品川マンション事件
上告審判決

損害賠償請求事件
最高裁判所 昭和55年(オ)第309号、第310号
昭和60年7月16日 第三小法廷 判決

上告人 附帯被上告人(被控訴人 被告) 東京都
               代理人  関哲夫 外3名

被上告人 附帯上告人(控訴人 原告)  合名会社中谷本店
               代理人  浅井和子

■ 主 文
■ 理 由

■ 上告代理人関哲夫、同樋口嘉男、同半田良樹、同中村次良の上告理由


 本件上告及び附帯上告を棄却する。
 上告費用は上告人の、附帯上告費用は附帯上告人の各負担とする。

[1] 建築基準法(以下「法」という。)6条3項及び4項によれば、建築主事は、同条1項所定の建築確認の申請書を受理した場合においては、その受理した日から21日(ただし、同条1項4号に掲げる建築物に係るものについては7日)以内に、申請に係る建築物の計画が当該建築物の敷地、構造及び建築設備に関する法令の規定に適合するかどうかを審査し、適合すると認めたときは確認の通知を、適合しないと認めたときはその旨の通知「以下あわせて「確認処分」という。)を当該申請者に対して行わなければならないものと定められている。このように、法が建築主事の行う確認処分について応答期限を設けた趣旨は、違法な建築物の出現を防止するために建築確認の制度を設け、建築主が一定の建築物を建築しようとする場合にはあらかじめその建築計画が関係法令の規定に適合するものであるかどうかについて建築主事の審査・確認を受けなければならず、確認を受けない建築物の建築又は大規模の修繕等の工事はすることができないこととし、その違反に対しては罰則をもつて臨むこととしたこと(法6条1項、5項、99条1項2号、4号)の反面として、右確認申請に対する応答を迅速にすべきものとし、建築主に資金の調達や工事期間中の代替住居・営業場所の確保等の事前準備などの面で支障を生ぜしめることのないように配慮し、建築の自由との調和を図ろうとしたものと解される。そして、建築主事が当該確認申請について行う確認処分自体は基本的に裁量の余地のない確認的行為の性格を有するものと解するのが相当であるから、審査の結果、適合又は不適合の確認が得られ、法93条所定の消防長等の同意も得られるなど処分要件を具備するに至つた場合には、建築主事としては速やかに確認処分を行う義務があるといわなければならない。しかしながら、建築主事の右義務は、いかなる場合にも例外を許さない絶対的な義務であるとまでは解することができないというべきであつて、建築主が確認処分の留保につき任意に同意をしているものと認められる場合のほか、必ずしも右の同意のあることが明確であるとはいえない場合であつても、諸般の事情から直ちに確認処分をしないで応答を留保することが法の趣旨目的に照らし社会通念上合理的と認められるときは、その間確認申請に対する応答を留保することをもつて、確認処分を違法に遅滞するものということはできないというべきである。
[2] ところで、建築確認申請に係る建築物の建築計画をめぐり建築主と付近住民との間に紛争が生じ、関係地方公共団体により建築主に対し、付近住民と話合いを行つて円満に紛争を解決するようにとの内容の行政指導が行われ、建築主において任意に右行政指導に応じて付近住民と協議をしている場合においても、そのことから常に当然に建築主が建築主事に対し確認処分を留保することについてまで任意に同意をしているものとみるのは相当でない。しかしながら、普通地方公共団体は、地方公共の秩序を維持し、住民の安全、健康及び福祉を保持すること並びに公害の防止その他の環境の整備保全に関する事項を処理することをその責務のひとつとしているのであり(地方自治法2条3項1号、7号)、また法は、国民の生命、健康及び財産の保護を図り、もつて公共の福祉の増進に資することを目的として、建築物の敷地、構造、設備及び用途に関する最低の基準を定める(1条)、としているところであるから、これらの規定の趣旨目的に照らせば、関係地方公共団体において、当該建築確認申請に係る建築物が建築計画どおりに建築されると付近住民に対し少なからぬ日照阻害、風害等の被害を及ぼし、良好な居住環境あるいは市街環境を損なうことになるものと考えて、当該地域の生活環境の維持、向上を図るために、建築主に対し、当該建築物の建築計画につき一定の譲歩・協力を求める行政指導を行い、建築主が任意にこれに応じているものと認められる場合においては、社会通念上合理的と認められる期間建築主事が申請に係る建築計画に対する確認処分を留保し、行政指導の結果に期待することがあつたとしても、これをもつて直ちに違法な措置であるとまではいえないというべきである。
[3] もつとも、右のような確認処分の留保は、建築主の任意の協力・服従のもとに行政指導が行われていることに基づく事実上の措置にとどまるものであるから、建築主において自己の申請に対する確認処分を留保されたままでの行政指導には応じられないとの意思を明確にしている場合には、かかる建築主の明示の意思に反してその受忍を強いることは許されない筋合のものであるといわなければならず,建築主が右のような行政指導に不協力・不服従の意思を表明している場合には、当該建築主が受ける不利益と右行政指導の目的とする公益上の必要性とを比較衡量して、右行政指導に対する建築主の不協力が社会通念上正義の観念に反するものといえるような特段の事情が存在しない限り、行政指導が行われているとの理由だけで確認処分を留保することは、違法であると解するのが相当である。
