2003/2/26
■■■■ 京都部落問題研究資料センター メールマガジン vol.022 ■■■■

□雑誌レビュー□
 魚住昭「野中広務研究」(連載第1回)『月刊現代』2003年3月号

 大正期の融和運動家=寺田蘇人が著した書物に『部落之人豪』(大正9年刊) がある。これは、全国の被差別部落の名士の略歴を集成したもので、部落民と いえば「蒙昧貧弱の賤民と誤想し居るもの多き」状況を批判しようという意図 で出されたものである。自民党幹事長や自治大臣などの要職を勤めた大政治家 野中広務氏は、『平成版 部落の人豪』が出たならば、まっさきに上がる人物 であろう。ついでに、1999年7月14日の衆議院予算委員会で官房長官の野中氏と 悪罵の投げあいをした民主党の石井一副代表(当時)も登場していただければ、 さらに興が増そうというものである。
 この連載は、ついには野中氏の闇の部分にも筆が及ぶのかもしれないが、出 だしの今回は、野中氏のルーツから筆を起こす。野中氏の生まれた大村という 地区は、江戸時代のはじめ、園部藩主となった小出氏が元の居住地=出石藩か ら従えてきた「かわた」集団であり、さらにさかのぼるルーツは、遠く大阪南 部の岸和田であったという。そして、その大村では例外的であった自作農=野 中北郎・のぶ夫妻の長男として野中広務氏が誕生するのは、水平社創立のすぐ あと、1925年(大正14)のことである。
 真珠湾攻撃の日、野中氏は園部中学校の4年だった。そして、敗戦直前の19 45年(昭和20)1月に「赤紙」で召集され、高知の特攻隊出撃基地で物資輸送 にあたっていたときに、敗戦を知る。そして、前に所属していた大阪鉄道局に 復職するが、1950年に深刻な部落差別を受けて、1週間泣き暮らしたのちに、 結局、上司の慰留を振り切って退職する。もし、部落差別がなければ、野中氏 は国鉄の中で出世していき、鉄道マンとして一生を終わっていたのだろう。事 件の詳細は、『月刊現代』を読んでいただきたいが、いかに部落差別が人の人 生を阻んだり歪めたりしたかを痛感する。また、焼夷弾で顔を焼けただれさせ ているお女郎さんに20円の金を握らせて、励ましの声をかけるところなどは、 先般のハンセン病訴訟で国の控訴を断念させた野中氏の人情家の一面をほうふ つとさせる。
 この文章で私が興味をもったのは、野中氏の物語もさることながら、お父さ んである北郎氏の善人ぶりである。苦しい生活の中、刑務所がえりの人の社会 復帰や、朝鮮人の生活救済に力をつくし、広務氏の子守りに雇ったのは、なん と「前科八犯」の婆さんだったという。また野中氏の弟と妹の子守りに雇われ たのは、貧しい朝鮮人の娘であった。北郎氏は戦後、戦災孤児収容施設の世話 係となり、園が廃止された1951年以降も、孤児たちの成長を見守りつづけたと いう。マザー・テレサみたいな人が、日本にもいたんだなぁと、感心する。こ うした人物の存在を知るだけでも、この文章は読む価値がある。  野中氏が京都府園部町の部落出身であることは、キング牧師が黒人であるこ とを疑う人がいないのと同様、京都で部落解放運動にかかわるものにとっては 自明のことである。しかしながら、野中氏と部落の関係を正面から取り上げた 論考は見たことがない。今回紹介する魚住氏の労作は、こうした空白を一挙に 埋めてなお余りある成果といえよう。京都で部落問題を研究してきたものとし て、内心忸怩たる思いにかられると同時に、魚住氏の努力に感謝したい。                               (灘本昌久)


※ 月刊現代ホームページのキャッチフレーズ 「情と理、恫喝と包容、ハト派的戦争観とタカ派的政治手法。決して「抵抗勢 力」の一言では語り尽くせぬ政治家の実像。連載は出身、家族、敗戦直後の体 験から綴りはじめる。気鋭のジャーナリストが放つ渾身の超大作、いよいよ連 載開始」
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