ人が日本に来 たのは、16世紀中期のポルトガル人の種子島漂着(この時に鉄砲伝来) が最初である。この頃ヨーロッパで勢力をもっていたのはポルトガルと スペインで、この二国はともに、貿易活動とキリスト教の布教を一体に 進める、カトリックの国であった。  当時の日本は戦国時代。戦国大名はそれぞれ、外国と貿易をしたいと 考えていたが、キリスト教にどう対処するかは、領内の仏教徒の反発も あり、なかなか難しい問題であった。ポルトガル船来航地が、島津氏の 薩摩から松浦氏の平戸へ、そしてキリシタン大名大村氏(永禄6=15 63年に受洗)の横瀬浦・福田・長崎へと移動するのは、そのような理 由からである。もちろん長崎が、多くの入り江・深い水深・砂底など、 絶好の港湾条件を備えていたことも重要な要因であったといえよう。  こうして、古代・中世は半農半漁の小さな村であった長崎が、貿易都 市として発展する第一歩が刻まれたわけだが、その後の歩みは決して順 調ではなかった。大村氏の力は決して強いものではなく、佐賀の龍造寺 氏の勢力が台頭してくることにより、天正8(1580)年に大村氏は 長崎をイエズス会に寄進することにした。その内容は、長崎の土地所有 権・支配権・行政権・停泊税をイエズス会に与え、大村氏自身は貿易関 税のみ収納するというものであった。教会領長崎の誕生である。そして 翌天正9年、「神の平和」侵害事件(教会内での異教徒=非キリスト教 徒による闘殺事件)が起こり、イエズス会が教会の神聖性を説き、それ を異教徒が認めることにより(イエズス会が長崎から撤退すれば貿易が できなくなるという現実的な利害の問題が、その背後にあった)、イエ ズス会による長崎支配の確立・長崎の「キリシタンの町」化が進んだの である。

   2 秀吉・家康と「鎖国」の成立

 天正15(1587)年、豊臣秀吉は九州を平定し、博多でバテレン (宣教師)追放令を発布、翌年長崎を直轄地とした。日本の土地が外国 の領地となっていた点が、宗教勢力としてのイエズス会への警戒感(か つて信長に対立した石山本願寺などとの類似を連想)と結びつき、この 措置がとられたものと考えられる。ただし、秀吉は貿易は継続したいと 考えていたので、キリシタン禁制を徹底することはできなかった。  慶長5(1600)年は、日本にとって大きな画期である。国内的に は関が原の戦があり、豊臣から徳川へという政権の移動が確定した。そ して対外的にはオランダ船リーフデ(エラスムス)号の豊後漂着があり、 オランダ人・イギリス人が日本に来るようになったのである。この二国 は、貿易活動とキリスト教の布教を別々に行うプロテスタントの国で、 日本にやってきたのは、貿易活動を目的とする商人集団であった。ここ に、秀吉時代には不可能であった、貿易奨励・キリシタン禁制を実現で きる環境が生まれてきたのである。  次に「鎖国」の成立事情について、山本博文「幕藩権力の編成と東ア ジア」(同『幕藩制の成立と近世の国制』校倉書房)、同『鎖国と海禁 の時代』(校倉書房)などを参考に見ていくことにする。寛永12(1 635)年のいわゆる「鎖国令」では、第1条から第3条に日本人の海 外往来の禁止が、第4条から第8条にキリスト教の禁止が、第9条から 第17条に貿易の管理・統制が記されている。条文の数の上では貿易関 係のものが多いが、「鎖国」の主要な要因はやはりキリシタン問題であ る。すなわち、寛永13年3月26日(1636年5月1日)の段階で、 幕府の老中はポルトガル人を追い出したいと考えており、ただし、その 場合ポルトガル人がこれまで運んできている輸入品をオランダ人が持っ てこられるか不安に思っていたようである(永積洋子訳『平戸オランダ 商館の日記』第3輯、岩波書店)。このように、キリスト教禁止を前提 に、輸入品の確保が考えられていた状況のなか、「島原の乱」が起こり、 結果としてポルトガル人の追放が決定、ヨーロッパの国ではオランダだ けが生き残ったのである(これ以前に、スペインは来日禁止、イギリス は撤退)。なお、「鎖国」は幕府の貿易独占であるとしばしばいわれる が、太田勝也『鎖国時代長崎貿易史の研究』(思文閣出版)も指摘する ように、これは正確ではない。幕府は藩の直接的な貿易を禁止したが、 幕府自身も直接的な貿易を行っているわけではないし、また「鎖国」成 立当初において幕府が長崎貿易から利潤を得ていたわけでもないのであ る。当時の幕府は「兵商分離」を考えていたようで、貿易の管理・統制 については、貿易都市長崎および商人を通して間接的に行っているので ある。
ミニ出島  長崎市が15分の1サイズで復元した1820年頃の出島の模型。出 島周辺は、幕末以降埋め立てられた。現在、出島の復元計画が進められ ている。