[4] したがつて、いつたん行政指導に応じて建築主と付近住民との間に話合いによる紛争解決をめざして協議が始められた場合でも、右協議の進行状況及び四囲の客観的状況により、建築主において建築主事に対し、確認処分を留保されたままでの行政指導にはもはや協力できないとの意思を真摯かつ明確に表明し、当該確認申請に対し直ちに応答すべきことを求めているものと認められるときには、他に前記特段の事情が存在するものと認められない限り、当該行政指導を理由に建築主に対し確認処分の留保の措置を受忍せしめることの許されないことは前述のとおりであるから、それ以後の右行政指導を理由とする確認処分の留保は、違法となるものといわなければならない。
[5] そこで、以上の見地に立つて本件をみるに、原審の確定したところによれば、(1) 被上告人(附帯上告人)は、昭和47年10月28日本件建築物に係る建築確認の申請をしたものであるところ、同年12月、上告人(附帯被上告人)の紛争調整担当職員から、本件建築物の建築に反対する付近住民との話合いにより円満に紛争を解決するようにとの行政指導を受け、それ以降付近住民と十数回にわたり話合いを行い、右職員の助言等についても積極的かつ協力的に対応するとともに、上告人の適切な仲介等を期待していた、(2) ところが、上告人は、翌昭和48年2月15日に、同年4月19日実施予定の新高度地区案を発表し、右2月15日以降の行政指導の方針として、右時点で既に確認申請をしている建築主に対しても新高度地区案に沿うべく設計変更を求める旨及び建築主と付近住民との紛争が解決しなければ確認処分を行わない旨を定め、上告人の担当職員は、同月23日被上告人の代表社員中谷健に対し右方針を説明して設計変更による協力を依頼するとともに、付近住民との話合いを更に進めることを勧告した。(3) 被上告人としては、それまで上告人の行政指導に応じて付近住民との話合いに努めてきたが、実質的な進捗をみるに至らなかつたうえ、新高度地区案が発表され、これを契機として前記のような行政指導を受けたので、このまま住民との話合いを進めても右新高度地区の実施前までに円満解決に至ることは期し難く、その解決がなければ確認処分を得られないとすれば、新高度地区制により確認申請に係る本件建築物について設計変更を余儀なくされ、多大の損害を被るおそれがあるとの判断のもとに、もはや確認処分の留保を背景として付近住民との話合いを勧める上告人の行政指導には服さないこととし、同年3月1日受付をもつて東京都建築審査会に「本件確認申請に対してすみやかに何らかの作為をせよ」との趣旨の審査請求の申立をした、というのであり、原審の右事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして是認することができる。
[6] 右事実関係によれば、被上告人が昭和48年3月1日の時点で行つた前記審査請求の申立は、これによつて建築主事に対し、もはやこれ以上確認処分を留保されたままでの行政指導には協力できないとして直ちに確認処分をすべきことを求めた真摯かつ明確な意思の表明と認めるのが相当である。また、被上告人はそれまで上告人の紛争調整担当職員による行政指導に対し積極的かつ協力的に対応していたというのであつて、この間に当該行政指導の目的とする付近住民との話合いによる紛争の解決に至らなかつたことをひとり被上告人の責に帰することはできないのみならず、同年2月下旬には本件建築確認の申請から3か月以上も後に発表された新高度地区案にそうよう設計変更による協力を求める行政指導をも受けるに至り、しかも右新高度地区の実施日が1か月余に迫つていたことからすれば、被上告人が右3月1日の時点で、右審査請求という手段により、もはやこれ以上確認処分を留保されたままでの行政指導には協力できないとの意思を表明したことについて不当とすべき点があるということはできず、他に被上告人の意思に反してもなお確認処分の留保を受忍させることを相当とする特段の事情があるものと認められないというべきである。そして、上告人の紛争調整担当職員及び建築主事においては、それまでの行政指導の経過、右審査請求の内容及び被上告人がかかる方途に出た時期等を冷静に検討、判断するならば、右審査請求の申立が被上告人の一時の感情に出たものとか住民との交渉上の駆引きとしたとかいうようなものではなく、真摯に確認申請に対する応答を求めていることを知つたか、又は容易にこれを知ることができたものというべきである。したがつて、右審査請求が提起された昭和48年3月1日以降の行政指導を理由とする確認処分の留保は違法というべきであり、これについては建築主事にも少なくとも過失の責があることを免れないものといわなければならない。
[7] してみると、本件において昭和48年3月1日以降の確認処分の遅滞につき上告人に国家賠償法に基づく損害賠償責任を肯定した原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は原審の認定にそわない事実若しくは独自の見解に基づいて原判決を論難するものであつて、採用することができない。
[8] 所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係及びその説示に照らし、正当ととして是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原判決を正解しないか又は独自の見解を前提として損害額の範囲に関する原審の判断の不当をいうものであつて、採用することができない。
[9] 所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係及びその説示に照らして是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は原審の認定にそわない事実若しくは独自の見解に基づいて原判決の不当をいうものにすぎず、採用することができない。

