最終更新日 2008年12月10日
2004年以来、忙しさに紛れて更新していなかったホームペーを、海外出張の項目ををメーンにアップすることにした。
New
Orleans ニューオリンズ
2005年 10月〜 11月
2008年11月、次期アメリカ大統領に初のアフリカ系アメリカ人オバマ氏が選ばれた以来、日本の一般大衆までが、今更のように報道される黒人の苦難の歴史を改めて考えさせられている。
アメリカ公民権運動と言えば、マーチン・ルーター・キング (Martin Luther King, Jr.) そして彼の生誕地であるジョージア州アトランタ市。 2004 年11月、この地でアメリカ学会(The ASA) 開催され、これに出席するため渡米する機会を得た。学会は 10日(水曜日)夜から始まるので、その前の週末を同じアメリカのルイジアナ州ニュー・オリンズ市で過し、その後汽車でアトランタまで移動することにした。(かの有名なハリケーン被害が起こる一年前であった。)
11月7日(日曜日)サンフランシスコ経由でニューオリンズに到着した。「アメリカで訪れるべき三つの都市の一つ」(ちなみに、後の二つはどこだと思いますか?答えは文末に)にあげられていたユニークで魅力的この地には、テキサス州ンダラスに住んでいた 1978年に家族で旅行した記憶がある。
夜中続いていたジャズ演奏とストリートダンサーの子供の達者なタップダンスが印象深く脳裏に残っていた。
空港の名前からして、ジャズの巨頭ルイ・アームストロング (Louis Armstrong) New Orleans International Airport). 2005年のハリケーン・カトリーナ (Hurricane Catherina), 2006 年の竜巻き(tornado)によって、大きな被害を受け復旧後も各社のフライト数は減ったらしい。一年で大きく様変わりしたらしいが、ここには2004年当時私がみたニューオリンズをある種ノスタルジックな気持ちを交えながら伝える。
中心地フレンチ・クオータ—(French Quarter) や盛り場のバーボンストリート (Burbon Street)は、フランチコロニアル時代のロマンを漂わせていた。
学会やビジネスの機会を利用して多くの観光客が、長年にわたってこの地を訪れていたし、それがこの都市の財源であり特色であった。
“Old Man River” (親父さんの河)と呼ばれる Mississippi River(ミシシッピ川)がアメリカの三分の一ほどもの国土を流れて、メキシコ湾に注ぎ込まれるその三日月地帯、それがニューオリンズ市を別名Crescent City(三日月の市)といわれる所以です。(ちなみに私がアトランタまで乗ったアームトラックの列車は Crescent号、詳しくは別の項で)
この川の起伏にとんだ流れや有様を謳った「オーマンリバー」の歌は、声量のある黒人の歌手によってミュージカル「ショーボート」や「ポギー&ベス」などで歌われ、良く知れています。
この川に沿って走るリバーフロント市電、(Riverfront Streetcar)、アメリカらしからぬ世界最古のセントチャールズストリートの市電 St. Charles Streetcar、フレンチクオータ—の横を走るキャナールスリートの市電 CanalStreetcarなど、この都市のそれぞれの特色ある場所を見せてくれます。
観覧車のような電車の中から見たガーデンディストリクト (Garden District) は、美しく手入れされた庭や鉄のレースの垣根など優雅で高級な山の手風住宅でした。
ストリートカーといえば「欲望という名の電車」 “A Streetcar Named Desire” というテネシーウイリアムズ(Tennessee Willims)の有名な演劇がありましたね。フレンチクオーターに住んでいた彼にちなんで今でも文学祭(literary festival)が毎年開かれているそうです。
フレンチ・クオータ—はジャックソン広場ともいわれるように、アメリカ第7代目大統領 Andrew Jackson の馬にまたがる躍動感あふれる銅像が目印。アメリカの歴史を現代風に解釈すれば、彼の Jacksonian Democracyは先住民強制移住などを設定した白人(WASP)の民主主義であり、そこにはマルチカルチャーになる以前のアメリカの姿があった。
ニューオリンズといえばジャズ。その中でも超有名なのが プレザベーションホール(Preservation Hall). 私も到着してすぐ翌日の8:30~9:50までの早い方のライブショーを予約。6人の年期の入ったミュージシャンが演奏してくれた場所は、納屋のような粗末な所で、ドリンクもスナックも何もない。板張りの床に幾つかの長ベンチがあるだけで、多くの客は床に座り込んだりずっと立って演奏を楽しんでいた。後ろの料金表にもあるように、伝統的スタンダードナンバーは2〜5ドル、「聖者の行進」だけは10ドル。
以下の写真は、ジャズ博物館で筆者が撮った写真。ジャズの由来や、黒人の歴史との深い関係がよくわかる。サッチモと呼ばれる伝説めいたルイアームストロングの経歴も興味深い。
その他、2月に開かれる有名なパレード、マルディグラは見られませんでしたが、その時着る華麗な意匠をこらしたコスチュームや帽子や髪飾りなどアクセリーの数々が常時展示されている所でありました。
アメリカ一のユニークな食文化発祥地。クレオール料理(Creole Dish) にケイジャン料理(Cajun Cooking)。地元の新鮮な魚介類や農園でとれた作物を使って香辛料がたっぷり利いたスペイン風ともフランス風ともいえる料理の数々。 Bon Appetit! 召し上がれ!
