人文地理学会セミナー(2002.12.14)

新しい部落史と地理学の接点

灘本昌久(京都産業大学)

 被差別部落史の歴史研究、そして歴史領域にとどまらず、部落問題の研究全般は、この20年ほどの間に大きな転換をとげつつある。とりわけ冷戦終結=社会主義イデオロギーの敗退以降のこの10年ほどの間に、全面書きかえの様相を呈している。日本の人文・社会科学の中で、歴史学研究は特にマルクス主義の影響が強く、唯物史観にもとづく歴史叙述が主流をなしてきたが、中でも部落問題研究は、講座派的理論(部落差別は、封建時代に権力者が人民を支配する道具として作りだしたものであり、明治維新が不徹底なブルジョア革命であったがために近代にまで残存し、それを独占資本が政治的に利用して現在にまで続いている、という理解)が最後まで残った領域であるので、社会主義崩壊の理論的影響は、他のどの分野にもまして大きいと感じる。

 従来の、部落史がどのように新しくなったかについては末尾に添付した「知りたいあなたのための京都の部落史(超コンパクト版)」を、そして、理論の見直しによって出てくる新たな課題全般については「学生諸君! 部落問題で卒論を書こう!」(京都部落問題研究資料センター通信『Memento』3号、2001年1月)を参照していただくとして、ここでは、そうした理論の見直しが、地理学からする部落問題へのアプローチに何を提起するかを考えていきたい。

 

成立 従来の部落史、つまり近世政治起源説にもとづく研究では、江戸時代に政治権力によって作られたとする偏見が災いして、室町期から南北朝前後まで遡ることのできる部落の起源の地理学的研究が、十分にはなされてこなかった。歴史学の側から田良島哲が「中世の清目とかわた村」(『京都部落史研究所紀要』5,1985年)を著して、京都市南区の部落の起源を1396年(応永3)にまで遡って厳密に地図上に確定し、近世政治起源説を決定的に過去のものにして以来、まだそれに続く成果には乏しい(山本尚友「中世末・近世初頭のおける賤民集落の分布」『被差別部落史の研究』が少ない中のひとつ)。人文地理学研究者の活躍を期待したいところである。

移転 被差別部落の成立とともに、その移転の研究も不十分な印象を受ける。さまざまな部落を調査して、聞き取りをすると、かなりの距離を移動してきた伝承をもつ場合が見受けられるが、その理由や移転の実態そのもののが、今ひとつわからない。前近代において、ひとつの共同体がごっそり移動するというのはよくよくのことであろう。従来の、「差別と迫害の部落史」のメガネで見ると、どこからか強制連行でもされてきたり、差別されて蹴散らされたという印象を持ちがちのように思えるが、そうした偏見を一度とりさって、虚心に考えれば、職業上の必要とか(皮革製造の工程上の問題など)他の合理的な理由も想定されてしかるべきことだと思う。

立地条件 被差別部落を地理学的に考察する場合、もうひとつ陥りがちと思えるものに、「部落の立地条件は差別のために劣悪である」という思い込みがある。確かに、立地条件の悪いところが多く見られるのも確かだが、部落問題・部落差別との関連、そしてそれが果たしてどの程度一般化できるかについてはは再検討の必要がある。第二次大戦後の部落解放運動が、1953年の関西大風水害からの復旧運動を梃子に大衆的広がりをもったという経過があるので、とかく部落の立地条件は悪いという印象にもとづく説明が多いが、今一度検討する必要がある。地理学的あるいは土木工学的にみて、部落の立地というものが、どう理解可能かを是非知りたいところである。

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《参考資料》再録

京都部落問題研究資料センター通信『Memento』8・9・10号(2002年4月25日・7月25日・10月25日発刊)灘本昌久「知りたいあなたのための京都の部落史(超コンパクト版)その1・2―膨大な史料と研究を前にして途方に暮れないために― 」 「部落史研究の現在と学校教科書」