[10] よつて、民訴法401条、95条、89条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 木戸口久治  裁判官 伊藤正己  裁判官 安岡満彦  裁判官 長島敦)
[1] 原判決は、以下述べるとおり判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反、経験則違反、採証法則違反又は理由齟齬により破棄を免れない。 [2] 原判決は、建築基準法(以下「法」という。)6条3項、4項の規定は
「あらゆる場合に、例外を許さない建築主事に対する絶対的な期限と解すべきではなく、建築主事が法定の期限内に応答しないことについて、社会通念上合理的かつ正当と認められるような事情が存する場合においては、中断通知をした上で、その事情が存続している間、応答を留保することは、これを違法とすることができないと解する」
とし、
「本件に即して、いえば、当該建築計画をめぐつて建築主と近隣住民との間にいわゆる建築紛争を生じ、これを解決するため、関係地方公共団体又は行政庁の行政指導が行われている場合であつて、その行政指導について当該建築主において任意に協力・服従していると認められる限りにおいて建築主事が形式的に確認することが可能であつても応答を留保することは法6条4項に準ずる正当な理由があると解するのが相当である。」
としている。
[3] 原判決が、法6条3項の定める期限を建築主事に対する絶対的期限と解せず、建築主事が法定の期限内に応答しないことについて、社会通念上合理的かつ正当と認められるような事情が存する場合においては、中断通知をした上で、その事情が存続している間応答を留保することは適法であると判断したことは、法の真の立法趣旨に則つた解釈として高く評価することができる。
[4] しかしながら、原判決が、右原則の本件への適用として、(a)当該建築計画をめぐつて建築主と近隣住民との間にいわゆる建築紛争を生じ、(b)これを解決するため関係地方公共団体又は行政庁の行政指導が行われている場合であつて、(c)その行政指導について当該建築主において任意に協力・服従していると認められる場合の3要件を満たしている場合は、建築主事が形式的に確認することが可能であつても応答を留保することは、法6条4項に準ずる正当な理由があると解しているが、右のうち(c)の要件をあげていることは、次に述べる理由からして行政指導の本質を正しく把握したものとはいえず、誤つた解釈といわざるをえない。