Atlanta, Georgia
There were a few things made me decide to participate in the American Studies conference, held in Atlanta, Georgia, in the early November, 2004.
One is about the city. It is known as the birthplace of Martin Luther King, leader of American Civil Right Movement, and of Margaret Mitchell, author of the novel “Gone with the Wind” (GWTW.)
On Nov. 10, day before Veterans Day, I took an Amtrak train from New Orleans (7:20 am.), called “Crescent”, which serviced to New York, making a stop at Atlanta (around 7 pm.) I purchased a ticket on the net, which cost me $87.80 total, with rail fare and accommodation charge for a compartment. For passengers destined for New York, it would be a sleeping car, but I traveled through Mississippi and Alabama during the daytime, which enable me to see the southern states and to get 3 free meals, (breakfast, lunch and dinner). I also moved from CST to EST, making me aware that Atlanta is closer to the east coast.
The conference site was Hyatt Regency Atlantic Hotel, built in 1967 and the atrium to the 26th floor was said to be a talk of town. It is located on Peachtree St., but the name “peachtree” is so common in Atlanta, there must have been a hundred of them.
Martin Luther King Jr. ,an icon and a symbol of the civil right movement, was born in Atlanta and as I said, wanting to see his footsteps there was one of my major reasons for my visit to the city.
In his monumental speech “I Have a Dream,” which is “deeply rooted in the American dream,” he said, “ I have a dream that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.”
At Martin Luther King Jr. National Historic Site, I stood in front of the Center for Nonviolent Social Change Inc. I walked into Ebenezer Baptist Church, where a portrait of MLK was inlaid in the stained glass. (I did not know his mother was killed there in 1974 while sitting at an organ chair.) His grave has an inscription, “Free at last. Free at last. Thank God Almighty I’m Free at last.”
The phrase, “the red hills of Georgia” reminds me of scenes from the movie, “Gone with the Wind”, faithful adaptation of the novel. The heroine stood on the red soil and swore not to go hungry at any cost, which is a manifestation of her strength that attracted millions of women. I was surprised to find out that Margaret Mitchell’s birth home was only several blocks from that of MLK. He was born in 1929, long before the civil right for minorities was an issue, and even as a son of priest, I did not think it was possible for an African American family to live in the same neighborhood as Caucasians in those days.
Margaret Mitchell created an attractive heroine, Scarlet, as well as the place called Tara. It is a fictitious name, and naturally we do not see any cotton fields or plantation house any longer. However, there are still some big houses with pillars and front steps exist in Atlanta, which remind us of the houses in the movie. With development of the civil right movement and feminism in the 60s (or even before the era), the novel as well as the movie became controversial. Nevertheless, it is still a long best seller, only next to the bible. I think its popularity lies in myth and romance of the Southern aristocrats. Born in the turn of the century, 1900, she must have heard stories from survivors of the civil war during her life of 48 years.
Atlanta is also known as the city of 1996 summer Olympic was held, which is now Centennial Olympic Park. It is located near CNN center. The Cable News Network was founded by Ted Turner in the early 80’s and has set a style for news broadcasting.
Perhaps more globally known or available is Coca Cola. The museum, “World of Coca Cola” is located in Peachtree Center, and is the landmark of the area.