   3 貿易都市長崎の構造

 「鎖国」の成立によって、長崎をはじめ日本各地の商人が貿易船を海 外に派遣し、大きな利益をあげるという道は閉ざされた。しかし、長崎 という場についていえば、江戸幕府によって、外国との交渉の窓口、貿 易の管理・統制の軸と位置付けられ、「鎖国」のなかの貿易都市として の存続を認められたといえる。では、その長崎はどのような都市であっ たか。この点に関しては、江戸時代の俗謡に「御老中でも手の出せない は、大奥と長崎、金銀座」という一節がある。以下では、長崎の自治都 市としての側面と長崎奉行の役割に注目しつつ、鎖国制下の貿易都市長 崎の具体像を明らかにしていきたいと思う。
    (1) 長崎の支配・行政機構と人口  まず、長崎の支配・行政機構と人口について、前掲『長崎県史』対外 交渉編を中心に見ていくことにする。  江戸幕府の長崎支配の中心に置かれたのが、長崎奉行である。長崎奉 行は、江戸初期には外交交渉・キリシタン禁制・将軍の特権的貿易品購 入などにも関わったが、「鎖国」成立後は都市支配を主たる任務とし、 後には長崎貿易からの利潤収公など経済的なことも重要な職務となる。 このことは長崎奉行の人選の面(同じ旗本でも、目付(めつけ)系出身 から勘定所系出身に中心が移る)からも指摘できる。  しかし、都市支配・貿易管理の実務をになったのは、町年寄(まちど しより)をはじめとする長崎の地役人(じやくにん)(長崎の地元の町 人から選ばれた役人)である。地役人の数はピーク時(天保9=183 8年)は2000人をこえ、これは当時の長崎の人口全体の約13分の 1にあたるという。部局としては、長崎の警備などにあたる「番方」、 「町」(長崎は80の「町」から成り、これが基本単位)の行政にあた る「町方」、唐通事(とうつうじ)(中国語の通訳)や唐人屋敷乙名 (とうじんやしきおとな)など中国人に関わる「唐方」、オランダ通詞 (つうじ)(オランダ語の通訳)や出島乙名などオランダ人に関わる 「蘭方」、そして貿易全般に関わる「貿易方」のおよそ5つがあり、 そのなかでさらに細かく職務分掌・ランク分けがなされていた。  なお、長崎の人口は、17世紀中期で約4万人、17世紀末がピーク で約53000人、18世紀後半は約32000人、幕末は約2700 0人で、これは長崎貿易の盛衰と大きく関わっている。また町人の階層 構成を見ると、長崎は比較的早い時期から借屋(家)人の占める割合が 高いことが指摘できる。
    (2) 貿易制度の変遷と利潤  では次に、前項で見た支配・行政機構のなかで、長崎町人はどのよう に貿易と関わり、利潤を得ていたかについて、貿易制度の変遷を追いな がら見ていくことにしよう(以下、中村質『近世長崎貿易史の研究』 (吉川弘文館)、拙稿「近世前期における長崎町人と貿易」(渡辺信夫 編『近世日本の都市と交通』河出書房新社)など参照)。  江戸時代前期の主要な輸入品は中国産の生糸・絹織物で、日本からは 金・銀・銅などが輸出されていた。生糸輸入を目的に、有力商人に作ら せた仲間が糸割符(いとわっぷ)仲間で、当初は彼らが貿易運営の中心 であり、多くの利潤をあげている。また、来航中国船の世話をして利潤 を得る船宿も、当初は長崎の一部の人に限られていたようである。  このような状況のなか、慶安元(1648)年に「地下中惣代」天野 (屋)太郎左衛門は長崎奉行に、来航禁止を命じられたポルトガル船が 前年に来た時には長崎町人みんなで警備などに関する負担を行ったのに、 貿易の利潤が一部の人に限られているのは不公平だと、貿易への参加・ 利潤の配分を要求する訴状を提出している。また、寛文3(1663) 年の長崎大火の時にも、復興策として、糸割符の利潤・船宿としての収 入・オランダ口銭(こうせん)などについて、配分を求める動きが見ら れる。このあたりの行動の中心になったのは、長崎町人のなかでも家持 (いえもち)層であり、幕府もこの頃は彼らを中心に対策を考えている ようである。  ところが、寛文10年頃には借屋層の運動も活発になり(米代銀の延 べ払い訴願など)、幕府は彼らをも対象とする対策をとるようになる。 長崎は、明暦元(1655)年の糸割符制度廃止以降、輸入品の価格決 定権が外国側に奪われ、輸入価格が高騰し、抜本的な貿易改革が考えら れ、市法貨物商法(しほうかもつしょうほう)が開始された。