[5](一) 行政には、世の中につぎつぎに生起する新しい行政需要に機敏に対応して、その適切な解決をはかるべき債務がある。
[6] しかし、それに対応すべき法律は必ずしも十分に整備されていない場合が多いが行政は法律や条例に規定がないことを理由に、緊急を要する新しい行政需要を前に拱手傍観していることは許されないのである。
[7] しかも、新しい行政需要に対処する規制対策は、さまざまな行政指導の経験をふまえて策定され、適切な規制手段が発見されたとき、それが立法化されるという過程を踏むのである。
[8] そうだとすれば、行政指導は、新しい行政分野において適切な規制技術を生み出すための試みであり、むしろそのための必要不可欠の行政手段であるとすらいえるのである。
[9] 言い方を換えれば、行政指導は健全な法治行政を導くための先導車ともいうべく行政が法律の不備を補つて、行政債務を全うするための重要な手段となつているのである。

[10](二) 今日の行政は、社会の高度な発展に伴い社会、経済、文化の各領域にわたつて広汎かつ複雑な活動を行つているが、特に経済の高度成長の過程をへて、公害、交通その他の都市問題等これまでにない新しい問題が提起され、それに対する新たな対応を迫られている。
[11] 特に、本件に関連のある都市における高層建築物の建築に関してみれば、従来低層住宅が建ち並んでいて、それなりに日照も確保されていた住宅地に、高層マンシヨン等が出現することになり、その近隣の住民は日照妨害、電波障害等の直接的侵害を蒙るのみならず、高層建築物のもたらす圧迫感、疎外感などの間接的な影響にも悩まされることから、高層建築物の建築に関しては、建築計画の段階から、建築主と近隣住民との間に紛争がしばしば起こされた。
[12] ところが、このような紛争に関して、建築基準法はじめ建築関係法令は、その立法の当初全く予想していない事態であるので、同法上それに対しては何らの規定も存しない。
[13] しかし、このような問題に対して行政機関ことに地域住民の健康と安全、住環境の整備を任務とする地方公共団体としては、法が整備されていないことを理由に何らの対応もしないことはできないのであつて、住民からはむしろ地方公共団体がこれらの問題に積極的に関与して解決することを期待されるのである。
[14] そこで、地方公共団体としては、法にこのような事態に対応する強制措置をとる根拠がみあたらない場合には、とりあえず行政上の手段として行政指導という形で対応せざるをえないのである。
[15] このような事情を考慮して、原判決も地方公共団体の行政指導を高く評価し
「法は、申請にかかる当該建築物が関係法令に適合していることを確認することを通じて、当該建築物のみならず同建築物を含む付近一帯の住環境の維持向上を図ることをその趣旨・目的としていると解されるから、前記紛争につき地方公共団体又は行政庁が両者の間を調整し紛争を解決すべく当事者の任意の協力のもとに行政指導をすることは、むしろ行政機関としてその責務であるといえる。」
とまで述べているのである。

