時の法令10 複雑さに耐える 灘本昌久

 宮崎駿〔はやお〕さんといえば、「風の谷のナウシカ」や「となりのトトロ」などで知られる、アニメーション界の大御所である。彼の作品のひとつに「もののけ姫」(一九九七年)がある。この映画には、蝦夷〔えみし〕、犬神人〔いぬじにん〕、傀儡子〔くぐつし〕、癩者〔らいしゃ〕(ハンセン病者)、たたら師(製鉄業者)などといった、室町時代のマイノリティ、非農業民、漂白民をモデルにした登場人物がふんだんに出てきて、差別問題を研究するものにとっては、なかなか興味深い作品である。
 去年の十一月にこの「もののけ姫」のDVDが出たので、さっそく買い求め、またこの「もののけ姫」の製作過程そのものを追ったドキュメント「『もののけ姫』はこうして生まれた」も、同時発売だったのでつい買ってしまった。「…こうして生まれた」の中には、「もののけ姫 in USA」という付録の映像が入っている。一九九七年九月、アメリカでの英語版「もののけ姫」公開にあわせて現地を訪問した宮崎監督と人びととの交流を撮ったものである。映画祭・試写会では、宮崎作品への絶賛があいつぎ、映画関係者やジャーナリストたち多数が、宮崎監督を取材しようとつめかけた。
 そうしたインタビューの映像の中に、次のようなやりとりがあった。「アメリカ人の観客は、映画を見るとき、応援できる勝者を期待します。善玉悪玉の区別がはっきりしている方が分かりやすいのです。この作品は本当に複雑ですね。誰が善玉なのか評論家の私にも分かりにくかったのですが、日本の観客も同じでしたか?」「エボシはとても複雑なキャラクターで、アニメでも実写でもこちらの映画では希な存在です。観客にとって、善悪の不明瞭な人物はショッキングです。」こんな感想を聞かされて、こちらがショックだ。
 「もののけ姫」の主人公は、アシタカという蝦夷の青年である。アシタカは村を襲ったタタリ神を退治して、死に至る呪いを受ける。その呪いを解くための旅に出て、山奥のタタラ場にたどりつく。タタラ場は、堅固な城砦〔じょうさい〕に囲まれており、そこの女棟梁〔おんなとうりょう〕がエボシ御前である。タタラ場は製鉄の原料を採掘して汚水を流し、また燃料として木を伐採、消費する。森の動物たちは、この征服者たるエボシたちに命がけの抵抗を試み、その先頭で山犬に育てられたもののけ姫=サンは闘うのだが、エボシはそれを無慈悲に征伐・鎮圧する。幸せを追い求めて自然を利用=破壊する人間と敵対するけものたち。その間で引き裂かれるアシタカ。しかも、一方でエボシは人身売買されている女たちを引き取っては、タタラ場で生活させ、また当時は極度に恐れ排斥されていた癩者をも引き取って、膿を洗い包帯を巻いて看病するような人物であった。
 確かにストーリーは複雑ではあるし、物語の中で善玉・悪玉の色分けは希薄である。しかし、そのことこそが映画「もののけ姫」の最も価値ある側面である。人間の中に潜む善と悪の二面性。ミクロなレベルでもそうだし、国家間でもまたしかり。映画評論を仕事とする人から、この映画の善悪の色分けが分かりにくいことへの不満を聞かされるとびっくりだ。そして、単にびっくりしただけでなく、昨年の同時多発テロに対する軍事力行使に際して、ブッシュ大統領をはじめとする多くのアメリカ人が、「善と悪の戦い」を心の底から信じて疑わない空気に満ち溢れている背後には、「もののけ姫」を見て善玉・悪玉が誰だかわからなくて気持が悪いといった感性があるかと、変に納得。そして、ぞっとした。
 一九九八年、インドのニューデリーで開かれた第二六回国際児童図書評議会で皇后美智子さんは基調講演をされた。その締めくくりに、「私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない」という一節がでてきて、意表を突かれた思いがした(『橋をかける―子供時代の読書の思い出』すえもりブックス)。「複雑さ」に苦しんだり、「複雑さ」を解決しようとするのはわかるが、「複雑さに耐える」というスタンスもあったかと。この一見受動的に見える身構えに、私は能動性を感じる。物事を際限なく解決しようというのは、欲望の暴走形態に他ならない。「複雑さに耐える」というのは、その暴走に立ちはだかる強い意志である。