According to the tour map given at the entrance, it is “the world’s largest collection of memorabilia that celebrates the refreshing beverage that was created here in Atlanta in 1886. While Coca-Cola was first served at a small pharmacy soda fountain near Underground Atlanta, it is now served over 1 billion times a day and is enjoyed in over 200 countries across the globe.” Enjoy!
ニュー・ジーランド
大ヒットした映画「 ロード オブ・ザ リング」(“The Lord of the Rings”)が撮影された
(150か所にもおよぶと言われる場所として、この国を訪れる人は近年ますます増えていると聞く。
以前から風光明美な風景や種々のスポーツの場としても人気のあるこの国に9年ぶりに訪れた。
7月14日から17日までニュージーランドのオークランド市オークランド大学で開催された
「2004年オーストラリア・ニュ?ジーランドアメリカ学会年次大会」
ANZASA ( Australia & New Zealand American Studies Association) で、私は学会参加し論文を発表した。
一度目は、京都産業大学英語教育センターの学生英語研修プログラムで34名の本学学生を引率して、
パーマストン・ノース市にあるマセイ大学に行ったので、結局2度とも観光ではなく、仕事と言う事になった。
Kia Ora Kyokoで始まる学会からの手紙の出だしは、ニュージーランドのなかのマオリの影響を強く感じる。
「エ?アメリカ学会を外国で?」と思われるかもしれませんが、
今日のアメリカ研究はWASP(アングロ系を主とする)をキャノン(正典)とするかっての視点から拡大して、
アメリカの以外の国から見た研究が重視されるようになってきました。
この背景には、人々の移動や文化の融合等、色々な意味で境界線が取り外されグローリゼイションが
進んでいることがあります。
特に、現在注目されているパシフィックリム(Pacific Rim)といわれる太平洋環のなかに、
ニュージーランドやオーストラリアそして日本も位置しています。
そういった環境と流れの中で、
論文”Crossing National Boundaries and the Color Line :
A Contrastive Study of Houston’s Tea with Ariyoshi’s Hishoku (Not Because of Color) "
(『 国境と皮膚の色を越えて:ヒューストンと有吉の作品の対比』)
を発表しました。
1950年前後アメリカに渡り戦争花嫁と呼ばれた日本女性のアメリカでの生活と混血の子供たちの姿が、
アメリカと日本の作家によってどのように描かれているか、従来の日系移民と違う点などを、
日本文化や言語に関心を持つニュージーランドで発表できたことは、意義あることでした。
学会の運営やプログラムにも合衆国とは違った英国文化圏の雰囲気を感じました。
学会終了後の数日を研究の一環として、
先住民マオリとニュージーランドの歴史発祥地(ワイタンギやラッスル)を訪れることが出来ました。
今、この原稿をニュ?ジーランドが生んだ世界的プリマドンナKiri Te Kanawaのマオリの歌を収録したCDを
聞きながら書いている。
A message from Dame Kiri Te Kanawaとして、次の言葉がジャケットに記されている。
“ These songs were the background to my childhood in New Zealand.
Many of them I knew in my early days ? as most New Zealand people do.
Music and singing have a special place in Maori tradition; chants and songs are part of
the Maori way of life.” (Emi Classics, 1999)
(混血でもある彼女は、マオリの歌や旋律を子供時代の生活の一部として育った。
これらの歌は、マオリ人だけではなく多くのニュージーランド人に愛され知られている。)
マオリと言えば、「クジラの島の少女」(”Whale Rider”)を見ましたか?