[16](三) ところが、このように社会情勢の変化に伴い、新しく生じた建築紛争という現象について、法に何の規定がない場合に、行政庁又は地方公共団体が関係者、特に建築主に対して話合いによる円満解決の指導をするとき建築主は、「法にさえ合致すればいかなる建物も建てられる」というこれまでの固定観念からぬけきれないため、とまどいを感じると同時に、一時的には拒絶反応を示されることもしばしばみられるのである。
[17] しかし、このような場合においても、行政庁又は地方公共団体は、社会情勢の変化に伴い、高層建築物を建てる建築主に対し、法の義務とは別に、地域共同社会の一員として、近隣住民の健康と安全、住環境の整備に協力すべきいわば「社会的義務」があること、そしてそれはひとり当該建築主だけでなく、一般に、高層建築物の建築主が受忍すべき義務であるなどの説得をつづけることは、許されることだといわなければならない。
[18] 右のような説得により建築主の翻意を促す方法による行政指導の場合には、そもそも建築主の意図に反し、あるいはこれと異る行為に出るように建築主に働きかけるのであるから、建築主が説得を一再ならず拒絶しあるいは反撥することはむしろ当然であり、これをあえて説得することこそが行政指導の本質にほかならないのである。

[19](四) 従つて、かような性質の行政指導の適法性を判断するにあたつて、建築主の協力・服従を何らの限定を付することなく、一般的要件としてあげることは、そもそも説得により翻意を求める性質の行政指導そのものを否定することとなつて、失当といわざるをえない。
[20] 勿論行政指導は、法律上の制裁その他の強制力を伴わない説得・啓発等の方法によつて目的を実現しようとするものであるから、建築主の任意の履行がありえない状況の下では、行政指導は徒労に帰することは明らかであり、一定期間内に処分をなすべき義務がある場合には、事情によつては無意味な行政指導に時間を費し、処分を延引することとなるから、徒らに時間を浪費するような行政指導は又許されるべきではない。
[21] そこで、このような説得により翻意を求める行政指導の適法性を判断するにあたつては、以上述べたような点を考慮して、単に建築主の意思に反した行政指導が行われたこと自体を違法とすべきではなく、行政指導に応じない旨の建築主の意思表示がどのような理由、根拠に基づくか、又、どの程度の期間その意思が持続しておりどのような具体的な所為として表明されたか等を綜合的に判断して、行政指導を終了すべき時期を決定し、その時期を越えてなお行政指導が続けられた場合において、はじめて行政指導は違法となると解すべきものである。

[22](五) ところが、原判決はこのような見地に立つて、行政指導を終了すべき時期を判断することなく、被上告人が、東京都建築審査会に対して、昭和48年3月1日受付の審査請求の提起をしたことをもつて、以後上告人の行政指導に服さない意思が明らかにされたとして、以後の確認の留保は違法だと判断したことは、すでに述べたような行政指導の適法性の判断基準からして明らかに誤つた解釈といわなければならない。

[23](六) 因みに、被上告人が、本件審査請求を提起した昭和48年3月1日時点においては、未だ近隣住民との話し合いが鋭く対立していたのであるから、仮にその時点で建築主事が本件確認処分を行い、被上告人がただちに建築工事に着手したならば、右紛争は更に激化することが容易に想像されることは、いみじくも第一審判決が判示したとおりである。
[24] 従つて、建築主事が本件確認処分を留保したことは、この点からみても合理的かつ正当な事情がある場合にあたり、何ら違法となるものではない。

[25] 仮に、原判決の述べるように、建築主の任意の協力・服従を行政指導の適法性の要件と解するとしても、本件は建築主の協力・服従があつた場合と解すべきである。

[26](一) すなわち、本件のように建築主の翻意を説得する行政指導にあつて、建築主が行政指導に協力・服従したかどうかの判断は、個々の特定の時点のみならず、行政指導が行われていた全期間を総合的にみて判断すべきものである。
[27] 何故なら、前述したように、建築主の翻意を説得する行政指導においては、そもそも建築主の意図に反しあるいはこれと異る行為に出るよう建築主に働きかけるのであるから、建築主が一時的に説得を拒絶し、あるいは反撥をすることはしばしばありうることであつて、単にそのことをもつて、建築主が行政指導について協力・服従する意思がないとしたのでは、建築主の翻意を説得する行政指導自体を否定せざるをえないこととなるからである。
[28] 従つて、仮に特定の一時点において行政指導に対する建築主の反撥の意思が一応認められたとしても、全期間を通して総合的に判断した場合、行政指導に協力・服従する意思が認められる限りにおいては、行政指導の適法性の要件としての「協力・服従」の意思はなお、存在するものといわなければならない。