この制度 は、市法会所という貿易センターを日本側が設立し、日本側が主導で輸 入価格を決定し、市法会所が外国商人から購入したものを、あらかじめ 選定・ランク付け・編成された国内商人(市法貨物商人)に売却すると いうものである。この時、長崎については、小さな商人でも市法貨物商 人に選ばれ、また入札や代銀支払いでも便宜がはかられるなど、様々な 優遇措置がとられた。  以上、17世紀中後期の長崎では、当初一部の人に限られていた貿易 への関与・利潤獲得を、長崎の家持層全体へ、さらに借屋層もふくむ長 崎全体へ広げようという要求がなされ、長崎奉行もそれも認める形で対 策をとっていったことを見た。なお、後の時期との違いとして注目すべ き点は、この時期の対策は、あくまで彼ら長崎町人が様々な形で貿易に 参加(日雇として荷物の積みおろしに従事することなどもふくむ)する ことを支援するという形が中心であるということである。
    (3) 掛り物(かかりもの)・箇所銀(かしょぎん)・        竈銀(かまどぎん)  このような長崎奉行による長崎町人の貿易利潤獲得を支援する動きは、 貞享2(1685)年の市法貨物商法廃止以後、大きく形を変えた。そ れは、貿易都市長崎の代表的な特権である、箇所銀・竈銀の配分によく 表れている(以下、前掲中村著書などを参照)。  この制度は、貞享2年に始まったもので、正徳5(1715)年の正 徳新例では、長崎の家持町人には1年に銀178匁ほど(現在のお金で 25万円ほど)、借屋人には同じく銀35匁ほど(同じく5万円ほど) 給付されると規定している。江戸時代には、都市における地子(じし) (土地税)の免除や、役負担に対する特権付与(たとえば伝馬役(てん まやく)を負担する宿場に特定商品の専売権を与えるなど)ということ はしばしば見られるが、このように恒常的に銀を給付するということは ほかではまったく見られないことで、長崎を様々な形で支えている町人 に対して、幕府が与えた大きな恩典といえよう。このことはもちろん、 長崎の重要性を示すものである。  それでは、この財源は何かというと、長崎の貿易センター(当初は糸 割符会所。元禄10=1697年末から長崎会所)において、輸入品に ついて品目ごとに決められた一定の(率の)関税(これを「掛り物」と いう。後期には、率が上昇)を、国内商人に負担させることにより生成 された、貿易利銀である。たとえば、5割の「掛り物」を取る薬種を、 長崎会所が外国商人から銀100目で購入したとすれば、長崎会所は国 内商人に5割の「掛り物」を加えた銀150目を最低額として売却する ことになり、実際に外国商人に支払う銀100目との差(この場合は、 銀50目以上)が、長崎会所の利潤となるのである。なお、ここで生成 された貿易利銀は、箇所銀・竈銀にあてられるほか、江戸幕府への運上 金や長崎会所などの役所の運営経費、さらには多くの長崎地役人の給料 などになっている。  要するに、長崎会所の利潤は輸入品を扱う国内商人の負担のうえに成 り立っているのである。もっとも彼ら国内商人は、大坂などでそれ以上 の額で商品を売却すれば、利潤をあげることができるようになっている (このあたりの実情については、拙稿「鎖国制下の長崎貿易と大坂」 (『ヒストリア』162)を参照)。  この「掛り物」制度の創出、箇所銀・竈銀の配分についても、長崎町 人の運動が見られた。市法貨物商法廃止は、江戸幕府(老中)主導で進 められ、長崎の特権はことごとく否定された。当時の長崎町人の日記に 「闇夜にともしび消え申たるごとくにて、長崎中迷惑仕(つかまつ)る 事言語道断」とある通りである。その後、長崎町人の特権回復運動があ り、長崎奉行からも江戸幕府に嘆願が出され、結局「先例」として、そ れまで個々に授受されてきた貿易利銀のいくつかを「掛り物」として再 編成し(具体的には、拙稿「長崎唐人貿易に関する貿易利銀の基礎的考 察」(『東北大学附属図書館研究年報』23)を参照)、利潤の一部を 長崎町人に配分することになったのである。  ただし、貿易利銀の生成・配分については、市法貨物商法廃止以前の 段階と大きく違う点があることも指摘すべきであろう。すなわち、以前 は長崎町人の主体的な商取引から生み出されていた利潤が、この段階で は、糸割符会所など上級機関で一括生成された利銀の配分を受けるとい う形に変わっているのである。
国指定重要文化財:眼鏡橋  中国からもたらされた優れた技術によって造られた、日本最古(沖縄 を除く)のアーチ式石橋。

