アラモの砦、自由と犠牲の象徴?
 

 クイズを1つ出します。  "Remember xxx!"  とアメリカ人が言うとき ' xxx'に はアメリカ合衆国が深く関わった3つの異なった出来事や地名が当てはめられる といいますが、それは何でしょうか?

 年代の新しいところから行くと、最初が2001年の"9月11日" 、次が1941年12月"真珠湾"、そして最後が 1836年3月の"アラモの戦い" だそうです。

 みなさんは、アラモの砦を知っていますか? 4月29日、わたしは学会の あったユタ州ソルト・レイク市から飛行機を乗り継いで テキサス州サン・アントニオ市を訪れました。そこには上記の "アラモの砦"があったからです。テキサスの自由と独立のシンボルとして、300年近い昔の歴史を考えさせられる場所でした。


 まず、所在するテキサス州自身がアメリカ本土50州の中でもユニークなところだといえるでしょう。 「ザ・ローン・スター・ステイト」(一個の星の)洲と いうより、感覚的にはテキサス共和国の姿を今でも留めている風潮があります。 その広大な土地と境界線がメキシコ国境に沿っていることから、現在でもヒスパ ニック系の人口は増加の一方をたどり、彼らの文化が色濃く出た独特な雰囲気を 持つ洲です。

 

 アラモとは、スペイン語で英語の cottonwood , 北米のポプラの木らしく、 スペインの騎兵たちが故郷を思って名付けたそうです。ここで、テキサス革命軍 はメキシコの軍隊と戦い、 「運命の13日間」がロマンティックな伝説として歴史に語り継がれています。

 歌の中で"テネシー生まれの快男子"といわれたデビー・クロケット や今 でもナイフにその名を残すジム・ブーイなどの英雄たちの話は、絵本や映画に幾 度となく登場します。


 クロケットはアライグマの毛皮でできた帽子がトレードマークの大男、実はテネ シー州の下院議員でもあったのですが、次の選挙で落選したとき、州民に 「お前 たちは地獄へ行け、おれはテキサスへ行く」といったという話は彼の豪放磊落さ をあらわすエピソードとして有名です。また、ブーイ・ナイフとよばれる短刀が何本も博物館のガラスケースの中に展示され、名刀使いだったジムが青少年の憧れの対象だったことがうかがえます。


 アラモの伝説がアメリカ人に愛され語り続けられる理由のひとつは、わず か200人足らずのテキサス防御軍兵士が数十倍のメキシコ軍と、テキサスを護る キーポイントとしてのアラモを死守しようとした行動に感動するからでしょう。戦いに関してはいろいろな説がありますが、象徴した事実については一致していると思われます。すなわち、 「アラモは防御兵士たちが、とても抵抗できないハンディキャップをものともせず、、、、、 歴史的な闘争
男性たちが民衆の自由を得るための最終的な犠牲を払った場所 として、世界中(注:アメリカ中というこ とですが)の人々の記憶に語り続けられている」ということです。


 アラモ ――それはアメリカの自由への賛歌 とそれに賭けて命をささげた 人々への追悼であると思いました。そこには「真珠湾」にも「9月11日」にも共通するものがあるように思われますが、違いもあります。一番にあげられる相違点は、「他 者」の思考をも複眼的に取り入れようとする「多文化社会」へと時代が変化してい ることでしょう。

 そこでヒスパニック系アメリカ人は、 「アラモ」をどのように位置つけるのでしょうか?  
考えて見て下さい。

 

2002年6月4日 野崎京子


2001年9月11日、皆さんはどこに居ましたか?
あのN.Y.での同時テロ事件が起こった日時、わたしはロスアンジェルス(以下L.A.)に居ました。N.Y.とは3時間の時差の在るウェストコースト・タイムでは、まだ朝7時前、大学院時代の友人ティナの家に泊まっていた私は、彼女のけたたましい叫び声で起こされました。

「キョウコ、大変テレビをみて!」

私はそのちょうど一週間前から、様々なエスニック・コミュニティを擁するL.A.でフィールド・ワークするため、3人のL.A.在住の友人の家に泊まることにしていました。

ふつう8時の授業で7時には家を出るティナは、その朝二番目の飛行機がトレード・センターの南ビルを激突するテレビのシーンを見るまで、ずっと興奮して「こんなことは許されない。「They can't do these things!」とくりかえしながら、その後のビルの崩壊を見る前にすぐに出勤していきました。

学会出席や研究のため年に3回程海外にでかけると、帰国してから何らかの形で授業に反映できる経験やエピソードがありますが、この度のような異常なことはかつてありませんでした。 直後のニュースのコメンテイターがこの事件は"low tech, high concept"といっていましたが、まさに誰がこのような"kamikaze pilots" "suicide bombers"が存在し行動すると思ったことでしょうか?

その後のアメリカの様子は、アメリカ人の友人や在米の日本人の友人がe-mailで知らせてくれますが、一番私の記憶にこびりついているのは、落ち着いた住宅地で日系関連企業も多いTorranceで自分の目で見た車のナンバープレートに書かれた"Survivor of Pearl Harbor "という文字と、あちこちの家に揚げられた星条旗でした。

このページでは、このような私の最近の考えをお知らせるエッセイをのせて、みなさんの声を聞きたいと思います。



2002年3月21日 野崎京子