[29](二) そこで、本件についてみるに、上告人の行政指導担当者は、被上告人に対して、昭和47年12月23日以降、再三にわたり近隣住民との話し合いによる円満解決の行政指導を行い、被上告人も右行政指導を受けて、近隣住民とねばり強く話し合いをつづけ、勿論その話し合いの過程では多少の紆余曲折はあつたものの、更に努力をつづけた結果、翌昭和48年3月30日に、被上告人と近隣住民との間で円満に話し合いがついたものである。
[30] ところが、被上告人が右行政指導にもとづき、近隣住民と話し合いをつづけている間の、昭和48年3月1日に、被上告人は、東京都建築審査会に対して、「本件確認申請に対してすみやかに何らかの作為をせよ」との趣旨の審査請求を申立てた。
[31] そこで、原判決は、右審査請求を申立てた被上告人の意思を重視して、右審査請求の申立て以降は、被上告人にはもはや行政指導の協力・服従する意思がなく、以後の行政指導は違法となると判断したものであるが、右判断は被上告人の一時的ないし外観上の意思を不当に重視したものであつて、右行政指導が行われていた全期間を通じての被上告人の真の意思を推認すれば、右判断は誤つているものといわなければならない。
[32] すなわち、上告人が被上告人に対して、行政指導をはじめた昭和47年12月23日以降、被上告人が右審査請求を申立てた昭和48年3月1日までの間は、原判決も認めるとおり、被上告人は上告人の行政指導に応じて積極的に近隣住民と話し合いを行つてきたものである。
[33] さらに、右審査請求を申立てた同年3月1日以降も、これまでと同様に上告人の行政指導に応じて近隣住民と話し合いをつづけてきたもので、特に右審査請求を申立てた同年3月1日に、上告人の建築主事訴外谷口寅一(以下「谷口主事」という。)は、被上告人の代表社員中谷健と面談し、これまでどおり住民との話し合いをつづけてもらいたい等の指導をしたところ右中谷健も応諾したものである。
[34] 仮に、右審査請求の申立が、これまでの上告人の行政指導を拒絶し、以後本件を争訟によつて決着をつける意思であつたとしたならば、右審査請求を申立てた同日の谷口主事の行政指導に対して、以後応ぜられないときつぱり断つたはずである。
[35] しかも、被上告人は、その後も近隣住民とこれまでどおり積極的に話し合いをつづけ、さらに同年3月末ごろには、上告人の行政指導担当者の行政指導を受けて、なお話し合いをつづけ、その結果同年3月30日に近隣住民との間で円満に話し合いがついたものである。
[36] 以上のような事実関係をみると被上告人は、本件審査請求の申立によつて、話し合いを拒絶する意思を表明したものではなく、むしろ話し合いが思うように進まないことに焦燥を感じて話し合いを促進するために行つたものと考えるのが妥当である。
[37] 巷間このように、一方で話し合いをつづけ、他方で争訟にもちこむという一見矛盾した行動をとることはしばしば見られるのであるが、このような場合においても行為者の真の意思に変更があるわけではなく、実は真の意思の実現を促進させる一つの方法として、一見矛盾しているとも思われる行動をとるのである。例えば、当初から和解によつて解決することを目的としながら、訴の提起という方法をとることなどもその例である。
[38] したがつて,このように一見矛盾した行動がみられる場合に、行為者の真の意思が何であるかを推認するには、単に一時的、外観的に表明された意思にとらわれることなく、行為者の全体としての行動を総合して慎重に判断すべきものなのである。
[39] 国家賠償法1条による国又は地方公共団体の賠償責任が公務員の故意又は過失に基づく加害行為を前提としてその責任を代位するものであることは、条文上明らかであり、それは、また最高裁の一貫した態度でもある。すなわち、この法律においては公権力の行使に当り公務員が違法に他人に損害を加えたときでも、公務員がそれについて故意又は過失ある場合に限つて、国又は公共団体の賠償責任を認める建前をとつているのである(最判昭和34・1・22行政判例集成「国家賠償・損失補償編」4巻3034頁、最判昭和44・2・18判例時報552号48頁参照)。
[40] そして、国家賠償法1条にいう「公務員の故意又は過失」は、最高裁の判示するところによれば、行為時における公務員の職務上の義務違反と解されている(最判昭和44・2・18判例時報552号48頁参照)。
[41] このことから、公務員の故意又は過失の認定に関する諸判例をみると、次のとおりの判断が示されているものである。
[42] すなわち、ある事項に関する法律解釈につき異なる見解が対立し、実務上の取扱いも分れていて、そのいずれについても相当の根拠が認められる場合に、公務員がその一方の見解を正当と解し、これに立脚して公務を執行したときは、のちにその執行が違法と判断されたからといつて、ただちに右公務員に過失があつたものとすることはできないのである(最判昭和46・6・24民集25巻574頁参照)。
[43] また、公務員が、その性質からみて微妙な事実認定とこれに対する専門的な法律判断を要する事項について、通常公務員に要求される注意義務を尽して一定の判断をしそれに基づき処分をしたときは、その解釈に誤りがあつても、一概に過失に基づくものとはいいがたいのである(最判昭和43・4・19行政判例集成「国家賠償・損失補償編」5巻4619・2頁参照)。