   4 貿易都市長崎の特権と国内経済

 前節では、貿易都市長崎の特権について見てきた。本節では、その特 権のかげに、国内各地の経済的犠牲があったことについて、述べること にする。この点が最も表れるのは、輸出貿易に関してである。  貞享2(1685)年に、江戸幕府は長崎貿易の年間貿易高として、 対中国は銀6000貫目、対オランダは金50000両(銀3000貫 目。なお1両は、現在の8万円から10万円くらいである)という上限 を設けた。輸入品の国産化を進め、本当に必要なもの(薬種など)のみ 輸入し、金・銀などの海外流出を抑えようという方針のもと、この貿易 高はその後さらに縮小されていく。従来はこのことから、江戸時代中後 期の長崎貿易には見るべきものがないと、研究も進んでいなかったのだ が、近年新たな点がわかってきた(前掲中村著書など)。そのひとつは、 長崎貿易は物々交換のバーター貿易なので、輸出入品相互の価格を低く 設定すれば、活発な取引が行われるというもので、実際そのような取引 が行われていたのである。たとえば、文政13(1830)年の日蘭貿 易では、オランダ人がジャワなどで仕入れた価格より安く、日本(長崎 会所)に毛織物を売却している(石田千尋「近世における毛織物輸入に ついて」(『日蘭学会会誌』19ー2)参照)。彼らはその代わりに、 日本から安く銅を購入し、インドなどで高く売却して、利益を得ていた と考えられる。オランダ人・中国人の場合は、輸入・輸出双方に関わる ので、とりあえずこれで帳尻を合わせることは可能だが、日本側は事情 が異なる。輸入業者=輸出業者ではないからである。  近世中後期の代表的な輸出品として、海産物がある。煎海鼠(いりこ) (干したナマコ)・干鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)の俵物(た わらもの)や昆布などで、主に中国に向けて輸出された。しかし、先に 述べたバーター貿易の事情から、海産物の輸出価格を高くすることはで きず、したがって漁民からの海産物買い上げ価格も低くすえおかれた。 江戸幕府・長崎俵物請負商人は、法令の伝達・生産技術の指導・前貸金 の貸与・長崎会所からの補償金の拠出などを行ったが、漁民の抵抗も見 られ、なかなかその生産・集荷は進まなかったようである(拙稿「長崎 俵物をめぐる食文化の歴史的展開」(『京都産業大学日本文化研究所紀 要』創刊号)参照)。このことは、銅についても同様であろう。


























国宝:大浦天主堂
 慶応元(1865) 年完成。現存する日 本最古のゴシック様 式の教会。

    おわりに

 江戸幕府によって、「『鎖国』の窓」として位置付けられた長崎。そ こでは、長崎での負担を根拠として、貿易利潤を求める長崎町人の積極 的な運動が見られ、幕府・長崎奉行もそれを認めざるをえなかった。し かしその一方で、長崎の繁栄の背後に、国内の一部の人々への負担転嫁 があったことも事実である。  ここで述べた繁栄と犠牲の関係は、実は国内問題に限らない。真栄平 房昭「『鎖国』日本の海外貿易」(朝尾直弘編『世界史のなかの近世』 <日本の近世1>中央公論社)によれば、近世後期に展開する日本の甘 味の食文化は、オランダのインドネシア住民に対する砂糖の強制栽培の うえに成り立っていたという。  このように、「鎖国」時代においても、複雑な国内的・国際的経済関 係(利害対立・繁栄と犠牲)が見られたのである。国際化が進展する現 在、事態はさらに複雑になってきているように思われる。日本の将来の ありかたも、自国だけ、目先だけの利益にとらわれることなく、広い視 野から考えることが、よりいっそう重要であろう。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− わかまつまさし

若 松 正 志 氏

京都産業大学経済学部助教授 1963年金沢市生まれ。88年東北大学 大学院文学研究科博士前期課程(国史学専 攻)修了。90年同後期課程中退。東北大 学助手、京都産業大学講師を経て、97年 より現職。専門は日本近世史。主な論文に 「豊臣政権と奥羽の領主」(『歴史』76) ・「近世中期における貿易都市長崎の特質」 (『日本史研究』415)などがある。