今年の春、アメリカ人の友人から、ニュージーランドに行くなら、
是非この映画を見るようにすすめられ、出発ちょっと前にやっとDVDで見る事が出来ました。
撮影は、もちろん原作、監督、出演者たちもすべてマオリ人によって作られた映画です。
族長の後継者が男の子でなければならないため、マラエ(集会所)で行われる訓練を見る事さえ
禁じられている12歳の少女のお話です。
Waitangi条約(1840年先住民マオリにイギリスの統治を認めさせた)で
有名な条約記念館のそばのマオリの集会場 (Maori Meeting House)や屋外に展示された戦闘カヌーを見ると、
この映画のシーンがいかにリアルか、よく分かります。
最終日の前日、出発点であるこの国最大の都市(首都は同じ北島のWellington)オークランド市に帰ってきて、
なぜ全人口の3人に一人がこの地に住むか、分かる気がした。
まず気候が良い。冬(7月)だと言うのに、15度。日本の春のように花が咲いていた。
世界中の大都会が少なからず持っているスラムのような場所が目に付かない風景の美しい大都会
(ちょっと、ほめ過ぎかな?)、ヨットレースでも有名な美しい港、
“City of Sails”と言われるのも、むべなるかなです。
最後に、忘れられない光景を御伝えします。
それは、学会会場からそう遠くないところにあるオークランド博物館( Auckland Museum)で見た
第二次世界大戦の日本軍のゼロ戦闘機でした。
この戦闘機の横には、「幸運な生存者」として、日本語で以下のように記してありました。
『同月(1944年7月)改造されたゼロ戦の試験飛行の依頼を受けたシバヤマ准尉は、
試験飛行が無事に終了した後、再びラバウルへと戻りました。
実は、ゼロ戦(3844号)を改造した地上整備員は、
このゼロ戦は神風攻撃のために250キロもの爆弾を搭載するよう命じられていたと言われています。
しかしながら、この若い操縦士の命を救うために、彼等はわざと修理を遅らせました。
最終的に修理が完了したのは、終戦となった8月でした。』
このような人道的?行為があった反面、日本兵の戦時捕虜 (P.O.W.)への対処が残虐なものがあったとする
証言も掲示されていました。
The Way of Samurai とあったので、何かいい事が書いてあるのかなあ、、と読んでみると、
”We hatead the Japanese for many reasons.
They were the ‘Yellow Peril’ who, together with the Chinese, had been our traditional bogeymen.
They sought death rather than surrender, and their victories had given them an aura of invincibility.
We were appalled at the treatment of prisoners in their hands. Most of all they were different from us.
We had a grudging respect for the Germans, but there were no such feelings for the Japanese.”
(要約すると、伝統的に、「黄禍」として、中国人や日本人は白人にとって無気味な存在であった。
降伏するより死を選ぶ彼等は、勝利すれば無敵と言う感じで受け止められていた。
同じ敵でもドイツ人には不承不承ながら尊敬の念を抱いたが、日本人に対してはそんな感情は持たなかった。)
この文章が、すべて過去形で書いてあるのが救いである。
しかし、これを見て9年前の現地の新聞記事を思い出した。
8月15日、日本では終戦記念日、そして対戦国では勝利の日、退役軍人等のパレードが持たれる。
その日が近付いた頃、日本人留学生がパレードに参加したいと言った事を巡って、
否定的意見の読者の声が掲載された。
しばらく紙上でのディベイトが続いた後、今でも覚えているヘッドラインでこの問題は終結した。
いわく
”They should not get punished for what their grandfathers did.”
(おじいさんの世代がした事で孫たちが罰せられるべきではない。)
この話は、ここで終わった訳ではない。
それから数年後、英国のヨーク大学に出張した時乗ったタクシーの運転手は純朴そうだが、
私の事を「何人かな?」と、はかりかねていたようで(英国人はアメリカ人のようにすぐ聞いてこない)、
探りを入れるように当たり障りない程度の日本人の話をしてきた。
それに、”They”と答えた私の表現から、「アジア系アメリカ人」だと考え付いたようでホッとしたように、
日本にはいい物が沢山あるけど、
”My da would not buy anything Japanese”
(父は日本製の物は何も買わないんですよ。)
最初、ヨークなまりの‘da’が分からなくて、“Your what?”と聞き返したこと、
そして彼の父がシンガポールで英軍のP.O.W(戦時捕虜)として日本軍に捕らえれた事を知った。
辛い経験をしたのだろうな、と思った。
私が生まれたカリフォルニア州のオークランド (Oakland) と
発音がまぎらわしいニュージーランドのオークランド(Auckland)は、
ただ美しい景色のスキー, バンジージャンプやラグビー等ができるスポーツ大国の一都市ではありませんでした。
第二次世界大戦の戦没者の名前が刻まれた慰霊ホールの壁が、今も訪れる人の目にとまるのです。
暑い日本に帰ってきて、8月の広島、長崎の原爆の日、終戦記念日を改めて考えさせられました。
“We will forgive, but we will not forget.”
(相手を許しても、あった事は忘れないでいよう。)
2004年9月5日 野崎京子