[44] 以上の見地に立つて原審における証拠関係、事実関係から、昭和48年3月1日以降同年4月2日までの谷口主事の故意又は過失の存否について以下検討する。

[45](一) 成立に争いのない乙第2、4、10、11、12及び13号証並びに証人藤中健治、同中谷健の各証言によれば、以下の事実が認められるものである。
[46] 当時の行政実務上、建築確認申請に対し、建築主事が法6条3項の法定期限内に応答した事例は殆んどなく、同条項は死文化していた。
[47]このことは、乙第2、12及び13号証挙示の諸事例において、右法定期限内に応答したものが全くないことから明らかであり、また、乙第10号証の建築主事の事務量から容易に推認しうる(荒秀「建築基準法論(1)」ぎようせい74頁以下参照)。
[48] また、当時の学説、行政実務上の見解は、法6条3項及び4項の解釈について、形式的には応答することが可能であつても建築主事が直ちに応答しない方がむしろ法の趣旨目的からも社会通念上からも相当であると解されるような事情が存する場合は、応答を留保することができる、とされていた(乙第12及び13号証の判決、原判決もこのことを当然前提としている。荒秀「建築基準法論(1)」ぎようせい70頁以下参照)。
[49] 都知事から建築主事に対して、いわゆる駆け込み申請等に対処するため、昭和48年2月15日時点で確認申請をしている建築主に対しても新高度地区案に沿うべく設計変更を求める旨又は建築主と付近住民との紛争が解決しなければ確認処分を行わない旨の通達が出された。
[50] これは、都知事から建築主事宛の通達という形式をとつてなされたものであり(藤中証人調書17丁裏、中谷証人調書第1回4丁裏、5丁表参照)、その内容は建築主が付近住民との紛争を解決するか、又は新高度地区案に沿うべく設計変更をしなければ処分を行わないというもの(両者は選択的関係)で、しかもそれは建築主の任意に従う意思の有無を問題としていなかつたのである(藤中証人調書15丁表、17丁裏、中谷証人調書第1回4丁裏、5丁表、乙第6号証4丁、乙第11号証参照)。

[51](二) 右事実を合せ考えれば、谷口主事の本件確認留保は、仮に結果的に違法であつたとしても、行為時において、その当時における実務上の取扱い及び相当の根拠をもつた見解にのつとり、しかも通達の定めるところに従つて行われたものであることは明らかであるから、谷口主事に職務上の義務違反はなく、したがつて本件において谷口主事に故意又は過失は認められないというべきである。

(その他の上告理由は省略する。)

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